2018年5月24日

金曜ロードSHOW!『ロスト・ワールド』


 日テレ系「金曜ロードSHOW!」番組ウェブサイトにて、5月25日に放映される映画『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』のイラストレビューが掲載されています。


 結構観ているようでわりと細かいところを忘れている映画。ジュリアン・ムーアが若い。今も変わらず綺麗。
 ところで、『最後のジェダイ』にローラ・ダーンが出たじゃないですか。同じジュラシック・ヒロインということで次のエピソード9はジュリアン・ムーアが出るとかどうですかね。なんとか提督で。

2018年5月22日

勉強の時間

 アニメ「キテレツ大百科」にこんなエピソードがある。
 商店街に新しく出来た塾が誰でも受けられる力試しの学力テストを実施するというので、キテレツたちは受けることにするが、ブタゴリラに馬鹿にされてむきになったコロ助まで参加すると言い出す。
 コロ助の知能は幼児レベルで、自分の名前を書くのがやっとだ。案の定テストは全く出来ず、名前だけ書いて白紙で提出するが(氏名欄に書き込むフルネームが「木手コロ助」なのが可笑しい。じゃあドラえもんは「野比ドラえもん」なのか)、後日結果発表でなんとコロ助がいちばんの成績となったことが知らされる。
 この作品特有の少し不穏(SF)でミステリアスな展開となるわけだが、先に真相を言うと、コロ助の白紙の答案用紙に解答を書き込んだのは、塾が入っているビルの清掃員のおばさんだった。
 彼女は子どもの頃病気がちで、大人になるまでにあまり勉強ができなかったので、小学生レベルから自分で勉強し直しているという。
 自分の実力を知りたくなり、コロ助が馬鹿にされているのを見て不憫に思ったのもあって、彼の答案用紙を使ったのだ。
 
 アニメの「キテレツ大百科」はこういう、「ドラえもん」には無さそうな社会感みたいなものがある。大人たちに焦点が当てられることが多いのだ。なにか問題を抱えていたり、特殊な状況下にある大人たちと出会うことで、キテレツの発明品が役立ったり、コロ助がひとの心に触れたりする。
 キテレツたちの冒険は、のび太たちのそれのようにファンタジックな場合もあるけれど、大人の世界の一端を知る現実的なものであることが多い。

 アニメの話はこれくらいに。なんの話かと言うと、ぼくは改めて勉強し直したほうがいいかもしれない。
 基礎的な技術がないまま絵を描き続けて壁にぶち当たるのと同じように、基本的な教養がないまま生きているとなにかと辛いことも多い。なにかしっかりしたコアが作れていないような不安な感覚。自己肯定感の不足がそこにあるかどうかはわからないけれど、なにか重要なものが抜け落ちているのではないかという気が、前からあった。

 コロ助が出会った掃除のおばさんもきっと、子ども時代の重要な時期が丸々抜け落ちていて、人並みに勉強ができなかったばかりに失ったもの、与えられなかった機会というのがあるのだろう。おそらく40代くらいのひとだったと思うけど、小学校の教科書からやり直すことで彼女なりに自分の境遇を受け入れ、前に進もうとしているのだ。

 ぼくは病気で学校を休みがちだったわけではない。ちゃんと通っていたにも関わらず、知らないことや覚えていないことがあまりにも多い。
 学校が好きか嫌いで言えば、結局のところ嫌いだ。小学校の6年間は膨大な長さに感じられたし、中学の3年間は普通に体感する6年間くらいに思えた。常にはやく家に帰りたいと思って過ごしていた。
 
 小学校は廃校寸前のようなところで(今もあるので寸前ではなかったわけだが)ぼくの同級生は5人以下、いずれも男子、全校生徒はぼくが通っていた6年間のうち最多で40人前後というところだった。
 だんだん薄れ始めている記憶を探ってみると、なんだか幼稚園みたいな小学校だったような気がする。少人数で先生との距離が近すぎるあまりに緊張感が皆無で、逆に勉強に不向きな環境に感じられた。騒々しかった。
 普通の教科以外のイベントが多すぎたような気もする。ぼくの世代が特定の呼び方をされることと関係しているかどうかはわからないが、やたら身体を動かす時間があったり、土いじりをするだの、近所の老人や同級生の親が授業の真似事をする時間だの、そういうのが多すぎたと思う。
 同じ環境下でしっかり勉強できている子もいたのだから(主に違う学年だが)それは言い訳だ。どの教科も決められた時間だけ授業があったはずだし。自分の無学を世代のせいにするのもよくない。
 
 中学にあがると、環境が大きく変わった。
 クラスメイトの人数が一気に40人になり、教師との距離は12パーセクくらいになった。少人数の牧歌的な小学校から、急に普通の学校に放り込まれて困惑するばかりだった。
 家から遠いのも不安だった。小学校は親が顔を出す機会が少なくなかったし、単純に家が近いからなんとなく安心感があった。それが小さい学校の欠点でもあったのだろうけれど、中学校での心細さと言ったらなかった。

 もちろん授業はついていけなかった。
 小学校のときは目の前に先生がいて、わからないことがあったら聞けたし、先生も全員がわかるまでひとりずつに説明してくれた。40人の教室ではそうはいかない。主張の強いやつが教室の空気を操作するし、先生もそういう子しか相手にしない。少なくとも自分から質問する子しか気にかけない。もちろんそうでなければやっていけない仕事だ。
 ぼくはまずなにを質問すればいいかさえ見当がつかなかった。自分がなにがわからないのかもわからない。教室が小学校のときとは比べ物にならないほど騒がしかったことを言い訳にしたくもなるが、ぼくはあまりに集中力がなかった。大騒ぎをしている子たちが学校とは別に塾に行っていてちゃんと勉強ができているということを知っても、その理不尽な感じを説明する言葉がぼくにはなかった。

