2017年8月11日

教習所で感じる劣等感

 自動車教習所に通い始めてからというもの、改めて自分がひとより劣っていることを思い知らされた。
 近頃はそれなりに仕事ができるようになって、いろいろなところに名前が載るようになって、見知らぬひとがぼくの描いたものを気に入っているというような状況に浸っていたものだからついつい忘れかけていたのだが、ぼくは本来ひとが当たり前にできることをなかなかできない人間なのだ。

 たとえば走ること。どんなに真剣に走っていてもおかしな長さの手足のせいなのか、見たひとは一様にふざけていると思うらしい。もちろん速度は遅い。

 たとえば考えること。ひとが1分で理解することをおそらく10分かけて理解しているような感じ。プロセスが10倍ということだ。単純な暗算も結構考えてしまうし、分数の足し算引き算は意味がわからなくてワークブックを手伝っていた母親をよく困らせたものだ。最近はそういう、「1+1が2になること」をなかなか理解できなかったというひとの体験談や、それは気に病むことではないというような話もインターネット上でよく見かけて少し安心したりもするのだが、でも考えるのに時間がかかるのはとても辛い。ひとが言った冗談に、だいぶ時間差をもって笑い出すのは自分でも結構異様。

 たとえば読むこと。考えるのに時間がかかるのと同様読むことにも時間がかかる。本を読むのはもちろん好きだけれど、ひと月の間に読める本はせいぜい2冊くらい。世の中には一晩で読み終えるひともいるらしいが(うちの妻は大抵のペーパーバックをそれくらいで読み終える。最初は冗談かと思った)さぞたくさん読めるだろうから羨ましい。一冊を長時間読み続ける集中力がまず保てない。

 たとえば右と左。ぼくは幼少時に右と左を家の前の道で覚えた。ばあばを迎えに行く駅やジャスコの方に向かうのが右、海に向かうのが左。両親は茶碗と箸を持つ手で左右を教えたりはしなかったと思う。母は左利きだったからそういう右利き中心的な考えに抵抗があったのかもしれない。あてにならないよね、あれ。しかし、もしかすると自分の手で覚えたほうが後々のためにはよかったかもしれない。なんと26歳になろうとしている今でも、右と左を判断する際に一度家の前の風景を頭の中で経由しているのだ。歳を重ねるにつれて経由する速度は上がったかもしれないが、いずれにせよいつも一瞬家の前の道を思い浮かべている。そのせいか、左右の区別はどうもいまひとつ身体に染み付いていないような気がする。わかることはわかるんだけれど。

 それからひとと話すこと。一時期少しは改善されていたような気がするが、ここへ来てなんだか思春期の頃よりひどくなっているように感じられる。まず言葉がつっかえる。ティーンの頃は少なくとも不愛想なだけでつっかえたりはしなかった。頭の中で言葉がまだ選ばれていないのに口を開けてしまったかのようなつっかえ方をするようになった。妻は言葉が出てくるまで待ってくれるが、おそらく世の中のひとはそうもいくまい。5年前に初めて学生という身分でなくなってからというもの、ひとと直に気軽に会話するという機会が恐ろしく減った。年長のひととばかり親しくなっているせいなのか、同年代の友達との会話が異様なほど不器用になっている。その機会自体が減っているし。

 さて、これらの「ひとに比べてできないこと」の多くは自動車教習所で際立ってくる。運動神経の悪さは両足での車の操作に影響しているし、間違ってはいないが時間のかかる思考力は瞬時に判断を下さなければならない車の運転において忌々しいことこの上ない。必ず一度実家の前の道を思い浮かべなければ左右が判断できないのも問題だ。次の交差点を左折、と指示されているのに右にウィンカーを点滅させたりしていることもある。というか、ウセツ、サセツという言葉がいまひとつミギとヒダリに結びつかないでいる。思想上の左右はその中身で区別がつくのだけれど。こんなことを書いてはまるで運転に向いていない、教習を受ける資格に満たないように見えるが、一応適性試験は通っているので許容範囲かと思う。読む速度が遅いのは学科試験でだいぶ辛かったし、独特の解釈をしてしまいがちなので簡単な問題もよく間違える。おそらくあれに出題される文章は真剣に読んではだめなんだろうな。文体の特徴は毎回変わるし、主語があったりなかったりで非常にイライラするが。会話能力の低下は運転技術に直接影響しないが、狭い密室で小一時間他人と一緒にいる際に辛い。というか、たぶん余計な会話は一切しないでいいんだろうけれど、どうも沈黙が重苦しい。かといって変に運転操作の所感から広げて話題を振ろうとすると、ひとによっては薄い反応しか得られずより一層微妙な空気になる。先日は初めての路上教習だったわけだが、もう垂れ込めている空気が辛すぎて(もちろんその微妙ガスはぼくの不器用さのせいで車内に充満してしまったもの)、「あ、この通りはこういう名前なんですね」「この道は車が多いですねえ」などと要らぬことを言っては、「いいからやれよ」というような響きを含んだ「そうですね」を返されてばかりだった。ぼくの個人的な感想なんか求められていないことは重々承知している。わかっているんだ。でも、なんだかもう空気に耐えられなくなったんだ。「なんでこんなこともできないの」というような空気。

