2015年6月18日

「スタッキング可能」感想



  会社に勤めたことないけれど、オフィスって思っていたより楽しそうだなと思った。「スタッキング可能」の登場人物たちが度々思い至るように、そこは学校をそのまま上の階層に(それこそ積み上げられている上の方に)押し上げたような側面があるのかもしれない。各々もちろん責任を持って仕事をしているのだけれど、閉鎖的な空間に人間関係があって、仲良い人、良くない人、しゃべったことない人がいて・・・。
 オフィスに勤める人々のそれぞれの思惑や考えを読んでいるのは楽しいし、全然違ったキャラクターの視点を行ったり来たりするわりには、皆同じことを思っていたりして、なんだほんとは皆わかりあえるんじゃんって安心したりもする。
 色とりどりの付箋、ポストイットのイメージも十人十色な登場人物達のイメージと重なるところがあるかもしれないと感じたので、たくさんのポストイットをくっつけて歩く毛むくじゃらなチームリーダー(もといE木さん)を描いてみた。
 ときどき突如挿入されるシャーロック・ホームズの茶番(行間遊びというのだろうか)も楽しい。

 街頭(実際は公園だが)演説と会話劇で繰り広げられる「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」は声に出して、役になりきって読んでみたくなるリズム感があって、とても好きです。

2015年6月17日

「停電の夜に」感想


 別に移民の問題を訴えているような本でもないし、アメリカで暮らすことを悲劇的に描いているわけでもない。登場人物たちはそれぞれの事情で故郷をあとにし、あるいはその両親のもとに生まれ、アメリカで暮らしている。その中で起きる様々なエピソードが淡々と描かれているわけで、それはとても個人的な物語となっている。二つの異なった世界に挟まれた個人的な物語。同時に外から見た、客観的に描かれたアメリカでもあり、インドの姿にもなっている。
 見知らぬ世界で暮らすのは移民の人に限らない。たとえば地方から都会に出てきた人にだって、その喪失感や、馴染みのないところで今までと全然違った生活をしなければならないことがある。なにからなにまで違うから、戸惑いながらもどこかに新鮮さを見出して暮らしていく。
 ぼくは「セン夫人の家」がお気に入り。エリオット少年があずけられたのはインド人夫婦の家で、セン氏は大学教師。夫人は夫のいないひとりの時間にエリオットをあずかることになる。このエリオットというのが母親と二人暮らしで、仕事から帰った母がワインとチーズで夕食にする傍らで宅配ピザを食べるという生活をおくっている現代アメリカっ子なのだが、対してセン夫人はナイーブなインド女性で、いつも故郷に思いを馳せたりアメリカ生活の勝手の違いにひどく戸惑っている人。この二人の交流がなかなかおもしろい。
 セン夫人が勇気を振り絞ってアメリカ生活に慣れようと奮闘するのを、エリオット少年がじっと観察しているふうに描かれている短篇だ。夫人の奮闘がやがて寂しい展開をもたらすのだけれど・・・。
 ところどころに登場するインド料理も字で読んでいてとても美味しそう。
 このあとラヒリが書いた長編「その名にちなんで」は、この短篇集「停電の夜に」に出てきていた要素を全て結集してつくったような傑作なので、また追々感想を書きます。

