2018年2月15日

コーギーのご先祖さま(諸説あり)


 諸説ある、って便利な言葉だな。いずれにせよウェールズ発祥の牧牛犬である。逆に言えばそれ以外のことは判明していないんだけど。
 体型も牧牛犬だからこそのもので、背が低いのは牛の足を噛んで誘導するため(かく言うぼくも散歩中にたまにくるぶしのあたりを甘噛みされるが、遺伝子レベルで刷り込まれている本能なのだ)、生後間も無くしっぽを切ってしまうのは踏んづけられてそのまま殺されたりしないため。ちなみにこの断尾、最近はかわいそうなので禁止になっているところも多いんだけど、元からしっぽが短いやつもいれば、しっぽ自体ないやつもいるらしい。なのでデフォルトで必ずしもしっぽがあるとは限らない。うちの子はどうなのかよくわからない。同じ犬舎の犬でもしっぽのあるやつはあるままなので、元から無いのではないかと思ってるんだけど、どうなんだろう。
 9世紀前後にはウェールズの記録に登場するんだけど、だいたいは大陸か前述のようにスカンジナビア側から持ち込まれたというところに落ち着いているらしく(ウェールズに元からいたとする説もあり、これが多分コーギー先祖説の根拠なのかな)、それらを折衷して、ヴァイキングやフランダースの織物屋(フラマン人)が連れてきた犬が先祖、みたいな紹介をされる。
 まあ、詳しいところはわからないままのほうがロマンを感じたりもする。発祥や先祖がはっきりしなくとも、コーギーは確かに今ここに存在するのだ。女王陛下万歳。

2018年2月12日

砂に墜ちた飛行士



 彼を取り囲んでいるのは乾燥と死の世界だった。
 外部との連絡手段はない。囚われていた敵の宇宙戦艦から逃げ出してきたままの格好だったので、武器などの装備も持っていなかった。ただ、脱走に使った敵の宇宙戦闘機の操縦席に備え付けられていた発煙筒や申し訳程度のサバイバル・キットは持っていた。これは座席ごと機体から放り出された彼にとって不幸中の幸いだった。座席から伸びたパラシュートと発煙筒を使って起こした焚き火で、なんとか夜の砂漠をやり過ごすことができたからだ。
 しかし、日が昇ってから役に立つものはほとんどなかった。パラシュートの残りでなんとか身体を覆って強い日差しを防げはしたが、サバイバル・キットはこんなもので本当に兵士が生き延びられるのかと疑問を抱きたくなる代物だった。あちらの指導者たちは、兵士には興奮剤さえ与えておけばいいと思っているらしい。
 この惑星に来たのはこれが初めてではない。もっとも、今もまだ最初の訪問の一部と言えるかもしれないが。彼が訪れていた集落が襲撃され、そこで捕まり、軌道上の敵艦に連行され、そこから逃げ出して今また地上に戻ってきただけなのだ。ともかく、この土地について丸っ切り知識がないわけではなかった。
 この星に送り出される前に上官からある程度の説明は受けていたし、到着したあとも例の集落の長老からいろいろ聞かされていた。あの温かい眼差しをした老人が自分の目の前で無残に殺されてからまだそう長くは経っていなかったが、老人のことはすでに懐かしく思えた。彼は急に苛立ち、拳で腿のあたりを叩いた。自分がついておきながら、老人だけでなく村人たちもみな殺されてしまった。
 理想的な正義に燃える彼の性格からして、それを必要な犠牲などという言葉で片付けることはできなかったが、しかしそのことで悲しみに暮れてばかりもいられない。彼らの死を無駄にしないためにも、自分は任務を全うして銀河を救わなければならない。
 その任務のために、彼は相棒と再会しなければならなかった。集落で捕まる間際、彼は機械の相棒に記録装置を託していた。それを将軍に届けることこそ、今回の任務である。そこには伝説の人物の居所が記されている。その人物はこの暗雲立ち込める銀河を、光へと導いてくれるはずだった。
 しかし、本当に人間ひとりの存在にそのようなことができるのだろうか。彼は時折この疑問と対峙しなければならなかった。ひとりきりで(正確には機械の相棒も一緒だったが)宇宙戦闘機の操縦席におさまって宇宙の暗闇を旅している間にも、何度かこの疑問と向き合うことになった。
 絶えない争いや憎しみの連鎖を、たったひとりの人間が断ち切れるのだろうか。この広い銀河全体に覆いかぶさっている分厚い黒い雲を、たったひとりで晴らすことができるのだろうか。
 それができるからこそ、その人物は伝説そのものとされているのかもしれない。実際に、その人物はかつて銀河を一度闇から救い出しているはずだ。少なくとも彼はそう聞かされて育った。ほかでもない彼の母親はその人物を間近で見てきたのだ。一緒に戦ったという話も聞いた。多くの子供たちにとってほとんど神話上の人物のようだったが、母親の体験談が彼にその実在を確信させていた。その数々の武勇伝も。
 大人になってからも尾ひれのついた話をいくらでも聞いたが、彼はその全てを本当だと信じている。実際はどうだったかなどこの際あまり重要ではない。全てが本当だったところでなんの不都合もない。どれだけ大げさで嘘くさい、現実離れした話であっても、その人物のエピソードとしては十分にあり得ることだ。それに、そう信じることで希望を抱けるような気がした。おそらく、そういったことを信じなくなったとき、希望は失われるのだろう。
 余計な疑問が浮かんできても、だいたいこうやって結論に達する。無理にでも前向きになれるのは彼の長所のひとつだった。前を向きすぎて足元に気づかないことは多々あるが。
 今もちょうど足を砂にすくわれてバランスを崩し、砂の上にうつ伏せに倒れこんだ。柔らかい砂の上をずっと歩いてきたからひどい疲労を覚えた。彼は倒れたままの格好で目を閉じたい気分になった。そのままじっとしているだけで、風で運ばれてきた砂がどんどん身体の上に積もっていく。
 てっきり自分は宇宙空間で死ぬのだとばかり思っていた。向こう見ずな飛行士として宇宙戦闘機を飛ばしに飛ばしまくってきた人生。もはや飛ばせない乗り物などないと断言できるほどの操縦技術を身につけ、仲間たちからも「銀河一のパイロット」などと、半ば冷やかしながらも尊敬を込めて呼ばれていた。
 もちろん彼はそんなことで鼻を高くしたいから飛んでいるわけではない。仲間たちからの信頼はうれしいが、彼はただ飛びたいから飛んでいるだけだった。才能や能力に恵まれた者の多くがそうであるように、彼もまた自分にとって至極当たり前のことをしているに過ぎなかった。飛ぶことも、自分が正義と信じているものに尽くすことも。
 そんなふうに、常日頃から宙を飛んで冒険を繰り広げてきたからこそ、自分が死ぬのはきっと、とうとう敵の光弾に追いつかれて機体が焼かれたときか、あるいは単に調子に乗りすぎてなにか誤操作をしたときだろうと思っていた。どちらにせよ、死に場所は宙だと思っていた。
 それが、こんな砂に埋もれて死ぬことになるとは。宙とは正反対の、地面で死ぬことになるとは。銀河一の飛行士が砂の上で死んだとなれば、大変な笑い話になるのではないだろうか。人からの評価などほとんど気にしたことはなかったが、しかし、自分がここで死ねば、人々がこの無様な死を笑うことのできる平和さえも脅かされてしまう。そう思うと、こんなところで、こんなことでは死ねないという気持ちが強くなった。
 あの伝説の人物のように、空を自由に駆け巡りそうな名前は、自分にはない。しかし、それでも彼は、伝説に負けないくらい精一杯生きてきたつもりだった。そして、その日々を今日ここで終わらせるつもりはなかった。
 そもそも、敵のミサイルが機体を吹き飛ばしても、自分はこうして砂漠に落っこちて生き延びたのだ。宙では死ななかった。だから彼はまだ死なない。
 拳を握りしめて、砂の地面を叩く。ずぶり、と拳は柔らかい砂に沈む。
 力を奮い起こす。もう一度飛ぶんだ、そう思うだけで自然と身体中にまだ残っていた力が行き渡っていく。
 がばっ、と上体を起こす。それまでに身体に積もっていた砂が一気に流れ落ちる。膝を曲げて地面に突き立てると、飛行士は再び完全に立ち上がった。優雅な離陸とまでは行かないが、立ち上がらなければリフトオフもできない。
 案外。
 彼はふと思う。
 案外、あの不気味な装甲服をまとった敵の兵士たちも、こうやって自分に暗示をかけて強くあろうとしているのかもしれない。
 結局兵士であることは同じか。
 そこで思い至るのは、やはりあの兵士だ。
 囚われの身だった彼を解放し、ともに脱走した敵の兵士。元敵の兵士。
 機体がやられて地表に墜落する際に、ふたりとも座席ごと放り出されたのだろう。きっと彼もこの砂漠のどこかに落ちたに違いない。
 彼にはあの兵士がいいやつだということが瞬時にわかった。終始緊張した表情で、顔はとても汗ばんでいた。緊張によって眼は少しおどおどしていたが、その瞳は澄んでいて、とても残虐な行為になど手は染められそうにない。あの兵士が例の集落への襲撃に参加したのかどうかは定かではないが、きっと村人たちの虐殺には加担できなかったはずだ。もしかすると、それが原因で離反を決意したのかもしれない。
 とにかく、あいつはいいやつだった。短い間だったが、すぐにふたりは意気投合した。狭い操縦席で背中合わせになり、ふたりは一緒にひとつの戦闘機を飛ばした。あの感覚を彼はまだ如実に覚えていた。自分が飛ばし、彼が撃つ。彼が命中させ歓声をあげると、自分もそれを褒め称えた。あんなに喜んでいるやつは久しぶりに見た。まるでふたりとも子供のようにはしゃいだ。意地悪な大人たちから宇宙船を盗み出した子供だ。
 あんなやつが敵の兵士の中にいるとは想像もしなかった。
 もっと完全に個性が抑圧され、ただひたすら命令を遂行するだけの殺人マシーンばかりだと思っていた。しかし、それもまた相手が自分たちに抱いているのと同じ種類の偏見でしかなかったのだろうか。
 あの白いヘルメットをひとつひとつ外していけば、多種多様な人間の顔があるはずだ。そして、彼らは決してマシーンではなく、人間だ。きっかけさえあれば、あの陽気な脱走兵のように、心を取り戻せるはずだ。
 そう。あの男は彼によって心を手に入れたも同然だ。名前が無く、無意味な識別番号しか持っていなかった男に、彼は素朴なものではあったが名前を与えたのだ。彼が新たな人生を与えたと言ってもよかった。そんなことで得意がったり、恩着せがましく思う彼ではなかったが、ひとりの人間を救い出せたのだと思うと、純粋にうれしかった。
 機械の相棒はもちろん、あの新しい相棒とも再会しなければならない。どうか無事であってほしい。


