2017年11月21日

頭の大きな提督


 『フォースの覚醒』で一段と貫禄が増していた提督。もう敵のシールドのことは忘れない。レジスタンスでは少しゆったりした衣装だったけれど、今度の『最後のジェダイ』ではずいぶん締まった軍服を着ているらしい。アクバー提督と言えば『ジェダイの帰還』での歯医者さんの白衣のような衣装がトレードマークだけれど、こういういかにも軍服調のものもまた良いな。かっちりした制服だが帝国軍やファースト・オーダーのそれともまた違う、少し可愛らしいデザイン。ファースト・オーダーが完全に白黒調になったのに対して、レジスタンスはカーキや柔らかな中間色が基調になっているようだ。反乱同盟軍時代よりモダンさも増している。
 アクバーの、というかモン・カラマリの魅力は個人的にこの肩幅と頭の大きさの妙なバランスではないかなと思う。魚のバケモノのような頭なのに肩幅は人間のそれというバランス。下半身なども普通の人間と変わらないシルエット。技術的にそこまで人間離れした体型にできなかった時代ならではの着ぐるみ感が、今日の新作映画でも健在なのが素晴らしい。
 それにしても襟や袖はどうやって通すのだろうか。

2017年11月19日

Note.1

というわけで日記、というか雑記である。



 教習所、いよいよ残すところ1コマとなり、そのあとは検定と試験となる。実技への苦手意識が強くそのことばかり気にしがちになっていたけれど、別に学科のほうが得意というわけでもない。要するに両方とも不安というダメダメな状態である。読み書きして覚えることは嫌いではないのだが、どうにも問題の文章というのは気持ちが悪い。読み手にその文章で述べられていることが正しいのか間違っているのかを問うだけという、そう言えばシンプルなのだけれど、だからこそ文章のどこに重点が置かれているのか、なにを強調しているのかがわからないので、内容が頭に入ってくるまでに時間がかかる。あと表現が一定でないところも気持ちが悪い。気持ちの悪い文章を読み解くのもなかなかきついものである。



 黄昏時を歩いていると、向こうからおじさんが自転車に乗ってやってきた。すれ違いざまにおじさんがこちらを憎たらしそうに睨みつけて、「このキ○ガイィィ」とダミ声で言ってきた。背筋がひやあっとした。
 ば、バレたか。なぜわかった。
 突然知らないおじさんに罵倒されて恐怖を抱いたというよりは、なにかを見抜かれた気がしておっかなくなってしまった。
 こっちの台詞だ、と言い返す神経の太さや余裕はなく、怪しげな自転車乗りは走り去って行ってしまった。



 作品集に使っているTumblrで、ちょっと嫌だなあと思うブログから描いた絵がリブログされた。リブログされた先をあまり覗きに行かないほうがいいという教訓にもなったのだけれど、もう少し気づいたことがあった。
 ぼくが嫌だなあと思った数々のポストの中に自分の描いたものが混じっているということがなにを示すのか。
 そんなやつに気に入られたくなどない、と言ってしまえばそれまでだけれど(世の中に対して描いたものを貼り出している身としてそれは随分勝手だろう)、相手にリブログされているということは、その一点においては共感が生じているということではないか。絶対仲良くなれなさそうな相手でありながら、共感が生じている。うっかり見落としてしまいそうになるけれど、これは結構重大なことなのではないだろうかと思った。
 それはきっと、ぼくが相手に抱くほどには、相手がぼくに予断を持たなかったからではないだろうか。それはぼくが相手と相容れないであろうことがよくわかるような要素を、絵や文章に盛り込んでいないからではないだろうか。余計な情報を盛り込んでいないからではないだろうか。だからこそ、相手は予断を持たずにフラットな感じで、ぼくの描いたものに対して共感を抱いた。抱いてもらえた。
 作品に個人的な部分を盛り込むのは大切なことだと思う。主義主張を盛り込むひともいるだろう。けれど、たぶんぼくはこのままでいいのだろうなと思った。絵にしても、本や映画のグラフィック・エッセイにしても、趣味や好み、思ったことや性格は出ていても、際立った主義主張など別になくていいのだなと。まあ、そんな立派に確立した思想など持っていやしないのだけれど。