 そう、通い始めてから4ヶ月の間、とにかくこの「なんでこんなこともできないの」というような空気に気圧されている。久しぶりの感覚。美術の学校に通っていた間は多少感じなくなっていたので(これでも一応絵描くの得意だからさ……)、体育の授業があった高校以来かな。いや、美術学校でもなぜか球技大会だか体育祭だかがあってそこでも結構バカにされていたので、まあとにかく学生時代以来だ。人間というのは自分が当たり前にできることができない他人をバカにするようにできている。かく言うぼくも絵心のなさすぎるひとを見て愕然とすることがあるので、とやかく言える資格はないのだけれど、そのさ、出来ないから習いに来ているわけだからさ、安くないお金も払って習いに来ているわけだからさ、もうちょっと圧力を弱めてほしいわけよ。
 愛犬を助手席に座らせて冒険に繰り出せる日はまだ遠い。

 それからおまけにもうひとつ、なんでそんなこともできないんだという話を。
 教習所には家の近所から送迎バスに乗って通っている。近所といっても結構歩いた先にある地点だ。ぼくのような田舎者にとっては本来歩く距離として大したものではないけれど、都会生活の観点からはちょっとした距離だ。どのくらいの距離かといえば、短めコースの犬の散歩で折り返しになるくらいだろうか。実際そうしている。
 行きは所定の位置からしかバスに乗れないが、帰りは結構皆好きなところで「運転手さん、ここでいいですよ」なんて言ってさらっと降りていく。それで、ぼくが乗り降りしている地点は微妙に家から離れていて、そもそもバスはそこに行き着くまでに一度ぼくの家の前を通るんだよね。だからそこで言って降りようかと毎回思うのだけれど、運転手さんがぼくを降ろす地点を通るためにわざわざそのコースを設定して走っているとして、ぼくが急にここで降りたいと言ったらかえって迷惑というか、なんだよ、せっかくあそこを通るためのコースを走っているのに、ここで降りたいんなら最初からそう言え馬鹿野郎、とか思われても嫌だなと思って、いつも家の前を通り過ぎてだいぶ離れたところで降りて、バスが来た道をもう一度引き返している。この前の雨がしとしと降る寒い日なんかは早く家に帰りたいと思って、よし、今日こそはここで降りたいと言おうとちょっとその気になっていたが、結局言えなかった。ぼくの家、微妙な位置にあるから急に言ったら迷惑かなと思って。多分これからも言い出せないんだろうなあ。 
 どっちがいいと思う?個人的な時間を優先してわがまま(?)を言うのと、運転手さんの考えているであろう道順に水をささないでそのままでいるのと。わからない。もうよくわからないので、黙って所定の位置で降りている。

2017年8月2日

スノークとカイロ・レン


 またちょくちょくエピソード8のことなど描いていこうかと。
 スノークは新しく公開された画像から、眼が青いことがわかった。うっすら眉も生えており、傷こそグロテスクなものの、元は普通の人間なのだということが伺える。それはこれまで登場した誰かなのか、と考えたくなるが、なんかもう、スノークはスノークなんじゃないかなと思えてきた。だって、アンディ・サーキスが演じている時点で新キャラでは。もちろん、映画に直接登場せず言及された人物である可能性はまだある。皇帝の師匠、ダース・プレイガスとかね。でも、それもなさそうな気がするなあ。ぼく個人はプレイガス説はちょっとベタすぎると思っているし。

