2015年3月18日

ぼくがもしも女の子だったら・・・


 ことあるごとに自分が女に生まれていたら、きっとこんな感じだろうなあと考えることがあるので、図にまとめてみた。異性化というよりはただの女装のような感じになってしまった。けれど、そんなにぼくとまるっきり同じということもなく、むしろ実際に他人としてぼくの目の前に現れたら衝突することがあると思う。多分瑞子ちゃんはぼくみたいな男は好きじゃないだろうなあ、なんとなく。同族嫌悪というやつか。
 背が高いせいで、周囲から「将来はモデルさんかしらね〜」などという無神経なことを言われて育ち、成長するにつれて鬱屈していく。果たして彼女は絵筆とペンのどちらを握るのか。何故そのニ択なのか(腐女子、からの創作への道はごく自然である)。リズム感が無いので音楽はダメ。そのくせ椎名林檎を真に理解するのは自分だと言って譲らない。なんとなく彼女は「スター・ウォーズ」より「スタ―・トレック」派だと思う。
 胸は小さく足はデカいと思う。
 

2015年3月17日

「アメリカン・スナイパー」感想


 ぼくがこの映画を観る前の週あたりに、当のクリス・カイルを殺害したエディー・レイ・ルースの終身刑が決まったということを、後で知る。タイムリーすぎてものすごく不思議な感覚である。実話を基にしているから当然なのだが、映画と現実が密接に結びつくことで、まだ映画の続きを観ているかのような感じ。
 見終わる頃には銃声が恐くなった。もちろん銃声とは恐ろしい音である。映画では銃声がよく鳴るものだし、聞き慣れているつもりだったものの、この映画の銃声は本当に人間一人を死なせるのに十分な音のように感じられる。ズドン、ズドン。お腹に響く音だ。シルベスター・スタローンが鳴らす音とは明らかに感じが違う。映画とはこれくらいのエネルギーを放てるものなのだなと思えた。
 ところで、エンドクレジットでキャスト名が表示されるまでクリス・カイル役がブラッドリー・クーパーだとわからなかった。なんと18キロ以上の増量である。全くの別人に見える。というか本物のクリス・カイルそっくり。

「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」感想


 ひと通りの映画が作られてしまった時代に生まれて大変不幸だと思っていた。画期的な映画、というのがいま一つどんなものかわからないし、なにより「スター・ウォーズ」一作目が初めて公開されたときの興奮も知らない。「猿の惑星」を一切の予備知識無しで観ることも不可能。CG技術がこれでもかこれでもかと進歩していく一方で、映画を観る上で不幸な時代なのでは?と思うこともしばしば。
 けれどそんな心配はナンセンスだということがすぐにわかる。常に新しい映画が作られていて、ぼくなんかの想像の範疇などあっさり越えてしまうからだ。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」は「すごーい」と口をぽかんと開けてしまうような、魅力的な宇宙を見せてくれた。普通宇宙といえばだいたい真っ黒で白い点々が描かれているだけの背景である。ところがこの映画の宇宙空間は色とりどりで本当にどこまでも続いているような奥行きを感じさせる。行ってみたい、と思える宇宙である。それ故世界観に奥行きがあり、今後の展開がものすごく楽しみ。