2015年6月15日

「私が宇宙旅行について思うこと」



* * *

 私の友人は皆宇宙旅行が大好きだ。
 ちょっと近所のドラッグ・ストアに行くような気軽さで種子島の宇宙港から、あるいはアメリカ経由でケネディ・スペース・ポートから飛び立ち、休暇を月面や火星で過ごす。そうして帰ってきたら旅先で撮影した写真を次から次へとコミュニティ・ネットにアップロードして知人に見せる。私はそうした写真を見てげんなりする。どの写真にも私の姿は無い。どうして私は彼らのような気軽さで宇宙旅行に出かけることができないのか。
 お金も時間も無いわけではない。実際私の友人たちは皆私と変わらない月給で生活している。それでもあれこれとお金を工面して、うまいこと資金をつくって宇宙旅行に出かけるのだ。一体どうやってやってるのかわからないが、私が買っている物を彼らは買わないようにしているのかもしれない。お金の使い方は人それぞれだ。彼らは少しでも憂鬱な気分に落ち込んだりすると、すぐ宇宙旅行に出かける。地球上のどんなリゾート地より、宇宙旅行が彼らにエネルギーをもたらす。月のパワーのせいだろうか。いずれにせよ彼らは快活な様子で地球に戻って来て、再び仕事に戻っていく。
「火星には地球のような息苦しさはないよ。そりゃ外に酸素は無いけどさ。でも、コロニーの中は本当に解放的で過ごしやすいんだよ」
「文化的な生活がしたけりゃ火星に行くことさ」
「宇宙に出ると世界が変わるよ」
「月面のショッピング・ステーションはお金がいくらあっても足りないわ」
「月では誰もが仲良くしてるんです」
「地球での国籍なんて無いも同然よ」
「いやあ、宇宙は”呼ばれた”人間じゃないと行けないもんだねえ」
「オーガニックなら火星が一番ね」
 以上、私の友人たちのありがたい発言の一部。流行に敏感で、外の世界に対して飽くなき好奇心を抱き続ける彼らの言葉は、いつだって私の考えの先を行き、常に前に歩き続けることをやめない。私は彼らに憧れると同時に、苛立ちを覚えたりもする。
 会社の帰りに書店に立ち寄って旅行コーナーを物色する。国内旅行、海外旅行、それから今流行りの宇宙旅行のガイドブックが特設コーナーに並ぶ。スペース・シャトルでの旅費はどんどん安くなっていく一方だった。旅行代理店はどんどん安いプランを組み続ける。本当にそんな金額で大気圏の外に出て行って大丈夫だろうかと、少し心配になるくらい。けれど皆は大喜びだ。ガイドブックを買い、インターネットでスポットを調べて、外宇宙滞在の注意事項を確認し、はしゃいで荷造りをする。月に持っていった方が良い物はなんだろうか。滞在中に無いと困る物はなんだろうか、などと考えながら荷物のリストを作成する。そこからすでに彼らは輝いている。
 私はなにも旅行が嫌いだったり苦手だったりということはない。むしろ好きだ。これでも国内外の旅行は何度も行っている。国内旅行はのんびりと行けるし、海外旅行はほんの少し不安と隣り合わせになりながらも、それでも自分の家の周りにはない風景や文化に新鮮味を感じて、大きな遊園地に行っているような気分になれる。地球での旅行なら、私も随分慣れたものだ。以前はやはり国内外旅行に対しても、私は腰が重かった。別に行きたくないわけでもなかったが、うーむ。やはり気軽さが持てなかったのだ。
 やっと世界を旅行できるようになった私だが、流行はいつも私の先を行く。私が初めてニューヨークのタイムズ・スクエアに足を運び光と広告のパレードをぼうっと眺めている頃には、友人たちは月面に建設されたテーマパークで遊びながら地球そのものを景色の一部として見上げながらはしゃいでいた。それはまさにウォルト・ディズニーの夢の実現だったろうけれど、私はまたしても置いていかれた気分だった。いつでも私がいる世界は皆にとってちっぽけなのだ。
 どんな気分だろうか。スペース・シャトルの丸みを帯びた窓から地球を見下ろす気分は。初めて外から眺める我が家は、どんなふうに見えるのだろう。やはり、地球を外から見るという体験は、自分のものの考え方に大きな影響をおよぼすだろうか。かつて私が海外にすら行ったことがない頃、よく友人たちは海外旅行をすると自分の世界が変わると言っていた。私は彼らが旅行の前後でどう変わったのかよくわからなかったが、本人たちとしては劇的な精神的変化を遂げていたらしい。そして今、宇宙旅行に行く彼らは同じ言葉を繰り返す。地球を外から見るとどんな悩みも吹っ飛ぶよ。