 しばらくホームページの改良に取り組んでいたのだけれど、いろいろ考えて試したものの結局現状のままとなった。作品集ページをTumblrでなく自分で打ち込んで作ろうとしたのだけれど、結局ひと昔前のイラスト・サイトみたいなことにしかならず、そしてそれは今日あまり見やすい方とは言えず、さらに更新の手間が馬鹿にならないので諦めた。小さなサムネイルをだあっと並べてライトボックスで拡大されたり、あるいはたた単純に下から上へ縦向きに絵を並べて行くというものも考えたのだけれど、その手間とそれがもたらす外観などを天秤にかけた際、結局今のままでもいいじゃないかと。
 なによりTumblrページをここまで数年に渡って更新し続けて、作品が蓄積され閲覧者もそれなりに得られているという、積み重ねみたいなものがなんだか愛おしくなってしまって、このまま使い続けようと思ってしまった。別に新たに作品集のページを作ったところでTumblrも続けはするのだが、そうすると更新するものがまたひとつ増えるというだけだし、今のままでもそれなりに依頼をもらえたりして、見るひとは見ているということを思うと、とりあえず現状のまま、中身となる作品をどんどん作るほうに時間をかけようよと思ったわけだ。
 柄にもなく世のポートフォリオ・サイトなどをいろいろ見てまわって参考になりそうなものを探したりもしたのだけれど、正直言って全然なかった。少なくともぼくが望むようなスタイルのものは。ぼくと同じくらいの年齢、キャリア歴で、ぼくと同じくらいの仕事量、作品数で、商売の規模も同じくらい、というひとがいたら理想的なのだが、いるわけがない。これは別に自惚れでもなんでもなく、そんなになにからなにまで他人と条件が合うわけがないということ。
 「おすすめのポートフォリオ・サイト」とか、「参考にしたいポートフォリオ・サイト」などという触れ込みで紹介されていたサイトをひと通り見て思ったのだけれど、なんというか、デザインやインターフェイスが凝った作りのひとほど、そこに並んでいる作品とか仕事は少ないというか、そんなに大したことのないひとが多かった。やっぱりね。逆にそんなに綺麗にまとめられていないひとのほうが、もうそんなのやっている暇がないんだよというような感じで仕事をしまくっている印象を受けた。仕事が仕事を呼ぶという状態に達していれば、ホームページなんて必要最低限のものがあれば十分という感じ。たぶん突き詰めれば近況や仕事の記録、連作先を載せただけのページ一枚で済むことだろう。僕の場合はそれだとちょっと物足りないというか、もう少しウェブ・サイトで表現したいことがあるので手狭だけれど、けれどもう少しシンプルさを突き詰めてもいいかもなあ。
 トップページを開いた時点でどういうのを描いているのか、どういうことをしているのかが伝わるような形にしたいなあとも思うのだけれど、なかなか一枚のページにいろいろ詰め込むのには工夫が要る。表紙は表紙としてあったほうがいいのかもしれない。というかクリックして開くくらいは見るひとに任せればいいのだが。それでももう少し直感的に伝わる形は模索する必要がありそうだ。
 その一方で、作品集以外にもいろいろページというか、小部屋的なものがあるのも憧れるんだよね。秘密基地的なホームページというか。全然サブのコンテンツを作る余裕がないのだけれど、いろいろ見るところ読むところがあるサイトにしたいなあと思っている。

2017年11月18日

営業報告


 『コララインとボタンの魔女』でお馴染みライカの新作ストップモーション・アニメ『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(本日公開)についてのイラスト・コラムが映画ナタリーの特集ページに載っています。特集ではメイキング動画なども観られ、ぼくもどちらかというとメイキングに寄った内容で描いています。
http://natalie.mu/eiga/pp/kubo

2017年11月15日

『最後のジェダイ』は赤い


 『ジェダイの帰還』におけるジョージ・ルーカスのコメンタリーで、帝国に色はないが、皇帝の周囲だけ「赤く」することで支配者の強大さを強調したという話が印象的。曰く赤は力を象徴しているとか。

 『最後のジェダイ』の基調が赤色なのはポスターやトレーラー、公開されている画像からして言うまでもないだろう。とにかく赤い。前作『フォースの覚醒』におけるファースト・オーダーはかつての銀河帝国よりも赤を強調させており、白い装甲の兵士たちや黒い制服の将校たちの中で、旗や肩当て、階級章といったところに赤が使われ、ファシズム的色彩をより強めていた。銀河帝国にあったようなくすんだ中間色は一切排され、白、黒、赤というはっきりした三色で統一されている。ファースト・オーダーの性質上、この三色は帝政ドイツやナチスを連想させたりもするだろうけれど、同時にぼくはティーンの頃に好きだった「エミリー・ザ・ストレンジ」のコミックの色調を思い出した。なのでゴス的色彩とも言うことができる。カイロ・レンがまずゴスだし。

 4コマのうち3コマが悪の組織ファースト・オーダーのシーンである。恐らく最高指導者スノークの身辺にも、かつての銀河皇帝と同様赤い衛兵がいるのではないかと考えられていたが、やっぱりいた。赤いひとが。赤いひとが実際に戦うところが見られるのはうれしい。思えば12年前の『シスの復讐』でも赤い人の戦う姿に期待したものだけれど、武器を構えるか構えないかという一瞬のうちにヨーダに倒されてしまった。後ろの壁に頭をぶつけてダウンするというあっけなさで、14歳のぼくは落胆したものである。そう考えれば新登場する「プレトリアン・ガード」は12年越しの願いを叶えてくれるというわけだ。まあ姿はだいぶ違うが、赤いひとには変わりない。

