2017年12月12日

吸血鬼のセルフィ

 普遍的かつ洗練された通信端末であるところのiPhoneを手にするまで、インスタグラムというアプリケーションに憧れがあった。小さな正方形の中に都合よく切り取った景色がおさまり、現実ではありえないがこうだったらいいなと思うような色合いに加工されている様が、ミニチュアの家の中を覗いているような感覚で素敵に思えた。今でも本来はそういうものだと思っている。まあ、そういうふうな写真を自分がアップできているかは微妙なところだけれど。

 で、なにが言いたいかと言えば、なんかすっかりユーザーの層が変わっちゃってるなということ。ぼくも初期の方のことを知っているわけでは全然ないのだけれど、それでも前述のようにiPhoneを使っていなかった頃はなんだか素敵そうなアプリだなと思っていたものだ。世の中で変な持ち上げ方、揶揄のされ方はしていなかったと思う。ぼくが知らなかっただけかもしれないけれど。

 利用者が増えればそれだけ人それぞれの使い方が出てくるので、それはもうこれが正しいとかこういうのが本来とかは言ってられないし言うべきでもないのだけれど、ともかく憧れていた頃のインスタグラムは今はもうない。インスタとかいう安い呼び方とともに消えた。

 イラストを描いているけれどインスタグラムにイラストを載せることにあまり積極的になれないのは、たぶん写真を載せるアプリだという印象が染み付いているからだろう。その名の通りインスタントカメラ的なアプリとして使うべきで、写真でもなければ加工もしていない画像や、ましてや長ったらしいブログ文章を載せるのもなんだか違う気がするし、売り物の写真を載せて通販的に利用するのも台無しだと思う。

 台無し。そう、近頃本当にどんどん台無しになっていく気がする。別にそこまでインスタグラムに思い入れがあったわけではないのだが、やはり憧れていたぶんなんとなく落胆する。

 タグ遊びも見ているこちらが恥ずかしくなるばかりである。思えばタグ遊びの起源みたいなものはピクシブとかニコニコ動画とか、投稿者以外のひとがタグを編集できるサービスにあったように思う。感想とも少し違うが、アップされている画像ないし動画への印象や構成要素について閲覧者がタグに追加していき、それが投稿者にとっても反応をもらえたということで楽しく、また後から見に来たひともその作品がどういうものかを理解するのに助けになったりした。いずれにせよ投稿者がひとりで意味のないタグを打ち続けるのは寒すぎるし、投稿者が自分で打っているのでいわゆる「タグ理解」(一見内容と全然関係なさそうなタグだが動画を観ていくと確かにそのタグが相応しい展開になったりしたときのコメント)などというコメントも成り立たない。ていうか、タグがなんのためにあるのかわかっているのだろうか。

 これはインスタグラムに限らずSNSにありがちなのだけれど、なんだかインターネットのエチケット的なものが完全に忘れ去られていて、わけのわからないノリのひとが多すぎて恐ろしい。使うひとが増えればいろいろなひとが現れるとはもちろん当然のことながら、なんというか、それ実生活でも失礼では?と言いたくなるひとがあまりにも多い。いや、そもそもぼくはインターネットはあくまでいち通信手段として実生活の延長にあるものとしてとらえているので、実生活とは別世界などという割り切りをしていないから、普通にわけのわからない絡み方をされるとひいてしまう。ネットのやつら、みたいな区別もあまりしていないので、ひどいひとがいると世の中にはこんなひとたちもいるのかと必要以上に憂鬱になったりしてしまうのだけれど。

 なんというかな、インターネット触り始めたばかりの中学生みたいなノリではしゃいでいる大人が多い気がする。もちろんどれくらいの年齢でそのひとがインターネットに触れるかなど知ったことではないし文句もないけれど、正直言うとみっともない。別に自分の世代を棚にあげようとは思わない。それでは平成生まれ相手に昭和時代のカルチャーを話題にあげて相手がそれについて知らないことにわざとらしく驚いて馬鹿にしてくるおじさんおばさんと同じになってしまう。

 インターネットの利用歴などひとそれぞれだし、そんなものはどんな道具でも同じである。何歳だろうと知らないものは知らないし慣れないものは慣れない。だから別に昨日今日インターネット始めましたということについてケチをつけるつもりはこれっぽっちもない。だからインターネット云々はもう関係ない。電子だろうと実生活だろうとなんとなく他人との距離感があると思うのだ。

 あと、定期的にやってくるツイッターうんざり感がまた今シーズンもやってきた。いやなんかね、作品発表やPRの場として非常に役に立っているのだけれど、いかんせんひとが多い。ひとが多いっていう不満もどうかと思うけれど。こちらからフォローしておいて失礼な話だけれど、なんか別に興味ない話が多い。ごめんなさい。ただ、全てを読むのはどだい無理だ。というかみんな別に全てを読んでいないだろうと思う。ぼくは道歩いてても目に入った文字列を読むくせがあるからなあ。口には出さないにせよ、読めるものは全部読んでしまっている気がする。もしもこれで語学に堪能だったら大変だった。600万語理解できたらとても生身はもたないだろう。生身じゃないからこそ600万語理解できるのだろうけれど(ちなみに『フォースの覚醒』の時点でのC-3POは700万語精通しているらしい。30年で100万語か。多いのか少ないのかわからない)。