 ガイドブックが月面でのホットなスポットを紹介している。地球の宇宙港と結ばれているルナ・スペース・ポートを中心に商業施設が広がっている。中でもフォン・ブラウン・モールは超巨大ショッピング・モールで、月面での生活に欠かせないグッズはもちろん、地球に出回らない商品も多く揃えられている。月面限定のブランドものに皆目がない。そして極めつけはやはりディズニーランド・ルナだろう。月旅行者なら誰もが必ず訪れる文字通りの未来都市。月面コロニーの経済発展を象徴するかのような場所となっている。
 もちろん私だって行ってみたい。日本のディズニーランドですらあれだけ楽しめるのだ、月面版はもうなにがなんだかわからないくらいハイになれることだろう。他にもガイドブックをめくればめくるほど、フルカラーの写真で紹介されている月面施設の数々は私の好奇心を刺激した。そこには宇宙旅行において恐れられている危険はこれっぽちっも感じられない。宇宙の底知れぬ暗さなども無い。月面都市はこれでもかと眩い光で照らされており、今では地球から満月を見上げるとその灯りが見えるくらいである。月の明るさが変わってしまったのだ。
 夜空は宇宙旅行を楽しむ人達によって照らされているようなものだ。彼らが宿泊する月面ホテルの無数の窓から漏れる灯りや、彼らが遊ぶ遊園地が、カジノが、その他様々なエンターテインメントによって生み出される光が地球を照らすのだ。宇宙旅行に行けない人々、行かない人々はその光の下で夕食を食べ、地球の裏側で今なお続いている紛争の様子をテレビで観て憂鬱になり、ベッドに潜って眠りにつく。
 私はもはや我慢ならない。私が未だ宇宙旅行の経験していないという事実に。このまま外の世界を知らずに一生を終えてしまうのだろうか。かつて海外旅行をしたことのなかった頃にもこの不安があった。一生小さな自分の国の中で、保守的で未だに古い考え方に縛られた哀れな母国を出ることなく一生を過ごすのか。解放的な気分で海外旅行をせずに人生を終えるのか。そういった不安が一気にこみ上げてきたことがある。外に出たい。閉じ込められている気分だ。誰でもいい、私をここから連れ出して。ここでないところならどこでもいい。そのとき私は急にいてもたってもいられなくなり、一番近くにある外国のガイドブックを買ったのだった。海外旅行のガイドブックを買ったのも読むのも初めてだった。だが買って読むだけでどこかほっとした。私は外に出るための努力をしている。私は自分からアクションを起こしたのだ、と。あとは簡単だった。ガイドブックに書いてあることを実践するだけ。どこに行ってなにを見れば海外旅行をしたことになるのか、それが一通り書いてある。親切なことだ。私は諸々の手続きを済ませて生まれて初めてパスポートを取得すると、仕事のスケジュールを調整して航空機のチケットを取って宿泊先を予約した。高校時代の修学旅行以来になる飛行機への搭乗だった。あのときのフライトは飛行機が空港を飛び立ってちょっと旋回して少し飛んだらすぐ目的地の空港に着いてしまったから拍子抜けしたものだ。でもそのときは違った。うたたねを何度繰り返してもまだ飛行機は飛んでいる。私がこの年齢まで暮らしてきた、一歩も出たことのなかった国がどんどん遠ざかって小さくなっていった。私は海外に出た。海の外である。その先には途方もないほどの世界が続いているはずだった。こうして私は初めての海外旅行を敢行した。敢行もなにも、最初から私の前に障壁などなかった。ただ私だけが私の行く手を阻んでいたように思えた。
 そして今私は未だ行ったことのない宇宙旅行を前に、かつて海外旅行に抱いていたのと同じ感情を抱いている。またしても発作的な不安が襲いかかってきたのだ。私はこのままこの地球という、大宇宙においてはほとんど無意味といってもいいほど小さな星から一歩も出ることなく死ぬのか。自分の生まれ育った惑星を外から見ることなく?冗談ではない。息が詰まりそうだ(地球にはこれだけ酸素があるのにも関わらず、だ!)。
 私の世界はかつて自分の国だけだった。そして海外旅行ができるようになって私の世界は広くなったはずだった。それが今、世界はさらに広がり、私がいくらあがいたところで私の世界はどんどん小さくなっていく。私の世界が広くなることは一向にない。まるで世界の方に嘲笑されているような気分。お前はどうやったってちっぽけなのだと宣告されているような気分だ。