 惑星の主な地域や集落の位置関係は、事前に頭に入れていたものの、墜落したのが一体どのあたりなのかまるで見当がつかなかったので、途方に暮れかかっていたが、すぐに天は彼に道を示した。文字通り天が示したのだ。
 真っ青の広大な空に、一筋の軌跡が浮かび上がっていた。彼の鋭い動体視力は、軌跡の先端、ずっと上方に殺人的な太陽光を受けて銀色に輝く物体を捉えたのだった。
 地上から宇宙船が飛び立ったのだ。
 それもあの大きさと軌跡のわかりやすさからして、そう遠くない場所から。
 銀河一の飛行士である彼は、宙から愛されているようだ。そう実感して砂を踏む足に少し力が加わる。この方向で間違いない。
 果たして、一体いくつ目になるかわからない砂丘をやっとのことで越えると、視界の先には平地が広がり、ずっと前方に人工物らしいものの影がいくつか見えた。近づいていくと予感は確信へと変わった。
 あれは集落に違いない。いや、あの規模は彼が訪れた村よりもずっと大きい。巨大な建造物も見受けられる。先ほど宇宙船が飛び立ったことを考えれば、ここはこの星で唯一の宇宙港だった。
 気づけば、周囲のいろいろな方角から人影がやってきていた。みな宇宙港を目指しているらしく、よく見るとなにやら大荷物を抱えたりひきずったりしている者ばかりだった。金属板の上に荷物を載せて砂の上を引いている者もいれば、単純な動力に網や袋や板をつけて物を運んでいる者もいた。入植地が近づいてくるにつれ、方々から集まっているその荷物や、それを運んでいる者の風貌がよく見えた。ボロをまとった者ばかりで、荷物は汚らしい機械の部品ばかりだった。
 廃品漁りについても、もちろん話に聞いていた。この惑星で唯一と言っていい生業。ここで生きていくには、砂漠にある戦場跡に埋もれている宇宙船や兵器の残骸から部品を集めるしかない。昔ここで繰り広げられた壮絶な戦いはその後の銀河の運命を決定づけたが、戦場となった惑星は忘れ去られたのだった。今も巨大な宇宙戦艦の残骸が砂に埋もれ、おびただしい兵士たちの骨が故郷を夢見て眠っていることだろう。
 飛行士たちも、大勢眠っているはずだ。彼らの脚となり翼となった、今や伝説的な機体として思い返される戦闘機の残骸がその墓標となって。
 いち飛行士として、彼もその戦場跡を一目見てみたいと思ったが、今はまず相棒たちと合流し、ここから脱出する手段を確保しなければならない。
 露店や廃品の集積所のようなものがもうすぐ目と鼻の先まで迫ってくると、久しぶりの人工物に妙な感動さえ覚えた。すれ違う廃品漁りたちは彼の持つ優しさを持ってしても少し不快に感じるほど汚く、悪臭を放っていたが、それでもひとであることに変わりはない。殺風景な砂漠を実際の時間よりも長く歩いてきたように感じていた彼は、どんなものであれ人工物や知的生命体の存在にありがたみを覚えた。
 そうしてあちこち物珍しげに見回していると、人工的に作られた池のようなものが目に入った。そこには巨大な豚のような動物がいて、大きな鼻面を池に突っ込んでばしゃばしゃと水を飲んでいた。
 そう、水だ。乾燥と死の世界を彷徨ってきたので、ほとんどその存在を忘れていたが、目にした途端急に身体の乾きを実感した。彼は一目散に池に駆け寄り、豚のような大型動物と並んで顔を突っ込んで飲んだ。急に飲みすぎたせいか、それとも汚水だったせいか、彼はすごい勢いでむせた。
 家畜の飲み水に顔を突っ込んでいる彼を、周囲にした廃品漁りや露天商たちが声を上げて笑う。
「昨日も同じことをしているやつを見たぞ」
 全く聞き慣れない言葉に混じって、銀河標準語が聞こえてきたので彼は顔を上げた。そしてすぐにその声の主を探し出す。
「今なんて?」
 久しぶりに出した声は思った以上にかすれていた。「同じことをしていたって?」
 彼の只ならぬ必死な表情に、標準語を話す廃品漁りは気圧されたが、
「いや、今のあんたと同じように、そこの水をがぶがぶ飲んでむせてるやつがいたってだけだよ」
 と答えた。「あんたの知り合いか?」
 仲間、という言葉に飛行士は考えを巡らせる。きっとあいつだ。
「どんな格好だった?男か?女か?」
 彼は廃品漁りに近づいて詰め寄る。見知らぬ土地で、見知らぬ相手に全く及び腰にならない。
「男だよ。格好なんざ覚えてねえよ。いや、洒落た上着を着てやがったな。それくらいだ。だいたい、あいつのせいでこのあたりは大迷惑したんだよ」
 廃品漁りはそう言って振り返り、背後のあちらこちらを指差した。露店の残骸のようなものがあちこちにあり、焼け焦げた部品のようなものも見られる。
「あいつが来たあと、おっかねえ兵隊も来てめちゃくちゃにしていった。空襲だってあったんだぜ。あの戦闘機、似たようなやつが墓場に埋まってるのを嫌っちゅうほど見てるから、きっとあれが新型なんだろうな。まあ古いやつのほうが俺あ好きだな」
 廃品漁りの話に衝撃を受けた飛行士はしばらく言葉が見つからなかった。
 ということは、ここまで追っ手が来たのだ。
「それで、そいつはどうなった?捕まったのか?」
「いんや、まんまと逃げたよ。それも地元の女と一緒にな。ああ、あの小娘のせいで俺たちの親分もカンカンよ。あいつら、親分の船を盗んで逃げてったんだぜ」
 新しい登場人物が出てきたので飛行士はやや混乱したが、なんとか頭の中で話を整理した。
 新しい相棒、元敵兵の彼はここまでたどり着いたが、追っ手がやってきた。 
 そしてここの女と一緒に船を盗んで逃げた。
 俺が砂漠で寝ている間にそんな大冒険をしていたのか。
 そこで彼は重大なことを思い出す。
「逃げたのはそいつらだけなのか?兵隊が追ってたのは」
「いや」
 廃品漁りは言う。「丸くて転がる機械のやつもいた。というか、兵隊はあれが欲しかったらしいな。いやあ、俺もあんなのが手に入ればもう食い物に困ることはないね」
 飛行士はまたしても言葉をなくす。当たりだ。
 脱走兵の彼は、機械の相棒を見つけて保護してくれたのだ。
 彼の相棒たちは、機械の方も人間の方も無事にこの星を脱出したのだ。
 それがわかっただけでもいくらか気持ちが楽になった。
 彼らだけで大事な地図をおさめた記録媒体を秘密基地に届けてくれるかもしれない。
「わかった、ありがとう」
 彼は感極まって廃品漁りの両肩に両手を置いて、ぽんぽん叩いた。相手はこれ以上ないほど怪訝な顔をして、彼から離れていった。
「おうい、もうひとつだけ」
 こちらに背を向けて立ち去りかけている廃品漁りを、飛行士は呼び止める。「宇宙船にはどうしたら乗れる」
「そんなことできるわきゃねえ」
 廃品漁りは吐き捨てるように言った。「昨日のあいつらみたいに、盗みでもしなきゃここじゃ船には乗れねえよ」
 今度こそボロをまとった背中は遠ざかっていった。
 飛行士はその背中に向かって頷いた。
「もちろん、そのつもりだ」
 とにかく仲間たちは無事だ。無事にこの星から出ていった。自分のことを探してほしかったとも少し思ったが、きっと死んだと思ったのだろう。仕方がない。彼らはもっと重要なものを持っていて、それを届けなければならない。
 ちゃんと届けられるだろうかという不安は残るが、とにかくもうこの星で自分にやるべきことはない。早く仲間たちの後を追い、彼らとの合流を図るか、それができなければ基地に先回りして手を打たなければ。
 彼は周囲を見回し、その場所を宇宙港たらしめている唯一の要素、柵で囲まれた広い空間を見つける。あそこがきっとこの星でただひとつの宇宙船の発着場だ。
 飛行士は露店や廃品漁りたちの間を縫うように駆けていく。
 もとより出入りする船は少ない。ましてや一隻は盗まれ、一隻は先ほど彼が目にしたようにここを飛び立っていった。今、あの柵の向こうに何隻あるかはわからない。一隻だけでもあれば幸運と言えるだろう。
 と、背後に嫌な空気を感じた。飛行士の勘のようなものが、伝説の騎士たちが持っていたような特別な感覚ではないにせよ、危機を警告していた。
 というか、なんだか騒がしかった。
 走りながらも、ちらりと後ろを振り返ると、ずっと後ろの方でさっきの廃品漁りが彼を指差しており、武装した数人の男たちが彼を追いかけて来るところだった。
 彼は砂を蹴る脚を加速させた。
 家畜用の汚い飲み水であっても、飲んだおかげで少し体力が戻ったようだ。
 それとも、迫る危機が彼を走らせたのか。
 発着場の柵はもう目の前だ。見れば、ありがたいことにすぐ近くに一隻の船が見えるではないか。
 そこで彼はなにかに勢いよくぶつかった。
 硬く、大きなものに弾かれて彼は砂の上に仰向けに倒れこむ。見上げると、大柄な異星人が立っており、恐ろしげな形相で彼を見下ろしていた。顔つきからして飛行士の同僚にもいる、よく知る種族のようだったが、大変な大柄で、なによりも黄色い重機のような機械の両腕が目を引いた。その腕はちょうどなにかの大きな部品を掴んで引きずっているところだった。
 後ろから怒号が近づいてくる。
 巨体の廃品漁りにはどうやら敵意はないらしく、黙って彼を見下ろしているだけだ。彼はすぐに自分がその行く手の邪魔になっているだけであることを察し、急いで起き上がると道を譲った。思った通り相手はのっそりのっそりと歩き出した。
 飛行士は再び走り出し、とうとう柵に達した。ワイヤーを何本か横に張っているだけなので、その間をくぐって向こう側に行けた。
 一瞬振り返ると、追っ手たちが先ほどの巨体の廃品漁りに自分と同じようにぶつかっていた。追跡の手が緩んだその隙を彼は逃さなかった。目の前にある船に向かって一気に走る。
 その宇宙船は箱のようなシンプルな形で、操縦席と見られる前方部分は急な傾斜になっていた。彼はいろいろな宇宙船について知識があったが、これはその昔民間の星間旅行会社で使われていた船に似ている気がした。
 昇降路が開いていたので駆け上って中に入ると、思った通り、船内は座席がずらりと並んでいた。旅行用の船だ。前方の操縦席に向かうと、やはり予想した通り機械の飛行士が着いていた。星間旅行会社がよく使っていた、円筒型の身体に機能的な腕、ドーム型の頭部に親しみを持てる二つの丸い眼。
 彼が近寄ると、休止状態と見られた機械が自動的に起き上がった。駆動音から察するに、長い間使われていなかったらしい。
「ごきげんよう!私は当機の船長を務めるキャプテン・レッ――」
「時間がないんだ」
 彼は機械の顔に向かって指を立てて遮った。「俺に操縦を代わってくれ」
「申し訳ありませんがお客様、それはできません。当機は正規の訓練を積み、なおかつ当社が認可したパイロットでなければ――」
「追われてるんだ。やつらがここまで来たら、お前も分解されてしまうぞ」
 不本意ながら、彼は脅すような口調になった。「バラバラにされるだけならまだしも、溶鉱炉で溶かされて他の鉄くずと一緒にされるんだ」
 機械の飛行士は丸い視覚センサーを、まるで目を泳がせるように落ち着かなげに動かすと、頷いた。
「おっしゃりたいことはわかりました。私はこの船と、お客様の安全を確保せねばなりません。もちろん自分の身も守らなければなりません」
 言いながら金属の腕がせわしなく動き、船が振動した。エンジンが始動したのだ。「私が責任を持ってお客様を目的地にお運びしましょう」
 彼がそれに対して抗議する暇はなかった。船はなんの前触れもなく離陸し、あろうことか勢いよく後退した。突然のことで、彼はバランスを崩して倒れそうになった。
 船尾になにかがぶつかる。 
「おっと」
 機械が間の抜けた声を上げる。「いや、今のはなんでもありません、大丈夫大丈夫」
 飛行士が座席の背もたれを掴んで窓の外を見ると、前の方から追っ手たちが金属の棒を振り回しながら走ってくる。船が急に後退したので、急いでこっちに向かっている。
 彼は機械の飛行士に顔を向ける。
「早く発進してくれ、やつらが来る!」
「お待ちを」
 機械の腕がレバーを引く。
 今度は船がその場で滑るように一回転した。生きている方の飛行士は胃がひっくり返るような気分だった。
 このときばかりはしばらくなにも食べていないことに感謝した。
「一体なにをやっているんだ!」
 いち飛行士として、こんな操縦は許せなかった。「やっぱり俺がやる!」
 言って操縦桿を無理やり掴むと、機械の方は抵抗した。
「なにをするのです!お客様は席に着いて安全ベルトをお締めください!保安規約に反する場合は下船していただきますよ!」
 操縦桿を取り合っていると、船体が大きく傾いた。このままでは追っ手に攻撃される。
 騒ぎ立てる機械の飛行士をよそに、生きた飛行士は思い切り操縦桿を引き上げた。
 途端、船は急発進し、周囲を取り囲んでいた追っ手たちは風圧に吹き飛ばされた。一番近いところにあったいくつかの露店の屋根も巻き添えを食らった。
 砂塵が吹き上げられ、箱型の宇宙船は一気に空高く舞い上がった。
 小さな砂嵐が去ると、そこにはもう船の姿はなかった。


 星間旅行会社の旧式宇宙船は高度を上げていき、いよいよ空の終わりまで達そうとしていた。その先には星々の輝く宇宙が広がっている。
 彼は再び宙にやってきたのだ。
「私の経験の中でも、今回はスムーズな発進でした。引き続き快適な旅をお約束しますよ」
 機械の飛行士は調子のいい口調で言った。「ところでお客様、宇宙旅行は初めて?」
 彼は安堵とともにひどい疲れを覚え、くたびれ切っていたが、その言葉を聞いて頰を緩めずにはいられなかった。
「ああ」
 笑って、下唇を噛んで見せる。
「いつも初めての気分で飛んでるよ」
 窓の外に無数の星が煌めく。
 銀河一のパイロットはこうしてまた宇宙に飛び出した。
 自分の操縦ではなかったが。


 おしまい

2018年2月9日

雑記(7)

「ポケモンが楽しい」

 任天堂の過去作品をダウンロードして遊べるヴァーチャル・コンソールにゲームボーイ時代の『ポケットモンスター』が続々リリースしていて、懐かしの銀バージョンを遊ぼうと思っていたらクリスタルバージョンが出たので、これをダウンロードした。クリスタルは金銀バージョンに追加でリリースされたバージョンで、基本的なシナリオは同じだが、特定のポケモンの出現有無だったり、独自のイベントがあったりと、ところどころ違う点がある。銀バージョンはすでに遊んだことがあるので(と言っても小学生低学年の頃だが)、せっかくだからクリスタルにしたわけだ。
 今でこそ主人公の性別が選択可能なんて当たり前だけど、実はクリスタルが初だった。幅広く遊ばれている理由はこういう気遣いにあるだろう。戦闘画面でポケモンがアニメーションで動くのもこの作品が初めてだったらしい。その後ゲームボーイアドバンスやニンテンドーDSなど新機種で登場する後続の作品にも受け継がれる基本的なスタイルはだいたいここに原型があるのかもしれない。このあとに出たルビー&サファイアでのグラフィックの一新である程度スタイルが成熟したと思う。
 DSのソフトもそれまで少し遊んでいて、色数が多く奥行きの増した世界ももちろん楽しいんだけど、ゲームボーイカラー時代のレトロなグラフィックも今となっては洒脱さすら感じる。たった56色という少ない色数だが、工夫された配色で描かれたドット絵もかわいいし、なによりUIに無駄がない。別に後続作品に無駄が多いというわけではないし、意図してシンプルにしているというよりそれが当時の限度だったのだろうけれど、とにかく見やすい。操作する部分が少ない。簡潔。あまりにも記号化されている部分は自分で脳内補完する。これが楽しい。ゲームがシンプルだとかえってやり込み甲斐も出てくる。後の作品は戦闘や図鑑集め以外の要素が増えて、「やり込む」ということ自体が難しくなっているような気がする。
 最近のタイトルも含めてまだやっていない作品も多いので、ゆっくり全部遊んでいきたい。結局ぼくはポケモン世代だったか。


「うちの犬がお利口かどうか」

 諸事情で昨年の秋頃から妻の実家に預けていた犬。年明けからまたこちらに戻ってきていて、例の大雪の日も含めて毎日散歩に行く日々なんだけど、もう元気が有り余っていてすごい。綱を引く力がすごく手のひらが痛い。帰ってきてからは甘え方も凄まじく、寒いのもあってか家の中では人間にべったりだ。
 初めてのことだったけれど、その日散歩の途中で向こうから黒ラブラドールの盲導犬が主人を先導しているところに遭遇した。うちの犬は行き遭う犬のほとんどにテンションが上がってしまい、怒ってるんだか喜んでいるんだかわからないが、とにかく短い四肢を振り回してほえ声を上げるものだから、盲導犬の任務の妨げにならないものかと思って少し緊張した。
 道はちょうど一本道、住宅の塀が包んでいるだけで途中によけられる分かれ道もない。いっそのこと引き返そうとも思ったんだけど、なんだかそれも失礼な感じだなと思い、まあいざとなればこいつを小脇に抱きかかえればいいかとそのまま前に進んだ。さすがに真っ正面から向かっているわけではなく、お互いに道の中央を挟んだ両側を歩いていた。
 するとどうだろう。珍しいこともあるもので、普段なら感極まって飛びつこうとするラブラドールがすぐそばを歩いていたのに、ちっとも関心を示さずにコーギーは黙々と歩き続けた。こんなことがあるのか。相手がただの散歩ではなく、重要な任務を遂行している最中だということを察したのだろうか。
 と、普段は道ゆくひとからかわいいかわいいと声をかけられては、その声の主の方に愛想笑いを浮かべて、前を見て歩いていないからそのまま標識の支柱に顔をぶつけてしまうようなオトボケ犬なのに、お利口なこともあるものだ。いや、本当はとても頭のいい、優しい犬なのだと思っていたのもつかの間、すぐに別の可能性が思い浮かんだ。高度に訓練された盲導犬の方が、「面倒な絡み方をしてくる厄介な犬から自分の気配を消す技術」というのを身につけているのではないかと。
 まあ、たぶんそうだろうなあ。
 以前、専門施設で犬のMRIを撮ってもらったとき、彼の脳みそを見たことがある(その検査自体は具合が悪そうだったからしたんだけど、なんの異常も見られなかった)。映し出された頭蓋骨の中には、二つの眼球を合わせたのよりも小さな丸いものがあった。


「読む速度が上がった」

 単純に本を読む速度や集中力が増した気がする。
 おもしろい本、読みやすい本、肌に合う本を選べているということだろうか。しかし、それだとなかなか興味の範疇を超えたものに手を出せなくなるのだけれど。結局のところ「読み慣れているもの」を読んでいるというだけか。
 しかし乗れない本は本当に乗れないし。無理に読むことはできるだろうけど、それは好みに合わない映画を見続けるのよりもハードルが高い。映画はせいぜい2時間くらい我慢して座っていれば一応終わる。その作品からどれだけのものを読み取れるか、感じ取れるかはまた別の問題になって来るが、それでも一応2時間くらいじっとしていれば終わるのだ。それでも見たことになる。しかし、本は自分の目で追おうとしなければ読めない。黙って座っているだけでは読み終えたことにならない。全く興味を抱けない、言葉遣いが合わない、読んでいて全く自分の中でリズムが生まれてこない本を読み続けるのは辛い。まったく意思疎通が測れない相手との付き合いをだらだら続けるのと似たような疲労を感じる。
 少しずつ自分のペースで、見知らぬ本に手を伸ばしていけばいいと思う。偏ったジャンルであっても、とりあえずは読む習慣が大切だ。読むのをやめてしまうのが最も不幸なことだろう。


2018年2月5日

『アドベンチャー・タイム』について思うこと


 カートゥーン ネットワークのアニメーション作品『アドベンチャー・タイム』を観ていていろいろ思うこと気づいたことがあるのでメモ。初期から視聴していたひとや、最新シーズン含めて全部追っているひとに比べればまだまだ浅いぼくだけれど、一応自分なりの考察を記しておく。
 ああいったデフォルメの度合いや自由度が高い作品についてあんまり考察するのもナンセンスかもしれないけれど、とにかく言葉にしておきたいくらい熱がたまっているので。語り合える相手がいたらいいんだけど、それが身近にいないのでこうして書くしかない。


どういう作品でどこがおもしろいのか
 
 不思議なウー大陸で人間の少年フィンと犬のジェイクの二人組が冒険をしたり、遊んだりするお話。基本的には剣と魔法の世界で、悪党や怪物と戦ってお姫様を助けるというRPG風。なんだけど、ただ単に剣と魔法の世界というだけではなく、ほとんどあらゆるものが擬人化されていたり、ロボットやコンピューターといったハイテクが登場したりして、ほとんどなんでもありの世界観である。もちろん一見かわいらしい絵柄の中で見せられる毒も魅力のひとつだ。

 だいたいその舞台からして実は核戦争で荒廃して1000年が経った地球なのである。あんなかわいらしい世界観の設定としてはかなりインパクトがある。ちょくちょく登場する現代文明の名残とも言うべき道具や、背景で地面に埋もれている戦闘機や自動車といった要素が、カラフルなファンタジーにスパイスを効かせているのだ。

 そういう、なんでもありのようでいてちゃんと設定がある、というのがポイントだろうと思う。ただ単にカオスというわけではない。ただ単にかわいらしいだけで、全くストーリーが進行しない1話完結ものというわけではない。確実に一本の軸があり、確実に主人公は成長していて、確実にその世界にはなにか謎がある。子供のような素敵で自由な発想が溢れる世界観と、そういった一筋の旅路のような面がバランスを取っているからこそ、ここまでおもしろいのだと思う。