 で、流しながらなんとなく全部に目を通してしまうと、ああ、読みたくなかったな知りたくなかったなという気分になることが多い。あなたの悩みなど知らない。あなたの不満など知らない。あなたの考えなど知らない。勝手なことを言っていることはわかっている。でも、わりとそう感じるひとも多いのではないだろうか。ぼくの書いたものも誰かにそう思われているに違いない。そう思うと、余計にうんざりしてくる。
 二つ以上ツイートしてなにかに言及したくなったときは、ツイッターで消費しないで、ブログに書こうと思ってからしばらく経つ。ブログを書く習慣も結構ついてきて、まとまりに欠けるにせよ文量を書けるようにはなった。それでもまだ、やはり勢いでだーっとツイートしてしまう。それはそれで、そのときだけ楽しいのでいいのだけれど。

 字数制限があるので、結局どれも似たりよったりな文章になっちゃうのもおもしろくない。よく見かける、おもしろいことを言おうとしているツイートも、触りからオチまでのリズムが一定というか、もうなんかテンプレートと化しているところがあるので飽きた。うまいこと言おう、という感じのツイート自体うんざりする。うまいこと言おうというだけならまだしも、一段上に立ってものごとを見下ろしてるような感じや、安全なところ(と本人は思っているであろう距離)から好き勝手書いている感じも、頬杖をついてため息が出る。インターネットとはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが。そうして、ぼくはSNSに向いていないと言ってしまえばそれまでだ。

 向いている向いてないと言えば、それはもう人間がいっぱいいる場に向いていないのだろう。しかも距離感がめちゃくちゃで、それぞれの思考がダダ漏れの空間。ぼくのようなのが耐えられるわけがない。
 だから別に耐えてまでやることはないのだけれど、いずれにせよこんなものは道具にすぎない。ぼくのキャリアを俯瞰してみるとツイッターの恩恵にあずかっている部分が少なくないと思うけれど、それを恩恵などと言ってしまうあたりが結構来てしまっていると思う。道具を活用して結果が出た、ただそれだけである。道具に呑まれてはいけない。

 ついでにこの際だから書くけれど、フォローされたからどんなひとかなと覗きに行くと非公開アカウント、というのが多い。特にインスタグラムは写真を載せるサービスゆえなのか非常に非公開アカウントが多いような気がする。非常に非公開って。

 こちらが発表のために使っているのだから別にいいのだけれど、どうも一方的に見られている感じがしてしまう。みんながみんなアカウントを公開したいわけではないので仕方がないけれど、ただ、見せ合って楽しむものでは……とも思う。見せられないものは載せなければいいのにとも。いやいや、それぞれみんな事情や用途があるので、乱暴な言い分だということはわかっている。もちろん。

 さっきはひとのツイート読むのに疲れていたくせに今度はひとの写真が見たいと言い出すあたり、ぼくもあまり一貫性がない。

 非公開アカウントに対するモヤモヤの延長として、有名人とのセルフィ写真に対するモヤモヤもある。有名人とのツーショット、もちろんSNSにアップしたくなるのだろうけれど、その際自分の顔を隠しているひとがまあ多い。

 いやだから、もちろん誰もが顔を出せるわけではないことはわかっているのだ。勤め先の手前出しづらかったり、匿名性の保持のためとか、いろいろあるのだろう。

 ただ、マーク・ハミルの横に立ってるひとの顔がものすごい大きなスタンプで覆い隠されている写真を見ると、なんじゃこりゃと思う。あまりにも目隠しスタンプが大きすぎてもはやマーク・ハミルがひとりで写ってるようにしか見えない写真もあったりして、一体これは誰のなんの写真なのだと言いたくなったりも。記念や自慢として成立しているのかもわからない。

 ふと吸血鬼が有名人とセルフィを撮ったらどうなるだろうかと想像する。恐らくハリウッド・スターがひとりで、妙に隣の空間を空けている写真になる。吸血鬼なら写真を一切加工せずにアップできるので、そのぶんSNSライフが楽そうだけれど、スターとのセルフィを楽しむことはできない。写真に顔どころかひとの気配すら写らないのでツーショットにならないし、セルフィにもならないのだから。

 しかし、吸血鬼でないひとは、ちゃんと手元に未加工の、顔を隠していない元の写真が残るわけだ。それはSNSには見せないそのひとだけのもの。SNSを通してぼくが目にするのは言わば記念のおすそ分けであり、検閲済であり、フィルター越しに見せられたものである。こっそりと。

 全てを見せることもできれば、なにを見せてなにを見せないかを決められるのもSNSである。そう思えば、大きな黄色い絵文字で覆われた誰か、がマーク・ハミルと並んだ写真も、その誰かの幸せの加工物で、ぼくのような見知らぬ者はオリジナルを見ることができない、ミステリアスで貴重な宝物のように感じられてくる。じゃあいいか。
 別に羨ましいわけでは、断じてない。

