2015年5月21日

「インヒアレント・ヴァイス」感想


 劇場パンフレットのデザインがとにかくカッコイイ。パルプ小説のような装丁を意識したようなデザインになっているのだけれど、確かに「インヒアレント・ヴァイス」はパルプ小説的だと思う(パルプ小説を読んだことはないがイメージとして)。やや思い込みが激しくラリラリな探偵ドックは“抜群の”推理力でもって陰謀のコアへと向かっていくが、陰謀に向かっていけばいくほど「それあんたの思い込みじゃ?」とドックに言いたくなるようなところも。本人は一生懸命推理をして点と点を繋ごうとするのだが、どうしても傍目には陰謀説を唱える思い込みの激しい人という感じが否めない(まさにヒッピー)。そのため一体どこからどこまでがドックの推理通りで、どこからが彼の妄想なのかがだんだんわらなくなってくるのだが、そこがまたおもしろい。安っぽい陰謀説に振り回される物語というところがパルプ的なのだと思う。
 ところでぼくの大好きなビデオ・ゲーム「グランド・セフト・オート」シリーズは、そもそもこういう世界を描きたかったんじゃなかろうか(「ヴァイス」という言葉から、ぼくのようなガキはどうしたってGTAシリーズの名タイトル「ヴァイス・シティ」を連想してしまうのだ)。独特の色彩を放つ街や不動産王、凶暴な警官にジャンキー達・・・一癖も二癖もあるどころではない漫画的な奇人達のオンパレードは、このギャング・ゲームでも最も魅力的なポイントとなっている。ロックスター・ゲームスのクリエイター達はピンチョンの小説を読んでいるのだろうか?それとも、こうしたキャラクターの組み合わせはパルプの定番なのだろうか。アメリカの暗黒街を描くにあたって使い古されたアイコン達なのか。
 画面を通して1970年代(のロサンゼルス)を旅行しているような気分にもなる。実際の空気感なんてものはぼくにはわからないが、それでもぼくのイメージ上の、半ばファンタジー的でもある70年代世界がこれでもかと描かれていて、上の世代の人達が頷いているのであればこの映画の世界は70年代の、少なくともその一面を再現しているのだろう。色彩はもちろん、なんだか匂いも漂って来そうで、全編に渡って画面がなんだか煙いというか、観てる途中でフワフワした気分になってくるのは、この映画そのものが危険な中毒性を帯びている証拠なのだろうか。そしてそれはピンチョン文学に通じる危険な魅力なのかも。
 

2015年5月13日

TVステーション「バナナマンのバナナイスデー」カットイラスト



 昨年末からカットを描かせていただいている「TVステーション」(ダイヤモンド社)内の「バナナイスデー」はバナナマンのお二人が対談形式でいろいろな話題を取り上げる連載です。活字を読んでいながらお二人のトークする声が聞こえて来るようで楽しいです。結構枚数が溜まったので何枚かピックアップしました。
 誌面全体がビビットな黄色を使ったレイアウトなので、イラストもパキッとした色合いにするべくデジタルで作っています。デジタルは色が綺麗に出てとても良い。

2015年5月11日

富山・高岡ドラえもんツアー


 聖地巡礼っていうやつ、初めてかも。ドラえもニストな妻から聞かされるまで藤子不二雄が富山出身だなんてまったく知らなかったけれど、行ってみてわかったのは、ちっとも外に向かってそのことを大々的にアピールしていないということ。空港の名前に使ったりなになにロード、みたいにスポットを作って宣伝もしていない。ほとんど全てを他県にあるミュージアムに譲ってしまっていると言っていい。富山の人の控えめなことと言ったら!その控えめさがとても好きになった。そして、ほんの少しだけあるドラえもんスポットがとても素朴で可愛らしく、どこか洗練さすら感じられて見てまわっていてとても楽しかった。路面電車が走っているだけでなんだかハイカラだが、ドラえもん仕様(しかもなかなかかっこいいデザイン)のやつが走っているなんて近未来感を感じないではいられない。新幹線の紺色と同様、ドラえもんトラムの青と赤のカラーもまた北陸の静かな街にアクセントな差し色を与えていた。
 地図を描いていて気付いたけれど、小学校と古城公園の位置が近い。もしかしてお馴染みの「学校の裏山」というのはこの古城公園のことだろうか。小学校の裏側かどうかはわからないが。藤子不二雄自伝「まんが道」ではF氏とA氏がこの古城公園でああでもねえこうでもねえと悩みながら散歩する(「まんが道」はA氏視点で描かれているので主にうじうじ悩んでいたのはA氏だが)。確かにああいうところなら歩き回っていろいろなアイデアが浮かぶことだろう。思春期のもやもやはなんとなく和らぎそうだし、なにより夜中に宇宙人が上陸したり、内緒で未知の生物を飼ったり、その他友達となにか企むにはもってこいのスポットに思えた。古城公園だけではなく、そこかしこにFワールドの片鱗を感じることができる。もちろんそういうことを意識するからなのだろうけれど。そうやって考えながら歩き回るのは非常に楽しかった。
 ぼくは今ドラえもんの舞台といわれる練馬近辺に住んでいるのだけれど、そういえば住宅地を歩いていると、まさにのび太の家の近所みたいな風景を見かけることがある。都会に出て来るまでアニメに出て来る住宅地や街というのはファンタジーの世界に思えたけれど、今にもあそこの二階の窓から冴えない小学生が顔を出し、外から声をかけてくる友達に渋々返事をしそうだ。普段からドラえもん妄想をしながら歩いたら楽しいかもしれない。面倒な犬の散歩も楽しくなるというものである。
 ところで藤子不二雄のお二人は新人の頃に正月休みでこの高岡に帰ってきて、ほっとするあまりのんびりし過ぎて、抱えていた原稿を全ておとしてしまったというエピソードがあるらしい。それだけ二人が安心してしまうのもわかるような気がする。地方出身者にとって地元というものは総じてそういうものかもしれないが、それでも高岡はやはりのんびりのんびりと時間が流れていてすっかり原稿を落としてしまってもおかしくない安堵感を感じられたような気がする多分(それでも普通落とさないと思うが・・・)。二人がのんびりしてしまうのも無理はないな思ったわけさ。
 ドラえもんとは関係ないが、ほたるいかの味を覚えた。沖漬けやら塩辛やら。そもそもぼくはイカの塩辛が好きなので、沖漬けも黒作りも非常に美味しかった。イカえもんがいればいいのに。
 