 スノークの赤い衛兵については以前自分なりに想像図を描いたこともあったので、答え合わせではないけれど、その姿を見比べてみましょう(→該当記事)。

 残りの1コマも、やはり赤を強調させたシーンではあるのだけれど、これはファースト・オーダーではなく、赤い尾を引きながら戦いに挑むレジスタンスの乗り物である。これらの目前にはファースト・オーダーの歩行兵器がずしんずしんと迫ってきているわけだけれど、要するにオーダーに立ち向かう側も赤を帯びているという演出と見ることができる。これほどまでに悪の色として強調されてきた赤色に、主人公たちも染まっているということだろうか。

 ここで本作のタイトルをもう一度見てみよう。
 『最後のジェダイ』。
 これまで三部作の中間に位置するエピソードのタイトルは、ダークサイド側にかかったものであり、物語もダークサイド側が勢いを増すというものだった。EP5『帝国の逆襲』に、EP2『クローンの攻撃』。クローンは最初悪者として登場するわけではないし、なんならそのクローンの攻撃とやらでひとまず主人公たちは救われるわけだけれど、広い目で見ればこれも悪の側のアクションと言えるだろう。クローン軍の力を借りたことで、戦争が始まり、共和国は崩壊への道を辿ることになる。そうしてジェダイたち自身も、やがてクローンの攻撃に晒されることになるのだ。

 そして、EP8となる『最後のジェダイ』もまたシークエル三部作の中間に位置する、三部作の二話目である。しかし、ジェダイ。それは圧倒的に善を象徴するような存在ではなかったか。
 最後の、と言っている時点で十分ネガティブでダークサイド寄りだと見ることもできるけれど、同時に、ジェダイが必ずしも善ではないということが語られるのではないか、なんて思ったりもする。これまでの帝国やクローンといった言葉とともに、新たなる二話目のタイトルとして(たとえ「最後の」だとしても)ジェダイを並べるというのはなかなか抵抗がありはしないか。

 たとえば、二枚並べて完成するデザインのポスターがある。片方は主人公レイを中心とした善側の人物たちによる構図、対するもう一方はカイロ・レンを中心とした悪役たちによる構図だ。しかし、どちらの主人公の背後にも同じ人物の大きな顔が描かれている。
 ルーク・スカイウォーカーである。
 善と悪どちらの側にも共通する形でルークの顔があるというのは、もちろん彼こそが最後のジェダイだから、どちらの側にとっても重要な人物だからなのだろうけれど、善も悪も、光も闇も超越したバランサーみたいな印象も、やっぱりあるんだよね。フォースにバランスをもたらす選ばれし者の血を引いているのだし。

2017年11月14日

日記の構想

 日記を書くのも楽しいけれど、日記の付け方とか形式とかを考えるのも楽しい。
 このブログでのよりいい日記の形を考えていた。もうあまり日が空くことは気にしないということでストレスは消えたけれど、でもなんかいつなにがあったかを、ブログを書く余裕ができたときに思い返すのが面倒だったりする。いやそれくらい思い出せよとも思うし、そうならないように常にどこかに書き留める習慣を持ったらいいじゃないかとも思うのだけれど、それがもう面倒くさい。少しでも負担に感じる方法は避けたい。書くことがあまり楽しくなくなるんだよね。

 あと、具体的な日付がついていると、その日の出来事を固有名詞一切出さずに書いたとしても、読む人が読んだらあのことかこのことかと、察せてしまうのではないかという不安があったりする。そこまで心配することではないのだけれど、わりとひとの悪口も書きたかったりするのだ(おい)。たとえば、最近はわりと教習所での出来事を書くことがあるけれど、そのときに変な大学生とか、変な教官とかに遭遇するじゃん。で、そのことについて書きたくなるじゃん。そこに具体的な日付がついていたりした場合、かりにその変な大学生が偶然ぼくのツイッターを見つけて、このブログにたどり着いて日記を読んで、あれ、これ俺のことじゃんとか思って傷つかれたり苛立たれたりしたら悪いじゃん。嫌な気持ちにさせちゃうのも悪いし、怒りを買うのも嫌じゃん(なにより怒られるのが一番嫌である)。