2017年12月2日

「太陽と乙女」刊行記念手ぬぐい


 先日刊行された森見登美彦さんの新刊「太陽と乙女」(新潮社)の記念手ぬぐいが登場しました。装画をはじめカバー下に使われた絵を集めたデザインでとてもかわいらしいです。思案する四畳半主義者、登美彦氏も柄の中にいます。差し色の黄色が効いていますね。
 新潮社のページからご購入いただけます。






 「×」で名前を結ばれると非常に照れますね。まさかこんな未来があろうとは、古いアパートの六畳間で「四畳半神話大系」をもそもそと読んでいた頃はまったく想像がつきませんでした。ここまで名前をピックアップされるのもうれしいです。

『フォースの覚醒』から『最後のジェダイ』ストームトルーパーの進化


 そもそも旧三部作の帝国軍のストームトルーパーも一作ごとに顔つきが少しずつ違う。『エピソード4:新たなる希望』などは特に数種類の表情があったと思う。この場合の種類とは別に設定における兵種とかそういうのではなく、ただ単にメイキング上の成型の話。これもまた図に描いてもいいのだけれど、たとえば冒頭から反乱軍兵士と撃ち合いをしていたようないちばんスタンダードな連中と、ルーク・スカイウォーカーが潜入のために変装するヘルメットは口やら目やらがだいぶ違う。
 今更ながら最近気づいたけれど、『エピソード6:ジェダイの帰還』のストームトルーパーは口が黒く塗りつぶされていたりする(お歯黒)。気持ち頭頂部が長かったりして前二作に比べてかなり表情が変わっていると思う。また、97年の特別篇で人数を増やすために追加されたトルーパーなどもまた若干違うヘルメットに見えるし、昨年公開の『ローグ・ワン』に登場したトルーパーももちろん新造形で、綺麗な左右対称なのでなんだか優等生みたいな顔になっている。均整が取れていてぼくはわりと好き。
 というように作ごとに造形が新しくなってきたトルーパー。昔と違って成型技術そのものは安定しているので、同じものとして作り直して形が変わったというわけではなく、最新作でのアップグレードは意図して部分的に変化を加えているわけだけれど、ただ改良するだけでなく、これまでのメイキング上の伝統を踏襲してるようにも思える。

2017年11月29日

営業報告



「SPUR」2018年1月月号(集英社)「銀幕リポート」第22回では、アキ・カウリスマキ監督、シェルワン・ハジ主演『希望のかなた』を紹介しています。朴訥とした飾らない優しさがかっこいいフィンランド映画。いろいろな困難に遭いながらやっとのことでフィンランドにたどり着いた難民の旅を中心に、彼が出会う、固い表情の下に温かみを秘めた北欧人たちの生活を描く。普段欧米の映画では見ることのない、北欧らしい淡々として乾燥した笑いどころがまた楽しい。かっこよくて笑えて、それでいながら今日的問題も描き出すからすごい。



 「婦人公論」12/12号ではジェーン・スーさんの連載挿画。今回はマイリー・サイラスの変遷について。かく言うぼくも『シークレット・アイドル ハンナ・モンタナ』世代です。というか、マイリーとほとんど年が変わらない。ひとそれぞれ色々な道のりで大人になるんだなあ。
 個人的には『ハンナ・モンタナ』での共演者エミリー・オスメント派だったりする。

Note.3



 カフェインを控えようということで1日中白湯ばかり飲んでいる。白湯自体はここ数年で結構好きになっていた。が、コーヒーやお茶を控えた今や身体に取り入れる白湯の量が半端ではなくなった。だからさあ、なんでそうやってなんでも大量摂取するかね。
 人間はつねに水分が足りていない状態なので、本当はもっとたくさん水を飲むべきなのだそうだ。ものの本、というか、もののブログに書いてあった(正しくはひとのブログだろう)。しかし冷たい水はもちろん飲みすぎてもよくない。味のついた飲料や、コーヒーやお茶なども消化するのに力が要るらしく、曰くコスパがよくないらしい。
 ということで、体温に近い白湯のほうが吸収されやすいのだとか。もちろん白湯もたくさん飲むと問題が起きる。毒素がよく流れるのと同時に、大事なものも流れ出てしまうらしい。大事なものがなんなのかはよくわからないけれど、とにかくどんどん流れるというのは実感としてわかる。というのも、非常にトイレが近くなった。年寄りのようにしょっちゅうトイレに行っている。
 とは言えどうせ飲みすぎるのなら白湯のほうがいいのだろうと思う。



 ひとと言い合いになったときに、意識してか無意識なのか、とにかく相手の神経を逆撫するようにして煽り、相対的に自分の冷静さとか大人感を演出して優位に立とうとする、立ったつもりになる、そしてその上で論点を自分の都合の良い方向にズラし続け、相手を苛立たせ続けてどんどん口がうまくまわらないように仕向け、そんな相手をただのヒステリーであるかのようにやはり演出し、冷静な俺とヒスってるこいつ、みたいな構図を作り上げてその場を制することに長けているひとが、世の中にはたくさんいるのだろうなあ、と思う週末であった。
 いや、例え話なのだけれどね。