 もしこれら諸々の悩みを両親に伝えられたら。伝えたところでなにかが変わったかどうかはわからないけれど、なにかを主張したほうがよかったような気がする。非常に辛く、この現状がとても嫌であることをはっきり、強く訴えるべきだった。
 かりに思っていることや感じていることをちゃんと言葉にして伝えることができたとしても、当時のぼくはそれをためらったことだろう。両親はあの中学に行かないほうがいいと、前もって言っていたのだ。
 どういうことかというと、ぼくの家は学区のいちばんはずれにあり、隣の街の中学のほうが近かった。だからそっちに行けと。
 ぼくにその気があれば両親は学区外に進学できるようになんとかするつもりだった。でも中学校がどんなものかわからず不安でいっぱいの小学生が、知らない子ばかりのところに行きたいと思うだろうか。少なくとも学区内の中学には知っているやつが数人行くのだし、上級生にも知っているひとがいるのだ。
 今思えば同じ小学校のやつなんか全然つるまなくなるのだから、両親の言う通りにしておくべきだった。小学校では明らかに浮いていたのだし、いずれここではないところで話の合うひとたちと一緒になれるはずだ、と思っていたじゃないか。
 そんなわけで、たかだか数人の「知り合い」のためにビフ・タネンが改変した1985年みたいな中学校に進んだのだった。同じ小学校のやつがいるということが、そのあとでなにかプラスに働いたことなんか一度もない。
 こんな学校は嫌だ、どこかよそへ行きたい、と言い出せなかったのはこのためだった。自分でこっちを選んだのだ。
 後に弟は両親の言うことをちゃあんと聞いて、平和な隣町の中学に行くのだった。田舎のひとというのは前例ができると行動しやすくなるらしく、弟の進学で使われた方法を真似て、その後どんどん学区外に進学する子が増えるのであった。

 やや話がそれたが、ぼくはそういうわけで完全に中学の勉強についていけなくなった。もっと悪いことに、勉強するということに興味が抱けなくなり、家に帰ってもインターネットで『スター・ウォーズ』のことばかり調べる日々になってしまった。
 その日々で得られたものもある。それが今の自分の財産になっているのは言うまでもないが、もう少しその時間を自分なりの学習時間にあてられれば、もう少しはましな人間になれたかもしれない。少なくとも奥さんに漢字の読み間違いを呆れられない程度には。
 中学3年間を通して、自分は馬鹿で出来が悪いと強く自覚していくことになる。インターネットで話し相手は得られたけれど、みんな頭がよくて、やっぱり劣等感ばかり強くなるのだった。誰からも馬鹿にされていた。
 
 もちろん自分の問題だろうけれど、だからやっぱりその時期の学習というものが抜け落ちているからこそ、なにか自分に芯のようなもの、土台のようなものが見出せないのではないか。なんとなあく絵が描けるというだけでやってきていて、半端で偏った知識でごまかしごまかしやってきているままでは、いずれ行き詰まる。絵の技術を磨けば、それに関しては壁に当たらないで済むかもしれないけれど、基本的な教養が欠けているままでは、人間として行き詰まるのではないかという不安がある。
 
 例の掃除のおばさんが同じような不安を覚えたのかどうかはわからないけれど、ぼくも今からでも全くダメだった時期の勉強をやり直してもいいのではないか。調べれば世の中には大人向けのそういう復習本があるようだ。学校の教科書以外にも勉強を補助する本がたくさんあるということに、中学生のぼくはもっと注目すべきだった。
 あるとき妻がこんなことを言った。
「あなたは本当は頭がいいはずで、それなりに勉強すれば大学などいくらでも行けた」
 少し無責任な言葉にも聞こえたが、同時にぼくの奥底にあるなにかをかき立てもした。本当は頭がいいと言われて舞い上がったわけでは全然ない。永久に失われたように感じていたものを取り戻せるのだという予感だ。彼女が適当なことを言っていなければ。
 そうなると、年を取ってから大学受験するひとの気持ちもわからないでもない。勉強する機会を取り戻したい、そしてその成果を確かめたいのだ。
 別にぼくは今更大学に行く気はない。妻が大学と言ったのはあくまで基準としてだ。だから学歴にこだわっているわけではなく、ただひたすら中学3年間を中心とした無力感を埋め合わせたい。覚えられなかったことを覚えることで、果たして自信がつくのかどうかはわからないけれど、なにが欠けていたのかをまず知る必要がある。
 そうすることで中学時代の問題と向き合うしかない。不遇を嘆くばかりでなく。
 もちろんちゃんとできれば、そのうちに成果を確かめたくなるかもしれない。掃除のおばさんがコロ助の答案用紙を出来心で使ったように。
 とりあえずは子供の勉強を手伝えるくらいになればいい。

2018年5月20日

映画サイト「CINEMORE」連載第3回


 映画サイト「CINEMORE」での連載シリーズ、
 「川原瑞丸のCINEMONOLOGUE」の第3回が更新されました。
 英アードマンとニック・パークの代表作『ウォレスとグルミット』シリーズ、
 主にシリーズ第1作『チーズ・ホリデー』について語っています。
https://cinemore.jp/jp/news-feature/286/article_p1.html