 まあ、そんなことは恐らく稀だろうとは思うけれど。しかし、教習所に限らずいろいろな出来事について書くことがあるだろうと思う。誰かが嫌な気持ちになりそうな内容を書かなければいいじゃんとも思われるかもしれないけれど、日々の自分の苛立ちとか憤りとかを避けて書くと恐らく当たり障りのないつまらないものになると思う。当たり障りのないブログほどつまらないものはないと思う。それならただ新しく描いた絵や、仕事のお知らせだけ更新していればいい。それよりはぼくは自分の個人的な部分を少し、出したい。個人的な部分を出すからこそ、絵や文が見られるものになっている、というところもあるのではないかなと自己分析していたりもする。

 もちろんツイッターなどでよく見かける、読んでいてなんの得にもならないどうしようもない不平不満を垂れ流すつもりはなく、どうにか可笑しさというか、読み物として堪えられるものにしたいとは思っている。

 なにか特定の出来事があったとして、できるだけぼかすために日付をズラして書いたりすることもあったのだけれど、なんか、そんな小細工するくらいだったらはじめから日付なんかなくてもいいかなと思ったわけよ。というか、ブログはその記事自体に日付がつくので、だいたいそれくらいの時期のことだっていうのはわかるんだよね。

 そこで、日付のないいわゆる雑記が複数、ひとつの記事の中に無作為に並んでいれば、多少は不特定感が出るというか、11月15日に更新された記事だけれど、ひとつひとつの雑記が具体的にいつのことについてなのかはわからない、といった具合になんとなくぼやけるかなと。それでも記事が更新された日ははっきりしているので、だいたいの時期そのものはわかるので、記録としてはちょうどいい。

 出来事ならともかく、考えていること思っていることなどの思考の雑記については日付もなにもないんだよね。最近思っていること、くらいのものなので。なので、日付がない形のほうがそういうのも書きやすい。ひとつの出来事やテーマについてひとつの記事にすればいい場合もあるけれど、わざわざ独立した記事にするほどのことでもない、ほんのちょっと考えたこととかを書きたくなることもある。なんというか、たとえば3つくらい続けてツイートするようなことがらは、そのぶんこのブログに書くようにしたいのだ。それに、あまり記事数がかさんでも、ほかの絵とか仕事のお知らせとかが流れすぎてしまうのもよくない。
 とにかく、日付の生々しさを取り除き、もう少し「お話」感を出したい。なにかいい雑記の形式を考えよう。

2017年11月13日

Finn vs Phasma


 予告編でもっともテンションのあがるシーン。カイロ・レンが専用機を飛ばしてお母さんの乗る船をロックオンするも、発射ボタンを押そうとする指が迷う(ように見える)シーンも熱いのだが、ファズマ好きとしてはこれを描かずにはいられない。
 燃え盛る炎の中で煌めくヘルメットに、ここで会ったが100年目、宿敵でかつての部下、FN-2187ことフィンの顔が映りこんでいるのがかっこよすぎる。これだけかっこよければ、たとえこの直後またしてもあっけなくリタイアしてしまっても構わないほどである。そう、ファズマはそのヴィジュアル、佇まいだけでもう十分すぎるキャラクターなのである。
 それにしても、『フォースの覚醒』でライトセイバーを持ったフィンに挑んだ旧友トルーパーもそうだったけれど、この裏切り者に対してはみんな飛び道具ではなく、格闘で勝負を挑みたくなるものなのだろうか。それだけフィンがトルーパー時代にはその分野で名を馳せていたということか。そこに敬意を表してというより、その得意分野でフィンを打ち負かしてやりたいという気持ちからかもしれない。いずれにせよファズマはフィンの元上官であり、元教官でもある。当然フィンの射撃や武術はファズマが仕込んだものなのだ。彼女としては自分が最も評価した分野で彼と決着をつけたいところなのだろう。

憧れの黄色いチンクエチェント


 知らないうちに新型のフィアット500もいろいろなバリエーションが出ていた。というか気づけば新型が初めて登場してから10年経っていた。免許を取ったら子供の頃から憧れだった、というより唯一知っていた車種であるところのフィアット500に乗りたいなと思っていたのだが、2ドアは現実的な問題、日常生活で使いづらかろうということで今のところこの車種に乗る予定はない(友人曰く2ドアは後部座席など存在しないも同然だという)。というわけで絵だけ描いて満足しておくことにした。
 4ドアのチンクエチェントがあったらなあなどと思ったりもしたけれど、4ドアもあったらもうそれはチンクエチェントではない。丸っこくてかわいらしい、ネズミ風のコンパクトカーのフォルムが失われてはそれはもうフィアット500ではないだろう。それならフィアット・パンダのほうがいい。


日記:10月30日〜11月9日

10月30日(月)