 ちょっと書き留めておきたいなという気持ちを起こさせてくれるような引用の多いブログがあって、そのとき抱えていた悩みとか不安とかとちょうど合致したのか、ためになるなあ、などと月並みな感想を抱きつつノートにメモしたりしていたほどだったのだが、久しぶりに覗いて見たらなんだがとても質が落ちていた。ひとのブログをつかまえて質が落ちていたというのも、同じブログを書いている人間としてあんまりではないかとも思うのだけれど、そこはまあ、ご自身でなにか書いているのではなく、ただひたすら引用という体で転載をしているだけのブログなので、どうしてもその引用されているものの質は気になるわけだ。
 なんというか、以前は知っているひとでないとなかなか知らなさそうな難しそうな本(なんと子供っぽい表現だろう)の文章だとか、わりと新鮮味のあるエッセイであるとか、まあとにかく引用しているもののセンスが良く感じられたのだけれど、しばらく見ないうちにすっかり様変わりしていて、いわゆる「ネットで話題の」という言葉が似合いそうな、普通にインターネットを使っていたらよく目にするタイプの安っぽい美談とか、そんな当たり前のことを言われてもと言いたくなるような自己啓発的ツイート、絵の良し悪しよりもネット受けしそうな内容だから拡散されていそうなイラスト・エッセイとか、そういうのばかりで埋められていた。まあ、一時的にそうなっちゃった、ってだけなのかもしれないので(引用や転載だけのブログとは言え引用や転載をする人間にも感情の起伏がある)、またしばらくして覗いたら違うのかもしれないけれど、なんというか、わっ、良いなと思ったブログがしばらくすると全然良くなくなっているというのは結構ある。ぼくが短期間に変わってしまったとう可能性は大いにあるにはあるだろうなあ。なんせ根が飽き性だ。どのブログもぼくが興味が持ってブックマークしてから変化しているように感じられるのも気になる。それはきっとブックマークするまでは、広大かつカオスな海で偶然見つけた、新鮮な魅力を持った未知のブログだったのが、ブックマークをして日常的に、短期間に繰り返し覗くようになった結果輝きが失われて飽きてしまうとかそういうやつ。いや、しかしそれを差し引いたとしても明らかにリブログされているものの種類が変わっているような気がするんだよなあ。あ、リブログと言ってしまったからTumblrのブログだということがバレてしまった。まあ、引用と転載と言えばね。
 お気に入りのブログを探す旅はまだ続く。



 この3年くらいで「ブラックフライデー」のセールが目につくようになった。ブラックフライデーがなんなのかは各自調べるように。もう面倒くさい。いずれにせよクリスマスやハロウィンのように季節を楽しむものとかではなく、ただ単に商戦のために輸入した風習である。その前日にあたるイベントが本来はメインなのだが、要はクリスマス翌日のケーキのセールの部分だけわけもわからず「ケーキを売る日」として輸入したようなものだ。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。なにより嫌なのはこの軽薄な輸入のせいでクリスマスやハロウィンという愛すべきイベントまで一緒くたに批判に晒されてしまうことだ。商戦に利用されているという点ではどれも変わらないが、いやしかし、それでもクリスマスやハロウィンはちゃんとそれ自体に愛着があってのことだよ。そもそもこのふたつはそのイベントそのものを楽しもうとするからこそ買い物とかをするわけで。黒字金曜のセールは売り物がなんにも関係ない。
 外国の文化から商戦に使えるものだけ上辺だけ取り入れるくせに、もっと見習うべきところは、うちの国のやり方には合わないだの伝統に反するだの言って都合よく無視し続けてどんどん時代に遅れていって、もう一体なんなのだろう。
 なんだかまともなことを書いてしまった。まともだと思われてしまう。



 メールの書き出しで「お世話になっております」という挨拶が必ずと言っていいほど使われている。使っている。確かに本題に入る前にワンクッション入れるにはちょうどいい言葉だなとは思うのだけれど、しかしどのメールにも必ず入っているともうなにも考えなしに書いている感がすごい。なにをどうお世話になっているのか。もちろんそういう実際的な意味ではないということはわかるが、あまりにも便利に使いすぎると言葉は多分刃こぼれする。それにどうもやり取りとして逆に丁寧さに欠けるような気がするんだよね。
 なので、最近できるだけそれに変わる言葉をなにか入れるようにしている。なにも思いつかなければ変わらず「お世話になっております」と書く程度の、ゆるいスタンスではあるのだけれど、少しでも違う言い回しを使う方が頭を使っていいかなと。いや、そんなだから一通メールを返すのに小一時間かかっちゃうんじゃないの。メールを打ってる間にしびれを切らした相手が電話をかけてきちゃうんじゃないの。まあしょうがない。
 具体的にどういう言葉に置き換えているかというと、「お返事ありがとうございます」とか「ご確認ありがとうございます」とかそういうの。返信が前提である。ここから少しずつレパートリーを増やしたいなと思っている。
 案件によっては結構な量のやり取りをするじゃない。ほとんどインスタント・メッセージというか、ちょっとしたチャットと言ってもいいくらいに何通もやり取りをする場合にさえ、その全ての頭のところに「お世話になっております」がついているというのは、ちょっとどうなんだろうと。もうその言葉には多分中身がない。中身のない言葉を意味もなく書き続けたくない。意味のないことは別に否定しようと思わないし、むしろ好きな方だけれど、意味がない上に楽しさとか美しさがまったくもたらされない謎の習慣はとっとと葬り去りたい。