「超一流ビジネスマン」

 昼寝をしているとセールスの電話がかかってきた。
 最近引っ越しを検討していて、不動産屋さんとやりとりしているところだったので、「不動産会社」という言葉に反射的に対応してしまったのが間違いで、話を聞いているとどうやら全然関係がないマンション投資の話で、それどころかぼくの名前も呼ばれていないのでセールスに違いなかった。
 セールスの電話で毎回びっくりするのは、よくもまあこんな要領を得ない話し方をするなあというところだが、今回は特にすごくて、相槌を打つ暇もなく延々話し続けるので圧倒された。電話を耳から離して放置してもいいのではないかとさえ思えた。
 そうしようかと思ったところで、なにかを問いかけられる。なにを聞かれたのか全然わからないが、辞退するタイミングのようなので、今はちょっと時間が、みたいなことを口走ると、
「ではご都合のよろしい時間帯はいつ頃でしょうか?」
 そうか、こういう断り方はこう返されてしまうのでよくないのだった。
 ぼくは普段から電話があまり得意でなく、というかむしろ大嫌いだ。
 仕事の連絡もできるだけメールでやらせてもらっているし、知らない番号からかかってきた場合にはすぐ取らず、どこの番号か調べてから応答するなり、かけ直すなりしているほどである。
 いち社会人としてよくないことはわかっているが、全く心の準備ができていないときに誰かと話さなくてはならないというのが、怖くてしょうがないのだ。
 相手の顔が見えなくてうまく話せないというひとも結構いるらしいけれど、ぼくの場合は顔が見えていても難しい。むしろ顔の見える電話のほうがもっと嫌なくらいだ。一時期はなんの断りもなくフェイスタイムで電話をかけてくるひともいて困ったものだった(片付いていない部屋で、だらしのない格好でいることもあるのだからああいうのは本当にやめてほしい。みんながみんな見せられる生活をしているわけではないのだ)。
 都合のいい時間はいつかと聞かれて、さあどうしたものか、そのあとなんて言ったのかは忘れたけど、とにかくやんわりやんわりと(はっきり言えないので)話を終わらせる方向に持っていこうとしたと思う。しかし、向こうがなにかと話し続けるのでなかなか出口が見えない。
 さすがにぼくも少し語調を強めて、あまり興味がないということを伝えると、
「いえ、興味があるとかないとかではなくてですね、これは非常にお役に立つので云々」
 と言われてしまった。
 興味があるとかないとかではない。
 そんなことを言われてはこちらはなにも言えない。ものすごい言葉だ。興味がないということが辞退する理由にならないとは。
 そんな売り込み方が通用するのならぼくだって道行く人々に絵を売りつけ、全く縁のない出版社に「興味があるとかないとかではないのです」と言って頼まれてもいないイラストを押し付けて原稿料をもらっているところである。
 もうこの電話をどうやって切ればいいのかわからなくなってしまい泣きたくなった。ぼくはすぐ泣きたくなる。
 そもそもどうしてこういう電話がかかってきてしまうのだろう。
 一体この番号をどこで知ったんですか?
 と聞いてみると、
「あっ、うちはですね、お客様のお電話番号を、しっかりした業者さんから買い取ってご連絡しております。今、個人情報とかうるさいじゃないですか?なので、うちはちゃんとしたところからリストを買っております。このお話は超一流ビジネスマンの方にしかご案内していないんですが、お客様は超一流ビジネスマンのリストに入っているのです」
 なんてこった。
 言いたいことが山ほど思いつくが、少なくとも「今個人情報とかうるさいじゃないですか?」みたいなことを言う人は個人情報を扱うべきではないと思う。
 そして一流ビジネスマン。
 自分の電話番号が売り物にされていることなど吹っ飛んでしまうすごい言葉だ。
 なんであれ仕事をしているのであればビジネスマンと言えなくはないが、そうか、一流どころか超一流のビジネスマンのリストに入っているのかぼくは。なんということだ。
 ちなみに今はビジネスパーソンと言うのだよ。
 もう限界だ。頭がくらくらする。
 もうこれ、終わらせたいんですが。
 と、はっきり(でもないが)伝えると、ようやく相手も引き始めた。
 どうせ泣きそうな声だったのだろう。
 実際泣きそうだった。ぼくはすぐ泣きたくなる。
 相手はまだなにか続けていたが最後まで聞かずに電話を切る。
 本当に切りたいときは、興味がないではなく、切りたいと言えばよかったのか。
 こんなに電話で話せないやつが超一流ビジネスマンなわけあるか。

2018年5月12日

ジャバ・ザ・ハットのあれこれ


・宇宙ギャングスター

 『ジェダイの帰還』は本当にいろいろなエイリアンやクリーチャーが登場する。特に前半で登場するジャバ・ザ・ハットの宮殿のシーンでは独特の造形の連中がうじゃうじゃ出てきて、まさに宇宙のお化け屋敷といった感じ。

 後半で活躍するイウォーク族も手伝って、『ジェダイの帰還』は結構着ぐるみ映画だとかパペット映画だとか揶揄されたりもするんだけど、ぼくはむしろそういう「ちょっと気持ち悪いセサミストリート」みたいな感じが好きで、シリーズが好きになったのもこのエピソード6が入り口だった。メカや戦闘もかっこいいし楽しいけれど、やっぱりぼくの入り口はロボットやバケモノとかだったんだろうな。

 ジャバ・ザ・ハットは宇宙マフィアの親玉である。その影響力は強く、銀河の暗黒街を牛耳るだけでなく、帝国とも取引しているほどだ。
 彼はあらゆる犯罪に手を染めており、そのうちのひとつが密輸である。SWの主人公のひとり、ハン・ソロはもともとジャバの下で働く密輸業者であり、彼がルーク・スカイウォーカーの旅に加わるのも実はこのことが関係する。

 ルークと出会う前、つまり第1作『新たなる希望』よりも前の時点で、ハンはとある密輸品を運んでいる最中に帝国軍の検問に遭遇する。
 この検問がどういうものだったかは具体的に説明されない。今度のスピンオフ映画『ハン・ソロ』でそこまで描かれるのかはわからないけれど、一応帝国軍の軍艦を前にしたハンが、ミレニアム・ファルコンで運んでいた積荷を宇宙空間に捨てて逃げた、という出来事であるらしい。
 ちなみに積荷はケッセル産のスパイス。スパイスというのは幻覚作用のあるドラッグのようなもので、たぶん「デューン/砂の惑星」からの引用。

 ハン・ソロみたいなやつが検問に遭ったからって積荷を捨ててしまうだろうかとよく思ったものである。もちろん密輸業者と言えど帝国軍の軍艦を前にすれば当然逃げるしかないのだろうけれど、どうせ逃げるなら積荷を持ったまま逃げ切れたんじゃないかと思ったりする。『新たなる希望』で現に二隻ものスター・デストロイヤーから逃げ切ってるわけだし。
 
 とにかくそういうわけで、ハンは捨てた積荷の分だけジャバに借金をつくってしまう。このお金を返すために怪しげな老人からのチャーター依頼を引き受け、長い冒険に巻き込まれてしまうのだ。

 『新たなる希望』ではハンのところにしびれを切らしたジャバが直々にやってくる。
 ハンはその直前に、借金を取り立てにきた賞金稼ぎを撃ち殺しており、ジャバは余計におかんむりだ。
「ちょろいチャーターの仕事が入ったから金はすぐに返せる」
 ハンはそう言ってハットを説得し、その場をなんとかやり過ごすが、結局この約束が果たせなかったがために賞金稼ぎに追われ、『帝国の逆襲』で冷凍された後、ジャバの宮殿に囚われてしまうことになる。


・おじさんからナメクジに

 この第1作のジャバ登場のシーンは、もともと撮影だけされて本編からは削除されていた。
 ジャバ役は太った普通のおじさん(デクラン・マルホランドという俳優)で、今のようなキャラクター・デザインは完成していなかった。このおじさんに、あとでアニメーションのクリーチャーを合成する予定だったが、お金や時間の問題で結局お蔵行きになる。

 このシーンが陽の目を見たのはそれから20年後、1997年の特別篇でのこと。『ジェダイの帰還』での造形に合わせたジャバをCGで合成させることで晴れて本編に復活を果たすのだった。