 それからなんといっても絵柄がおもしろい。ここ最近のCNの作品は、『スティーブン・ユニバーズ』や『ぼくらベアベアーズ』などもそうなんだけど、それまでのアメリカのいわゆるカートゥーンっぽさとは一線を画しはじめている気がする。『パワーパフガールズ』や『デクスターラボ』といった、ハンナ・バーベラの雰囲気がまだ強く残っていた初期の作品(CNはもともと『原始家族フリントストーン』や『宇宙家族ジェットソン』などのハンナ・バーベラの子会社として設立され、その流れを継いでいる)に比べると、だいぶCNとしての独自性が確立されてきたというか。それで、その中でも『アドベンチャー・タイム』のタッチはおもしろい。美しいとさえ言える。

 デフォルメされているからこその線の自由さや、綺麗な色使い。絵を描く人間、それもデフォルメが好きな人間としては注視せずにはいられないセンスである。そしてそんなふうにじっくり見ていると、背景の描き込み具合も際立ってくる。隅から隅まで楽しい絵でいっぱいだ。


懐かしさと親しみやすさ

 最初に観たときからどこか懐かしい感じがした。絵柄はかなり新鮮なものなのに、そこかしこに懐かしさがあった。
 作者のペンデルトン・ウォードによればRPGゲーム、特にその元祖である『ダンジョンズ&ドラゴンズ』の影響が強いらしく、だからこそゲームの郷愁みたいなものがあるのだと思う。それはずっと後続であるゲームボーイ世代のぼくですら感じられるもので(ゲームボーイの影響もかなり強いと思う)、限られた空間に没入して遊ぶ楽しさや、部屋で友達たちと寝転がって遊ぶ楽しさみたいなものが、作品のあちこちに込められているのだろう。

 そのほかにもウォードはインスピレーション元として、ポール・ルーベンス扮するキャラクター「ピーウィー・ハーマン」による子供番組『ピーウィーのプレイハウス』を挙げているのだが、そこもぼくが懐かしく感じるところだろう。アメリカ人でもなければ全然世代でもないのに、ぼくは子供の頃あれのVHSを死ぬほど見返していた。あのカオスで毒々しい、子供らしい暴走感や狂気は確かにATに通じるものがある。絵柄こそ従来のカートゥーンものとは違うが、しっかりアメリカ的な毒と明るさのカラーを受け継いでいるのである。思えばピーウィーのあの番組も、家具でもなんでもあらゆるものに目と口がついているもんなあ。冷蔵庫の中の食品まで擬人化されている発想には子供ながらに感動した。その冷蔵庫をはじめ、ストップモーション・アニメがふだんに盛り込まれているのがまたいいのだ。

 世代は限定されるものの、アメリカの子供たちがどういう世界を見ているのかというのを、あの番組を通して感じ取っていた気がする。実際はもっといろいろな側面があるのだろうけれど、紛れもなく『ピーウィーのプレイハウス』はぼくにとって合衆国を覗くひとつの窓だった(ちなみにプレイハウスでは窓枠もしゃべっていた)。『セサミ・ストリート』も好きだったが、かわいらしく綺麗に整えられたセサミの世界よりもピーウィーの素直な狂気の方が親しみを持てたものだ。少なくともピーウィーは子供たちにABCを教えたりはしない。

 あとは、ジャパ二メーション的演出が目立つ。これはもう製作側のコメンタリーを参照しなくとも、見ているだけでわかる。異様にキラキラ輝く瞳やレーザー光線が通り過ぎたあとに遅れて起こる爆発(マップ兵器)などは、国産アニメにあまり通じてないぼくでもわかりやすい。有名作品のわかりやすいパロディもあるけれど、きっと目の肥えたひとならもっとその特徴を見つけることができるだろう。日本アニメに限らず、他にもあらゆる作品のパロディやリスペクトが見られるわけだけれど、そういう作り手の好きなものの要素を遠慮なくどんどん取り入れている姿勢が、親しみやすさを生んでいるのだと思う。いろいろなカルチャーがごちゃごちゃになっているところもまたアメリカ的なんだよね。どこの国の影響が強いとかそういうことではなく、とにかくいろいろなもの、楽しいもの、好きなものが詰め込まれた世界観が作品を豊かにしているのだ。


ちょうどいい設定

 支離滅裂なようでいて、ちゃんと設定がある。それもかなり細かいというか、よく出来ている。同時に適度にゆるいのもすごい。創作とはかくありたいと思う。

 1話完結もののように見えてちゃんとストーリーを前回から引き継いでいる(主人公フィンがちゃんと年を取る)。それでいながら1話だけ見ても楽しめるように出来ているのがすごい(人物の相関図はある程度知っておく必要があるかもしれないけど、それも見ていればなんとなくわかるし、以前のエピソードと関連があるときはちゃんと登場人物が以前起きたことに言及してくれるからわかりやすい)。
 そもそもシーズン1の第1話からしていきなり途中から始まるからね。途中というか、とにかくなんの説明もなしに始まる。しかも、その世界独自の日常が描かれるならまだしも、ゾンビが大量発生してしまったという、まだデフォルトの日常を描いてもいないのにそれが壊される話で、とんでもない初回だったりする。
 それが前編で、後編では犬のジェイクがコブコブ星人のランピーに足を噛まれて(?)、コブコブ星人化してしまうというお話。コブコブってなんだよ。そもそもまだジェイクの紹介さえきちんとできていないのにそいつがいきなり異星人化してしまう話って。
 しかし、それがまさにあの世界独自の、普段の日常なのだ。なにも起こらない日常などウー大陸にはない。これがウー大陸のデフォルトなのだと有無を言わさずにどんどん展開していくので、こちらもそういう世界なのだとすんなり受け入れてしまう。
 『スター・ウォーズ』だっていきなり途中から始まって、有無を言わさず固有の世界が展開して、途中で終わるけど、見知らぬ世界の一部を切り取って見せられている感じが楽しいのだ。

 回を追うごとに付け足されていくバックグラウンドも、作品に厚みを出している。付け足し付け足しの設定なんだけど、それまでのものと矛盾しないよううまく付け足している感じもうまい。
 アイスキングがもともと人間で、吸血鬼マーセリンとともに1000年前の戦争直後の廃墟をサバイバルしていたとか(おじさんと少女の終末世界の旅てのはやっぱりトレンドなんだね)、プリンセス・バブルガムは明らかに見かけ以上に年を取っていて、ウー大陸の起源を知っているらしいとか、主人公フィンの出生の秘密と、彼の家族や他の人間たちがどこにいるのかとか、はちゃめちゃに見えていた世界観が、どうしてあの形になったのかがちゃんと解明していく。

 そういう掘り下げ方をすると、大抵は最初の楽しいイメージよりやや深刻なトーンに変わってしまいがちなのだけれど、ATのいいところはそこまでシリアスになりすぎないところで、秘密が明かされてこういう悲しいことがあったんだということがわかったとしても、それでも前向きさやナンセンスを忘れない。ATらしさをちゃんと保っているのである。
 

音楽

 絵柄やお話だけでなく、音楽もATの重要な要素で、魅力のひとつだと思う。キャラクターたちは本当に歌うことが好きで、ことあるごとに歌い出す。この歌がまた本当に即興っぽくて、それでいてちょっといい感じ。適当なんだけどエモい。アニメーターが作詞作曲していることが多いらしいんだけど、声優のひとも上手に歌おうとしない、即興っぽく自然に歌っていてとてもいい。上手でなくていい、そのときの気分で適当に口ずさんでいいんだ。歌ったり踊ったりすることの本来の楽しさを教えてくれる。
 音楽のくだりはカセットテープやウォークマンといったローテクが登場するのも楽しい。
 どの曲も好きだけれど、ジェイクとマーセリンの曲は特にどれも好きかな。特にジェイクの「ベーコンパンケーキの歌」が好き。ジェイクの歌は本当に思いつきで口ずさんだみたいな感じのものが多いんだけど(「ベーコンパンケーキの歌」なんて、フライパンでベーコン焼きながら一瞬歌うだけ)その短さがちょうどいい。それくらいでいい。
 マーセリンの曲はとにかくどれもエモい。ヴァンパイアというだけあってゴスパンクのスタイルなんだけど、曲は全然暗くてなくて、切なさとパワーを感じさせる。パパが自分のポテトフライを勝手に食べちゃって本当にありえないという歌や、バブルガムへの複雑な感情を歌ったものは特にテーマソングと言える。1000歳のヴァンパイア・クイーンだけど、いつまでも年頃のゴスなのだ。


英雄は右腕を失う

 勇者や英雄の典型がモチーフになっている主人公のフィンだが、基本的に彼は右腕を失う運命にあるらしい。
 並行世界のフィンや、夢の中で年を取ったフィン、さらには前世であるショウコなど、フィンの別パターンに当たるキャラクターは皆右腕が義手である。前世から義手というのはもはや宿命だろう。フィン自身は父親との出会いによって右腕を失うことになる。父親との出会いによってだ。
 ルーク・スカイウォーカーを連想するなという方が難しい。もしかすると古くから英雄の典型像として、隻腕というのがあるかもしれない。それについてはまた調べたいけれど、とにかく間接的にとは言えほとんどお父さんのせいで右腕が取れちゃう(本当に取れちゃう感じ)というのはルーク的である。その後取っ替え引っ替えいろいろな義手を試すものの、うまく日常生活を送れず「パパのせいなんだからなあ!」と怒ったりするのがかわいい。
 ちなみに吹き替え版で声を当てている声優さんと関連して『鋼の錬金術師』の主人公を連想したりもする。あちらも義手でブロンドだ。
 
 ぼくは元来英雄や勇者といったキャラクター像があまり好きじゃないというか、興味ないのだけれど、このフィンに関してはかなり好き。根がゲーム好きの少年みたいな感じで親しみが持てるからかもしれないけど、全然ハンサムじゃなくて、結構コンプレックスがありそうなところもいいのかな。ちょっとおデブなところと、動物の被り物をしているのもいい。
 それでいながら中身は本当に非の打ち所がないほど勇気と正義感でいっぱいである。そして基本的にめちゃくちゃ強い。このあたりはやはり勝ち続けることが前提のビデオゲームの主人公要素が強い気がする。たまに負けたり失敗するんだけど、大した努力もなしにすぐリベンジを果たしてしまう。この無敵感と、たまにうじうじ悩んだりするところのバランスが非常に魅力的な造形になっていると思う。
 フィンのような友達が欲しい。


わけありプリンセス

 プリンセス・バブルガムもまた、一見典型的なお姫様のようでいて、そうではない。前述の初回エピソードの時点からすでに科学者であることが示され、非常にオタク気質である。そのことが関係しているかわからないが、統治者としても管理欲が強く、自分の王国と国民を守るため強硬手段に出ることも多い。というか実質的にほとんど独裁者である。
 というのも、どうも王国の成り立ちからしてバブルガムは本当にひとりで全てを築き上げたらしい。国民であるキャンディ・ピープルたちもバブルガムの手によって生み出された、言わば彼女の子供たちである。それを守りたいという気持ちが強いのも頷けるというものだ。

 物語を追っていればわかる通り、ボニベル・バブルガムは19歳などではなく、実際にはマッシュルーム戦争後のおよそ1000年前(マーセリンと後のアイスキング、サイモンの冒険よりは少し後か)からウー大陸で活動している。最近の、ぼくがまだ見ていないエピソードの断片的な情報によれば、どうやら核戦争後の廃墟の中を『フォースの覚醒』のレイよろしく終末的装備でサバイバルしていたらしく、そこでキャンディ・ピープルを作り出し、王国の原型を築いたと見られる。
 フィンの前世であるショウコの冒険が描かれるエピソードでは、ショウコが王国建設中のバブルガムと出会っている。悪者に雇われていたショウコは不本意にも親しくなったバブルガムのお守りを盗むが、緑色のいかにも有害そうな川に転落して死んでしまう(跡形もなく溶ける)。バブルガムは城を建設しながらもこの、恐らくは核戦争によって出来た川を、ピンク色のキャンディの川へと浄化していた。彼女は荒廃した土地を自らの手でキャンディ王国に作り変えたのだ。
 「わたくしの王国ではもう誰も飢えたりしない」というセリフ(厳密には少し違ったかもしれないけど)も印象的だ。戦争後の廃墟を生き抜いてきた彼女にとってキャンディ王国はようやく手に入れた我が家であり、家族であり、二度と過酷な世界に戻すものかという強い意志があるのだろう。

 
バブルガムとマーセリン

 なんでもカップリングするひとはいるもので、当然ながらこのふたりの組み合わせも「バブリン」などと呼ばれていたりする。
 バブルガムが戦後からずっと生きてきたことがわかると、1000歳であるマーセリンとの関係もぐっと近いものになる。ほとんどふたりは年が変わらなかったのだ。
 ピンクと黒、光と闇というようにまるで対照的なふたりだけれど、バブルガムは一見明るくも実は暗い一面があり、マーセリンも実は見た目とは裏腹の優しさを持っている。とてもいいコンビだと思う。
 マーセリンのあげたバンドTを寝巻きにしているバブルガム、バブルガムのかわいいセーターをいつの間にか着こなしているマーセリンなど、服を交換しているバブリンはめちゃくちゃかわいい。


 とりあえずこんなところかな。なんとこの作品、今年終わってしまうらしい。なんでも続き続ける昨今、潔いにもほどがある。クライマックスを迎えていろいろなことが明らかになるかもしれないが、しかしやはりATらしい雰囲気は健在だろう。プライム・ビデオで見られる範囲しか見てないけど、応援していきたい。

2018年1月29日

雪が降って一週間



 千葉県南部の生まれなのでやはり大雪はテンションがあがる。あっちでは雪なんか積もるとして数ミリ地面に膜を貼る程度でしかない。
 東京の大雪もこれが初めてではないので、もうそんなに新鮮味はなく、どこにも行かず(こういう仕事で本当によかった)家にこもって3DSにダウンロード版として復刻された「ポケットモンスター クリスタル」などやって過ごしていた。一気に小学生の頃の冬休み感が出る。

 結局この一週間、積もった雪は溶けきらなかった。先週は本当に、道の両側に残った雪の間を吹く風が冷たくて辛かった。道も雪かきをしてあるところのほうが少なく、積もった雪の上を大勢が踏み固めてしまい完全に凍結していた。犬も雪が降っていた夜や翌日の朝ははしゃいでいたが、そのあとはもう冷たい氷の地面を避けるように歩いていた。車通りの多い道路脇の雪も真っ黒になるだけだった。

 住宅街、それも大きめの立派な家が建ち並ぶ通りほど雪かきは手付かずな印象だった。そんなことで立派な家に住んでいるひとたちのイメーイを決めつける気にはならないが、それでも歩くところ歩くところそういう感じだった。というか家の出入り口の前すらもなにもされていない。
 どうしてだろうと思ったけれど、雪が降ったのが月曜日だったから、週末になるまで雪かきをする余裕などなかったのだ。週末になるとようやくガシガシとスコップで地面を削るひとたちが現れたけれど、もはや雪というより氷なのでそれはもう大変そうだった。雪かきではなく掘削だった。これが木曜日とか金曜日に降って積もっていたら、ここまで放置はされないですんだのになあ。要するに立派な家に住んでるひとたちは平日懸命に仕事をしているのだった。犬の散歩してポケモンで遊んでるぼくとは違うのだ。
 
 道はどんどん元どおりになっていて、乾いた地面がいかに歩きやすいかを実感しているわけだけれど、植え込みとかはまだ積もったままの綺麗な状態で雪が残っていてかわいらしい。並んだ木のてっぺんに少し雪が残っている様子は、みんなで帽子をかぶっているようだった。

2018年1月27日

実は通しでちゃんと観たことない映画

 結構ある。多分正直に全部列挙していくと呆れられると思う。まして今や雑誌に映画レビューの連載を持っていて毎週新作の試写に通っているような人間が、あれもこれも観たことないなんて許されるのか?と思われるかもしれない。
 でもさ、有名すぎて、お馴染みすぎて、シンボル的すぎて、ちゃんと観たことなくてももはや風景みたいになっている映画というのは多いじゃないですか。『スター・ウォーズ』にしたって多くのひとにとってはそうだと思う。あまりに有名すぎて逆に観る機会のない名画は多いのだ。


『ジュラシック・パーク』

 ひと通り最後まで観ているとは思うのだけれど、恐竜の島でパニクるという以上の細かいディティールは全然覚えていない。最近になってサミュエル・L・ジャクソンが出ていたことを知った。『最後のジェダイ』の、カジノ惑星での一連の騒ぎで、脱走して大暴れする競走馬のようなクリーチャーの接近を示す演出として、テーブルの上に置かれたグラスが振動するというシーンがあるのだけれど、あれはこの映画へのオマージュらしい。コップに入った水が揺れることで恐竜の接近を知らせるというシーンで、フルCGの恐竜が目玉である作品で、特殊効果を一切使わずに単純な小道具だけで巨大な恐竜の接近を表現するという工夫により有名なシーンらしい。覚えているわけがない。そして特定の元ネタと言えるほど特殊なシーンに思えないのだが、どうなのだろう。まあ、ローラ・ダーンが出てるからね。