2017年11月25日

Note.2



 寒くて仕方がない。末端冷え性なので手先や足先が死体のようで落ち着いて座っていられない。作業に集中できない。仕事にならない。エアコンの暖房は気持ち悪くなるので、電気ストーブ(加湿器付き)を点けるわけだけれど、これは1箇所にしか熱を送らないので部屋自体は全然温まらず、身体にしてもストーブが当たる部位が妙に熱くなるだけで温まるわけではない。ストーブの加湿器だけを点けてエアコンを使うのもありなのだけれど、加湿しようとしまいと熱風が気持ち悪い。というのも、このあいだの模様替えで机がエアコンの真下になってしまったのがいけない。



 なんだか食器棚がやけにすっきりしたなあ、整理はしたけれど処分をしたわけではないのになあと不思議に思っていたら、ただ単に流しに洗ってない食器が溜まっていただけだった。しかしすっきりした棚はなんだか見ていて気持ちがよかった。気持ちのいい景観をたまに見て気分を和らげるためにもある程度洗い物を溜めてから洗うのはどうだろうか。流しの景観は最悪だけれど。



 大人数でわいわいできないことに一種のコンプレックスというか(一応設定上コンプレックスはない、ということにしているのだが)、苦手意識と羨ましさを同時に抱いたりしていたわけだけれど、このほど原因がわかった。ひととあまり仲良くできないのだ。ただこの一点に尽きる。
 あまり心を開けないとか、距離感が測れないとか、他人に期待しすぎる(無意識に幻想を押しつけている)などいろいろあるのだろうけれど、本当に幸運な感じに条件が揃った相手でないとなかなかうまくいかない(それは誰でもそうだろうけれど)。そんな具合なので複数人での集まりでうまくいくわけがない。性格が面倒。世の中みんながみんな面倒な性格を許容してくれるわけではない。
 ぼくだって仲間でわいわいと、『最後のジェダイ』のチケットを予約して公開日当日にみんなで観にいくみたいなことはしたかったわけで。きっと劇場を決めてチケットを予約する過程からして楽しかろう。前回やったから知っている。楽しかったけれど、同じことができる精神状態ではない。相手方との関係も維持できていない。基本的に誰とも関係が維持できない。それでいながら疎遠になること自体がストレスに思えたりもする。そのあたりを思うとなかなか新しい友達をつくろうというテンションにもなれない。いや、本当にここ数年、恐らく初めて学生でなくなってからというもの、率先してひとを誘うことにも及び腰になっている。
 ただ、みんなでわいわいが楽しそうには見えても、実際そこに自分が身を投じても楽しいのかといえば、それはわからない。これはよく妻に言われる。妻も同じタイプらしいのだけれど、多分実際にわいわいの中に身を置いたら疲れる。変なストレスを覚える。曰く私たちみたいなのはそういうのに向いてないのよ、らしい。
 そもそも、ぼくはどうも「わいわい」を無限定に使いすぎているというか、無条件で楽しそうな呪文のように唱えているところがある。常日頃から仲間と盛り上がっている当人たちはまずわいわいなどとは言わないだろう。他人に幻想を押し付けているのと同様、集団のわいわいにも幻想を持っているのだろう。実際わいわいの中に飛び込んだらくたびれてしまうくせに。
 向いていない、と言うとどうもそれに関してスキルが欠けているように感じられて劣等感がむくむくと沸いてきてしまうのだけれど、まあ、やらなくてもいいことなんだと思うしかないなあ。



 SWチケット争奪戦にやはりどうしても気分が乗らず、参戦せずに終わった。もう疲れた。公開日に観なければならないという決まりはないので、好きな日の好きな時間に好きな場所でのんびり観たい。そう自分で決めたはずなのだけれど、公開日に観るためにあの手この手を使ったり、仕事を休んだり、予約ができて狂喜したりしているファンの様子を見ていると、こういう熱意がないぼくは冷めているのかな、ファンとして失格なのかなみたいなことを思ってしまう。失格もなにもないのは百も承知だけれど、自分とはベクトルの違う熱量を目の当たりにすると、なんとなくぼくがおかしいのかなと思えてくる。
 まさか公開日に観なかったからといってお前はファンではないなどとは言われないだろうし、ぼくがこれでファンじゃなかったらなんなんだという話なのだけれど、そもそも誰からもなにも言われちゃいないのだけれど、不安になる。どうしてぼくにはああいう熱量がないのだろう。騒げる熱量、わいわいできる熱量(またわいわいか)、テンション、元気。もちろんぼくにはぼくなりの「好き」をアピールする手段があるから気にすることではないとはわかっているのだけれど、結局さっきの「わいわい」の話と同じで、羨ましくなるのだ。
 自分が素直じゃないだけではないかとも思う。そうしてまた自分の性格の面倒くささが嫌になる。どうしたら素直になれるのかとか、果たしてどういうのが素直なのかとか、いろいろ考えてしまうわけで。そうして恐らくそんなことは考えることではないということもどこかでわかっているのだけれど。