 ただしこのジャバ、『ジェダイの帰還』の姿に比べるとだいぶ奇妙。
 元となるおじさんの大きさや会話の相手であるハリソン・フォードの目線の関係などで、なんだか小さく見えるのだ。
 さらに元のおじさんが結構演技をしているためか、CGの方も表情が豊かなのだ。本当にお金返してくれないと困るんだよお、みたいな表情で可笑しい。
 そのせいで『ジェダイの帰還』のあまり顔の動かない着ぐるみとはまた違う印象になってしまっている。よく出来ているんだけどね。
 ハン・ソロがジャバのしっぽを踏んづける動きなどがおもしろい。もともとハンがおじさんジャバの背後にまわりこむのだが、完成版ジャバのデザイン上しっぽが邪魔になる。そこでハン・ソロの姿が編集されてジャバのしっぽを乗り上げているかのように合成されたのだ。
 上下に動くハンの姿が若干切り取られた静止画のように見えたものだけれど、よく出来ている。
 
 その後、1999年の『ファントム・メナス』にフルCGのジャバが登場し、こちらはもう完全に『ジェダイの帰還』のデザインをそのままCGにした形になっている。顔も色もそのままだ。
 さらに着ぐるみには出来なかった細かい挙動が、着ぐるみのときの印象を損なわない程度に付け加えられていて、個人的にはこのエピソード1版ジャバが決定版だと思う。

 2004年のオリジナル3部作DVD化でさらに編集がなされるわけだけれど、『新たなる希望』のジャバも大幅に手直しされた。
 しかし、デザインは申し分なくジャバらしく(つまり『ジェダイの帰還』らしく)なったものの、なぜか色彩の雰囲気が違う。ぼくなどはここで普通に『ファントム・メナス』のときと同じようなものを持ってくればいいと思うのだけれど、エピソード1とも6とも違う独特の雰囲気になっているのだ

 もしかすると、ジョージ・ルーカスが本当に思う姿というのが(キャラクターのデザインはもっと大勢が関わっているとは言え)DVD版『新たなる希望』のあのヴィジュアルなのかもしれない。
 こちらとしては映画に登場する着ぐるみが完成された姿なのだけれど、ルーカスにとってはそうではないのだ。とりあえずそのときの技術で可能な方法でキャラクターを作っているに過ぎないのだろう。本来の目的は実在しない生き物をスクリーンに生み出すことであって、キャラクターを味のある着ぐるみで表現することではないのだから。


・親方ジャバと犯罪王ジャバの違い

 ところでCGを被せられる前の元のおじさん、結構いい演技をしていると思う。
 ただ密輸品の弁償代を取り立てにきたのではない。商売仲間として敬意を表しつつ、勘弁してほしい、というような態度が見受けられる。
 ハン・ソロが腕のいい密輸屋だということは認めつつも、彼だけ特別扱いはできない。雇っている連中みんなが以後同じ状況下で密輸品を捨ててしまえば商売にならないからだ。
 怒っているだけでなく、こっちも困ってるんだよというような感じ。

 完成版ジャバとなったあともその名残はある。
 おじさんの演技がそのままCGジャバにも生かされているからこそ、後のシリーズで知られるジャバの表情やキャラ性とは、若干違う雰囲気があるのだろう。
 まだこのときは『ジェダイの帰還』で見られるような冷酷な犯罪王ではなく、もう少し距離の近い仕事の上司、親方のような感じだ。

 そういうわけで『新たなる希望』と『ジェダイの帰還』とではまるっきりキャラが違って見えるわけだが、この違和感を埋めるにはハン・ソロとの関係に注目してはどうだろう。

 『新たなる希望』でのハンはジャバにとって貴重な人材であり、それなりに目をかけてやっている。ハンのほうも雇い主からの信頼や評価を自覚していて、なによりああいうやつなので、他の取り巻きとはだいぶ違う距離感でジャバと渡り合えていた。
 だからこそ平気でしっぽも踏んづけられる。ジャバはあの暴挙にほとんど怒りを見せない。もしこれが『ジェダイの帰還』に出てくる犯罪王なら処刑ものである。しかし、あそこでのハンはジャバにとってかわいがってる小僧なのだ。

 しかし、そんな一見良好な関係も、ハンが約束を守らず借金を返さなかったことで一変する。ジャバはハンに懸賞金をたんまりかけ、最終的に冷凍されたハンを手中におさめる。
 レイアの救出により解凍されたハンは、再びジャバをうまく丸め込もうとするが、もうハットは彼の言葉に耳を貸さなくなっていた。そこにいたのは以前のような親方としてのジャバではなく、無慈悲な犯罪王ジャバだった。

 必死に弁明しようとするハンに対し、ジャバは言う。
「もう遅い。昔はいい密輸屋だったが、今じゃバンサの餌だ」
 ジャバにとってもはやハンは用済みだった。
 つまり、自分に役に立つ相手ならジャバはそれなりに敬意を示したり、友好的でいてくれたりするわけだ。
 役に立ってくれる密輸屋なら、しっぽを踏んづけられるくらいのじゃれあいもしてくれる。
 少々無理やりな辻褄合わせな感が否めないけれど、これはこれでわりとマフィアらしくていいのではないだろうか。
 親父的な顔を見せていたかと思えば、冷酷なボスの顔も見せる。
 ちなみにジャバが最終的に絞殺されてしまうのは、『ゴッドファーザー』でのルカ粛清のシーンに影響されているらしい(ルカもジャバほどではないが太めのおじさん)。
 
 DVD版以降の『新たなる希望』版ジャバというのは、ルーカスの思う完成されたジャバの姿というよりも、ハンにとっての親方としての姿だったのかもしれない。
 逆に、『ファントム・メナス』でレース会場に主賓として現れたジャバは、地元を支配する犯罪王としての姿だから、『ジェダイの帰還』と同じイメージなのだ。


・ジャバの血筋

 『ジェダイの帰還』のジャバの姿が完成するまで考案されたデザインは本当にいろいろなものがあるんだけど、その中には巨体を反重力装置で浮遊させて支えているスケッチもある。イメージとしては、完成版と変わらないナメクジ型のジャバのしっぽの部分が、円錐状の装置の中にすっぽりおさまり、巨体が縦に浮いている形である。ちょうどジャバの体がアイスクリームコーンにおさまっているような感じ。