 教習所、連続3コマ。1月が教習期限なので正直焦っているのだが、もう大詰めである。オートマチック・トランスミッションによる路上教習と危険予測ディスカッション。もともとはマニュアルを取っているので、慣れない自動変速機ですいすい走ってしまいつい速度が上がりがちであったものの、最近はもう一週間以上間が空いても運転の感覚を忘れるということはなくなった。身体になんとなくしみついている感じである。
 ディスカッションでは同乗の教習生たちとともに先の互いの運転の仕方がどうであったかを指摘し合ったわけだが、例によって他人に厳しく、他人の粗だけはよく観察するぼくなので、あれこれとほかのふたりの運転作法を指摘したら、「川原さんはどこどこの横断歩道で向こうからやってきていた自転車のひとを無視して通過していました」などと反撃されてしまうなど。
 だって、すごい離れていたしわざわざ待つまでもないと思ったんだもん。実生活であんなのを待っている車なんか見たことないんだもん。などと言い訳をしたくなったものの、紳士なので負けを認めておいた(負け?)。

10月31日(火)

 ハロウィーン。なにもそれらしいことをできずに終わる。全くそれらしいアートワーク等を作る気になれなかった。もう何年もそれらしいテンションにならないのはなぜだろうか。巷で汚らしい大人たちがハロウィーンを消費しているのを目の当たりにして嫌気が差したのだろうか。鬱憤の溜まった社会人たちの、日頃抑圧されているであろう衝動を発散するため、要は馬鹿騒ぎを正当化する理由にハロウィーンが使われていることに嫌気が差しているせいだろうか。そんなところだろうと思う。
 ここ数年でハロウィーンが急に流行りだしたなどと言うひとは結局ぼくとは違う文化圏で育ってきただけだろうと思う。ぼくには言うまでもなくずっと身近なものである。小さな頃から猫を飼ってきたひとも、猫が急に流行りだしたと言われて同じ気分になるであろう。ずっと身近だったもの、大切にしてきたものを、無関心なひとから流行りもの扱いされるのは不快である。
 とは言え、ぼくは「もう何年もそれらしいテンションにならない」と前述したわけで、その「何年」は「ここ数年でハロウィーンが急に流行りだした」の「数年」と、恐らくは重なる。ハロウィーンの文化風習はもちろん昔からあり、この国でも関心があるひとにとってはずっと前から身近なものだった。それでもやっぱり、この数年間でそれは少し変わってしまったということになるのだろう。「やや行儀の悪い大人たちの世界」と結びついたという意味でなら、「流行りだした」と言えるのかもしれない。
 別に欧米だって行儀のいいハロウィーンばかりしていないだろうと思う(そもそもハロウィーンもクリスマスも欧米の文化ではないのだが、わかりやすいサンプルとして)。というかよりゲテモノ・パーティとして発展していることだろう。こちらと同様に、向こうでも大人たちのハロウィーン・パーティは、少し歩けば性欲とぶつかりそうな(偏見である)、そんな感じのコスプレ・パーティには変わりないだろうなと思う。『ビッグバン・セオリー』でやっていたから知っている。
 そこで気づいたこと。ぼくの好きなハロウィーンとは、子供がやるそれなのだ。決して大きな金額が注ぎ込まれていないであろう手作りの仮装(コスプレではなくあくまで「仮装」という表現にこだわるべきである)、お菓子、稚拙ながら見た者にできるだけインパクトを与えようという技巧や工夫、無邪気さ、純粋に楽しいというテンション。それがきっとぼくの思うハロウィーンなのだろうと思う。そしてぼくは大人になった。別に楽しいあれこれを卒業してしまった、飽きてしまった、楽しめなくなってしまったとか、そういうわけではない。大人になったので、子供のハロウィーンが身近でなくなってしまったということである。子供向けのイベントが身近でなくなり、視界に入らなくなり、大人向けのものが日常になったのだ。ハロウィーンの方でもそらあ少しは変わったかもしれない。しかし、いちばん大きいのはぼくの目線の位置が変わったことだろうと思う。
 だから、ぼくは子供の頃のハロウィーンを思い出し、巷とは関係なく自分の思うハロウィーンだけを形にすることに努めよう。決して本格的なものではない、「ちょうどいいレベル」の手作り仮装を追求しよう。
 
11月3日(金)