 何日も嫌な感じの頭痛(嫌な感じじゃない頭痛などないのだが)。朝早めに起きられはするのだけれど午後をまわると急激に頭が痛くなって眠くなり、昼寝のつもりで寝転がったら夜中だった、というのが何度か続いた。しとしとと雨が続いて気温も急激に下がったので、きっと天気のせいだろうと思っていたのだけれど(天気のせいで頭が痛いとひとに言うと大抵バカにされる)、なんとなく原因がわかった。コーヒーの飲み過ぎだと思う。
 我が家ではケメックスの一番大きなサイズでコーヒーを淹れているのだが、最近妻がカフェインを控えるようになったので淹れたぶん全部ぼくが飲むようになったのだが、よく考えれば異常な量である。そのケメックスだと普通は3、4人が飲む量なのだけれど、ぼくはそれを台湾のスターバックスで買ったお気に入りの特大マグ2杯くらいで飲んでしまう。マグ2杯ぶん程度だから、と思っていたがそのマグが特大だということをたびたび忘れる。どのくらいの大きさかというと、今も机に置いてあるが、高さが110mm、直径が95mmといったものである。
 ともかく3、4人が飲む量をひとりでがぶがぶ、それを1日に二回くらいやっているわけである。8人ぶんのコーヒーをがぶがぶやっているころになる。いや、やばいでしょ。ついこのあいだ、ふとカフェオレ・ボウルというのがあるくらいだから、コーヒーを飲む用のボウルもあるのではないか、などとより大容量の容器について考えたりしていたのだけれど、立派な中毒である。やめだやめだ。しばらくやめよう。ああ、危ないところだった。
 カフェインを断った際に頭痛が起こるらしいのだけれど、まあ、とにかく飲み過ぎで気持ち悪いのだと思う。以前はコーヒー好きじゃなかったのに、不思議なものだ。



 朝起きて午前中のラジオをなど聴いていると、世の中と一緒に活動しているというような感じ(錯覚)が半端ではない。いつまで続けられるのだか。



 雨が続いたあとの濡れた夜道で犬とも猫ともつかないものがのっそりのっそり歩いていたのだけれど、狸だった。
 田舎で散々見たことがあるので(生きているのも死んでいるのも)存在そのものは全然珍しくないのだけれど、都会で目にすると新鮮である。一緒にいた妻は街の育ちなので感激していた。なによりその日は装画と挿絵を担当した森見登美彦先生の新刊「太陽と乙女」の発売日で、装画に大きく狸を描いていたのだ。狸に関する一連のエッセイも、本当に愛に溢れた素敵なもので、改めてぼくも狸が気になり始めていた。
 犬を連れていなくてよかったなと思う。大興奮で吠え立てて怖がらせるか、逆に怒らせて襲われていたかもしれない。
 食事を終えて家に戻る途中、また遭遇した。今度は二匹、連れ立って歩いていた。仲間だろうか、夫婦だろうか、兄弟姉妹だろうか、とにかく結構丸々と太った立派な狸がのっそりのっそりと二匹並んで歩いていた。でも、ぼくが思わず「あっ!」と子供のように指をさしたものだから、ぎょっとして立ち止まり、逃げて行ってしまった。
 ちなみに母が電話で聞かせてくれたが、ぼくの地元は最近猪の被害が大変らしい。前に帰省した際にもどこかのおじさんが退治した猪の鍋を食べたような気がする。食べてあげることができるのであればまだいいのではないか、とも思ったのだけれど、どうやら地元にはちゃんと獣を退治できるひと、それ用の装備を持ったひとがいないので(鉄砲撃ちはシーズンによそから来るし、一帯には農家と大工しかいない)、撲殺というなんとも原始的な手段で退治しているらしい。
 『2001年宇宙の旅』かよ。途端ぼくの頭には、あの無害そうでのんびりしたお百姓のおじさんおばさんたちが戸惑いながらも棍棒を握り、おっかなびっくり獣の頭を叩いている光景が浮かんだ。全然致命傷を与えられないのでみんなくたびれ、猪も辛すぎるという地獄……。
 銃とか薬とかを持っているはずもないので、殴って殺すしかないというわけだ。どちらにせよ命を奪うことには変わりはないが、それはお互いしんどいのではないか……。せめてちゃんと調理してあげてほしい。

2017年11月22日

森見登美彦さんの新刊エッセイ「太陽の乙女」装画を担当しました


 本日発売(早いところでは昨日から)、新潮社刊行の森見登美彦さん新刊「太陽と乙女」にて装画と挿絵を担当させていただきました。デビューから14年、エッセイや書籍解説、日記まで収録したエッセイ大全集です。