 この「とてつもない巨体を機械で浮かせて支えている」というイメージも、「デューン」からの引用だと思う。「デューン」に登場する悪役ハルコンネン男爵もぶくぶくと太った巨漢なのだが、反重力パッドで身体のあちこちを支えて立ち歩くキャラクター。パッドが支えていない部分からは肉が溢れかえっているほどで、人間でありながらその奇怪さはジャバ以上である。
 さらにハルコンネンも砂漠でスパイスの採掘を行っており、スパイスの密輸をする犯罪王とも重なる。タトゥーインは砂の惑星というだけあってやはり「デューン」の影響が強いと思う。

 逆にジャバの影響が感じられるキャラクターもいる。『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズのデイヴィ・ジョーンズなんか、ジャバと銀河皇帝の立ち位置を一緒にしたようなキャラクターだし、最近では『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のヨンドゥなどもジャバ的と言えるだろう。
 まあ、ヨンドゥはジャバの仲間にするにはちょっといい男すぎるけど、少なくとも1作目では主人公を追い回す昔の仲間として重なるところがあると思う。

 そういえば前にギレルモ・デル・トロがジャバ・ザ・ハットを主役にクリーチャー版『ゴッドファーザー』的なスピンオフを撮れたらなあ、なんて意欲を見せていたが、ぜひとも実現して欲しいところだ。どれだけのひとが観たいかわからないけど(人間のキャラクターを中心に添えないとちょっときつそう)。
 ジャバでスピンオフと言えば、『ジェダイの帰還』でのジャバの死を受けて起きたであろう権力闘争なんかを描いた方が、シークエル3部作の世界とも繋げられそうでおもしろい気はする。
 もちろんその場合は新しいハットのキャラクターに出てきて欲しいものである。
 

2018年5月11日

金曜ロードSHOW!にて


 日テレ系「金曜ロードSHOW!」番組ウェブサイトにて、本日放映される映画『パシフィック・リム』のイラストレビューを掲載していただいております。鑑賞前にぜひご覧ください。

https://kinro.jointv.jp/illust/20180511.html

2018年5月5日

そんなシーンは無い


 複数のひとが実際の出来事とは違う記憶を共通して持っている現象。
 それをマンデラエフェクトと呼ぶらしい。 
 ネルソン・マンデラが逝去した際に、
 もっと前に亡くなってなかったっけ?と首をかしげたひとが続出したとか。
 マンデラさんに限らずそういう著名人は結構多いらしい。かなり失礼な話だけど。
 『天空の城ラピュタ』のエンディングのバリエーションの話とかもそういうやつだね。

 『スター・ウォーズ』における主なマンデラエフェクトと言えば、
 『帝国の逆襲』の名セリフ「I am your father.」が、
 「No. I am your father.」なのか「Luke, I am your father.」なのかという話。
 正解は前者なんだけど、おそらくこのセリフの少し前にダース・ヴェイダーが、
 「Luke, you do not yet realize your importance.」と語りかけるので、それと混同したのだろう。

 ぼくが観た覚えのあるシーンは、いまのところ同じような記憶を持っているひとが見当たらないので、正確にはマンデラエフェクトとは違う。ぼくひとりのただの記憶違いに過ぎない。
 ちなみに友人たちに聞いてみると、

 「DVDより前のバージョンのEP6ラストにナブーのシーンがあった」
 「EP4でルークとレイアのターザンが一度失敗する」
 「EP5のホスの戦いで、AT-ATの上空をミレニアム・ファルコンが飛び去るシーンがあった」

 などという話が出た。
 どれも「ハン・ソロがイウォークに囲まれて冷凍された」というのに比べれば全然ありそうな記憶違いである。
 ナブーはDVDで追加されるので記憶が前後したのだろうし、
 ターザンについてはメイキングでかなり大変だったという話が語られている。
 ホスでは確かにファルコンが飛び去るシーンがあるし、
 同じ雪景色の中をAT-ATが歩いているおなじみのイメージが混同されても無理はない。
 いずれにせよSWはカットされたシーンや、
 後のバージョンで変更されてしまうシーン、
 さらには映画とそんなに変わらない写実性を持ったビデオゲーム独自のシーン、
 リアルなタッチのファンアートなど、
 とにかくそういう視覚的なバリエーションがたくさんあるので、
 こういった記憶違いがあるのも仕方がない。

 ぼくの記憶にある「C-3POを撃ってバラバラにするストームトルーパー」も、
 調べてみるとぼくのイメージ通りの構図のファンアートがあった。
 子供の頃によくわからないままいろいろな画像や映像を目にするうちに、
 ごっちゃになって記憶に残ったのかもしれない。
 もっといろんな人のSWに関する記憶違いを聞いてみたい。
 

映画サイト「CINEMORE」連載第二回


 映画サイト「CINEMORE」での連載シリーズ、
 「川原瑞丸のCINEMONOLOGUE」の第二回が更新されました。
 今回は『グランド・ブダペスト・ホテル』とその着想元、
 シュテファン・ツヴァイクの「昨日の世界」についてです。
 https://cinemore.jp/jp/news-feature/272/article_p1.html

やっぱり第1作目


 1、2、3、ローグ・ワン、4と観て限界がきて終わったんだけど、
 この先どんどん一気見ができない数に膨れ上がっていくんだよね。
 6作しかない頃が懐かしいよまったく。
 オリジナル3部作から観ればよかったけど、
 そういう順番で観たものだから『新たなる希望』の良さが際立つ。
 プリクエル3部作も好きだけどね。

 『新たなる希望』の少し薄暗くてミステリアスな感じや、
 クリーチャーの少しゲテモノな感じ。
 昔のSF小説のカバーイラストのような雰囲気がとても良い。
 お姫さま、魔法使い、ロボット、宇宙船、エイリアン、恐い悪党、機動兵士と、
 楽しいものがたくさん詰まっている。
 それでいながらひとつの世界にまとまっているところも素晴らしい。

2018年4月24日

漫画「SWeet Dream」








 リトル・ニモ × スター・ウォーズ的な感じ。
 ベッドやお風呂に入ったまま移動できたらとよく思う。
 もっともこの少年はもしかしたらベッドから出たくても出られない身の上かもしれないが。
 非常に悩んだ末にユーリズミックス(風)のふたりを脱出させたものの、よく見たらダフトパンク(風)のふたりを脱出させるのを忘れていた。全く他意はない。見た目優先。

2018年4月23日

映画サイト「CINEMORE」での新連載のお知らせ

 