『ターミネーター』4作目以外全部

 2作目すらちゃんと観たことがない。子供の頃の印象だと、明らかに2作目の放映頻度のほうが高かったので、1作目よりは観たことがある。悪いやつが警察官に化けて主人公の少年を追ってくるというのが、子供心になかなか怖かった。子供にとってはお巡りさんといえば一番わかりやすい正義の象徴で、困ったときに頼るべき存在だ。しかし、助けてくれるはずのお巡りさんが悪いやつなのだ。これは絶望しかない。そこから妄想が広がり、早くも小学生の頃から「悪を取り締まるはずの体制が悪だったらどうしよう」という子供には手に余る不安を抱えてしまい、そのまま陰気なパラノイア的人間に成長した。なんの話だっけ。
 4作目だけは何故か観たんだよね。ちゃんと全編。クリスチャン・ベイルが主人公で、ヘレナ・ボナム=カーターなんかが出ていた。ロボット兵士が人類軍の人間の服をかぶっているのが狡猾で怖かった。
 ちなみに『ロボコップ』三部作は全部観ている(このあいだリブート版も観た)。あっちのほうが好みらしい。


『もののけ姫』

 この作品に限らずジブリ作品は観たことのないもののほうが多いと思う。『となりのトトロ』も結局今に至るまで通しで観たことがない。『天空の城ラピュタ』と『紅の豚』は好きかな。
 両親の趣味じゃなかったから、というのがたぶん触れる機会のなかった要因だろうと思うけれど、別に親が興味ないものでも子供はどんどん開拓していくものだから(自分の世代だとポケモンとか)、たぶんぼく自身も興味がなかったのだろう。
 いやこれも話すと長くなるんだけど、友達の家に行くとさ、なんか急にそこのお母さんがジブリのビデオを流し始めるんだよ。それでみんなで見始めて、すごいはしゃいでるわけ。でもぼくはついていけないんだよ、知らないし。で、なんとかしてついていこうと必死に画面を追っていくんだけど、出てくるものといったらでっかいイノシシで、これが『ライオン・キング』のプンバアとは似ても似つかない気持ち悪さで(プンバアも虫をばくばく食べるから気持ち悪いと言えば気持ち悪いんだけど)、案の定ぐちゃぐちゃぐちゃーってなる。でも他のみんなは超おもしろがってるんだよ。おもしろがってるならなにも言えないし、むしろ乗れない自分がおかしいのかなと思ったものだ。
 いずれにせよファーストコンタクトが不幸だったのだろう。そこのお母さんがまずぼくのこと何故か目の敵にしてたというのが一番大きい。そうして「ジブリを観るのが健全」というような態度も気に食わなかった。そりゃぼくも大好きな『ピーウィーのプレイハウス』が健全とは思わないが。
 大人になってから、作り手の思想や絵の丁寧さを、絵を描く人間として観察できるようになるとだんだん和解(こっちが一方的に避けてきただけなんだけど)できるようになったけれど、それでも未だにあの、ぞわぞわぞわーっと動く感じが苦手だったりする。あの丁寧な作画が魅力でもあり、高く評価されるところなのだろうけれど。
 

『アラジン』

 個人的にジブリとディズニーを並列することにすごい抵抗があるんだけど、まあアニメというくくりで比較するのであればやはり自分はディズニー派の子供だったのだろう。と言うのも、幼稚園の先生にすごいディズニー好きのひとがいて、かなりの頻度でディズニー映画を観る時間があった。あそこで触れたのがかなり大きい気がする。親しみやすくデフォルメされたフォルム、滑らかな動きに楽しい音楽、派手なユーモアがよかった。のちのぼくの映像や絵の好みに多大な影響を与えていることは間違いない。あの上映会がなかったら知らなかったものも多かったんじゃないだろうか。『王様の剣』とか。王道ばかりではなく結構渋いところもチョイスされていた気がする。ネズミがカモメに乗って冒険するやつとか、なんて言ったっけ。
 で、世代的にはネオ・ルネサンス期ど真ん中なので、当然そのあたりの作品も見せられて、『アラジン』とかも観たんだけど、『美女と野獣』はすごい引き込まれて夢中になったものの、どうも『アラジン』は細かい筋書きを覚えていない。ランプの魔人がとにかくふざけていて、そのテンションに子供としてはハイになったものだけれど、どういうふうにお話が展開していったかは記憶にない。でも最終的にアラジンがジーニー自身を自由の身にしてやって終わる、みたいなところは覚えている。なので、ぼくの中ではアラジンがランプの魔人と出会って、自由にしてやる話となっている。間違っちゃあいないと思う。あ、でも悪役に飼われてるオウムとか好きだな。
 この前母に、なんで90年代のディズニーの定番を、ちょうどぴったりの時期だったのに見せてくれなかったんだと聞いたら、「『アラジン』とか『リトル・マーメイド』とか、定番すぎて逆に思いつかなかった」らしい。『101匹わんちゃん』とか『ムーラン』は見せてくれた。十分だ。


『未知との遭遇』

 これについては全く予備知識がない。R2-D2がどっかにいるんだっけ。本当にその程度。勝手に「すごく大人っぽい綺麗な『マーズ・アタック!』」みたいなイメージを持っているがどうだろうか。
 

『E.T.』

 わかった、スピルバーグの名作SFをちゃんと観ていないのだ。しかし、『E.T.』は中学の英語の授業で観た。主人公がオールド・ケナーのSWフィギュアで遊ぶシーンに大興奮してクラスメイトたちを困惑させたのを覚えている。ハロウィーンのシーンでもヨーダが出て来て大騒ぎをした。こいつはなんで肝心の宇宙人との邂逅そっちのけで違う映画の話をしているんだと思われたことだろう。
 授業で映画を見せてくれる教師というのは非常に好感が持てて、そういう機会こそ貴重だなとは思うのだけれど、いかんせん授業の時間と映画の尺はうまく合わない。ふたコマ使っても半端なところで中断してしまう。そして3コマ使う勇気までは、先生にもなかったりする。その『E.T.』上映会も結局、クライマックスを残してお開きとなった。大人たちの包囲網から自転車で逃げるところで終わりという、ほとんど生殺し状態だった気がする。そんなわけで宇宙人が故郷に帰ったかどうかを見届けずに13年が経った。ここまで来るとなんとなくそのままにしておきたくなる。
 

『風と共に去りぬ』

 これも高校の世界史の授業で、教師が映画好きということもあって視聴覚室の大きな画面で観たんだけれど、やっぱり時間が合わなくて本当に途中までしか観れなかった。そしてやっぱりちょっと普通の高校生くらいには退屈のようで皆もあまり集中していなかった。


『ローマの休日』

 このあたりになってくるともう映画というより教養みたいになっているところはあって、そういう映画は山ほどあるけど、いちばん思い浮かぶのはこれ。いつだか入ったカフェの白い壁に延々映写しているのをぼんやり観たことはあって、なんとなく内容はわかった。しかし、ぼくはどうもお店で映画が流れてると、たとえ音声がなくてもじっと見入ってしまうので向かいに座っているひとたちとの会話が疎かになってしまう。


『ティファニーで朝食を』

 本当に恥ずかしいのだが、カポーティの原作は大好きなくせに映画版をこれっぽっちも観たことがない。映画史におけるアイコニックなイメージはもちろんある。聞くところによれば全然本とは別物なところもあるらしいので、そういうこともあって観たいという欲求が弱かった。「ムーン・リバー」は良い曲だと思う。
 ちなみにヘプバーンものは『麗しのサブリナ』なら観たことがある。


『マトリックス』三部作

 申し訳ないけど群を抜いて興味がない。下手をするとトトロ以下かもしれない。子供の頃新作公開で盛り上がっていて、一作目のテレビ放映もあったけれど全然入れなかった。今観れば結構行けるのだろうか。
 『クラウド・アトラス』がすごく面白かったので、『マトリックス』もちゃんと観ればわかるのかもしれない。


『ロード・オブ・ザ・リング』及び『ホビット』シリーズ

 当方『ハリー・ポッター』派ということもあって(両方好きなひとももちろんいるだろうけれど)こちらには全然入り込めなかった。子供の頃話題のシリーズだったのでやはりテレビ放映を観る機会はあったものの、地上デジタル化以前の実家のテレビの映りが非常に悪かったり、さらに暗い画が多いこともあってわかりづらかった。同世代のティーンエイジャーたちが魔法学校で活躍する物語に夢中だった身としては、完全に現実と隔てられた世界でのやや重厚な物語はとっつきづらかった。
 とは言えそのベースはSWと同じ王道だし、当然ハリポタもまたトールキンの影響下にあると言えるので、全く興味がないわけではない。むしろトールキンの創作に対する熱意のようなものには非常に憧れる。神話を作るとはああいうことだ。
 このシリーズに限らず古典的なファンタジーに今ひとつ興味を持てずに来てしまったけれど、カートゥーン ネットワークの『アドベンチャー・タイム』を通して剣と魔法の世界の魅力をなんとなく感じつつあるので、少し触れてみたいなとは思う。その手のRPGもやったことがないからねぼくは。


『タイタニック』

 テレビでやるときはだいたい二夜連続で、序盤で潜水艦が残骸を探ったり、デカプリオが賭けかなにかに勝って(腕相撲だったような気もする)滑り込みで豪華客船に乗り込むくだりまでは観るのだけれど、子供としてはもう船が沈みはじめるまで退屈なわけ。それで他のチャンネルを観たりして、たまにチャンネルを戻しては「まだ沈んでないのか」と再びザッピングする。沈みはじめたら沈みはじめたでパニックの様子がすごく怖くて、夏休みに東京湾フェリー乗るときに氷山との衝突の可能性に怯えたりする。
 ちなみに『親指タイタニック』はちゃんと観ている。おもしろい。蜘蛛のシーンは怖かった。あ、そうだよ、それで主人公が指相撲に勝って船に乗るから、多分オリジナルも腕相撲だよきっと。


『ジョーズ』

 やっぱりユニバーサル・スタジオの目玉作品をまともに観てないんだよな。ビーチでみんながパニクるシーンとか、もげた脚が水中を漂うシーンとかはやはり覚えている。そんなおっかない映画を夏休みに入る時期にやったりするから、それから浜辺とかに遊びに行くのがとても怖かった。あとは樽のようなものを海に落としていって、それが爆発するシーンとか。樽が爆発してるのか、樽を目印になにかを撃ち込んでいるのかはわからない。
 USJのアトラクションも怖かったなあ。でもああいうアクシデントにより本来のものとは違ってしまう体のツアー型アトラクションはおもしろい。


 もっとあるんだけど、だから全部挙げていったら膨大でこいつ結局なんにも観てないじゃんということになるのでこれくらいに。いやあ、映画って本当にいっぱいありますね。

iPhoneケース


 FRAPBOISコラボのシリコンiPhoneケース(8/7/6s/6対応)がギズモビーズより発売となりました。全6種。コレクト・ゼム・オール!
 大きなキャラもののシリコンカバーが好きなので非常にうれしいです。


 特にコーギーのフォルムをそのままiPhoneケースにしたものがあればいいのになとずっと思っていたので、自分の絵で実現してよかった。フォルムありきなのでこれだけダイカット。


 6種の中でペンギンが2種類あるのもいいですね。翼の部分など飛び出した部分は結構厚みがあるので、使っているうちにちぎれる心配はないと思う。


 いちばんFRAPBOISらしいのはこれでしょう。なにげに珍しく人間キャラがいるのもポイント。本当に細かい線の具合までそのまま再現されていてすごい。あんな真っ平らな絵がこんなにちゃんと立体になるとは。

ギズモビーズ、SAC'S BARの店舗で購入できます。

2018年1月26日

営業報告



「SPUR」(集英社)2018年3月号の「銀幕リポート」第24回では、ポール・キング監督の『パディントン2』を紹介しています。 前作よりさらにかわいくなってクマのパディントンが帰ってきた!悪役のヒュー・グラントが最高です(前作はニコール・キッドマンだったので尚更)。サリー・ホーキンスもお美しい。公開中。



「婦人公論」(中央公論社)2018/2/13号ではジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第23回の挿絵を描いています。



「小説NON」(祥伝社)では、2018年2月号から新スタートした原宏一さんの連作に挿絵を描くことになりました。 挿絵、大きいです。

2018年1月18日

雑記(6)

「SWサイト」

 思いつきで土台を作ったものの、なにも作らず放置しているSWサイト。超新星のような『最後のジェダイ』公開でぼくの中のなにかが一気に弾けたのか、最近なんとなく熱が安定していた(決して冷めたわけではない、そんなわけなかろうが)。爆発のあとで、改めて自分のSW観を整理するのもいいかもしれない。『最後のジェダイ』という作品によってSW神話そのものも一度壊され、再構築されたように思える。
 リセット、というほどではないが、原点に立ち戻って最初からもう一度考えたいなどと思っている。SWサイトをいちから作るのはそのいい機会だと思う。
 整合性とか見栄えとか体裁とか、そういうものを一切気にせず、とりあえず基本的な目的であるところの、このブログで書き散らしているものや、描いてきたイラストのアーカイブから着手することにしよう。まずはすでにある素材をまとめていく。それからそれぞれを関連づけたり、体系的に整理していけばいい。
 ビギナーに知識を授ける上からオタクにはなりたくないが、それでも基礎的な案内は欲しい。SWの入門ものは当然ながら世の中にたくさんあるが、ぼくなりの見方みたいなものは示したい。教える、なんて偉そうなものではなく、あくまで紹介というようなニュアンス、ぼくはSWをこういうふうに観ているというエッセイ。
 

「2時間制になっています」

 近所のケーキ屋さんの前を通りかかるたびにガラス戸に大きくカメラに赤い斜線の走ったピクトグラムが貼り付けられているのが見える。ピクトグラムというのはその図形だけで意味がわかるというものだったと思うけれど、その図形の下にはさらに「撮影禁止」という文字が走っている。こういう二重の表示をなんと言うのかは忘れちゃったけれど、とりあえずそれがものすごく大きく貼り付けられているのでケーキ屋さんの店構えを台無しにしている。
 撮影を禁止しているという表示そのものが、うちはそれだけ写真に撮りたくなるかわいいケーキを作っているのですというアピールに感じられて、はっきり言ってとてもダサい。言うまでもなくそもそも野暮ったいお店なのだけれど、さらにひどいことになっている。ここに越してきたばかりの頃、試しに一度ケーキを買った記憶もあるけれど、どういうケーキでどういう味がしたかはもう忘れた。そして別に店内も、ケーキそのものも写真に撮りたくなるようなものではなかったと思う。禁止されるまでもない。
 同じような話で、なんとなく適当に入ったお店で席に着くなり「2時間制になっています」と言われることもあるのだけれど、そういうお店に限って別に2時間いたくなるような店でもなんでもない。食べ終えて一息ついたらもう十分です。1時間もかからない。もちろん食事が出てくるまでにどのくらいかかるかわからないけれど。もしそれが1時間かかるのであれば、まあちょうどいい時間なのか。
 写真に撮りたくなる、2時間以上長居したくなるようなお店をつくってから言って欲しい。


「紙の質感」

 学生の頃はなんとなくその手触りと、水彩絵の具の乗り方からマーメイド紙が好きでずっと使っていた。硬さもいいので切り取ったりして遊ぶのにも向いている。色はナチュラル。真っ白でもなく、そこまで黄ばんでもいない色で、描いたものに温かみが感じられる。
 ところが、美術学校を卒業して2年くらいはあまりお金が無かったので(この頃の話をいい思い出として書けるようになるのはいつ頃かまだわからない)だんだん画材も安いものに切り替えたりするようになり、凹凸のある紙はどうしても線に癖が出たりもするので、もっと平坦な線が描け、安価で普遍的なケント紙を使うようになった。絵を描いたりしないひとでも聞いたことがあるであろうこの紙もやはり汎用性が高い。絵も描けて工作にも使える。安い。大抵どこでも売っている。
 というわけで、これまでウェブにアップし続けた絵のほとんどがケント紙に描いたものだった。
 ぼくは基本的に紙に線画を描いて、それをスキャンしてコンピューターに取り込み、フォトショップで線画だけを抽出し、線画のレイヤーを一番上にして下に敷いたレイヤーに色を塗るという、非常に単純でなんの工夫もない方式で描いている。
 結局デジタル上で線画だけにしてしまうので均一かつ平らな線が描けるケント紙で十分だったのだけれど、ふと真っさらなまましまってあったマーメイドが数枚出て来たので、試しにいくつかちょっとしたものを描いてみると、これがとてもいい感じの線になった。凹凸のある紙の表面でインクが独特の震え方をする。決してペン先がコントロールできないというわけではなく、思い通りに引いた線が、さらにいい強弱がつくのだ。それはデジタルに取り込んで線画だけ抽出したあとでも、紙の質感を伝えていた。その線の走り方は、紙の凹凸に従ったものなので、線画だけになってもそこには紙の表情が残っているのである。考えてみれば当然のことだけれど、自分では驚きの発見だった。実感として知れたのも大きい。
 デジタルに取り込んだあとでもどれだけアナログな絵の雰囲気を残せるか、出せるかというのをずっと考えていたから、このように線が紙の質感を伝えられるというのがわかったのはうれしい。ケント紙で描いた線画には、いまひとつどこか質感が欠けている気がしていたのだ。質感の少ない紙だから当たり前で、それはそれで利点はあるのだけれど、このたびの発見で絵としての存在感がもっと出せそうな気がする。
 問題は凹凸のある紙は繰り返し消しゴムをかけていると汚くなること。書き直すことの多い、映画の感想とかはケント紙のままのほうがいいかも。