「レゴ・ムービー」感想


 大人になってレゴをやろうとすると、どうしても説明書通りに組み立てて飾っておく、みたいなおとなしい遊び方になってしまうというか、かつてのように自由な(あるいはカオスな)遊び方がなかなかできずにいた。子供の頃は同じ色のブロックをまとまった数持っていなかったので、綺麗に一色だけを使った建造物や宇宙船などが作ることができず、仕方なく灰色や白などの色の中に、ところどころ青や黄色、赤等の色を唐突に組み込んだりした。そういったツギハギ部分は頭の中で「これは全体灰色の宇宙船なのだ」と補完して遊んでいたりしたものだ。頭の中で補完する、これは貧困的なようでいて実はもっとも美しい遊び方なのではなかったろうか。
 ところが大人になるとブロック不足を金で解決しようなどと考えるようになってしまった。あるいは、自分で考えたモデルよりも、製品版の完成度に魅せられてそれをお金で買い、大して自分なりの改造を加えることもなく説明書通り組み立てて悦に浸る。間違っちゃいないが、どこか歪なのは何故だろう。
 「レゴ・ムービー」はそんな硬くなったぼくの頭をもみしだいて風を吹き入れてくれた。ずっと前からわかりきっていたことなのに、「そうか!こうやって遊ぶのか!」と改めて教えてくれた。だけではなく、説明書の重要さもまた思い知らされた。説明書があるからこそ、そこから独自の考えを膨らませられるのだ。説明書があるからこそ、それをどう壊してやろう、どうかけ離れたものを作ってやろうと思えるのだ。基本があるからこそ独創性が生まれるとかなんとか、そんなことまで考えさせられてしまったのだから、良い映画だと思う。
 それにしても空間を漂う塵などの粒子、ミニフィグやブロックの表面に出来た傷、プリントの剥げ具合など、遊び込まれたおもちゃの質感の表現が見事で、何度見ても本物のレゴで撮影したとしか思えない。ボロボロになったミニフィグでも気にせず遊び続けていいんだ、ということが宇宙飛行士ベニーを見ていて思った。ヘルメットの顎が割れてるところなんてレゴあるあるすぎてグッと来る。

2015年3月15日

視界のミニチュア化

 子供の頃から不思議で不思議で仕方が無かった感覚の謎が解明された。いや、謎が解明されたというより、この感覚について文章による説明がなされていたこと、他にも同じ感覚に陥っていたことのある人が大勢いることを知って少しほっとしたのだ。
 なにかに集中しすぎたり疲れたりすると視界がミニチュアになることがある。いきなりこんなことを言ってはなんだそりゃと思われるかもしれない。もう少し詳しく説明すると、たとえば本をずっと読んでいたとき、だんだんと持っている本のページがずうっと遠くに行ってしまうような感覚に陥ることがある。ページが小さくなり、文字も小さくなっていく。けれど文字が読めなくなるわけではない。実際の距離は変わっていないのだから、いくらでも文章を読むことが出来る。けれどとにかく視界が遠く、小さく見えるのだ。というわけで、自分のいる部屋がミニチュアに見える。自分が小さくなった感覚は無いのだけれど。(図a参照)


 また、子供の頃から熱を出した最初の夜に必ずと言っていい頻度で見る夢がある。要するに悪夢なのだけれど、とてつもなく小さいものととてつもなく大きいものの対比、そのギャップにうなされる夢。具体的には蟻のように小さいぼくを、ヘヴィ・ダンプのような馬鹿デカいタイヤが押し潰すというもので、興味深いのはダンプを運転しているのもまたぼく自身だということ。そして、大きいものと小さいものの間にそのギャップから生まれるものなのか、果てしない後悔の念のようなものがやってくる。(図b参照)


 視界がミニチュアになるのと、発熱のときにタイヤに潰される夢を見るのは、「不思議の国のアリス症候群」という症状(?、これがまたよくわからない)で結びつけられるそうだ。ルイス・キャロルの児童文学作品において、「イート・ミー」だの「ドリンク・ミー」だののラベルのついた薬を飲んだアリスちゃんが、大きくなったり小さくなったりを繰り返すことから、50年代にジョン・トッド先生が名付けた症候群だそうである。これまた中ニ病的な、というか中ニの喜びそうなやつなのだが、恥ずかしい名前である。「アリス症候群」の主な症状(?)が、これまでぼくがずっと疑問に思っていた感覚を「そうそうそれそれ!」と言いたくなるくらい正確に文章で説明していることから、恐らくぼくはそうなのだろうと思うのだけれど、なんとも恥ずかしい名前の症候群である。仕方あるまい、トッド先生が名付けちゃったんだから・・・。