ウェブでの新連載のお知らせです。映画サイト「CINEMORE」にて、連載「川原瑞丸のCINEMONOLOGUE」が始まりました。

 「CINEMORE」はうんちくという切り口で映画を掘り下げていくサイトです。新連載ではイラストを交えて独白のようにお気に入りの映画について語っていこうということで、「CINEMONOLOGUE」というタイトルにしました。

 第1回はアカデミー監督賞受賞も記憶に新しいギレルモ・デル・トロ監督と、『ハリー・ポッター』シリーズとの意外な関係についてです。
 https://cinemore.jp/jp/news-feature/254/article_p1.html

 近年の作品に限らず、往年の作品など、いろいろ語っていきたいと思います。「SPUR」の連載や、このブログでの映画記事と合わせてお読みいただければと思います。

営業報告




 「飛ぶ教室」2018年春号(光村図書)では、
 ひこ・田中さんの短編への挿絵を描かせていただきました。
 教室の絵は大変ということがわかりました。



 これはまだ少し先ですが、6月に立東舎より刊行される「村上春樹の100曲」の装画を描かせていただきました。
 小説に登場する音楽について読み解く解説書です。
 お楽しみに!



 犬向けノミ・マダニ駆除薬「クレデリオ錠」(Elanco)の広告イラストを描かせていただきました。
 ペット関連の仕事ができるのはうれしいです。
 モンスター風のダニが怖すぎる気もしますが、犬の耳の内側にびっしりダニが食らいついた写真を見たときの恐ろしさと不快感を考えると、これでも足りないくらいでしょう……。




 「SPUR」2018年6月号(集英社)「銀幕リポート」第27回では、ルカ・グァダニーノ監督、ティモシー・シャラメ&アーミー・ハマー主演作『君の名前で僕を呼んで』を紹介しています。




 「婦人公論」2018/5/8号(中央公論社)のジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第26回挿絵を描かせていただいております。




 「小説NON」2018年5月号(祥伝社)では、原宏一さんの連作への挿絵を描かせていただいております。


2018年4月16日

『スリー・ビルボード』(2017)


 どこか行き詰まってしまったような田舎町、それでも生きるしかないのだということを見せつけてくる登場人物たちは、みんな熱い。主役の三人は言うまでもないけど、脇をかためるピーター・ディンクレイジやルーカス・ヘッジズ、窓から落とされてとんでもない目にあってしまうケイレブ・ランドリー・ジョーンズまでもがどこか清々しい感じがする。

 ルーカス・ヘッジズの役どころに既視感があるのはもちろん『マンチェスター・バイ・ザ・シー』。難儀な長男役のイメージがついてきたけど、メジャー・デビュー作は『ムーンライズ・キングダム』で、バイクにまたがって主人公を執拗に追い回していたあの意地悪な少年である。サムとスージーのロマンチックな逃避行を邪魔するもスージーのハサミで傷つけられ、後半は松葉杖ついてまで憎まれ役を続けるあいつだ。
 『マンチェスター〜』ではそのスージー役だったカーラ・ヘイワードがルーカスの彼女役なのだからおもしろい。そして、『ムーンライズ〜』でそのスージーの母親役だったのが、本作『スリー・ビルボード』の主役フランシス・マクドーマンドなのである。『ムーンライズ〜』で刺され、『マンチェスター〜』では刺された女の子と恋仲に、本作で今度はその子の母親と親子になっているというわけ。難儀である。

 それにしても小さい町というのは本当に誰も彼も知り合いで、噂などが広まっていくのが本当に早いなあ。警察署長が癌である、という全く公言されていないことでもみんな知っているくらいだから、大きな看板3枚に貼り出された言葉はさぞ強烈だろう。そこに書かれている内容以上に、その情報の強さもまた住人たちにショックを与えたんじゃないかな。不満や批判を具体的な言葉で目に見えるところに貼り出す、というのは、目に見えない形で情報が行き交い、周知の事実を口には出すことが憚られている小さな町では、かなりの暴挙なのかもしれない。

 ショックと言えば、歯医者のシーンが地味に怖い。このあいだから歯医者に通っているので、どうしてもあのシーンを思い出してしまう。まあ、被害を受けるのは歯医者の方なのだが。

2018年4月6日

4月になってひとやすみ

 ようやく4月である。怒涛の3月だった。とにかくすごかった。平日がほとんど全部締め切りのような感じだった。
 忙しいと、余計なことを考えずに済むし(とは言えなにかしら思い悩んだりはするのだが)、好きなことやりたいことも、限られた時間の中でかえって集中して取り組めたりするので、いい。ただ、もう少しやり方を変えたほうがいいかもしれない、と思ったところがいくつか出てきた。仕事の進め方というのは人それぞれ、必要に迫られて出来上がっていくものだなあ。



 春に向けて買ったもの。マリメッコのショルダーバッグ、ベルトが磁石でくっつく「2015年」みたいなナイキ。ここ何年かはスニーカーはナイキかヴァンズである。久しぶりにコンバースも履きたいが、犬の散歩が習慣になったため脱ぎ履きが楽な靴を選ぶようになってしまった。


 留め金のマグネットがかちゃりとくっつく音もいいし、黄色いところも最高だ。ただ、生地が薄めなのですれて破れてしまわないかが心配。犬の散歩には使わないな。
 バッグの方は、これくらいの大きさのものが無かったから助かる。これまで仕事向けの鞄が数種あるだけで、遊び用のものがなかった。ぼくは財布が大きめだし、出かけるときはなにかしら本や筆記具が欲しいので、手ぶらで遊びに行くということができない。仕事の荷物以下、手ぶら以上の鞄が欲しかったのだ。たとえば、ディズニーランドに行くときにこういうのが必要になる。アトラクションに乗るとき、いちいちバックパックを下ろして前に抱えて乗るのは非常に億劫だ。ましてやポップコーンの容れ物とかも持っているのだから、鞄は小さい方がいい。以前、リュックを背負った上にポップコーンバケツも下げてタワー・オブ・テラーに乗ったときはとても邪魔くさかった。邪魔っけすぎてうまく手すりをつかめないほどで、あのアトラクションはなんと身体が座席に固定されたりしないので(!)手すりにつかまっていないともう魂がタワーの上の方に取り残されてしまいそうになる。だから小さめのバッグが必要。



 恥をしのんで言うけど、ぼくは今まで『スター・ウォーズ』のソフトを全作揃えたことがなかった。子供の頃、シリーズにはまり出したときはテレビ放映の録画VHSを観ていて、『クローンの攻撃』や『シスの復讐』などリアルタイムで公開された作品だけDVDを買っていた。残りの4作は全て放映版の録画を観ていたというのも、今思えばすごい。