 そこでさらなる不安と恐怖がやってきた。かりに私がスペース・シャトルのチケットを取って、月面に行ったとしよう。さぞ楽しいだろう。これで私も宇宙旅行好きの仲間入りだ。だが、そのあとは?世界は月と火星で終わってくれるのか?そのあとさらに世界は広がるはずだ。宇宙は人間の想像が追いつけないほど、本当に途方もなく広がっているのだから。ほとんど無限といえるその空間に一体どれだけの惑星があることだろう。今後人類は火星より先にある星にも植民地を築くのではないか。こうしている間にもアメリカは外宇宙に向けて探査機を送り続けて調査を進めている。より多くの惑星に人類が居住可能な施設が建設されるだろう。もちろん新しいリゾート地も開拓される。惑星でなくたっていい、コロニーとして使用できる巨大な宇宙ステーションだって建造できるはずだ。そうなればもはや世界の広がりは留まるところを知らない。無限に広がっていくことだろう。私が気軽に月や火星に行けるようになる頃には、友達は皆ナントカカントカ言う新しく発見された惑星に旅行しに行っているだろう。別の太陽系すら旅行し、未知の文明と接触して自分の世界を無限に広げていくことだろう
 とても私はそれに追いつくことができない。どこまでもどこまでも広がっていく世界の最前線に追いつけない。追いついたと思ったらまた置いていかれている。そのたびに私は今のような、不安や閉塞感、無力感に襲われるのだ。私はやはり、友人たちの旅行写真をただ見せられる側の人間なのだろうか。彼らの土産話というか、ほとんど自慢としか思えない話を延々聞かされて、行ったことのある人にしかわからない感動を下手な言葉で表現されて、彼らが望むような相槌を打ち続けなければならないのだろうか。
 皆一体どこまで行くのだろうか。私の世界は、私という人間はどこまで小さい存在なのだろう。
 そして私が見落としていること、大変重要なのは、皆はきっと不安に駆られて旅行に行っているのではないということだ。好奇心に駆られて、行きたいから行くのだ。では私はどうして不安を抱いてしまっているのだろうか。行きたけりゃ行けばいいのに。ただ、この行きたいという気持ちも、やはり一番奥底にある動機が不安から来ているような気がする。
 結局、今の私に出来ることと言えば、書店で買った月面ガイドブックを熟読して自分が宇宙旅行をしている姿を簡単に想像できるようにしておくことくらいだ。そのうち、初めて海外旅行をしたときと同様にふとした瞬間に行く気になって、あっという間に私はロケットの中だ。そしたらもう私は毎週末だって月世界旅行を出来るようになるはずだ。私は初めて自分の国の一番端まで出かけたときのことや、初めて外国に旅したときの、その旅行をしようと思って準備をしたときの気持ちの高ぶりを忘れていない。実際に旅行をしている最中よりもずっと感動したはずだ。自分が初めての世界に出かけようとしていることに。私にとって重要なのはあのときの感動ではないか。
 世界が無限の広がりを見せる一方で、私がそこに行くまでは私の中でそこは存在していないも同じなのだ。人類が銀河系規模のネットワークを築く頃になっても、私が銀河中を旅していなければまだ私にとって銀河系は存在していない。大きく広がっていく世界が重要なのではなく、私がそこに出かけていくことが重要だ。友達の誰かがどこそこに行ったということもまた重要ではない。私がそこに行くことが重要なのだ。そしてなにより、私は人に言われたからそこに行くのではなく、自分で行ってみたいと思ったときに、そこに行かなければいけない。
 今日はもう寝よう。私はガイドブックを閉じてベッド脇のサイドテーブルに置いた。部屋の照明を落として暗闇の中を見つめる。宇宙はこの部屋より暗いだろう。底の見えない暗さだ。いつだったか、旅行で古いお城の庭にあった古井戸を覗いたときを思い出す。あれよりも暗いのだろう。目を閉じる。私は自分がスペース・シャトルに乗り込んで大気圏外に出て行く様を想像した。スペース・シャトルの中では映画を観られる。やはりSF映画が多いだろうか。シャトルの船内はスタンリー・キューブリックの映画に出てきたようなデザインだろうか。機内食はどんなだろう。シャトルがルナ・ポートに到着する。ガイドブックには月面の施設は全て大気シールドで覆われていて、宇宙服無しで地球の地上と変わらない生活をおくることができると書いてあった。シャトルのタラップを降りたら大きく深呼吸して月の空気を味わおう。まずどこからどうやってまわっていけばいいだろう。きっとスペース・ポートにはタクシーやバスが待っているはずだ。乗り込んでホテルの名を告げればドライバー・ロボットが温かみの無い声で生返事をして連れていってくれるはず。私はもう月旅行者だ。私の中のワールド・マップが月にまで広がって、そこが私にとって最も遠い場所となる。
 私の世界は私に合わせて広がっていく。
 私の世界は私にとってちょうどいいのだ。