 視界のミニチュア化は、「遠近感が曖昧になる」ということで「アリス症候群」の主要なイメージの一つとして挙げられている。また、「針とタイヤ」というイメージもあるそうで、これはぼくの発熱時の悪夢と関係がありそう。というわけで長年疑問に思っていた不思議な感覚・イメージは大方この症候群のせいだろうということがわかった。誰に相談していいかもわからず、別にこの感覚に苦しんでいたわけではないので困ったりもしなかったのだが、とにかく気になっていたのでわかって良かった。とは言えこの症候群はまだまだ謎が多く、検査方法も無ければ診断は患者が訴えるしかない。ゴスロリのポエムみたいな名前だからちゃんと研究しようという人がいないのではないか?と思ったりもするのだが、実際どうなんでしょうか。

 インターネットを通して同じ感覚を抱いてきた人が大勢いることを知って安心したのだが、いろいろな人の書き込みを読んでいると、さらにぼくの長年の疑問と同じような記述があった。なんでも自分が三人称視点で見えるそうだ。この言い方に始めはピンとこなかったが、思えばぼくにはふとした瞬間に「あれ?ぼくってずっとぼくだったっけ。ぼくはこのままぼくをやっていくんだっけ」という感覚に陥ってしまうことがある(図c参照)。これが三人称と呼ぶかどうかは少し怪しいけれど(だいたい自分の姿を外から見てるわけじゃないし)、関係があるのだろうか。
 

 視界のミニチュア化、タイヤの悪夢、そして「ぼくってぼくだっけ」感覚は、今まで周囲の誰に聞いても共感を得られなかった。そもそもあまり人に話したことがなく、親にすらおっかなくて言えなくて、自分の中で「こういうものなんだろう」と無理くり納得してそっとしまっておいたんだけれど、この度大勢の人が同じことを感じていたのだということを知りほっとした次第である。わざわざこんなことを書いたのは、同じ感覚を知っている人がいないかなあと思ったからである。もしいたら、ぼくもそうだから安心してください。

2015年3月6日

「スター・ウォーズの新作についてぼくたちの知るいくつかのことがら」4〜5.コンセプトアート編


 新作のコンセプトアートは現在インターネット上に多数で回っているが、特に印象的なのはやはりダース・ヴェイダーのヘルメットの残骸を手にする謎の人物の絵だろう。「ジェダイの帰還」のラストでヴェイダーの亡骸は息子ルーク・スカイウォーカーによって焼かれている。観るたびにちゃんと燃えるのかなあと思っていたが、案の定ちゃんと燃えていなかったようだ。この人物は30年放置されていた火葬の焼け跡から変わり果てたヴェイダー・ヘルメットを掘り出したのだろう。
 エンドアが登場するということは愛らしいイウォーク族も登場するだろうか?この不吉なキャラクターがエンドアの原住民を皆殺しにしたりしなければいいのだけれど・・・。
 出回っているコンセプト・アートはタトゥーインの砂漠の景色を描いたものが多い。スカイウォーカー生誕地であるタトゥーインが新作でもまた重要な舞台として描かれるのだろう。これらの絵ではTIEファイターやAT-AT、中には巨大なスタ―・デストロイヤーまで、帝国軍を象徴するようなメカが砂に埋もれて風化している様子が描かれており、ぼくは中でも脚を投げ出してくたぁっと地面に倒れて埋もれているAT-ATがお気に入り。こういった景色からぼくたちのよく知る帝国軍が、「ジェダイの帰還」の後で衰退の一途を辿ったのだろうということがわかる。 
 

 かと思えば、新しいストームトルーパーのデザインもリークされている。砂漠に埋もれた旧兵器とは裏腹に、新しいデザインでピカピカの兵士達が供給されているとはどういうことか。新作では帝国の復興が描かれるのだろうか。新しいトルーパーの”顔つき”は今までのストームトルーパーの不吉そうなしかめっ面とは違い、どこか満足げに(でもどこか意地悪そうに)口の両端をつり上げているように見える。そもそも、これが「ストームトルーパー」と呼ばれるかどうかもわからなければ、帝国軍(悪役)の兵士ですらないかもしれない。象徴的なキャラクターであることは確かだろう。
 同じようなデザインで、クロムメッキのトルーパーの姿も見られる。甲冑のように見えるこのデザインはスペースオペラになんとも言えない古めかしさを与えてくれそう。
 つづく。