 せっかく怪物王アンディ・サーキスが演じているのだから思い切りモンスター、クリーチャー感のあるキャラクターでもよかったと思う。今のところスノークは大怪我をしたおじいさん程度でしかない。顔の崩れ方はすごいから、モーションキャプチャーでやることの意味はあると思うけれど。
 大怪我といえば、これほどの負傷はどんなことを経験したら出来るものだろうと考えたとき、爆発するデス・スターから逃れたとかいうのがそれっぽいと思うんだよね。なので当初から言っているターキン説をまた引っ張り出したいところ(ピーター・カッシングも眼は青)なのだけれど、スノークは一応ダークサイドに通じているひとだし、声はアンディ・サーキスだしということで、その説ももういいや。
 これまでのSWサーガは一貫して皇帝パルパティーンの野望が銀河を襲う物語でもあるので、スノークは皇帝の流れを汲んでいる関係者か、皇帝本人の精神が宿っているなどといった設定の方が、シリーズ全体に一本の線が出来ていいと思う。
 ということでスノークの正体はスノーク。
 金色の長衣に禿頭なせいで、なんとなくお坊さんに見えるね。

 ヴォルデモートとスネイプにヴィジュアルが似ているということで思いついたが、カイロ・レンことベン・ソロはスネイプ同様、実は大きな目的のために汚れ役を買っているのではないかなどと考えてみたり。皇帝の意志を継いだスノークを滅ぼすため、ルーク・スカイウォーカーによってその懐に送り込まれたとか。彼が皆殺しにしたというジェダイ候補生たちも実はルークを倒すために送り込まれた皇帝の刺客で、EP7でルークの居場所を突き止めようとしていたのは師を殺すためではなく守ろうとするためだとか。ハン・ソロはハリポタで言えばダンブルドアみたいなもので、息子の任務のため殺されることをよしとした、とか……(EP7を見る限り全くそんなふうには見えない、しかし、そんなふうに見えては任務は台無しだ)。
 なかなかいいんじゃないかな?ただ英雄が悪を倒すだけではもうおもしろくない。SWにはEP6でのダース・ヴェイダーの改心という熱い展開がすでにあるし、その出自を思えばいずれにせよカイロ・レンがただの悪者で終わることはないだろうと思う。そこで、ヴェイダーの改心とは違い、最初から善側だったという展開ですよ。
 うん、もうそうすると完全にヴォルデモートとスネイプだ。

LINEスタンプリリースのお知らせ



 自主制作でオリジナルのLINEスタンプを作りました。絵柄40個になります。自分で使いたくて作ったような感じなので、内容に偏りがありますが、ぜひお役立てください。40個も描いたらコツもつかめてきたのと、描くだけ描いて漏れてしまったものや、こういうのもあったらよかったな、という改善点などあるのでまた作ろうかな。
 価格は120円。
 

2017年8月1日

『ネオン・デーモン』(2016)


 顔がとんがった怖いモデルばかりのところに、飴細工のような妖精的エル・ファニングが放り込まれ、男たちはメロメロに(このメロメロが非常に嘘くさく感じてしまうのはぼくがあまりエル・ファニングに興味がないせいなのか、とにかくおもしろく見える)、モデルたちからは嫉妬と敵意と羨望の眼差しで舐めまわされる。悪趣味な「不思議の国のアリス」ととれないこともない。キアヌ・リーブスは帽子屋といったところか。あ、「猫」も出てくるしね。
 ベラ・ヒースコートは『ダーク・シャドウ』('12)のときから好きだけれど、やっぱりどこか人形的というか、ティム・バートンが描きそうな顔だね。どことなくエミリー・ブラウニングにも系統が近いと思う。ジェナ・マローンが『エンジェル・ウォーズ』('11)でブラウニングと共演していたけれど、マローンとヒースコートの組み合わせに既視感があるのはそのせいか。
 エル・ファニングの出現によって周りの皆が狂っていくのは、鋭利な顔つきが主流のモデルたちへのカウンターもあるのだろうけれど、ぼくはとんがった顔も好きだよ。ジェナ・マローンなんか、顔に触ったら手が切れそうだ。しかし、あの上半身のタトゥーは怖すぎる。

 「色彩が綺麗」とか「色彩が独特」という文句もだんだん紋切り型になってきたんじゃないかなと思う。最近では『ラ・ラ・ランド』や『ムーンライト』がいい例だけれど、視覚的な綺麗さばかり誉めそやしていると、観ていないひとからは「それで、お話の方は?」と聞かれてしまいそうだ。あまりにも視覚的な部分に注目が集まると、「見た目だけの映画」なのだという誤解すら招いてしまうかもしれない。
 もちろん映画は視覚的なもので、色彩やヴィジュアルは重要な要素だと思う。ヴィジュアルが綺麗なことは決して悪いことじゃないし、ヴィジュアルありきな映画だから駄目だなんていうことも全くない。
 前述の二本を引き合いに、最近の観客は視覚的快感の大きい映画を求めがちで、頭が悪くなっているなんていう論調も散見されるけれど、全くのナンセンスだ。それこそなにも読み取れていない。なにかを観て綺麗だなあと思うことは知識がなくてもできることだし、それは知能で測れるものではない。むしろ、観客の観たことのないものを見せて、視覚的快感をもたらすのは映画の大きな役割、機能ではないだろうか。
 だからべつに、ヴィジュアルありきでも問題ないのだけれど、映画を紹介する際に「色彩が綺麗」という言葉が最初に出るのは、どうも陳腐な感じがする。