* * *

2015年6月13日

「マーベル・シネマティック・ユニバース」/「アベンジャーズ」への繋がり


 今回はイラスト記事での一作ごとの感想は割愛。一本ずつ書いていたら新作「アヴェンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」が公開してしまうどころか、年が暮れてしまう。マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)は一作ごともおもしろいのだが、なにより全体としての繋がりや体系がおもしろいので、その系譜を簡単にまとめてみた。2008年の「アイアンマン」から始まり、ハルク、ソー、キャプテン・アメリカのエピソードが語られた上で、それらは一旦2012年に「アベンジャーズ」へと収束していき、さらにフェーズ2へと展開を続けていく。

 娯楽映画を地で行きながらも、キャラクターの背景をよく描いている。一作ごとがその主役キャラクターのプロフィールとなっており、他のキャラクターの映画とのリンクも随所に盛り込まれている。同じ役者が演じる同じキャラクターが繋ぎ役としてこっちの映画からあっちの映画へと駆け回り、別々の映画でありながら同じ世界を描いていることが伝わってくる。別々の監督が別々に撮った映画たちなのによくこれだけ整合性というか、調和を取れたものだと思う。特にそれまでソロで主演を張っていたヒーロ―達が一同に集う「アベンジャーズ」では、一体どうやって収拾をつけるのかと思ったが、これが綺麗にまとめられている。しっかりひとりひとりに見せ場が用意され(ヒーロー達だけではなく、今まで各映画に繋ぎ役として顔を出していた脇役にさえもだ)、映画観ている間はまるでカラフルなコミックのページをめくっている気分だった。
 もちろん全ての作品に原作者スタン・リーがカメオ出演している(マーベル映画のお決まり。あのじいさん、ヒッチコック気分かよ!)。

 「アイアンマン」は、特に日本の男子達を夢中にさせたのではないだろうか。天才技術者にして大企業の社長トニー・スタークは負傷した自身の身体を支えるためにハイテクなパワード・スーツを制作して着用する。この「自分で作って着る」というところに男子は夢中だ。日本の特撮ヒーローの「変身シーン」に通じるアイアンマンのスーツ装着シーンや、試行錯誤を繰り返してひとり工作に励むトニーの姿はまさに少年そのもの。続く「アイアンマン2」でも自分で黙々とスーツ制作を続けるトニーだが、アイアンマンの物語では「作る」という行為が重要な軸になっているのかもしれない。いずれにせよメカを作るという行為は大変魅力的だ。もちろん戦うシーンも爽快。ロバート・ダウニー・Jrにトニー・スタークというキャラクターが憑衣というか、ものすごくはまってるところも人気の理由。

 「インクレディブル・ハルク」ではすでに科学者ブルースが実験事故で怒ると緑色の巨人ハルクに変身してしまう身体になったその後から物語が始まるところが新鮮。怒りを沈める修行に取り組むブルースだが、どうしても緑色の巨人に変身してしまうという宿命と向き合う。スターク社がちらっと出てきたり、ブルースをハルクにしてしまう実験の元が、第二次大戦中にキャプテン・アメリカを生み出した研究と同一であるところなど、世界観の広がりを感じさせる。小柄なティム・ロスが悪者ハルク化するところも良い。本作でブルース/ハルク役はエドワード・ノートンなのだが、大人の事情で以降の作品では降板。ノートンのハルクは、変身前と後でのギャップが大きいところがよかった。「アベンジャーズ」ではマーク・ラファロが演じるが、この人はすでにごつくてハルクっぽい顔をしている。どちらのハルクも好き。

 「マイティ・ソー」のソーとは北欧神話の雷神トールに基づくキャラクター。ヒーローというかもう神様である。マーベルの設定では北欧神話の神様は別の星から地球に来て巨人と戦った宇宙人ということになっている。身勝手な行動で王国の平和を乱した罪で王である父親に地球へと追放されてしまったソーが、地球で出会った天文物理学者ジェーンたちとともに危機を乗りこえるお話。ジェーン演じるナタリー・ポートマンも、その助手ダーシー役のカット・デニングスもかわいいし、研究仲間セルヴィグ博士役のステラン・スカルスガルドは最近のぼくの推しおじさん。
 神様たちの住む宇宙側の話が壮大なのに対し、地球サイドの物語はとてもスケールが小さい。これまでのMCU映画とは違い、同じ地域から全然離れない。宇宙側のスケールとのバランスのためだろうと思うけど、これがまた良いのだ。宇宙側で大変なことになっているときに地球サイドはものすごくのほほんとしている印象。北欧神話であるためか、監督はケネス・ブラナー。ハリウッドのヨーロッパ人頼み。