「木で出来てると思った」

 ぼくは結構地黒なので、それはもう中学高校でそのことを揶揄されたものだ。今でも友達がたまにふざけてそのことを指摘するし、生まれたばかりのぼくの姿を見た父親は「あまりに茶色いので木で出来てると思った」らしく(失礼極まりない)、本人がそれをまだ覚えているかどうかは知らないが(多分覚えてない)、それを聞かせたら妻は大笑いしてそれを気に入った。木で出来た赤ん坊って、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』か。
 今では自分の容姿に対しては自信と愛着しかないが、思春期ではなんでも気になるものだ。今じゃ自分の身体で気になるところといえば肩こりと腰痛くらいで、パーツの全ては自分を構成するものとしてなにひとつ不満がない。これが自分である。これだから自分である。
 とかくこの世の中は色白をもてはやして色黒や地黒を悪く言う傾向にあると思う。悪く言うというか、残念なものとしているというか。試しにグーグルの検索欄に「地黒」と打ち込むと、地黒のひとが色白になる方法とかがずらっと出てくる。まったく、一体地黒のなにがいけないんだろうと思う。どうしてそこまで白い肌にこだわるのだろう。漂白願望が強い。
 浮世絵とか、昔の日本画でひとの顔が全部白いのと関係があるのだろうか。ぼくが思うにあれは「わざわざ塗るまでもないから」白いのだと思うのだけれど。日本の絵というのは結構そういう、なにもないところは描かない塗らないみたいな傾向が強いよね。そういうのは今日のイラストレーションの世界にも根付いていて、特に流行りのイラストレーションにも肌の色が省略されているものは多いと思う。それはもしかしたらある意味フラットかつニュートラルなのかもしれない。
 ちなみにチャーリー・ブラウンはあれで実は髪が生えていて、作者のシュルツ曰く「わざわざ塗るまでもないほど透けるように綺麗なブロンドだから」あのような造形になっているのだとか。妹もブロンドだもんね。
 「美白」という言葉に結構罪深いところがあるような気がする。あんまり言葉のせいにはしたくないが、白い肌こそ美しいというような前提が出来てしまっているのがどうしても気になってしまう。
 そして、そういうのは他の国のひとへのスタンスにも表れていると思う。ちょっと色の濃いクラスメイトに対する、「自分たちより色が濃い」という感覚を、それがスタンダードである人種のひとに対しても適用しちゃいがちというか。地黒を残念がったり笑いの種にしたりするのは、結局そういう無神経さを生んでしまうのかもなあと少し思った。
 ところで昨年末に件の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のキャラクター、ベビー・グルートの等身大フィギュアが届いた。等身大と言ったって30センチくらいの大きさ。劇中通りの大きさなので、これでもライフサイズである。かつて木で出来た赤ん坊と言われた身からすると、非常に親近感の湧くキャラクターである。

2018年1月8日

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」


 生きた動物への憧れや、電気仕掛けの模造動物の描写のほかにも、映画にはなかったマーサー教という要素がおもしろかった。人間とアンドロイドの区別に用いられる共感能力が、この未来の宗教によって強調されて興味深いのだけれど、非常に精神的な描写なので映画では割愛されてよかったと思う。
 動物の描写で虚しくなるのは、なんといってもイジドア君(映画におけるセバスチャン)が衰弱して死にそうな電気猫を修理しようとするシーン。電池ボックスだか機構部だかの蓋を開けようと毛皮の中を探るもなかなか見つからず、ぐずぐずしているうちに猫は絶命してしまう。そう、猫は本物だったのだ。それでもイジドアはそれをよく出来ている高級の模造品だと思い込む。イジドアの少し抜けた感じももどかしいのだけれど、それでも彼に少し同情を覚え、とにかく猫がかわいそう。
 人間とアンドロイドの違い、境界が曖昧になり、自分たちの存在に自信が持てなくなるというのがこのお話の肝なのだけれど、動物と模造動物の境目もここまで来るとあやふやになってくる。本物そっくりで、その必要もないのにリアルさのためにわざわざ病気で苦しんだりして見せる電気動物を、本物同様にかわいがったり、ご近所に本物を飼っているように見せかけたり、あるいはそもそも模造だと知らずに、本物の動物だと思って飼っていたり。その一方でイジドアみたいにどうせ全部模造だろうという前提で動物と接している者もいたりする。
 人間とは何か、なにをもって人間なのかという疑問の前に、生き物とは、生命とは何か、みたいな問いもあるように思える。

2018年1月6日

雑記(5)

「初詣」

 この4年ほど、初詣は神田明神にお参りしている。初めてお参りして商売繁盛のお札を部屋に置いてからというもの、それ以降どんどん仕事が増えているので、サボるわけにはいかない。いや、そんな動機でお参りするのもどうなのかと思うけれど。それに将来どこか遠くへ引っ越してからも、ずっと正月のたびに神田明神に来なければならないのか。
 今年はひとりで行ったのだけれど、ひとりであの参拝の行列に並ぶのって結構きついものがあるとわかった。妻が一緒ならふたりであれやこれやとりとめのない話をして過ごしたりできるが、ひとりだと話す相手もいないので、ひたすら周りの人々の聞きたくもない会話が耳に入ってくるばかりで、いやでも周囲が気になる。これで4度目の初詣になるが、来ている時間帯がいつもばらばらなので混み具合は比較できないが、それでもどこかガラの悪いひとたちが増えた気がする。犬連れも多かった。別にいいけど。
 寒空の中、5時前にはもう真っ暗になる。とにかく脚が、足先が冷える。寒さとストレスでだんだんなんのために並んでいるのかわからなくなる。いや、本当になんのためなんだ。縁起のためか。でも縁起ってなんだ。どうしてこうも毎年毎年盲目的に、思考停止して自動的に通っているのだ。だいたい普段から神社も寺も教会も墓場にも寄り付かない人間が、元旦にだけこうやって調子よくお参りして意味があるのか。むしろずるいのではないか。毎日毎日お参りしているひとに悪いじゃないか。日頃から熱心なファンをさしおいて、『スター・ウォーズ』の公開初日のチケットを買い占めてしまうミーハーのようで悪いではないか。それが超うざいことはぼくにはよくわかる。
 なあんてことを思っていては縁起もなにもないのだけれど、とにかく列が進んでぼくの番がまわってきた。小銭を投げて礼をしたり手をたたいたりして、また礼をしたりしてプロトコル完了。ひとが多すぎてそのあとどこへどいていけばいいのかわからないが、なんとか群れから離れてお札やお守りの授与所へまわる。しかしこちらもひとが多すぎてぐちゃぐちゃである。前の方に来てみると並べられていたお札がいくつも地面に落ちていて、気づいていない参拝者たちに踏みつけられているではないか。おばちゃん、一生懸命お守りを選んでいるようだが知らぬ間にとんでもないことをしている。教えるべきなのだろうか。しかし教えたところで、このひとはすごい罪悪感にとらわれて元旦から気分が台無しになってしまうかもしれない。知らぬが仏である。神社だけれど。おばちゃんが立ち去ってから急いで落ちているものを拾って陳列台に置く。


「リボルテック」

 お参りが済むと、毎年恒例の秋葉原散策である。もちろんお参りが一番大事だけれど、そのあとで秋葉原でいろいろ見て回れるからこそあの行列も耐えられる。電気街は元旦から物を売りまくっていた。物、物、物。生きる上でなんら必要ない物で溢れかえっている。でもその意味の無い物の中がなんとなく落ち着いたりもする。目にするだけで不快な物も多いが。
 なんであれ『スター・ウォーズ』の中古フィギュアを漁るのは楽しい。新製品が並んでいる光景より胸がわくわくする。いろいろな時期のものがごちゃごちゃになっているし、欲しいもの、なおかつ安価でおもしろいものを探し出すのが楽しい。ただの買い物よりも宝探しのような感じさえする。
 元旦から早速見つけたのは1995年製のR2-D2の3.75インチ・フィギュア。ハズブロ傘下のケナー製品である。幼少の頃に買ってもらったもののひとつで、紛失していたので取り戻した。これでC-3POもR2-D2も最初のコレクションが再現されたわけだ。最初のものをそのまま持ち続けられたらよかったのだが、どっちみち状態はひどかった。
 数百円でそれを買った以外は特にいいものは見当たらなかったけれど、もう少しまわってみようとあちこち歩き、上下移動を繰り返した末にガラスケースの中で前から気になり手頃な値段で探していた海洋堂リボルテックのC-3POを見つけた。粘ってみるものだ。リボルテックとはこのメーカー独自の関節部品を使ったフィギュアのシリーズで、フィギュアの関節というのは大抵動かしているうちに劣化してゆるゆるのぐらぐらになってしまうのだが、このリボルテックの関節は歯車のギザギザのようなものを噛みながら曲がっていくので、ゆるくなりづらい、というかならないのだ。
 遠慮なくたくさん動かせるSWフィギュア、それだけで最高なのだけれど、どうやら評判が芳しくなかったようで、C-3POとR2-D2、ダース・ヴェイダーにストームトルーパー、ボバ・フェットあたりが出ただけでその後の展開はない。今では同スケールの、よりリアルなフィギュアをバンダイやメディコム・トイが熱心に展開しているので、完全にそっちに持っていかれてしまった。まあでも、日本製のSWフィギュアがこんなにたくさん出るとは思わなかったなあ。ねんどろいどまであるのだから驚きだ(フィグマにもなればいいのに)。
 たくさん歩いて探していたものが見つけられたときはとてもうれしい。しかもそれが、思い通りの値段だったりするとなおさらだった。ちょっとくたびれるけれど、新品をビックカメラやトイザらスで買うのとは違う楽しさがある。
 そういうわけで新年早々に手に入れたのは、新作映画ではほとんど見せ場の無くなってしまったドロイド・コンビとなった。ドロイドまで世代交代させる徹底ぶりは清々しくもあるのだが、このコンビだけはシリーズ全体で一貫して狂言回しになって欲しかったと思う。


「全ては口呼吸のせい」

 朝目覚めると口の中がカラカラに乾ききっていて辛い。妻が言うにはいびきもうるさく口臭もひどいらしい。それで、たぶんその原因は口で息しているから。思えば子供の頃から口で息をしていた。と言うのも、嫌な匂いがするときは口で息をすればいいなんてことを誰かに言われてそれ以来、口のほうが穴が大きくていっぱい吸えるじゃんという勘違いをしてずっと口で息してきたように思う。そうして鼻の穴がひどく狭く、鼻では思うように息ができないというような勘違いまで身体に染み付いてこの年になってしまった。当然口は開きっぱなしで、だから顎が変なのだと思う。
 試しに寝る前に口を手近にあったマスキングテープで閉じてみる。すると、翌朝から口臭が消えていた。いびきも聞こえなかったらしい。歯ぎしりも無し。そしてなにより鼻がすごく通る。こんなに鼻で空気を吸えたのはいつぶりだろうか。鼻ってこんなに奥のほうまで空気が吸えるのか。気持ち頭もすっきりしている。口呼吸では脳に送り込む酸素も足りなかったのだ。だから慢性的に、顔の奥のほうでなにかが詰まっているような嫌な感じの頭痛がずっと続いていたのだ。口を閉じて寝て以来あの頭痛もすっかり消えてしまった。鼻づまりもなくなった。
 驚いたのは、顎の形もよくなったのではないかということ。さすがにこれは何日か続けてから出てきた変化だけれど、少なくとも頰のあたりの骨が音を鳴らさなくなった。『シークレット・ウィンドウ』という映画を観たことあるひとなら、主演のジョニー・デップがしきりに顎を動かして頰のあたりの骨をこきりと鳴らすあの動作だと言えばわかるだろう。あそこまで強迫的な動作には、ぼくの場合ならなかったけれど、それでも動かすと音が鳴っていたので、それがすっかり無くなったということは顎がちゃんとまっすぐになったに違いない。
 鼻で呼吸するとこんなにいいことばかりとは。口で息をしていたこれまでの人生はなんだったのか。誰かが教えてくれればよかったのに。誰かに教えてもらわないとぼくはなんにも気付けない。自分は呼吸するのが下手なのだとどこかの時点で気付けていればと本当に思う。


「今ってなんの時間?」

 今ってなんの時間?アドベンチャー・ターイム!ということでアマゾン・プライムで延々とカートゥーン・ネットワークのアニメ『アドベンチャー・タイム』を観続けている。配信されている91話分を二周した。たぶん三周目もいく。いける。何度でも観られる。色が綺麗。かわいい。楽しい。挿入歌がいい。ただ、流していると他に何も手がつかなくなる。そして自分もこんな楽しい世界を描きたい、描かなければというような謎のストレスを感じたりする。
 お気に入りのキャラクターはルートビア。ルートビアの入ったグラスが顔になっていて、グラスの口から盛り上がった泡の部分が髪。探偵志望(ミステリー作家志望?)だが普段は冴えないサプリメント販売の電話オペレーター。奥さんはチェリークリームソーダでキャラデザは同じ感じ。毎晩タイプライターに向かってミステリーを書いていて夫婦仲はいまいち。そんな彼がある日誘拐事件を目撃してしまうお話。
 この回以外にも探偵もののパロディというと、ゲーム機型ロボットのBMOが探偵を演じる、モノクロなフィルムノワール調の回があってそちらも大変おもしろいのだけれど、今回はフィルムノワールのパロディというより、パルプものの小説といった雰囲気。
 おもしろかった回をあげていてはきりがない。どこかで何話かピックアップしてレビューできたらいいのだが。
 我が家は配信ものはプライム・ビデオしか加入しておらず(それもアマゾンで買い物をするついでに入っているに過ぎない)、そのほかはなにも入っていない。なのでネットフリックスで話題の作品などは一切観てない。しかしとにかく世の中ネットフリックスである。ネットフリックスばかりおもしろそうなものをやりやがる。ひとに会っても当たり前のように『ストレンジャー・シングス』の話題を振られる。観ればいいのに、観たらいいのに、きっと気に入るのにとか言われる。そりゃ観たいのは山々だけれど、プライムですら思うように観れていないので(90話あるアニメを二周しているのは置いといて)ちゃんと観られるかどうかわからない。プライムは通販のついでなので、はじめから視聴だけを目的に加入する勇気もいまいち出ない。
 そしてなんと言ってもやはり、話題になっている全てを観ていてはきりがない。無理。あまりにも新しい作品が多すぎる。恐らくぼくが『ストレンジャー・シングス』を見始めたら今度はほかのものが話題になるのが目に見える。全ては追いかけられない。
 家で好きな時間に観られるとしても、好きな時間に観られるからこそ観る時間がない。いつでも観られるなら今日でなくていい、と思って時が流れる。
 果たして視聴の敷居が低いのか高いのかわからない。いっそレンタルや劇場で上映されたほうが観る機会がありそうな気がする。ぼくのような人間には加入っていうのがハードル高いんだよな。
 娯楽作品が溢れ返っている世界では、どれだけ観たかより、どれだけ観ないで済ますかも重要になってくるような気もする。自分にとって最良を見つけたいものだ。いや、まあ、羨ましいだけなんだけれどね。
 これはまあ、あれが観たいこれが観たいと妻にネットフリックス加入を持ちかけるも、依然として拒否されているからで、諦めたというか、無理して観なくてもいいかなと納得した結果なのだけれど。
 と、妻の合意が必要みたいな話になってくると、男友達などは「だから結婚なんかしなければいいのに」みたいなことを平気で言うので辟易する。別になにもかも妻に支配されているというようなニュアンスで言っているわけではないのに。むしろ放っておいたら、好きにさせたら無闇にお金を使ってしまうぼくには彼女のようにところどころおさえてくれるひとがいないと駄目なわけで。
 プライムで観られる範囲で、楽しめれば今のところはいいかな。だいたい映画の試写だっていっぱいっぱいなのだし。