 このたび6部作ブルーレイボックスを買って、とりあえず全作流してみて思ったのは、やはり全部手元にあるといいな、ということと、6作で完結しているのもちょうどよかったなというところ。綺麗に環が出来ている。もちろん新シリーズも好きだけど。

 それにしてもジャケットの絵がいまひとつ。ディスクにもキャラの顔が刷ってあるんだけど、それもなんだか変な組み合わせで、アートそのものもあまりよくない。思えばDVDのジャケットもなんか変だったよね。公式なのに何故かコラ画像みたいな。劇場用ポスターとも違う微妙なグラフィックだった。

 普通の映画みたいに、劇場用ポスターで通せばいいんじゃないかとも思うけど、このポスターというのも実はあんまり統一感がない。プリクエル3部作と旧3部作特別篇は同じひとが同じように描いているのでまだ一貫性があるけど、旧3部作を劇場用ポスターで合わせると結構バラバラな印象。旧3部作はそれぞれタイトルのロゴも結構違うのも気になる(昔は1本ずつの映画として確立されている感じだったのだろうし、ロゴ自体はかっこいいんだけど)。いや、そんなこと言うと今やってるシリーズも含め全シリーズでロゴはバラバラなんだけど。エピソード9が公開されたら、また9部作ボックスが出るだろうから、そのときはジャケットやロゴのデザインを綺麗に統一してほしいなあ。もっと言うとエピソードの番号もつけるのかつけないのかはっきりさせたい。まあ、バラバラでゴチャゴチャなところもSWらしいと言えばらしいのだが。あまりなんでも統一感、一貫性を持たせても、かえってつまらなくなるかもしれないし。
 
 春からは、もう少し真面目にSWのことを考えていきたい。今まで不真面目だったのかというとそういうわけでもないのだが。というか真面目も不真面目もないんだけど。とりあえず邪念を捨てて、初心に帰ってもっとフラットに、ピュアにSWを楽しみたいと思った。
 たとえば知識のリセット。って、一度知ってしまっている以上難しいけれど、知識を重視しないことで、自分は別にそこまで知らない、という気分にはなれる。自分には結構知識がある、そう思うだけでいろいろな不満が出てきてしまう。知識をそこまで重視しない。そもそもそれが知識なのかどうかも怪しい。そういうふうに切り替えた途端に視界がひらけたような気がしたのだった。
 とりあえず、映画を観て、絵を描いて、おもちゃで遊びたい。


 半蔵門で試写があったあと、なんとなくそのまま神保町に行ってみた。しばらく行ってなかったけど、別に大して変わりはなかった。ただ、たぶんここは本屋だったよなという場所が飲食店に変わってた。うちの近所でも古本屋が潰れて、跡地に店員の野太い大声が飛び交う感じの居酒屋が出来たときも、結構ショックだったけど、神保町でさえも同じようなことが起こるとは。
 それにしてもあの手の居酒屋というのは全部同じに見えておもしろくない。もうちょっと違いがあればいいんだけど。あと、あまりにも飲食店だらけだと歩いているだけで胸がいっぱいになったりする。
 初めて訪れた商店街などで、ここにはなんでもあるな、と思っても、よく見たら書店が一軒もない、なんてことも結構ある。本屋が減っている、ひとが本を読まない、などとイメージだけでやたらと悲観的になるのも嫌だけどね。今度住むところにはちゃんと書店があるといいな。

2018年4月5日

Pen+『みんなのスヌーピー』


 2016年のスヌーピー特集号が増補決定版として登場。
 当時描いたイラスト記事も再掲載されています。
 この機会に改めてご覧いただければ。




 それまでキャラクターの名前とアニメで観たストーリーくらいしか知らなかった「ピーナッツ」に興味を持つきっかけとなった仕事でもありました。
 また自分でなにか描いてみようかな。
 増補版なので、新しい記事も満載で非常に読み応えがあります。
 手元に置きたい一冊です。

営業報告




 アエラムック「HAKUTO」(朝日新聞出版・非売品)にイラストカット描かせていただいております。月面探査レース「Google Lunar XPRIZE」に参加予定だった日本代表HAKUTOのミッション内容がイラストで解説されています。珍しくリアル宇宙の仕事でした。
 『スター・ウォーズ』の劇場パンフレットのような雰囲気でかっこいい本です。



 「映画ナタリー」3周年記念ページのヘッダー・イラストを描かせていただきました。この3年間で印象的な映画のイメージを詰め込みました。あなたの印象的な作品はなんでしょう。





 「SPUR」(集英社)2018年5月号の「銀幕リポート」第26回ではトッド・ヘインズ監督最新作『ワンダーストラック』を紹介させていただきました。前号の『シェイプ・オブ・ウォーター』に続き手話への興味がわく作品。声高な世の中、物言わぬヒロインの魅力が際立つのかもしれない。




 「婦人公論」(中央公論社)2018/4/10号ではジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第25回の挿絵。3コマ風。




 「小説NON」(祥伝社)2018年4月号では先月に引き続き原宏一さんの連作に挿絵を描いています。

2018年3月18日

大人になる前の最後の抵抗

 どうやらぼくは父親になるらしい。生まれるまで書かなくてもいいかなとも思っていたんだけど、さすがにそろそろ日常について記す上で触れないではいられなくなってきた。もはや妻の体調や膨らんだお腹が生活の中心となっているので、それに触れないということはブログに書くことがいよいよなくなる。それに、せっかくなら今くらいの時期のことを書き記しておくのも悪くないだろうというわけ。

 と言っても、子供が生まれる、というそれ以上はあまり書くことがないんだけどね。そもそも初期の頃から妻の体調がよくなく、つわりがひどすぎて入院までしたほどだったので、そういった慌ただしさもあってなかなか能天気な調子になれなかった。この先どうなるかというのもわからないから、おおっぴらにする気にもならなかったというわけだ。なんと言ってもひとの身体のことだから、事細かにそのプロセスを誰でも読めるところに書くのも憚られた。

 しかし、そろそろ秒読み段階に入るので、気をつけながらなら多少のことは書いてもいいだろうという許可を、自分に下したというところである。というか、妻のことはともかく、ぼく自身にある変化(退化と言えなくもないが……)が見られたので、そのことを話しておきたい。