 ここのところの懸念事項、ウェブサイトの整理。
 もっと見やすく、もっとシンプルに、もっと管理しやすく、もっと洒落たように、ならないものだろうかというのをずっと考えている。結局のところ現状は仮のものでしかない。それよりも中身となる作品を作らなければということで、今のようなとりあえずの形で落ち着いていたというだけだ。
 コアとなる作品集にはTumblrのページを使っているわけだけれど、これはスマートフォン等の小型端末で閲覧するとPCのようなレイアウトでは表示されない。レスポンシブ・デザインとかいう、どんな端末で見てもその端末に合わせた形でページのデザインが切り替わるという仕組みが今日のウェブ世界では当たり前になっているらしいのだが、小型端末に最適化されたデザインというのはどうも味気ない。そもそも昔の携帯電話と違って、PCのブラウザと同じ形でウェブを閲覧できることが小型端末の長所のひとつではなかったか。それをまた小型の画面に最適化したデザインを用意するというのは、結局前のガラケー・サイトと同じことではないのか……。などと思ったりもするのだが、まあそれでも、PCの画面というのは手のひらにおさまる端末のそれよりもずっと大きいので、PCサイトをそのままの形で携帯端末で見れば、それはやはり見づらい、というより小さくて見えないということになるので、ある程度気を配ったほうがいいのだろう。
 しかし、そのレスポンシブ・デザインというのも、ウェブ世界ではあくまで今のところの、とりあえずの応急手段のようなものらしく、決して最終的な解決策ではないらしい。最終的と言ったって、小型端末だってこれからどうなるかわからないのだし、閲覧デバイスが変わっていくたびにウェブサイトもどんどん変わっていくことになるのだろう。
 話をぼくの作品集に戻す。どうにかして携帯端末でも見やすいようにならないだろうか。やはり外部サービスに頼らず、一枚一枚ページを手打ちで作っていくしかないのだろうか。更新するのがめちゃくちゃ億劫になりそうだが、ホームページとは更新よりもアーカイブに向いたものだ。そんなに頻繁に更新する必要はなく、ある程度ブログやTumblrで作品を更新したら、時折メインのサイトに載せていくという形にすればいいのではないか。あくまでアーカイブとして。
 しかし、作品をある程度厳選していくとしても、その数は決して少なくない。一枚の絵につきひとつのページを作っていくようなことを果たしてやっていられるだろうか。サムネイルを作って、それをカテゴリー別に並べて……。昔も一度そういうのを作ったことがあったっけ。いや、昔の個人サイトならそれは当たり前だったはずなのだが。
 どうしようかなあ。

11月5日(日)

 最終日にしてようやくディスクユニオン池袋店に足を運ぶ。
 妻の体調は依然悪いので犬は妻の実家に預けた。
 夜、オリジナルの『ブレードランナー』をプライム・ビデオでレンタルした。この作品に関してはオリジナルなどと言うとややこしいのだが、要するに前作である。いやあ、やっぱり途中で眠くなる。1時間50分くらいなのに、なぜ2時間40分の新作と同じ体感時間なのか。
 新作に比べるとまだだいぶ生活感のあるディティールというか、埃っぽさがある。新作がそれだけ無機質になっているということなのだが。より古き良き時代の痕跡が消え去っているということか。
 ちなみに原作小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」も読んでいるところ。原作のデッカード、動物欲しすぎ。
 映画にせよ原作にせよ、前作にせよ新作にせよこのお話のいちばん興味深いところは、外宇宙にまで人類の入植が進んでいる世界であるにも関わらず、物語の舞台は地球のアメリカ、そしてその一角である西海岸のロサンゼルスに限定されているところだ。ものすごく壮大にして広大な世界の、ごくごく限られた片隅で、ややアナログな刑事物語が繰り広げられるところが魅力なのだろう。そして、新作でもそれを維持しているのがすごい。今どきの映画で、設定上宇宙にまで話を広げることが可能ならついつい宇宙における描写も入れてしまいそうなところを、たとえ技術的にそれが容易であっても、あくまで物語はアメリカの西海岸から外へは出ない。クライマックスで老デッカードがオフワールドと呼ばれる外宇宙世界に連れて行かれそうになったところを、主人公Kが阻止して救出するくだりは、なにがなんでも視点を宇宙には持っていかねえぞというスタンスの表れのようにも感じられる。

11月9日(木)