2018年1月1日

謹賀新年


 今年もどうぞよろしく。
 今年はもっと文章を書いたり、創作をしたりしよう。そろそろ空想がしまっておけなくなっている。絵の方では、もっとちゃんと人間をたくさん描けるようにしよう。

2017年12月31日

今年できたこと

 ひとつ前の記事で年間記事数が過去最高の100件になった。できるだけ文章を書こうと意識はしていたからだと思う。もっと書きたい。今年はブログが前より楽しくなったと思う。文章を書く楽しさも倍増した気がする。

 あと今年できたことと言えば、漫画を描いたことか。そしてそれが一応賞をもらえたこと。文章を書きたいという気持ちが強くなった上に、漫画形式で作品を描けるようになったというこれは、おそらく創作をせよということなのだろうなあ。来年はなにか形にしたい。できる範囲で。

 本を読む量も少し増えたような気がする。文章を多く書くということは、多く読むというスキルにも繋がってくるのかもしれない。また読書レビューをたくさん書こう。 漫画にせよレビューにせよ、絵と文章は両立させていきたい。このふたつは切り離せない。

 森見登美彦先生の本の装画を描くという、学生時代からのひとつの目標も現実となった。あの頃ぼんやりと思い描いていたヴィジョンの、一歩先へ来てしまったんだなあと思ったりもする。やはり本や文章との関わりが強い年だったのだと思う。

 それから車。まだ筆記試験が残ってるけれど、とりあえず4月から通い出した教習所を卒業した。初めてアクセルを踏んで車体を動かしたときは本当におっかなびっくりで、こんなのは無理だと思ったけれど、ずいぶんやれるようになった。頭や筋肉を今までと違うふうに動かしたのが新鮮だった。いまだに自分で路上を走ったということが信じられない。まあ、自分で稼いだお金で教習所行けたというのも結構びっくりなのだけれど。まだまだ全然新しいことは覚えられる。

 あとなんかあったっけ。いや、かなり大きな出来事はいくつかあったのだけれど、まだ書くことができないことばかりなので、また時期が来たら書くことにする。なんでもかんでも無闇にインターネットに書かないというある種の成長はあったような気がする。もともとそんなになんでもさらけ出す方ではなかったけれど。
 そんなところかな。

雑記(4)

「ストームトルーパーのポップコーンバケツ」

 『最後のジェダイ』には大いに楽しませてもらった。一週間が経ってからは少し落ち着いてきてようやく批判的な意見にもそれなりに目を通せるようになり、なるほどそういう欠点もあるなと多少は共鳴できるようになった。しかし劇場で最初に味わったあの興奮は今でも如実に思い出せるし、ぼくとしては大満足で大好きな作品であることには変わりない。
  ただひとつ残念だったこと、というより悔しいことがあるとすればそれは、上映開始前にポップコーンとドリンクが買えなかったこと。もちろん毎週のように試写会に通っている身からすればもはや2時間かそこいら飲食できなくとも全く苦ではないのだけれど(個人的には飲食物よりも肩と首回り用のクッションのほうが欲しい)、それでもSWである。それも今作はシリーズ最長の本編で、ポップコーンの容器がストームトルーパーのヘルメットだったのだ。あれはなんとしてもペン立てかなにかに使いたかった。
  しかし、例によって売店の前にはとんでもない行列ができていた。上映開始10分前から並んでも全く列が動く気配がない。前方を見てもカウンターの中の店員が急ぐ様子も全然ない。彼らからすればいつも通りの金曜午後3時である。いつも通りの仕事してるだけっすから、みたいな感じである。これは劇場に限らずトイザらスとかロフトとか、SWとタイアップするお店全般に言えることだけれど、興味のない従業員からしたらオタクが殺到してきて本当にうんざりすることだろう。
  上映開始3分前になっても列は進まない。でもみんな全然慌てる様子がない。どうせしばらくはCMと予告が続くのがわかっているからだろうけれど、それがどのくらい続くかはいまひとつわからないし、照明が落ちてしまったあとでは席に行くのも大変だ。とにかくそういう慌てる状況というのにぼくは弱いので、なんとしても避けたい。
  とうとう上映開始時刻になったが、依然として誰も動かない。カウンターでは明らかにこの行列を予期していなさそうな数の店員(おそらく前の晩の先行上映にはたくさんいたのだろうなあ)が気だるそうにやっている。こりゃ無理だ。ぼくは諦めてスクリーンに向かう。
  案の定テレビでやっているようなCMをしばらく大スクリーンで見せられることになったけれど、2時間飲食無しでもなんら問題がなかったどころか、ものすごい集中力が発揮された。


「よくない」

 フェイスブックに愛想を尽かした。
  とは言えインスタグラムを始めたときからその更新をフェイスブックに同期していたので、ほとんどフェイスブックを直接更新することはなくなっていた。更新するものは少ない方がいい。本当ならツイッターにもインスタグラムを同期したいところだけれど、画像は表示されないし、字数制限が違い、明らかに同期のされ方がおかしいので、別々に画像をアップしている。このあたりの使い勝手は悪くなる一方で、たまに全てをやめたくなる。
  それで、兼ねてより苛立つことの多かったフェイスブックはもう放っておくことにした。メッセンジャーだけは時折届くことがあるので気にするけれど(とは言えあんな人によって使っているかどうか微妙なものを使っていて当たり前という感じで送ってこられ、気づかずにいたら無視するなと怒られるのはなんとも釈然としない)、そのほかは覗いていない。
  まず実名利用による生々しさに耐えられない。どのアカウントも実名で、実名で活動しているぼくが言うのもおかしいが。とにかくハンドルネームでない本名と顔写真が羅列している様子に耐えられなくなった。ハンドルネームで適当なアイコンのひとたちがやいのやいの言うツイッターにも疲れるというのに、本名!顔写真!おれ!わたし!みたいな感じで言いたいことを言っている空間が楽しいわけがない。匿名ならギリギリ許せる(許せないことも多いが)言動を本名顔写真でやられると、そういうひとがこの世に実在するという感じがすごくて辛い。生々しい。ぼくはインターネットを実生活の延長と見なしてはいるけれど、それは言わば図書館に行ったりするのと同じことで、図書館でゆっくりしたいときに見聞きしたくないものというのはあるのだ。図書館には図書館ならではの快適さを求めたい。同じようにインターネットにも独自の快適さが欲しい。


「クリスマス休暇」

 クリスマスは妻の実家に泊まりに行った。諸事情あって犬を預けているので彼にも会いたかったし。なんと言っても妻の部屋のベッドの寝心地が素晴らしい。よくもまあひとの家でぐうすか寝られるものだと妻から言われるわけだが、ぼくは全く気にならないから大丈夫。ぼくが気にならないからいいというわけでは絶対ないと思うが、しかし妻もまたぼくの実家で遠慮なく寝られるのだからお互い様だろう。
 妻と初めてぼくの実家を訪ねた際には、夏の昼下がり、妻が居間のソファで居眠りし、ぼくがテーブルのところでうたたねし、父が床で昼寝、そこへ帰宅した母がみんな寝てしまっているのを発見するという有様だった。世の夫婦の、互い実家との付き合いの面倒臭そうな話を思えば屈託がなく楽である。しきたり、気遣い、配慮……大変だなあと思う。
 久しぶりに犬の散歩に行ったが、思えばこの冬はこれが初めてだった。だから早朝、犬のうんちから立ち昇る湯気を見て「あったかそうだなあ」と思ったりするのもこの冬初めてのことだった。今やぼくの冬の風物詩である。
 よく眠り、チキンとケーキをご馳走になった。昨年に引き続きレゴのアドベント・カレンダーを開けるのは楽しかったし、クリスマスの絵はあまり描けなかったものの、エッセイ以上小説未満、なんと呼んでいいかはわからないがクリスマスを題材に文章も書けた。


「無駄な労力」

 『最後のジェダイ』はその実験的な作風から、あまりよく思わないひとも多いらしい。決してわからなくはないが、彼らの気に入らない部分というのは、ぼくなどからすればそこが魅力だろうという点ばかりなので、結局は前提となる実験そのものを受け入れられるかどうかだろう。
 いずれにせよSWに限らず、映画を否定や肯定といった言葉で断じたくはない。一体どんな立場から否定し、肯定するというのだろう。この言葉はあまりに強すぎるし、極端だ。ここがおもしろかった、でもあそこはいまひとつだったかも、くらいのバランスを、どうして持てないのだろう。
 気づけば素直な感想ではなく、お互いへの反論を考えてしまっているような気がする。独白であるはずのツイートも誰かへの反論と化し、それを読んだ誰かも、直接自分に宛てられたものではないが、自分の考えを否定されたような気分になり、また反論を書く(これはなにも映画の感想だけに限った現象ではない)。なにか言いたくなったときに言えてしまう世の中だから仕方がない。
 だから別に、知らないひとがなにをどう受け取ろうが知ったことではないが、身近なひとたちと意見が食い違うときには、ぼくも少しなにかを説こうとしてしまう。あの映画のいいところはこうこうこういうところで……。しかし、途中で気づく。気に入らないと言っているひとにわざわざ一生懸命良さを伝えようとしなくても別にいいと。だんだん馬鹿らしくなる。そんなことに頭を使わなくていい。そんなことをするのなら、そのエネルギーを感想を共有できる相手との会話に使ったほうが全然いい。別にそれは閉鎖空間で循環参照を繰り返すだけというわけでは決してない。作品を気に入った者同士と言ってもその気に入り方もまた人それぞれであり、共感できるところもあれば、ひとに言われて初めて気付ける魅力がある。そうして考察を深めていくのだ。
 それに気に入らないと言うひとは、はなから良いところを見ようともしないので、舌足らずなぼくがなにを言おうと響くわけがない。彼らは不満を漏らしたいだけだ。会話をしたいわけではない。そうでなければ、ひとが好きだと言っている作品についてそのひとの前で延々と悪口は言わないだろう。真面目に取り合わなくていいのだとわかった瞬間に肩が楽になった。


「教習所卒業」

 卒業してしまった。すんなりと。仮免検定の際に緊張のあまりヘマをやらかしてしまったので(坂道で発進不能4回以上)今回もあまりうまくいかないだろうと、落ちて当たり前だろうと思って挑んだら、案外うまくいってしまった。満点というわけではなかったし、だいぶ優しくされた印象があるけれど、なかなかうまくできたと思う。
 なんといっても教官がリラックスできる相手でよかった。教習でも一度当たったのことのある、物腰の柔らかい垢抜けた感じの男性である。いつぞやのジョージ・タケイみたいなおじさんではない。ひとつひとつの言葉が丁寧で、このひとのおかげでぼくはようやくアクセルの踏み加減がうまく調節できるようになったのだった。物腰が柔らかいだけでなく、どこか冷めた印象があるのもバランスがいい。そして極め付けは「あたし」という一人称である。それもすごく自然な感じの。本物の都会人の匂いがする。
 年内に卒業できて本当によかった。気持ちよく年が越せる。まだ筆記試験が残っているので免許を取ったわけではないが、少なくとも教習期限を気にして生活しなくていいのだ。4月からずっとスケジュールに影を落としていたものが綺麗に無くなったのだ。


「LINEに行く」

 LINEに行った。と言うとおかしいが、LINEのオフィスにお邪魔した。例の「LINEマンガ STAR WARS インディーズアワード」のノミネート賞の賞品を受け取るため招かれた。この場を借りて報告すると、ノミネート賞という結果だった。もちろんそれだけでも十分な成果だと思う。なんといっても初めて描いた漫画形式の作品でそういう評価をもらえたのはうれしい。普段の作品にも変化が現れるかもしれない。というか、コマ割りされた形式のものをどんどん描きたくなった。絵が描けて、物語を創作したいという意欲があるのならどんどんやるべきだろう。グラフィック・ノベルとかをやりたい。
 

 エントランスにどんと鎮座する巨大なLINE熊にニコニコな26歳。社内のいたるところにキャラクターがいて楽しかった。

営業報告



 少し遅くなりましたが、SPUR最新号ではなんといってもこの映画、『スター・ウォーズ:最後のジェダイ』を紹介しております。観る前に描いたので(レビューの連載でそんなことが許されるとは……)内容ではなくキャラクターへのフォーカスです。とは言え、結果的に公開された映画の内容に合うものになったと思います。キャラクターを描き、掘り下げることに重点を置いた作品でもあったので。
 個人的に注目する三人の女性キャラクターを取り上げていますが、三人目は誌上にて(写真だと頭がちょっと見えてるね)。三人とも活躍して本当に良かった。





 「美術手帖」2018年1月号のバイオ・アート特集では、「バイオ・アートの基礎講座」に多数カットを描きました。歴史やその先駆者たち、用語解説などがまとめられたページなので、非常に勉強になります。

2017年12月27日

「あなたを選んでくれるもの」感想


 なにかに取り組まなければと思いながらも、気付けばインターネットを巡回して時間が経ってしまっているというのは誰にでもあるんだなあと、安心してはいられない。勇気ある著者のように、自分なりの打開策を、対処法を考えなければならない。
 黄昏を迎えつつある広告冊子を通して、彼女が出会う人々のキャラクターの濃さは、現実の濃密さそのもの。寂しげなひと、ちょっとヤバいひと、孤独なひと、やっぱりヤバいひと。みんなどこかかわいらしい。その濃厚さが行き詰まった創作に刺激を与え、突破口のようなものを開いていく様子がすごく熱い。
 ウシガエルのオタマジャクシを育てる高校生(当時)はぼくと年が変わらないので、特に共感を覚えた。彼だけでなく、ここに登場した人々は今はどうしているのだろうと、想像が膨らむ。
 家で仕事をしていると、今日はなにも成果が出なかった、という悲観的な感想とともに深夜を迎えることは多く、時間に追い詰められている気さえしてくる。時間がない、時間がない、時間がない。もちろんそんな、ただ単に有意義を求めるだけのぼくの強迫観念と、ジュライの時間に対する切実さは比べ物にならないかもしれないけれど、それについて考え、なんとかしようとする彼女の姿には励まされる。
 時間さえあればもっとできたかもしれないのにとか、本当はもっとできるはずなのにとか思わなくていいのだとわかったとき、少し楽になれた。いや、本当に洗われる気分だった。   
写真もとても綺麗。出会った人々やその自宅、アイテムの数々が、飾らないそのままの生活感とともに切り取られている。それでいて色合いがとても良い。インターネットを使わない人々の、決してひとに見せるようには整えていないであろうその暮らしぶりが、そのままで画になる。もちろん撮ったひとのセンスと技量あってこそだと思うけれど、現実そのもののかっこよさみたいなものが感じられる。