 ぼくが小学生時代以来久しぶりにポケモンのゲームで遊び始めたことは、このブログやツイッターを読んでいるひとなら知っているだろうけど、問題はそこだ。なんで急に小学校の頃遊んでいたものに手を出したのか。『スター・ウォーズ』のように慢性的(?)に夢中なものは別として、子供の頃遊んだもの、好きだったものに妙に惹かれるようになってしまったのはどうしてだろう。しかも、なにを思ったのか『ハリー・ポッター』の古いハードカバーを引っ張り出してきて読み返し始めた。挙句の果てにはアヴリル・ラヴィーンやパラモアの初期の曲など聴いている……。

 平成最後の年に、親になるのを目前にして急にティーンに戻ろうとでも言うのだろうか。みっともないことこの上ないが、一種の防衛本能のようなものだろうか。いよいよ本格的に大人になってしまう前の、最後の抵抗とでも言うような……。

 元号が変わるタイミングというのもなにか巡り合わせを感じずにはいられない。自分が生まれ育った元号が終わるということは、子供時代といよいよお別れするということではないか。今までは子供の頃と地続きの感覚でいたけれど、一つ前の元号の(しかも一桁)生まれとなればそうはいかない。そんなタイミングで親になるというのは、これはもういい加減に大人にならなければならないという通告のような気がする。

 まあ、そこまで恐ろしいわけではないけどね。ぼくはたぶん子供ができようがその子が成人しようが、いつまで経っても人形遊びが好きな、うんこ漢字ドリルで大笑いする人間のままだろうと思う。それはそれで恐ろしいのだが。
 
 子供時代のコンテンツを改めて楽しんでいるのも、懐古に走っていると言われればそれまでだが、なにかこう、初心を思い出すというか、知識が増えるとともに薄らいでしまった、もともと自分はどういったものが好きだったかという感覚を思い出すようで、それはそれで時に必要なことだろうと思う。特にぼくのようなタイプはそういう充電が頻繁に必要なのかもしれない。


 こんなかわいい柄の服があったりする。ぼくが着たいくらいだ。犬の表情が恨めしげ。犬の嫉妬心をどうフォローすればいいかというのがいちばん悩ましいかもしれない。
 ちなみにこの数ヶ月の間、初めて会ったひとから「お子さんは?」と聞かれた際にまだ生まれてはいないので「まだです」と答えていたんだけど、妻が言うにはそれは軽く嘘をついていることになるらしい。嘘ついてすみませんでした。聞かれたことを聞かれた形でしか答えられないのです(「ご予定は?」とか聞かれていれば答えようがあったのだろうなあ)。

2018年3月16日

山田詠美さんの新刊エッセイ集「吉祥寺デイズ: うまうま食べもの・うしうしゴシップ」装画を描きました



 「女性セブン」誌上で山田詠美さんが連載中の「日々甘露苦露」から95篇を収録したエッセイ集、「吉祥寺デイズ: うまうま食べもの・うしうしゴシップ」(小学館)の装画・挿絵を担当しています。
 全95篇というボリューム感が伝わるような、にぎやかな絵になっていればと思います。だんだん物がたくさん飛び出しているような構図が上達してきたような気がする。
 お出かけするお話も多いので、旅行用トランクから飛び出しているという絵なんですが、黄色いトランクはぼくの私物で、映画『ムーンライズ・キングダム』でもお馴染みのヴィンテージのアメリカン・ツーリスター。アメリカのお話やイメージもあちこちに散りばめられているので、ちょうどよかった。

2018年3月10日

ハリー・ポッターのカバーを考える




 やはり最初の3巻がおもしろい。『ハリー・ポッター』との出会いは10歳の夏休み、父の知り合いのペンションかなにかを訪ねた際(泊まったわけではない)そこの暖炉の上かなにかに紺と赤と深緑の三冊が並んでいるのを見かけたのがはじまりである。8月の終わり頃で外は明るい曇り空だった。あの明るめの曇り空のイメージは今でもこの作品と結びついている。
 3巻までは比較的のんびりしているというか、魔法の世界観を紹介するための日常感が強い。もちろん1作ごとに冒険と対決があるんだけど、まだ宿敵との直接対決には至っていない。4巻でヴォルデモート卿が復活を果たし、それ以降学校での日常をのんびり描くような余裕はどんどん減っていくし、シリアスさの度合いも強くなっていく。最初の3巻は4巻以降の戦いへの序章と言ったところだ。
 ファンタジーとしてのかわいらしさに満ちているのも、最初の3巻まで。そのあとももちろん不思議な世界が描かれるが、つねに暗さや血生臭さはついてまわる。映画版のほうも同じで、3作目まではポップなファンタジーという雰囲気がある。最初の2作はクリス・コロンバスによる温かみのある世界観で、3作目はメキシコ人監督アルフォンソ・キュアロンがポップとダークを両立した色彩で描いて見せた(ちなみに同じくメキシコ人監督のギレルモ・デル・トロも3作目の監督候補だった)。キュアロンの作風は原作者にとってはいただけないものだったようだけれど、ファンからは前の2作よりも原作のイメージに近いとして受け入れられたとか。ぼくも3作目の雰囲気は好きだが、確かに少しクドい部分はあるかも。いずれにせよ、コロンバスによる2作の雰囲気は、まだまだ魔法の世界に不慣れでピュアな1年目と2年目にぴったりだし、キュアロンによるダークな3作目も、思春期を迎えて少し大人びて、両親の死の真相と対峙する3年目にぴったりだったと思う。ちなみにジョン・ウィリアムズが作曲を手がけたのも3作目まで。
 というわけで、原作も映画版も、3年目までとそれ以降とで物語を分けることができる。

2018年3月2日

営業報告



 「SPUR」(集英社)2018年4月号の「銀幕リポート」第25回では、ギレルモ・デル・トロ監督作『シェイプ・オブ・ウォーター』を紹介しています。前号『パディントン2』にもサリー・ホーキンスは出演していましたね。今号のために描くのを我慢したからあのようにおじさんとクマだけの画になってしまったというところも……。なので今回は所狭しとサリー・ホーキンスを描いています。もちろん他のキャストもいい感じのひとばかりです。




そして、「婦人公論」(中央公論社)2018/3/13号ではジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第24回の挿絵。もう2年も描いていることに気づく。だんだんスーさんの絵が安定してきているような気がする。




「小説NON」(祥伝社)2018年3月号では先月に引き続き原宏一さんの連作に挿絵を描いています。