 恐くて不安で仕方がなかった高速教習。
 高速道路に向かう途中で結構大きな事故現場に遭遇する。トラックを含んだ数台が一様に顔やお尻を潰した状態で、警察官が交通整理をしていた。もうひとりの教習生が先行で運転していたので、ぼくは後部座席からぼうっとその事故の様子を眺めていた。通り過ぎる際に数台の事故車の陰に、それらとは比べ物にならないくらいぐしゃぐしゃになった車両がちらりと見え、ゾッとした。ずっと不安だったせいもあってとても嫌な予感がした。あの事故車の残骸、亡骸はぼくの未来を暗示しているのだろうか……。
 先行の教習生の運転は非常にスムーズで、アウトバーンをすいすい滑っていった。永久にすいすい行ってくれというぼくの願いに反してあっという間に高速を降りてしまい目的地に着く。ちょっと休憩くらいするのかなと思いきやすぐに交替を命じられてしまった。あれ、妻の話だと普通は途中休憩があるって聞いていたのだが。というか不安と緊張で下腹部が結構落ち着かないのだけれど。今思えばあのときに思い切ってトイレに行きたいと言えばよかったのだ。まさかあんなことになるとは……。
 高速道路自体は問題なく走れた。信号や交差点、歩行者がいないぶん運転そのものに集中できる。真っ直ぐ安定した速度でなかなかうまく走れたと思う。合流だけは、前のトラックが遅いこともあってなかなかセオリー通りには行かなかったので少し不安が残るけれど、操作は間違っていなかったようなので多分大丈夫だろう。というわけで運転そのものはなにも悪くなかった。
 悪いのは道路の方であった。
 すいすい走行できたのは半分くらい。いや、体感では半分以下だ。だんだん前の車との距離がやたらと詰まるようになり、速度調節に気をつかわないといけなくなり、あっという間にぼくは大渋滞に巻き込まれてしまった。電光掲示板の表示によれば、その原因はどうやら行きに見かけたあの事故のせいらしい。ぼくが事故を起こすことはなかったが、嫌な予感は一応的中した。いやまあ、あんな出入り口とも言うべきようなところで事故が起きてれば普通渋滞は予想できるのだけれど。
 少し進んでは停まる。それを延々と繰り返してアウトバーンの出口にまでやってきた。もはや定刻通りに教習所に戻れないのは確実である。教官が携帯電話でその旨を報告する。一旦報告し終えてしまうと彼もいくらか緊張が解けたらしいことが横目にわかる。ルームミラーを覗くと後部座席の教習生もだんだんうなだれるようだった。なんだ君たちは。まさかぼくにハンドルを任せて寝るつもりじゃないだろうな。もちろん本当に彼らが寝ることはなかったが、それでも高速を降りて一般道でも続いている渋滞の中をゆっくりと進んでいく中では、もはや誰も一言もしゃべらず、その顔は下を向きがちになった。なんだこれは。もう教習というよりただの帰り道だ。
 少し間隔が空き始めて流れ始めた途端、右側の詰まり気味な列から目の前に横入りされる。この渋滞の中でもう何台もせっかちな車を見かけてきた。少しでも流れが速そうに見える車線に次から次へと移っていく赤いボルボが一番馬鹿っぽかったけれど、高速を降りてからもずいぶんみんなせっかちに車線を移ってきていた。そうやって少し流れ始めたところに入ってくるからまた詰まるんじゃないのか。どうして仮免のぼくにでもわかるようなことをみんな理解できないのだ、とひとり憤った。
 一度など原付のおじさんが両足で地面を蹴りながら目の前に入ってきた。もちろん流れはとてもゆっくりなので、おじさんはずっと両足でちょこんちょこんと地面を蹴っていた。あんた、歩道を押して歩いた方が早いんじゃないかと言いたくなったところで目的についたのか、脇へと去っていった。
 お忘れかもしれないが、ぼくは下腹部に違和感を覚えたまま運転を始めている。そしてこの渋滞である。そこまで予定が遅れているわけではなかったけれど、いつ教習所に戻れるかわからないという状況が余計に下腹部を圧迫した。ペダルを踏んだりハンドルを動かしたりしていればまだ気が紛れたかもしれないけれど、じっと動かずに座ったままの方が多いくらいなので、どんどん辛くなってきた。何度コンビニの駐車場に乗り入れようと思ったことか。その間も助手席の教官はうとうとし、後部座席の教習生はぐったり首を垂らしている。途端、今このふたりの命はぼくに預けられているということに思い至るが、気を引き締めるどころかストレスになるだけだった。
 ようやく見覚えのある景色、見覚えのある建物がちらほら見えてきたところで、「ああ、やっと着いた」と思ったことが口から出た。教官がぱっと顔を上げて、「お、着きましたねえ」。
 お、着きましたねえじゃねええええ!今思えば教習時間過ぎたあたりで替わってくれてもよかったのではないか。
 とは言え余計に長く運転できた、早速大渋滞を経験できたのは、まあプラスに思うことにしよう。教習所に戻るなりすぐに解散になってしまったので、総評を聞いたりできなかったのだが、総評もなにもなかったろうな。もちろんそんなことそのときは気にもせずトイレに向かった。