2017年7月26日

営業報告


 「SPUR」9月号(集英社)「銀幕リポート」第18回では、ジョン・リー・ハンコック監督、マイケル・キートン主演『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』(7月29日公開)を紹介しています。


 トット先生の表紙が眩しい「婦人公論」2017/8/8号(中央公論社)では、ジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第18回の挿絵を描いています。離婚したあとの元夫婦の関係、子育ての行方などについて書かれております。

『ハクソー・リッジ』(2016)


 『沈黙 ーサイレンスー』に続き、祈りながら日本人から逃げるアンドリュー・ガーフィールド。ここでも信仰はテーマだが、キリシタン弾圧と同様戦争も善悪で捉えることはできない。日米戦が舞台なのでそのあたりのことに思考を巡らせたくなりがちなのだが、はっきり言ってどことどこがやった戦争なのかはあまり重要ではないように思う。なによりもまずデズモンド・ドスという人物だ。彼には戦場に行くより前に立ちはだかった障壁があり、本来なら味方である人々から理解を得る戦いに挑み、実際の戦場でも信条を貫き通して信頼を得ていくところにこそ注目したい。

『沈黙 ーサイレンスー』(2016)


 イッセー尾形扮する井上筑後守本人もまた、元キリシタンだったことが興味深い。原作を読んでもあまり詳しく掘り下げられていなかったけれど、信仰を捨てて弾圧する側にまわり、自らもそうだったからこそ知り尽くした信者たちを、狡猾に攻めていくその心理は気になる。
 憎まれ役、であって敵役や悪役という表現は避ける。まあ、主人公との関係上敵役といっても十分正しいと思うし、個人的には悪役と言いたいところなのだが、善悪で片付けられるものではないと思うからね。善いか悪いかではなく、もっとこう、人と人、というような構図としても捉えたい。ということで言葉のことにも注目した。

2017年7月2日

営業報告


 ファッション・エッセイがとても楽しい「SPUR」8月号(集英社)では、ジャック・ニコルソンがハリウッド・リメイク予定のマーレン・アデ監督作『ありがとう、トニ・エルドマン』(公開中)を紹介しています。


 「クイック・ジャパン」vol.132(太田出版)、P169(ピンク色のページ)にて有名な人たちの似顔絵を描いています。


 「婦人公論」7月11日号(中央公論新社)のジェーン・スーさん連載の挿絵を描いています。今回のお話はご自分の文章についての考察。自分の作っているものは果たしておもしろいのかどうかという不安には非常に共感します。そして、そんな悩みについてのお話でもやっぱりおもしろいので、スーさんはすごいです。

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 そして今年も「FRAPBOIS」とのコラボレーションをやらせていただきます。まずは今季のブランド全体のテーマ、「シルクロード」に合わせた絵柄。シルクロードぽい動物がばらばらといるTシャツと、


羊と、


ラクダの一点プリントの三種類となっています。


 7月中の発売となっています。

「一九八四年 [新訳版]」感想


 迎えたくない未来を描くディストピアというものに、どうしてこうも人は(というよりぼくは)惹き寄せられてしまうのだろうか。現実が不穏で陰惨としているのには耐えられないのに、フィクションの世界では枢軸国が勝利したりロボットが人間を支配したり、核戦争後の荒廃な世界にわくわくしてしまう。
 
 本書はまずその世界観の設定や、独裁政治機構のディティールがおもしろい。イースタシア、ユーラシア、オセアニアという三つの超大国によって分割統治され、常に戦争が続いている世界。平和省、潤沢省、愛情省、真理省といった皮肉めいたネーミングの機関。いたるところに貼り出された指導者のポスターと、市民を監視する双方向テレビとも言うべき装置テレスクリーン。市民の思考を制限するために必要最低限の言葉しか使わせない新語法ニュースピーク。その思考様式の大前提となっている「二重思考」……。どれもこれも今ではディストピアを表現する上で定番の概念となっている。本当によくできていると思う。