 ぼくがMCUで一番好きなのは「キャプテン・アメリカ」。監督は「スタ―・ウォーズ」のスタッフとしてもお馴染みのジョー・ジョンストンで、彼は「ロケッティア」にて第二次大戦中のヒーローというレトロ・フューチャーな冒険活劇をみごと描いてみせたので、同じくナチと戦うキャプテン・アメリカにはもってこい。
 ときは戦時中、身体が弱いがひと一倍優しく愛国心を持つスティーブは徴兵検査におちてばっかりだったが、その精神を買われてスーパー・ソルジャー計画に被験者として参加、超人血清を打たれてひょろひょろだったのが瞬時にめちゃくちゃなマッチョになり(バックグラウンドがちょっと三島由紀夫っぽい)、星条旗に文字通り身を包んでナチスの科学部門ヒドラとそのリーダー、レッド・スカルと戦う。
 キャプテン・アメリカに技術提供をするのがトニー・スタークの父親ハワード・スタークだったりするところに世界観リンクがあっておもしろい。
 最終的に戦いに勝利するも、ヒドラの飛行機で北極に墜落してしまったキャプテン・アメリカは生きたまま氷漬けになってしまい、70年後の現代になって発見されて目を覚まし、アベンジャーズに加わる。ものすごい展開だが時代まで越えてリンクしてしまうのがMCUなのだ。

 そして上記5作で活躍したヒーロー達、そしてちらほらと登場していた脇役達が一同に終結するのが「アベンジャーズ」。果たして戦時中の軍人(超感覚が古くてカタい)、雷の神様(もう人間の存在を超越している)、金持ち社長(プレイボーイで自惚れ屋)、超危険な緑のクリーチャー(怒ったらもう抑止がきかない)といった面々がチームなど組めるのかと誰もが心配。しかも超人たちに加えてスカーレット・ヨハンソン演じる元ロシアの女スパイ・ブラック・ウィドウ(年齢設定がおかしいんだが・・・)や、サミュエル・L・ジャクソン演じる司令官フューリー(実際リーダーシップがあんまりない)、ジェレミー・レナー扮する弓矢の名人ホークアイ(地味)など、「普通の」人間も同じチームなのだからすごい。実際、戦闘シーンになると超人たちがド派手なアクションを繰り返す中、ブラック・ウィドウはハンドガンをドンパチ撃ち続けているし、ホークアイはひたすら弓を引いている。でも適材適所というか、それぞれが全然違う特色を持って互いに補い合うところがアベンジャーズの肝。大変楽しい映画となっている。

 以上。まずは「アベンジャーズ」までのフェーズ1のおさらいでした。「アベンジャーズ」以降、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」に向かって展開していくフェーズ2に続く・・・。

2015年6月10日

「アデル、ブルーは熱い色」感想


 この映画に関しては単に「レズビアンを描いた映画」とするには抵抗があるし、あまりそのテーマを念頭に置いて考えたくない。わざわざ同性同士の恋愛というラベルをつける必要がないからだ。この映画で描かれていることは異性同士の恋愛でも普通に起こり得ることなのだし。それでも、終いまで観ると、やはりアデルが根っからのレズではないことも、エマとの間に生じるズレ要因のひとつとなったのだと思う。同性愛かどうかはさほど重要ではなく、彼女はただ、エマという人、鮮やかなブルーの光線を放つエマその人が好きになっただけだったのだろうと思う。

 たとえば、労働デモのシーンとプライド・パレードのシーンの対比。
 前半でアデルの高校生としての暮らしぶりが描かれるわけだけれど、その中に労働デモに参加するシーンがある。仲間と騒ぎたいだけの興味本位で参加しているのか、本当に政治的関心が強いのかは少し計りかねるけれど、見たところ前者としての印象が強い。もちろん、アデルとエマの属する世界や階級(この言葉を使って人間やその家庭をカテゴライズするにはやはり抵抗があるのだけれど)の違いを描いてもいるのだろう。だが、その後になってエマとともにプライド・パレードに参加するシーンではずいぶん違った印象を受ける。アデルは労働デモのシーンほど熱狂している様子がない。イベントの性質が違うので、怒鳴り声を上げることもないのだが、それでもどこか心ここにあらずといった様子でぼうっとしている印象を受けるのだ。ノリきれていないんだよね。
 アデルとエマの違いは徹底的に描かれる。たとえば家庭や進路がそうだし、ボロネーゼとオイスターはその違いのアイコン。フランスでの現実的な格差のことはよくわからないけれど、違いのポイントを探していくのも映画を観る上で楽しいと思う。