 太陽の塔や四畳半、狸、赤玉ポートワインなど、森見作品を象徴する要素を中心に、たくさんのエッセイの中に出てくるあれやこれやを詰め込んだ賑やかな絵になりました。
 ぼく自身学生の頃から森見さんの小説が大好きでしたので、これはもう本当に、只事ではないという緊張感を覚えながらも、楽しくて仕方のない作業となりました。
 収録エッセイの中から拾った要素もありながら、全体的には自分で読んできた森見作品への総合的なトリビュートみたいになったかなと思います。




 題字は金の箔押しという豪華さ。



 「有頂天家族」でもお馴染みの狸は毛玉感を意識。森見さんの作品はイラストの装画も多く、アニメ化もされていて既存のイメージが結構あるので、同じ対象を描きながらも自分の絵にしなくちゃなあというところを、結構考えていたように思います。




 レゴ四畳半。
 レゴ・ブロックについてのエッセイが、レゴ好きとしてはやっぱりうれしくて共感したので、絵にもちょこちょことブロック要素を入れました。自分も好きなものが登場すると、とことん糸口にしたくなります。


 京都の大学生もののお話も好きですが、それらとは少し違ったテイストの「ペンギン・ハイウェイ」もとても好きなので、ペンギンを描けてうれしいです。



 絵は後ろ側まで続いています。本当に伸び伸びと描かせていただきました。



 中の挿絵も別で描いています。全7章の章扉で7点です。さらに、カバーを外した下にも別個で描いたイラストが使われています。本当に盛りだくさんです。ボリューミーな内容に見合った量が描けていたらいいなと思います。



 これはとても感慨深いクレジットの入り方です。まさか並べてもらええる日が来ようとは。いっぺんにいくつも夢が叶いました。
 内容も本当に読み応えがあり、ファンにはたまらないエッセイ集となっています。子供の頃の思い出とか、お馴染みのあの作品が書かれた背景とか、日頃どういうことを考えられているのかとか、森見さんのパーソナルな部分も垣間見えて興味深かったです。創作意欲というか、文章を書きたいという気持ちも刺激され、個人的にもお気に入りの一冊となりました。大切に読み返して行きたいと思います。

2017年11月21日

頭の大きな提督


 『フォースの覚醒』で一段と貫禄が増していた提督。もう敵のシールドのことは忘れない。レジスタンスでは少しゆったりした衣装だったけれど、今度の『最後のジェダイ』ではずいぶん締まった軍服を着ているらしい。アクバー提督と言えば『ジェダイの帰還』での歯医者さんの白衣のような衣装がトレードマークだけれど、こういういかにも軍服調のものもまた良いな。かっちりした制服だが帝国軍やファースト・オーダーのそれともまた違う、少し可愛らしいデザイン。ファースト・オーダーが完全に白黒調になったのに対して、レジスタンスはカーキや柔らかな中間色が基調になっているようだ。反乱同盟軍時代よりモダンさも増している。
 アクバーの、というかモン・カラマリの魅力は個人的にこの肩幅と頭の大きさの妙なバランスではないかなと思う。魚のバケモノのような頭なのに肩幅は人間のそれというバランス。下半身なども普通の人間と変わらないシルエット。技術的にそこまで人間離れした体型にできなかった時代ならではの着ぐるみ感が、今日の新作映画でも健在なのが素晴らしい。
 それにしても襟や袖はどうやって通すのだろうか。

2017年11月19日

Note.1

というわけで日記、というか雑記である。



 教習所、いよいよ残すところ1コマとなり、そのあとは検定と試験となる。実技への苦手意識が強くそのことばかり気にしがちになっていたけれど、別に学科のほうが得意というわけでもない。要するに両方とも不安というダメダメな状態である。読み書きして覚えることは嫌いではないのだが、どうにも問題の文章というのは気持ちが悪い。読み手にその文章で述べられていることが正しいのか間違っているのかを問うだけという、そう言えばシンプルなのだけれど、だからこそ文章のどこに重点が置かれているのか、なにを強調しているのかがわからないので、内容が頭に入ってくるまでに時間がかかる。あと表現が一定でないところも気持ちが悪い。気持ちの悪い文章を読み解くのもなかなかきついものである。



 黄昏時を歩いていると、向こうからおじさんが自転車に乗ってやってきた。すれ違いざまにおじさんがこちらを憎たらしそうに睨みつけて、「このキ○ガイィィ」とダミ声で言ってきた。背筋がひやあっとした。
 ば、バレたか。なぜわかった。
 突然知らないおじさんに罵倒されて恐怖を抱いたというよりは、なにかを見抜かれた気がしておっかなくなってしまった。
 こっちの台詞だ、と言い返す神経の太さや余裕はなく、怪しげな自転車乗りは走り去って行ってしまった。