2015年5月7日

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」感想


 正直1989年の「バットマン」の頃よりマイケル・キートンの表情がとても良いと思う。リーガンと違ってキートンは自分が演じたキャラクターに呪われてなんかいないっていうこと。もともと額が広かったけれど、すっかり禿げ上がった頭が良い味を出している。ブリーフ一枚の姿も何故かかっこいい。
 エドワード・ノートンが演じる役はさながらキートンが演じてきたバットマン映画の悪役に相当するとでも言ったところだろうか。派手でテンションのおかしい悪役の方が注目されてしまうというバットマン俳優の悲しい宿命を感じさせる。バットマン役を二作で降りたキートン同様、ノートンもまた「インクレディブル・ハルク」で演じた緑色の超人役をそれっきりで降りてしまった。「アヴェンジャーズ」をはじめ一連のマーヴェル映画における主要ヒーロー俳優として名を連ねるはずだったが、大量生産されるヒーロー映画に出続けたいとは思わなかったことが理由の一つらしい。この辺はキートン演じるリーガンの方にむしろ近いのかもしれない。こうしてかつてヒーローを演じたものの、現在のムーブメントからは外れた二人が、舞台裏でへなちょこな殴り合いをするシーンはまるで老いた退役ヒーローの切ない決闘に見えたり見えなかったり。
 別にヒーロー映画についてどうのこうのがメインテーマではないので、あまりヒーローヒーロー言いたくないのだけれど、それもまた入り口の一つということで。音楽やカメラワークのことについて専門的なことはわからないけれど、一切途切れることのない長回し風カメラワークは快感すら覚えるし(多少目が回るけれど)、ダダダダンシャアアン、ドドン、ダン、と叩かれるドラム・スコアがかっこいい。映画の中で舞台を観ているような感覚を体験できるのも魅力の一つだと思う。ぼくは舞台というのをこれっぽっちも観たことがないので(パイプ椅子でお尻を痛くしながら観た学生の芝居は別として)少しは舞台を観たいなあと思った。
 エマ・ストーン演じるリーガンの娘のサムの台詞、「ツイッターもフェイスブックもやっていなければ存在しないのと同じ」という言葉もぼくには深く突き刺さった。いつの間にか当たり前のようにインターネットを使っていた自分だけれど、もしもSNSの類や、そもそもホームページすらも持たずに暮らしていたら今頃どんなだっただろう。SNSを使っていると、まるで自分はちゃんと世界から存在を認可されていると錯覚してしまう上、使っていない人をはじめから存在していない人のように扱ってしまう。絵に限らず創作を仕事にしていてもウェブサイトひとつ持っていなければ何も発表していないのと同じ。日々を暮らして生きているということだけで存在していることの証明になっているのに、そもそもそんな証明や承認なんて要らないのに、いつの間にか人に見られていなければ、人に承認されなければいけないと思うようになってしまった。
 けれどリーガンはSNSをやっていなくても、異常な承認欲求に駆り立てられ「役者として認められなければ」と取り憑かれたように評価を気にして、もがき苦しみながら前に進もうとする。リーガンの場合は極端だけれど(とは言え誰でも抱えている欲求なのではないだろうか)承認欲求とは人を動かすために多少は必要なのかもしれない。ほどほどに。