2017年11月9日

『ホリデー・スペシャル』のボバ・フェットが好き


 などと言うとなんだか主流とは違うところに魅力を見出したがりなオタクといった印象を持たれるかもしれないが、それを意識していないと言えば嘘になる。オタクとはそういうものだ。
 『ホリデー・スペシャル』は第1作目公開の翌年1978年(日本ではこの年にEP4が公開)にテレビで放映された、元祖スピンオフ映像作品である。『ローグ・ワン』よりもはるか昔に、マーク・ハミル、キャリー・フィッシャー、ハリソン・フォードといったメイン・キャスト主演で実写の外伝作品がつくられていたのだ!と言うとすごいものに聞こえるが、内容は言葉では非常に表現しづらい独特さで……いや、はっきり言って現在の感覚で観ればとてもチープでゆるい。だが、本来のポップなスペース・ファンタジーとしてのSWのイメージと決して相容れぬものではないとぼくは思う。これくらいのキッチュさというか、大味な側面もまたSWの持ち味なのではないかと。着ぐるみ特撮映画なのだし。
 一言に『ホリデー・スペシャル』といってもその内容はいくつかのパートに分かれている。チューバッカの里帰りが物語の主軸だが、大半はチューバッカの家族が彼を待っている間にテレビで視聴する料理番組や音楽番組、ちょっとした短編ドラマ等で占められる。その間にもミレニアム・ファルコン号でハン・ソロとチューバッカが旅路を急いでいたり、家の中に帝国軍が押し入ってきて反乱軍との繋がりがないかどうか探し回ったりという具合に進行していく構成。
 宇宙の料理番組とか音楽番組とかは全然おもしろくないし、ホログラムのサーカスもどこがSWなんだと言いたくなる代物なのだが、なにせ一作目が公開されて間もない頃で、設定だか世界観だかが確立されていない時期だから仕方ない(ルーカス監督自身の中では確立していたかもしれないが)。どこかディズニーランドの旧スター・ツアーズにも通じる、がちがちに固められていない感じなのだ。
 その中で挿入されるのがアニメーションの短編である。これも作画や色使いがまた独特なのだけれど、なによりこのアニメで賞金稼ぎボバ・フェットが初登場する。次作『帝国の逆襲』に登場するのとは全然違うカラーリングで、なんだかかわいらしいのだが、こちらが先である。次回作に登場する新キャラを先行してアニメに登場させるという方式(?)はその後も、EP3に先行してアニメ『クローン大戦』に登場したグリーヴァス将軍、『ローグ・ワン』に先行して『クローン・ウォーズ』に登場していたソウ・ゲレラ(彼の場合はCWから逆輸入されたような形だが)といったようにパターン化している。これにより現在アニメ・シリーズに登場しているキャラクターが次の映画本編に登場するのではないかという予想や考察がなされているのである。
 とある惑星に墜落したミレニアム・ファルコンを助けにかけつけたルーク・スカイウォーカーはボバ・フェットと名乗る装甲服の男に助けられる。ボバとルークがファルコンにかけつけると、ハン・ソロが呪いの護符によって意識を失っており、ルークも同じく倒れてしまう。そこでドロイドたちを残してボバとチューバッカが街まで薬(?)を探しに行くのだが……。と言ったようなお話。なんとボバは最初は親切な助っ人として登場するのだ。かっこよくて頼りになる謎の人物。もちろんその後正体がバレるのだが、バレたあとの所作がまたかっこいい。C-3POから賞金稼ぎの正体を告げられて驚愕の表情を浮かべ始めるルークの顔とゆっくり後ずさりするボバが交互に映り、賞金稼ぎは「また会おうぜ」とかなんとか言いながらジェットパックを噴射させてファルコンの船内から飛び出して行く。天井に突然都合よく穴が開くのだが、この穴はおそらく次作でランド・カルリジアンが空中都市の底にぶらさがったルークを助けるときに使ったハッチと見ていいだろう。たぶん。正史として扱ってなんら不都合はないストーリーである。
 ボバとチューイが行動を共にするのもおもしろい。まあ、肩からウーキーの毛皮を垂らした謎の男をチューイが信用するのかという疑問があるにはあるが、まだあれがウーキーの毛皮だという設定もないのだろう。ただ、今では特別篇のEP4にて、ハンに借金を取り立てにきたジャバ・ザ・ハットの取り巻き用心棒の中にボバの姿が追加されてしまっているので、ハンとチューイがそのことを覚えているのなら、少し矛盾が出てきたりもする。
 というわけで『ホリデー・スペシャル』のアニメこそボバのオリジンなのである。

「LINEマンガ STAR WARS インディーズアワード 2017」にノミネートされました!


 「LINEマンガ STAR WARS インディーズアワード 2017」にコミック作品をノミネートしていただきました。
 すでに刊行されているSW小説「ジェダイの後継者」(ケヴィン・ハーン著)か「ロード・オブ・シス」(ポール・S・ケンプ著)のどちらかをコミカライズして応募するのですが、ぼくは「ロード・オブ・シス」を自分なりにコミカライズしました。
 漫画らしいものをちゃんと描くのは初めてなので経験値になればいいなくらいの感じだったのですが、まさかノミネートされるとは……。感無量です。

 作品は以下のページよりご覧いただけます。

(いちばん最後に載っています)

 11月9日まで読者投票受付期間になるので、よろしければご投票ください。投票方法は上述のリンク先にもありますが、以下の通りです。


(1)LINEで公式アカウントを友達に追加し、
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