 最終的にずっと囚われていたものからふっきれて、前に進もうとするアデルからは力強さと成長のようなものを感じる。十代の終わりから二十代前半というかなり重要な時期を捧げてしまったものから脱却するなんて簡単なことではないのだけれど、誰もが経験することなのかもしれない。アデルの場合、それがエマだったということ。アデル自身がブルーになっていたのが印象的だ。それも、劇中登場したどの時期のエマよりもずっと濃い青をまとっていた。時間の経過とともに、どんどん青くなくなっていったエマとは対照的な姿だが、それはエマとの関係が終わり彼女の影響下から脱しても、自分にとって大切なものは変わらず抱き続けているのだということを表していたのかもしれない。最後はアデル自身がブルーになったのだ。

 ところで、アデルの父親が芸術家志望のエマに「芸術で食べていくのは大変だ」とかなんとか講釈を垂れるのだけれど、美術の道を志す人が、ろくに知りもしない外野から「食べていくのが大変だ」などと無責任な忠告をされてどんなに苛立ちを覚えるか、ぼくは知っている。だからあのシーンでのエマの絶妙な表情には感動した。絶対苛立ってるだろうな、将来が不安定でよく見えないことは本人が一番よく知っているのだから(それでいて相手はあくまで自分の身を案じて言っているのだから、苛立ちをどこへ向ければいいのかわからない)。
 それでもアデルの両親の「レベル」に合わせて、相手にとって都合の良い返事をしてなにごともなく会話を進めるエマを「大人だなあ!」と思った。いやあぼくだってああいう状況でああいったことを言われても憤慨したりはしないけれど。

 未だに判明しないが、アデルのクラスメイトのものすごいつり目の人が気になっている。エマとともに遊びにいったアデルがクラスメイト達からやいのやいのと言われたあとで、アデルを擁護しようとする彼女。この女優の名前がわからないのだ。キャスト名を片端から画像検索にかけてもわからない。ノンクレジットだろうか。わかる人がいたら教えていただきたいです(資料が乏しいので似顔絵がいまひとつですが・・・)。その後アデルの誕生パーティにも来て、リッキ・リーの「I Follow Rivers」に合わせて踊る姿が大変綺麗で愛らしいのです。

 ウーン、生牡蠣が食べたい。ボロネーゼは映画を観た翌日に食べた。
 

2015年6月9日

FLY BAG


 財布を長財布、それもかなり厚みのある金具装飾の繊細なものに替えたので、前のようにスキニーパンツの尻ポケットに突っ込んで手ぶらで外出、というわけにはいかなくなった。気軽な外出のおともにショルダーバッグかクラッチバッグが欲しかったのだけれど、この紙袋みたいなバッグを見つけた。
 一見紙袋のようなBRUSHUP STANDARDのFLY BAGだが、その正体は米デュポン社が開発した高密度ポリエチレン製。よくわからないが紙ではないらしい。破けないし濡れても平気。折れ目はつく。リュック、トート、クラッチバッグといろいろ種類がある中ぼくが形だけで選んだのはLPバッグというタイプらしく、LPが20枚ほど入れられるらしい。LPを20枚持ち歩く生活をおくっていないのでその名前はぼくに無意味なのだけれど(そもそもどういう人がLPを20枚持ち歩いているのだろう)、半分に折ると小脇に抱えられるクラッチバッグ風になる。クラッチバッグを小脇に抱えた洒落た男子に憧れていたのだ。一体彼らはなにを持ち歩いているのかずっと気になっていたが、ぼくと同様無駄に大きく持ち歩き方に困る財布を入れているに違いない。
 ところでぼくは肩にかけるでもなく腕に通すでもない、手に持つタイプの荷物をその辺に置き忘れることが結構ある。たとえば地下鉄の券売機を使うときや、ATMを使うとき。どこか脇に置いて忘れやしないか心配だ。
 せっかく紙っぽいのだから絵でも描こう。