2017年12月25日

イヴの夜の物音




 クリスマスのローストチキンに憧れていた。
  シャーロック・ホームズの短編でもお馴染みのようにヨーロッパではガチョウだし、合衆国では七面鳥なのだろうけれど、この際本場ではどうこうは関係ない。そもそもクリスマスの本場がどこかという話をはじめると僕の手には負えなくなる。ともかく自分の暮らす地域に馴染んだクリスマスとして、ローストチキンだ。
  クリスマスの魅力のひとつは、なんといっても冬の外の寒さと、家の中の暖かさとのコントラストにある。外が寒ければ寒いほど、家の中が暖かければ暖かいほど、幸せな感じが増すと思う。冬至の寒さの中、年末という、一年を一日としたときの「夜」を暖かく過ごしながら、その一年に想いを馳せるのが僕の思うクリスマスだ。
  家の中、食卓で暖かさと幸福感、そして豊かさを象徴するのが、鳥の丸焼きだ。鶏でも七面鳥でもガチョウでも、鳥の丸焼きのあの色合いやフォルムが食卓に幸福感をもたらす。いろいろあって大変な一年だったとしても、それさえ食卓に並べば一応は豊かな生活だと思える。
  妻と暮らし始めた最初の年のクリスマスを控えたある日、近所のスーパーで鶏がローストチキン用に丸々一羽売られているのを見てうれしくなり、買って帰った。インターネットで適当にレシピを調べ、リンゴとタマネギを炒めて中に詰めるベラルーシ風というのをやってみた。ベラルーシってどこだっけ。響きがベラ・ルゴシっぽいから東欧かどこかだろう。いや、ルゴシはハンガリーのひとだっけ。
  特別美味しくできたような印象はないけれど、鶏の丸焼きを食べられたということで満足だった。ともかくイヴにローストチキンを丸ごと食べるという夢はかなった。クリスマスのディナーはイヴの晩に食べるものなのか、25日当日の晩に食べるものなのかはよくわからないけれど。
  次の年、またローストチキンを食べようと思うも、ことに当たるのが遅かったせいか近所ではどこも売り切れていた。被害妄想が激しいのでなにかの嫌がらせかと思ったくらい途方に暮れてしまった。
  その次の年、今度は妻が最初のものよりも大きなチキンを買ってきてくれた。丸々としていて、頭のない、羽をむしられたボツボツの鳥肌を見て心が踊った。
  バターで炒めたお米が鶏のお腹の中に詰めこまれ、首の根元とお尻の穴がタコ糸と爪楊枝でもって閉じられた。鶏の周りにはタマネギとジャガイモとニンジンが添えられた。妻がやったほうが凝ったものになる。思えば僕のベラルーシ風はかなり簡単だった。
  最初の年もそうだったけれど、当然痩せ型のふたりでは食べきれず、少し食べてもういっぱいだった。残りはまた明日にしよう。しばらくこれだけ食べていられるくらいだろうと、愚かにもそのときは思った。
  1メートル足らずのツリーの電飾を点けっ放しにしたまま、ぼくら夫婦は寝床に入った。暗闇の中で暖色の電飾が一定のリズムで点滅し、あたりがうっすらオレンジ色に照らされる。そのそばに食卓があり、その上にはラップをかけられた食べかけのチキンの大皿が載っていた。この頃暮らしていた部屋はずいぶん小さく間取りが奇妙だったので、ベッドに寝ながらその様子が見えた。
  もちろん北極の良い子リストに載るような良い子ではないので、そんなすぐに眠りに落ちたりはしないけれど、それでもだんだん意識が暗闇の中にゆっくり沈んでいきそうになった頃、ふとゴンゴンという鈍い物音が聞こえた。
  どこか外ではない。その部屋はすぐ外側でのひとの出入りが激しく、同じ建物の住人であれ、前の通りを行き交うひとであれ、その気配は察知できるが、この音はそうではない。もっと近く、部屋の中から聞こえる。
  それはだんだん、コツンコツンという軽い感じのする音に変わっていた。
  白いファーの縁がついた真っ赤な毛皮の服を、黒い極太のベルトで締めた白ひげのファーザー・クリスマスのことを連想するほどには、素直さを忘れてしまったぼくだったけれど、その奇妙な音はイヴの真夜中に不思議に響いた。横では妻がすでに寝息を立てている。彼女は本当にすぐ眠ってしまう。そのくせなにかの拍子に突然眼をぎんと開き、大きく見開いたり瞬きしたりしてまた眠ったりするからびっくりする。眠りながら眼を開いて反応を示す現象にはなにか名前があるのだろうか。とにかくこの物音には全く気づいていないようだ。やすらかな寝顔はとても石炭などもらいそうにない。
  ツリーの電飾に照らされている中で、影らしきものが動いた。我が家で動くものといえばなんだろう。もちろん最初に物音がしたときから、ぼくはこのことを考えている。この小さな家でふたりの人間以外に動くもの、生きているもの。
  がばっと上体を起こして、掛け布団が弾かれる。このような冬場では一度布団に入れば翌日の午後まで起きる気が起きないけれど、このときは身体のどこか、頭のどこかが無理矢理それを促した。大急ぎでベッドから飛び出し、ツリーの灯りの方へ向かう。寝床から食卓が見える部屋だ、大股で数歩行けばたどり着く。
   暖色の灯りの中で、決して小さいとは言えない黒々とした影が、ソファの上から食卓の上へと覆いかぶさっていた。僕は大声を上げる。そいつの名前を呼ぶ。呼ぶというか、ほとんど怒鳴った。
  大した真相ではない。誰でも読めることだ。我が家の愛犬が食卓のローストチキンの皿を懸命につついていたのだ。ソファの上から、短い脚を精一杯伸ばして無我夢中。かけてあったラップがめくり上がり(どうやった?)、鶏の手前に添えてあった野菜がきれいに消えている。ジャガイモもニンジンも、犬が食べてはいけないと言われているタマネギまでもが、跡形もなく無くなっていた。手前の野菜を片付けて、さあチキンに取り掛かろうとしたところで、僕が駆けつけたというわけらしい。
  ゴンゴン、コツンコツンという音はサンタ・クロースのブーツやベルトの金具、赤と白のストライプのキャンディ・ステッキの立てた音ではない。犬が夢中になるあまり、その突き出た鼻面で皿をぐんぐん押していたのだ。彼はだから、どんどんソファから身を乗り出してとんでもない姿勢になっていた。
  僕の声で動きを止めたり、いたずらがバレて決まり悪そうになるわけでもなく、むしろ見つかってしまったから捕まるまでに少しでも多くチキンを食らおうと躍起になった。皿を遠ざけて犬の腹に手を入れてひょいと持ち上げる。実際はひょいというほど軽くない。
  思えばこいつは鶏肉が大好きだった。それは別に散歩中に鳩や雀を脅かして追っ払うのが大好きなのとは関係ないところで好きだった。先ほどまで僕たちが食事をしているのがさぞ気に入らなかったことだろう。せっかくチャンスがあったのに野菜しか食べられずふてくされた顔だった。チェッ、見つかっちまったか。
  チキンのラップをかけ直し、犬の届かないであろう場所に置いて、今度はちゃんと犬を連れてベッドに入る。妻は騒ぎで目を覚ましており、すごい剣幕で犬に起こったけれど、やがてコーギーは夫婦の間にすっぽりおさまり、ふたりと一匹は眠りについた。 
  その後三日ほどかけてチキンをたいらげようとしたけれど、途中で中のお米が傷んでしまった。


2017年12月21日

『スター・ウォーズ:最後のジェダイ』(2017)


 いやはや、この年末は妙に忙しく12月15日もその日締め切りの仕事に前の晩から取り組んでおり、早朝にそれらを送り出してから一旦眠り、午後になって飛び起きて映画館に向かったわけで、非常に頭がぼんやりとくたびれていたのだけれど、そんなところにこんなとんでもないレーザー・ビームのような映画を見せつけられては、もはやぼくの脳みそは処理が追いつかない。
 だから、鑑賞間もない今はまだ自然と感想もとりとめのないものになってしまうかもしれない。実際、観た直後にノートにめちゃくちゃに書き散らしたものを今参考にしようとしても、ほとんどなにを言いたいのかわからない感じである。ただ、すごい興奮していることが伝わってくる。

 とにかく胸がいっぱいだった。これまでで最もフラットな気持ちで観ることができたSWでもある。事前の考察を全くしなかったわけではないけれど、それでも積極的に予告編でわかる以上のことを調べようとはしなかった。と言うのも、前作の『フォースの覚醒』の際にあまりにも調べ、考えすぎたからである。
 そのおかげか、全く予想のつかないストーリーを大いに堪能できた。金曜日に観て、帰宅してから前述のようにノートをとり、あまりインターネットを見ることもせず、自分の中だけで感動を増幅させていった。土曜、日曜もまだ余韻が残っており、思い返してはうれしくなってため息をつき、始終ニヤついていたので妻から大変気味悪がられた。
 未知のSWを観ることがこれほどまでに楽しいのかと、驚き、感動した。これもことあるごとに言っていることだけれど、オリジナル三部作の前日譚であるプリクエル三部作世代のぼくにとって、先のわからないSWを観られることはこの上なくうれしい。だって、先がわからないのだから。

 なにより情報量が多い。キャラクターが多い。展開がめまぐるしい。スピードがある。それでいて全く収拾がつかなくなるということはない。
 新しい『帝国の逆襲』として観ることはできるし(もっと言えば『ジェダイの帰還』要素も強い)、同じシリーズとして他エピソードと通じる部分も少なくないけれど、そこまでテンプレートに沿うこともなく、全く新しいストーリーを見せてくれたと思う。SWにおいては新しい演出、美しい画作り、シリアスの中にほどよく挟まれるユーモア、ダークさとポップさ……物語として非常にバランスが取られている。

 バランス。それは本作のテーマでもある。光と闇、善と悪の境界が曖昧になり、絶対的な正義として信じられてきたジェダイさえ過去の遺物であることが示される。光があたるぶん闇も深くなるというルークの言葉はとても印象的だ。まるでその言葉が言い表すように、レイとカイロ・レンは拮抗する。そうしてレイは闇に、カイロ・レンは光への誘いに心を揺さぶられ、いつしかふたりの間に奇妙な絆が出来上がる。

 ふたりが交信をするときの演出もおもしろい。その場に互いの姿が見え、互いの感触が伝わり、互いがいる環境さえ伝わってくる(雨が降る中にいたレイと交信した際に、宇宙船の中にいたカイロ・レンの顔が濡れるのだ)。表裏一体のふたり。ふたりの関係は非常に興味深い。
 山場である共闘もとても熱いけれど、最終的にカイロ・レンはファースト・オーダーの新たなリーダーになることを選ぶ。かつてダース・ヴェイダーが皇帝を倒して自分が支配者になろうとしていたことを考えると、ようやく祖父に代わってそれを成し遂げたかのように見える。その点では彼はかの暗黒卿を超えたわけだ。もちろん、レイはそんな彼にもう手を差し伸べることはなく、拒絶する。カイロ・レンからの交信を遮断するレイの心境が、ミレニアム・ファルコンのタラップが閉じられることで表現されているのもとてもよかった。それは父親の船からの拒絶でもあるのだ。
 
 レイの出自が明らかになることで、このふたりの間にはもうひとつの構図が生まれる。特別でない者と特別な者だ。一方は名もない貧しい人々から生まれた孤児であり、もう一方は空を歩む選ばれし血筋を引く。前者は愛されず、後者はきっと多くの期待を背負って育ったはず。しかし、今では逆だ。どこの馬の骨とも知れないレイが愛と期待を受け、伝説のスカイウォーカーの血を引くベン・ソロ——カイロ・レンは深い闇に落ちた。
 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』で、主人公の父親が実はとんでもない化け物で、育ての親の方が本物よりも親らしかった、という展開が非常に魅力的だった。SWに代表される血統主義的な物語に対するカウンターのようでとても今っぽく感じられた。これを先にやられては、もうレイの出自が結局ルークの子供だとか、そんなんじゃ絶対ダメだと思った。他の物語がどんどん新しさを得ていく中で、まだSWは血統の物語にこだわってしまうのかと。確かにSWのサーガは同時にスカイウォーカーのサーガでもある。しかし、それだけではない。それだけではいけない。もっともっと物語に広がって欲しい。
 そもそもぼく個人はあまりSWを血筋の物語というふうには捉えていない。そこにあまり還元したくない。まずルーク・スカイウォーカーという主人公がいて、それからその父親の物語を明らかにしていった、というだけであって、別に家系図を追っているわけではなかろう。正直、たった親子二代で血筋もくそもあるかと思う。
 果たして、新しいSWは血統の呪縛から離れた。もちろんスカイウォーカーの物語もまだ続いている。今回のスカイウォーカーは闇に落ちたベン・ソロだ。そして彼に対抗するのが、特別でない人々、名もなき人々代表、レイ。もしかすると今後、レイがベン・ソロを救うという展開があるのではないだろうか。だって、そうすれば特別でない人々がスカイウォーカーを救ったことになる。これまでのお返しのように。そうだったらとても優しく、美しいと思う。

 フォースはジェダイのものではない、というルークの言葉は同時に、フォースはスカイウォーカーのものではないと言っているようにも思える。それに呼応するかのように、本作のラストではリゾート都市で働かされていた少年が、なんとフォース感知者であることが示される。ルークの「最後のジェダイは私ではない」という言葉は、まだレイがいるということを指しているのと同時に、まだ銀河のいたるところにフォースに目覚め、可能性を秘めた人々が大勢いるであろうことを示唆しているようにも思えてならない。スカイウォーカーだけがフォースの申し子でないのだ。


 だからこそ、全ての人々がフォースとともにあると言える。そう思うと、本作に登場する大勢のキャラクターたちがより魅力的に思えてくる。フォースやジェダイとはなんら関係のない人々。ときに悪の側につき、ときに正しい道を歩んでいる勇気ある人々。
 前作から登場したキャラクターたちの拾い方が見事だった。特にマズ・カナタ。ここぞというところで登場し、しかもそれなりに戦闘スキルがあることがわかって熱い。あのゴーグルにはあんなスキャン機能があったのか。そしてジェットパック。ジェットパックだよ?前作ではヨーダとジャバ・ザ・ハットの要素を兼ね備えているように思えたが、なんとボバ・フェット要素まで持っていたとは。急に気に入ってしまった。

 もちろんキャプテン・ファズマが大好きなぼくとしては、彼女のリベンジが実現したのもとてもうれしい。憎きFN-2187への執念が伝わってくる。それはもう一筋縄ではいかない複雑な感情のはずだ。かつて自分が訓練した部下の脱走は彼女にとって大変な屈辱であろう。フィンを倒すことは自分の失敗の後始末をすることでもある。だからこそより一層執念深くなる。

 フィンの攻撃で片目のレンズが砕け、演じるグウェンドリン・クリスティーの左目が覗くシーン。食いしばった歯の隙間から押し出したかのような声で「やはりお前はクズだ」と言い放つ。悔しさと憎しみが溢れる。彼女は確かに悪党だけれど、冷酷で残虐な悪党だけれど、信じていた部下に裏切られ、対決するも破れてしまった悔しさや苛立ちに全く共鳴できないわけではない。常にそのクローム・ドームに顔を隠し、およそ人間のように見えなかった彼女が、最後に一瞬だけ片目を覗かせて人間らしい苛立ちを見せ、奈落へと落下し炎に包まれる。最高である。キャプテン・ファズマよ、永遠なれ。

 それにしてもレーザーを弾いてしまうあの装甲、かっこよすぎる。あの立ち姿が素晴らしい。前から好きだったキャラクターを、より好きになれるのはとても幸せなことだ。というか、レーザーでも傷ひとつつけられない装甲服、炎の中でも耐久性があるのではないだろうか。もちろんそれなりに火傷を負うことにはなりそうだけれど(むき出しになった左目はもうダメだろう)、それでも一命は取りとめられるのではないか。大火傷からの生還だなんて、ほとんどダース・ヴェイダーじゃないか。まさか、あのクローム・ボディに機械の呼吸音を加えて復活するのでは、などという妄想が捗る。
 あの最後はとてもかっこいいので、あれでもういいと思うけれど、もちろん復活したらそれはそれで大歓迎である。ぼくはわりとなんでも大歓迎なのだ。

 ファズマとは違うタイプで、やはり同じくらい魅力的なのがハックス将軍である。本作ではよりキャラクターに磨きがかかっていたのではないだろうか(ファズマもピカピカに磨かれてはいたが)。
 若くて実戦経験が浅く、それでいて冷酷さや大言壮語は人一倍というキャラクターだからこそのあの憎めなさ。まさに頂点でない悪役、ミドル・ヴィランの魅力である。冒頭から本当におもしろかったなあ。一体ポー・ダメロンの言っていた彼の母親の話とはなんなのだろうか。それをレイアが知っているというのはどういうことだろうか。
 本作でかなりの比率でユーモアを受け持っていたのように思えるけれど、しかし、彼はスター・キラーのレーザー砲で共和国の惑星をいくつも滅ぼした張本人である。いかに未熟で小物然としていても、その冷酷さや狡猾さは油断できない。というか、だからこそ恐ろしいところもある。
 今回、それまで対等なライバル関係だったカイロ・レンと、ようやく明確な上下が出来たわけだけれど、ハックスが隙あらば新しいリーダーを出しぬこうとしているのはその表情から見て取れる。実際にスノークの謁見室で倒れていたカイロ・レンに対し若き将軍は銃を抜こうとしていたのだ。彼はこのままカイロ・レンの言いなりになるのか、どこかで彼を陥れようとするのか。レイとカイロ・レンの関係だけでなく、カイロ・レンとハックスの関係もまた興味深いものがある。

 ハックスの部下たちもまたいい味出している。ドレッドノートの艦長キャナディのふてぶでしさなどとてもいい。投下された爆弾によってドレッドノートが破壊されていく中、ブリッジに炎が達するときの「ふん!」というよう表情がたまらない。短い登場シーンだけれど、常にふてくされたような表情は、どこか未熟で若いハックス坊ちゃんの指揮下にいるのが不満げに見える。キャナディの部下たちもなんだかいい表情のひとたちばかりなんだよなあ。特にスコープを覗いている薄めの顔をしたアジア系のひとがかっこいい。

