2015年5月7日

「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」感想


 正直1989年の「バットマン」の頃よりマイケル・キートンの表情がとても良いと思う。リーガンと違ってキートンは自分が演じたキャラクターに呪われてなんかいないっていうこと。もともと額が広かったけれど、すっかり禿げ上がった頭が良い味を出している。ブリーフ一枚の姿も何故かかっこいい。
 エドワード・ノートンが演じる役はさながらキートンが演じてきたバットマン映画の悪役に相当するとでも言ったところだろうか。派手でテンションのおかしい悪役の方が注目されてしまうというバットマン俳優の悲しい宿命を感じさせる。バットマン役を二作で降りたキートン同様、ノートンもまた「インクレディブル・ハルク」で演じた緑色の超人役をそれっきりで降りてしまった。「アヴェンジャーズ」をはじめ一連のマーヴェル映画における主要ヒーロー俳優として名を連ねるはずだったが、大量生産されるヒーロー映画に出続けたいとは思わなかったことが理由の一つらしい。この辺はキートン演じるリーガンの方にむしろ近いのかもしれない。こうしてかつてヒーローを演じたものの、現在のムーブメントからは外れた二人が、舞台裏でへなちょこな殴り合いをするシーンはまるで老いた退役ヒーローの切ない決闘に見えたり見えなかったり。
 別にヒーロー映画についてどうのこうのがメインテーマではないので、あまりヒーローヒーロー言いたくないのだけれど、それもまた入り口の一つということで。音楽やカメラワークのことについて専門的なことはわからないけれど、一切途切れることのない長回し風カメラワークは快感すら覚えるし(多少目が回るけれど)、ダダダダンシャアアン、ドドン、ダン、と叩かれるドラム・スコアがかっこいい。映画の中で舞台を観ているような感覚を体験できるのも魅力の一つだと思う。ぼくは舞台というのをこれっぽっちも観たことがないので(パイプ椅子でお尻を痛くしながら観た学生の芝居は別として)少しは舞台を観たいなあと思った。
 エマ・ストーン演じるリーガンの娘のサムの台詞、「ツイッターもフェイスブックもやっていなければ存在しないのと同じ」という言葉もぼくには深く突き刺さった。いつの間にか当たり前のようにインターネットを使っていた自分だけれど、もしもSNSの類や、そもそもホームページすらも持たずに暮らしていたら今頃どんなだっただろう。SNSを使っていると、まるで自分はちゃんと世界から存在を認可されていると錯覚してしまう上、使っていない人をはじめから存在していない人のように扱ってしまう。絵に限らず創作を仕事にしていてもウェブサイトひとつ持っていなければ何も発表していないのと同じ。日々を暮らして生きているということだけで存在していることの証明になっているのに、そもそもそんな証明や承認なんて要らないのに、いつの間にか人に見られていなければ、人に承認されなければいけないと思うようになってしまった。
 けれどリーガンはSNSをやっていなくても、異常な承認欲求に駆り立てられ「役者として認められなければ」と取り憑かれたように評価を気にして、もがき苦しみながら前に進もうとする。リーガンの場合は極端だけれど(とは言え誰でも抱えている欲求なのではないだろうか)承認欲求とは人を動かすために多少は必要なのかもしれない。ほどほどに。