 無表情な新語法であるニュースピークは、極端な略語や単純な言葉が語彙を奪うことで、思考の幅も狭まってしまうということを教えてくれる。ぼくもそれほど語彙が豊かな方ではないが、もっといろいろな言葉や表現を身につけてそれを大切しないといけないなあ。
 言葉を知らなければそれが言い表す意味について思考が及ぶこともない。知らないことは考えようがない。本書でニュースピークについて知るまで、そんなこと考えたこともなかった。当然のように行なっている思考というものが、自分の語彙に基づいているなどと。けれど、知ってからはそれについて考えることができる。素晴らしいことだ。

 主人公ウィンストンの仕事は過去の記録を改竄すること。誰かが粛清されればその人の存在の痕跡を抹消すべく、名前の載っている記録を全て修正する。半永久的な戦争における交戦相手と同盟相手が党の都合で突然入れ替わるが、それに関する記録も全て書き換えなければならない。そうすることで交戦相手と同盟相手は開戦以来ずっと同じままだという「事実」を維持するのだ。党が間違っているという事態を避けるために現実を歪め続けるというわけ。
 過去の記録を完全にコントロールすることは同時に現在と未来をも支配することにもなるのだ。
 ウィンストンは紙の新聞を修正する作業をしていたわけだが、今日ぼくたちの身近にはもっと簡単に編集できる百科事典がある。もちろん好き勝手に歴史を書き換えてそれを読む人に信じ込ませるのは簡単なことではないが、インターネットの宇宙的図書館にはすでに事実かそうでないか判断するのが難しいものがたくさんあり、それを真に受けてしまう人も少なくないということはもうわかっている。真理省の悪魔的な仕事はそう現実離れしたものではないかもしれない。材料はすでに揃っているように思う。

 そういえばアメリカで新しい大統領が生まれてから、この本が非常に売れたらしい。世の中が怪しげな方向に舵を取ったのを機会に、有名だがまだ読んだことがなかったこの名著を手に取ったのだろう。かく言うぼくもその流れでやっと読む機会を得たのだけれどね。
 オセアニアは1940年代末に想像された未来の社会主義国家なので、現実の未来を考える際に条件が全て一致するわけではないが、もっと広い意味で言うところの悪夢的な未来像として、手がかりのようなものは見出せるかもしれない。トマス・ピンチョンによる本書の解説でも、現実世界に息づいているオセアニア的要素について言及されていて興味深い。そう、このピンチョンの解説もとても読み応えがあっておもしろい。
 
 いずれにせよディストピアとは、迎えたくない未来を先取りすることでそれを反面教師にできる、素晴らしいエンターテインメントだと思う。

 さて、ぼくはもっと日記を書こう。

2017年6月6日

『メッセージ』(2016)感想


 詩情的な静寂は文学的で、丹念に読み進めているような感覚で観ていられるけれど、それでいて圧倒的な「異物感」を感じさせる画面はやはりSF映画。奥深いジャンルだなあと思った。ベースはあくまで外宇宙とのファーストコンタクトという、これまで何度も映画で描かれてきた直球な王道だからとっつきやすく、だからこそエイリアン言語の翻訳という地道かつ気の遠くなるような作業を通して描かれる闘いが際立つ。ミステリアスなエイリアンの外見が「一見」脚が何本もあるという非常に古典的なものになっているのも、入口がスタンダードになっていていいと思う。独創的かつグロテスクなエイリアンはここでは必要ないのだ。まあ、あの外見にはひとつのギミックが施されてはいるのだけれど。

 とは言え宇宙船ーと呼んでいいか少し迷うーがその巨体をひっそりと草原や都市に、これまた微妙な高さで浮かんでいるヴィジュアルがもたらす異物感はすごい。ずっと見とれてしまいそうな画だ。

 どちらかというとこれは宇宙船というよりはモノリスと言えるんじゃないかな。『2001年宇宙の旅』('68)では四角柱のモノリスが現れてまだ猿同然だった人類にある種の啓示を与えて進化ーー別の個体を撲殺することで成された進化だーーを促したが、『メッセージ』ではこの微妙な曲線をもつ、種のようでも砂浜の丸石のようでもある自然的形状のモノリスが、人類にまた別の啓示ーーメッセージを与える。このメッセージは、かつて類人猿が受け取ったものとは正反対のもの。それがなんなのかは伏せておくけれど、ぼくには本作のモノリスが、『2001年』のモノリスのアフターケアにやってきたかのように思える。