 作品集に使っているTumblrで、ちょっと嫌だなあと思うブログから描いた絵がリブログされた。リブログされた先をあまり覗きに行かないほうがいいという教訓にもなったのだけれど、もう少し気づいたことがあった。
 ぼくが嫌だなあと思った数々のポストの中に自分の描いたものが混じっているということがなにを示すのか。
 そんなやつに気に入られたくなどない、と言ってしまえばそれまでだけれど(世の中に対して描いたものを貼り出している身としてそれは随分勝手だろう)、相手にリブログされているということは、その一点においては共感が生じているということではないか。絶対仲良くなれなさそうな相手でありながら、共感が生じている。うっかり見落としてしまいそうになるけれど、これは結構重大なことなのではないだろうかと思った。
 それはきっと、ぼくが相手に抱くほどには、相手がぼくに予断を持たなかったからではないだろうか。それはぼくが相手と相容れないであろうことがよくわかるような要素を、絵や文章に盛り込んでいないからではないだろうか。余計な情報を盛り込んでいないからではないだろうか。だからこそ、相手は予断を持たずにフラットな感じで、ぼくの描いたものに対して共感を抱いた。抱いてもらえた。
 作品に個人的な部分を盛り込むのは大切なことだと思う。主義主張を盛り込むひともいるだろう。けれど、たぶんぼくはこのままでいいのだろうなと思った。絵にしても、本や映画のグラフィック・エッセイにしても、趣味や好み、思ったことや性格は出ていても、際立った主義主張など別になくていいのだなと。まあ、そんな立派に確立した思想など持っていやしないのだけれど。



 しばらくホームページの改良に取り組んでいたのだけれど、いろいろ考えて試したものの結局現状のままとなった。作品集ページをTumblrでなく自分で打ち込んで作ろうとしたのだけれど、結局ひと昔前のイラスト・サイトみたいなことにしかならず、そしてそれは今日あまり見やすい方とは言えず、さらに更新の手間が馬鹿にならないので諦めた。小さなサムネイルをだあっと並べてライトボックスで拡大されたり、あるいはたた単純に下から上へ縦向きに絵を並べて行くというものも考えたのだけれど、その手間とそれがもたらす外観などを天秤にかけた際、結局今のままでもいいじゃないかと。
 なによりTumblrページをここまで数年に渡って更新し続けて、作品が蓄積され閲覧者もそれなりに得られているという、積み重ねみたいなものがなんだか愛おしくなってしまって、このまま使い続けようと思ってしまった。別に新たに作品集のページを作ったところでTumblrも続けはするのだが、そうすると更新するものがまたひとつ増えるというだけだし、今のままでもそれなりに依頼をもらえたりして、見るひとは見ているということを思うと、とりあえず現状のまま、中身となる作品をどんどん作るほうに時間をかけようよと思ったわけだ。
 柄にもなく世のポートフォリオ・サイトなどをいろいろ見てまわって参考になりそうなものを探したりもしたのだけれど、正直言って全然なかった。少なくともぼくが望むようなスタイルのものは。ぼくと同じくらいの年齢、キャリア歴で、ぼくと同じくらいの仕事量、作品数で、商売の規模も同じくらい、というひとがいたら理想的なのだが、いるわけがない。これは別に自惚れでもなんでもなく、そんなになにからなにまで他人と条件が合うわけがないということ。
 「おすすめのポートフォリオ・サイト」とか、「参考にしたいポートフォリオ・サイト」などという触れ込みで紹介されていたサイトをひと通り見て思ったのだけれど、なんというか、デザインやインターフェイスが凝った作りのひとほど、そこに並んでいる作品とか仕事は少ないというか、そんなに大したことのないひとが多かった。やっぱりね。逆にそんなに綺麗にまとめられていないひとのほうが、もうそんなのやっている暇がないんだよというような感じで仕事をしまくっている印象を受けた。仕事が仕事を呼ぶという状態に達していれば、ホームページなんて必要最低限のものがあれば十分という感じ。たぶん突き詰めれば近況や仕事の記録、連作先を載せただけのページ一枚で済むことだろう。僕の場合はそれだとちょっと物足りないというか、もう少しウェブ・サイトで表現したいことがあるので手狭だけれど、けれどもう少しシンプルさを突き詰めてもいいかもなあ。
 トップページを開いた時点でどういうのを描いているのか、どういうことをしているのかが伝わるような形にしたいなあとも思うのだけれど、なかなか一枚のページにいろいろ詰め込むのには工夫が要る。表紙は表紙としてあったほうがいいのかもしれない。というかクリックして開くくらいは見るひとに任せればいいのだが。それでももう少し直感的に伝わる形は模索する必要がありそうだ。
 その一方で、作品集以外にもいろいろページというか、小部屋的なものがあるのも憧れるんだよね。秘密基地的なホームページというか。全然サブのコンテンツを作る余裕がないのだけれど、いろいろ見るところ読むところがあるサイトにしたいなあと思っている。

2017年11月18日

営業報告


 『コララインとボタンの魔女』でお馴染みライカの新作ストップモーション・アニメ『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(本日公開)についてのイラスト・コラムが映画ナタリーの特集ページに載っています。特集ではメイキング動画なども観られ、ぼくもどちらかというとメイキングに寄った内容で描いています。
http://natalie.mu/eiga/pp/kubo