 アジア系といえばペイジとローズのティコ姉妹である。なにを隠そう前述のキャナディ艦長とそのドレッドノートを沈めたのは捨て身で爆弾を投下されたペイジである。演じるのはベトナム人女優のゴー・タイン・バン(英名:ヴェロニカ・グゥ)。そうそう、爆撃機の内部のディティールもよかったな。『博士の異常な愛情』を思い出した。ヴェロニカ・グゥは表情がとても凛々しく、アジア系ならではのエキゾチックさがSWと合っている。そして、その顔つきと薄汚れたフライトスーツなどの装備との組み合わせが、妙に戦争感を増しているように見えるのは、ぼくが同じアジア人だからかもしれない。
 ペイジの妹ローズを演じるケリー・マリー・トランも同じくベトナム系。パンフレットによると両親はベトナム戦争時にアメリカに渡った過去を持つらしい。そのバックグラウンドが戦火に巻き込まれたローズと重なる。ローズのキャラクターも素晴らしい。とにかく顔がチャーミングである。姉役のヴェロニカ・グゥとは全然違う顔つきだけれど、ローズはケリー・マリー・トランだったからこそあそこまで魅力的で立ったキャラになったのではないかと思う。

 キャラクターと言えば、ヨーダのことも忘れられない。
 なんと、『帝国の逆襲』の懐かしのパペットの姿でヨーダの霊体が登場するのだ。ジェダイの書物を燃やそうとするルークの背後に、その特徴的な後頭部が映った際には声を上げそうになったほどだ。ルークを見守る霊体の後ろ姿が映るだけで終わりかと思いきや、ルークとの会話まで始まった。その昔ながらのヨーダの姿に泣いた。
 ヨーダはルークに対しジェダイの書物を焼き払うよう促し、躊躇するルークをよそに雷を落として全てを燃やしてしまう。ヨーダはうれしそうに笑う。
「カビ臭い書物のことなど忘れてしまえ!」
 ああ、このケタケタと笑うヨーダこそヨーダという感じがするなあ。険しい顔で戦うヨーダも悪くはないが、やはりこれがオリジンだ(時系列ではこちらがあとだけれど)。
 ヨーダはジェダイの書物などよりもレイが重要だと諭し、ついにこのジェダイ・マスターまでも古から続いてきた概念を捨てたのには驚いた。ヨーダもフォースとの旅の中で変わったということか。いや、もしかしたらこの霊体のヨーダは、ルークが自分の意識と対話しているにすぎないのかもしれない。いずれにせよふたりの対話は懐かしいものを感じさせ、ヨーダの優しげな眼差しはついつい見ていて顔がほころんでしまう。

 なんか、本当にフォースの力とは関係を持たない普通の人々が続々と登場してきて楽しい。その一方でヨーダがジェダイの呪縛を解いたりするのだからおもしろい。
 確かに今までの神話感とは変わる。しかし、こうして物語のスタンダードが崩され、作り変えられると思うとわくわくするものがある。今までにない雰囲気に戸惑うひともいるだろうけれど、予想の範疇で作られてもおもしろくないだろうと思う。
 これまでのSWの、なんとなくあったルールを壊し、誰も思ってもみなかった形に再構築していくからといって、決して今までの神話が否定されるわけではない。むしろ今までの作品があるからこそ、こうして新しいことができるのだ。そうして、新しいものが古いものを際立たせもする。
 いずれにせよぼくは、オリジナル三部作の呪縛から解き放たれ、真の新しさを持ち始めたSWを応援したい。物語は、神話はそうして更新され、続いていくのだと思う。


 どのキャラクターも愛おしい。それは人物だけではなく、動物——クリーチャーたちも同様である。レイが目撃したルークの自給自足生活の一部始終ではタラ=サイレンの乳しぼりのほかにも、ルークが長い銛でもって大きな魚を仕留めるくだりもある。ルークがチューバッカと同じディナーを作ったことがあるかどうかはわからないけれど、あの島ではそういう自然の恵み的なものがかなり描かれる。SWではあまり描かれなかったことだ。タトゥーインの露天でなにやら生き物の肉がぶらさがってたりしたこともあるけれど、直接的に狩りや採取といった、命を得るという描写はなかったと思う。そこが新鮮だった。それにしてもチューイ、あそこまで調理したならちゃんと食べなよ。

 SWにはとにかくクリーチャーが多く登場するし、中でも騎乗用に使役されているやつはたくさん出てくる。デューバック、バンサ、トーントーン、イオピー、カドゥ、ファンバ、ドラゴン・マウント……本当にたくさん登場する。しかし、それらの動物はほとんど道具か背景くらいにしか使われない。ましてやそれらが虐げられたり、酷使されたりしている描写はない。しかし、描かれていないだけで普通にあり得ることだ。そこで本作ではようやくヒューマノイドの都合で酷使される動物が登場した。

 食べて、使役する。ここまでは獲物や家畜との関係である。しかし、酷使されていたファジアーを主人公たちが助け出したところからその関係は変わる。ファジアーを助け出すと同時に、ファジアーに乗って逃げ延びるのだ。助け、助けられたのだ。
 そうしてクライマックス。ミネラルの惑星クレイトで窮地に陥ったレジスタンスの戦士たちは、クリスタルの体毛を持つヴァルプテックスの導きによって脱出路を見出す。ここでも動物に助けられたと言える。また、クレイトの戦いに駆けつけたミレニアム・ファルコンの船内にはポーグが何羽も住み着いており、巣まで作っていた。操縦するチューバッカはもうポーグに手は出さない(船を荒らされてかなり頭に来てたようだけれど)。特に巣を作っていたのは印象的だ。だって、それはもう生息域が広がっているということであって、チューイによってローストチキンにされていたシーンとは真逆の意味を持っているのだから。
 こうして物語を通して、ひとと動物の関係が変わっていく。一方的に動物から得ていただけだったのが、最後には共生という関係に発展していくのである。共生。非常にフォース的で、SWにおける、いや、世界における理想である。
 全体的に暗く、試練の多い物語だけれど、ときにユーモアやポップさがあり、ときにこういう希望の種のようなものが散りばめられているところが、この作品の愛おしいところである。
 大好きな『スター・ウォーズ』となった。

2017年12月12日

吸血鬼のセルフィ

 普遍的かつ洗練された通信端末であるところのiPhoneを手にするまで、インスタグラムというアプリケーションに憧れがあった。小さな正方形の中に都合よく切り取った景色がおさまり、現実ではありえないがこうだったらいいなと思うような色合いに加工されている様が、ミニチュアの家の中を覗いているような感覚で素敵に思えた。今でも本来はそういうものだと思っている。まあ、そういうふうな写真を自分がアップできているかは微妙なところだけれど。

 で、なにが言いたいかと言えば、なんかすっかりユーザーの層が変わっちゃってるなということ。ぼくも初期の方のことを知っているわけでは全然ないのだけれど、それでも前述のようにiPhoneを使っていなかった頃はなんだか素敵そうなアプリだなと思っていたものだ。世の中で変な持ち上げ方、揶揄のされ方はしていなかったと思う。ぼくが知らなかっただけかもしれないけれど。

 利用者が増えればそれだけ人それぞれの使い方が出てくるので、それはもうこれが正しいとかこういうのが本来とかは言ってられないし言うべきでもないのだけれど、ともかく憧れていた頃のインスタグラムは今はもうない。インスタとかいう安い呼び方とともに消えた。

 イラストを描いているけれどインスタグラムにイラストを載せることにあまり積極的になれないのは、たぶん写真を載せるアプリだという印象が染み付いているからだろう。その名の通りインスタントカメラ的なアプリとして使うべきで、写真でもなければ加工もしていない画像や、ましてや長ったらしいブログ文章を載せるのもなんだか違う気がするし、売り物の写真を載せて通販的に利用するのも台無しだと思う。

 台無し。そう、近頃本当にどんどん台無しになっていく気がする。別にそこまでインスタグラムに思い入れがあったわけではないのだが、やはり憧れていたぶんなんとなく落胆する。

 タグ遊びも見ているこちらが恥ずかしくなるばかりである。思えばタグ遊びの起源みたいなものはピクシブとかニコニコ動画とか、投稿者以外のひとがタグを編集できるサービスにあったように思う。感想とも少し違うが、アップされている画像ないし動画への印象や構成要素について閲覧者がタグに追加していき、それが投稿者にとっても反応をもらえたということで楽しく、また後から見に来たひともその作品がどういうものかを理解するのに助けになったりした。いずれにせよ投稿者がひとりで意味のないタグを打ち続けるのは寒すぎるし、投稿者が自分で打っているのでいわゆる「タグ理解」(一見内容と全然関係なさそうなタグだが動画を観ていくと確かにそのタグが相応しい展開になったりしたときのコメント)などというコメントも成り立たない。ていうか、タグがなんのためにあるのかわかっているのだろうか。

 これはインスタグラムに限らずSNSにありがちなのだけれど、なんだかインターネットのエチケット的なものが完全に忘れ去られていて、わけのわからないノリのひとが多すぎて恐ろしい。使うひとが増えればいろいろなひとが現れるとはもちろん当然のことながら、なんというか、それ実生活でも失礼では?と言いたくなるひとがあまりにも多い。いや、そもそもぼくはインターネットはあくまでいち通信手段として実生活の延長にあるものとしてとらえているので、実生活とは別世界などという割り切りをしていないから、普通にわけのわからない絡み方をされるとひいてしまう。ネットのやつら、みたいな区別もあまりしていないので、ひどいひとがいると世の中にはこんなひとたちもいるのかと必要以上に憂鬱になったりしてしまうのだけれど。

 なんというかな、インターネット触り始めたばかりの中学生みたいなノリではしゃいでいる大人が多い気がする。もちろんどれくらいの年齢でそのひとがインターネットに触れるかなど知ったことではないし文句もないけれど、正直言うとみっともない。別に自分の世代を棚にあげようとは思わない。それでは平成生まれ相手に昭和時代のカルチャーを話題にあげて相手がそれについて知らないことにわざとらしく驚いて馬鹿にしてくるおじさんおばさんと同じになってしまう。

 インターネットの利用歴などひとそれぞれだし、そんなものはどんな道具でも同じである。何歳だろうと知らないものは知らないし慣れないものは慣れない。だから別に昨日今日インターネット始めましたということについてケチをつけるつもりはこれっぽっちもない。だからインターネット云々はもう関係ない。電子だろうと実生活だろうとなんとなく他人との距離感があると思うのだ。

 あと、定期的にやってくるツイッターうんざり感がまた今シーズンもやってきた。いやなんかね、作品発表やPRの場として非常に役に立っているのだけれど、いかんせんひとが多い。ひとが多いっていう不満もどうかと思うけれど。こちらからフォローしておいて失礼な話だけれど、なんか別に興味ない話が多い。ごめんなさい。ただ、全てを読むのはどだい無理だ。というかみんな別に全てを読んでいないだろうと思う。ぼくは道歩いてても目に入った文字列を読むくせがあるからなあ。口には出さないにせよ、読めるものは全部読んでしまっている気がする。もしもこれで語学に堪能だったら大変だった。600万語理解できたらとても生身はもたないだろう。生身じゃないからこそ600万語理解できるのだろうけれど(ちなみに『フォースの覚醒』の時点でのC-3POは700万語精通しているらしい。30年で100万語か。多いのか少ないのかわからない)。

 で、流しながらなんとなく全部に目を通してしまうと、ああ、読みたくなかったな知りたくなかったなという気分になることが多い。あなたの悩みなど知らない。あなたの不満など知らない。あなたの考えなど知らない。勝手なことを言っていることはわかっている。でも、わりとそう感じるひとも多いのではないだろうか。ぼくの書いたものも誰かにそう思われているに違いない。そう思うと、余計にうんざりしてくる。
 二つ以上ツイートしてなにかに言及したくなったときは、ツイッターで消費しないで、ブログに書こうと思ってからしばらく経つ。ブログを書く習慣も結構ついてきて、まとまりに欠けるにせよ文量を書けるようにはなった。それでもまだ、やはり勢いでだーっとツイートしてしまう。それはそれで、そのときだけ楽しいのでいいのだけれど。

 字数制限があるので、結局どれも似たりよったりな文章になっちゃうのもおもしろくない。よく見かける、おもしろいことを言おうとしているツイートも、触りからオチまでのリズムが一定というか、もうなんかテンプレートと化しているところがあるので飽きた。うまいこと言おう、という感じのツイート自体うんざりする。うまいこと言おうというだけならまだしも、一段上に立ってものごとを見下ろしてるような感じや、安全なところ(と本人は思っているであろう距離)から好き勝手書いている感じも、頬杖をついてため息が出る。インターネットとはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが。そうして、ぼくはSNSに向いていないと言ってしまえばそれまでだ。

 向いている向いてないと言えば、それはもう人間がいっぱいいる場に向いていないのだろう。しかも距離感がめちゃくちゃで、それぞれの思考がダダ漏れの空間。ぼくのようなのが耐えられるわけがない。
 だから別に耐えてまでやることはないのだけれど、いずれにせよこんなものは道具にすぎない。ぼくのキャリアを俯瞰してみるとツイッターの恩恵にあずかっている部分が少なくないと思うけれど、それを恩恵などと言ってしまうあたりが結構来てしまっていると思う。道具を活用して結果が出た、ただそれだけである。道具に呑まれてはいけない。

 ついでにこの際だから書くけれど、フォローされたからどんなひとかなと覗きに行くと非公開アカウント、というのが多い。特にインスタグラムは写真を載せるサービスゆえなのか非常に非公開アカウントが多いような気がする。非常に非公開って。

 こちらが発表のために使っているのだから別にいいのだけれど、どうも一方的に見られている感じがしてしまう。みんながみんなアカウントを公開したいわけではないので仕方がないけれど、ただ、見せ合って楽しむものでは……とも思う。見せられないものは載せなければいいのにとも。いやいや、それぞれみんな事情や用途があるので、乱暴な言い分だということはわかっている。もちろん。

 さっきはひとのツイート読むのに疲れていたくせに今度はひとの写真が見たいと言い出すあたり、ぼくもあまり一貫性がない。

 非公開アカウントに対するモヤモヤの延長として、有名人とのセルフィ写真に対するモヤモヤもある。有名人とのツーショット、もちろんSNSにアップしたくなるのだろうけれど、その際自分の顔を隠しているひとがまあ多い。

 いやだから、もちろん誰もが顔を出せるわけではないことはわかっているのだ。勤め先の手前出しづらかったり、匿名性の保持のためとか、いろいろあるのだろう。

 ただ、マーク・ハミルの横に立ってるひとの顔がものすごい大きなスタンプで覆い隠されている写真を見ると、なんじゃこりゃと思う。あまりにも目隠しスタンプが大きすぎてもはやマーク・ハミルがひとりで写ってるようにしか見えない写真もあったりして、一体これは誰のなんの写真なのだと言いたくなったりも。記念や自慢として成立しているのかもわからない。

 ふと吸血鬼が有名人とセルフィを撮ったらどうなるだろうかと想像する。恐らくハリウッド・スターがひとりで、妙に隣の空間を空けている写真になる。吸血鬼なら写真を一切加工せずにアップできるので、そのぶんSNSライフが楽そうだけれど、スターとのセルフィを楽しむことはできない。写真に顔どころかひとの気配すら写らないのでツーショットにならないし、セルフィにもならないのだから。

 しかし、吸血鬼でないひとは、ちゃんと手元に未加工の、顔を隠していない元の写真が残るわけだ。それはSNSには見せないそのひとだけのもの。SNSを通してぼくが目にするのは言わば記念のおすそ分けであり、検閲済であり、フィルター越しに見せられたものである。こっそりと。

 全てを見せることもできれば、なにを見せてなにを見せないかを決められるのもSNSである。そう思えば、大きな黄色い絵文字で覆われた誰か、がマーク・ハミルと並んだ写真も、その誰かの幸せの加工物で、ぼくのような見知らぬ者はオリジナルを見ることができない、ミステリアスで貴重な宝物のように感じられてくる。じゃあいいか。
 別に羨ましいわけでは、断じてない。

2017年12月2日

「太陽と乙女」刊行記念手ぬぐい


 先日刊行された森見登美彦さんの新刊「太陽と乙女」(新潮社)の記念手ぬぐいが登場しました。装画をはじめカバー下に使われた絵を集めたデザインでとてもかわいらしいです。思案する四畳半主義者、登美彦氏も柄の中にいます。差し色の黄色が効いていますね。
 新潮社のページからご購入いただけます。






 「×」で名前を結ばれると非常に照れますね。まさかこんな未来があろうとは、古いアパートの六畳間で「四畳半神話大系」をもそもそと読んでいた頃はまったく想像がつきませんでした。ここまで名前をピックアップされるのもうれしいです。