2015年6月5日

少数氏名


 コーラのラベルに人名がプリントされている。よくわからないが、どうやら自分の名前を見つけたらラッキー!買っちゃお!的な販促らしい。少数氏名の身としては辛いものがある。「自分の名前があるわけがない」と言い切ることはできないのだが、コンビニで見かけることはまず無いのである。そもそも自分と同じ名前の人間に出会うことがないのだから、その名前が普遍的な名前としてプリントされているはずがない。自分の名前は好きで気に入っているのだが、こういうときには何か疎外感のようなものを感じずにはいられない。ネームボトルキャンペーンの恩恵に預かれないのだ。
 少し前に読み終えていて、そのうち読書感想「秘密図書館」で取り上げようと思っている本にジュンパ・ラヒリの「その名にちなんで」という作品がある。アメリカに移住したインド人夫婦の間に生まれた息子ゴーゴリの物語で、ゴーゴリという名前は父親の人生に強い影響を与えたロシア文学にちなんでいる。だからインド的でもアメリカ的でもない上に、ロシアにおいてもファーストネームに使われることのない名前とともに生きていく中で、ゴーゴリはいろいろと苦しむのだけれど、ぼくが一番きついなあと思ったエピソードに「墓地での課外授業」がある。小学校の授業で皆で墓地に行き、画用紙だか新聞紙だかを墓標に貼り付けて上から鉛筆でゴシゴシやることで墓標の名前を複写するという謎の課外授業なのだが、無神経な教師は「自分と同じ名前を探して」と命じる。アメリカ人の名前ならそりゃあ墓場行きゃあいくらでも同じ名前が見つかるだろうが、ゴーゴリとなればそうはいかない。墓地で途方に暮れるゴーゴリ。クラスメイト達がすぐに自分と同じ名前を墓標に見つけてとっくに作業に取りかかっている中、ゴーゴリ坊やはひとりしょんぼり。確か結局適当な墓標を複写したんだったっけ。この授業自体相当意味がわからないし、罰当たりというかなんというか、そのあとゴーゴリのお母さんもこの授業内容に対して怒るのだけれど、まあとにかくゴーゴリの辛さがぼくもなんとなくわかったわけ。少数氏名を持つ者には「自分と同じ名前を探す」なんて課題は難しいに決まっているし、なによりも同じ名前がすぐ見つかって当然、というような教師の態度にも大変憤りを感じるのだ。
 話は逸れたが、別にコカ・コーラのキャンペーンにどうこうというわけではない。知っての通りぼくはコーラを浴びるように飲む生活をおくっているので、誰の名前が書いてあろうと正直どうでもよく、「MIZUMARU」ボトルが無くたって買って飲む。けれど、こういう名前絡みのものには思うところがいろいろあるのだ。お土産屋さんなどによくある名前入りキーホルダーとか、もちろん好きな名前を入れてくれるものなんだろうけれど、既製品で売っているものに自分の名前が普通にある人が少し羨ましいと思ったこともあった。あれは一体どんな気持ちなんだろう。自分の名前がどこにでもあるという気持ちというのは。
 最近キラキラネームなどという珍名が(おっと失敬)流行っているらしいのだが、普遍的な名前への反動なのか、これでもかとオンリーワンなネーミングが量産されている。彼ら彼女らが大人になった将来、少数氏名が多数派になるという奇妙な世の中になるのだろうか。他所様のお子さんの名前について特にケチをつけるつもりもないしあまり興味も無いのだが、人と同じ名前がそんなに嫌なものだろうか?普遍的な名前も素晴らしいと思うのだけれど(とは言え中学高校ではあまりにも同じ名前の人がいてこんなにも被るのかと驚いた)。きっと少数氏名の天下では「太郎」「花子」が輝いていることだろう。現時点でも太郎花子は十分渋くてかっこいいのだけれど。

2015年6月2日

HEROES & VILLAINS FROM THE PHANTOM MENACE


 コアなファンな間では賛否ある曰く付きのエピソードだが、ぼくは好きだ。結局最初に触れたSWムーブメントというのが、1997年の特別篇公開と、それに続く1999年のこの「ファントム・メナス」公開の時期だから、子供時代の思い出と直結しているわけだ。特にすでに小学二年生になっていた1999年の記憶ははっきりとしていて、「ファントム・メナス」はぼくにとって夏休みを連想させる。ムーブメントの時期そのものもそうだが、夏の青い空に似た爽快感がこの作品にはあると思うから。昔からSWを見てきた上の世代がなんと言おうと、この映画はぼく(と同世代人)にとって最初のSWでなかろうか。年長者の口ぶりを真似て玄人ファンぶる気にはなれない(玄人ファンて何だ・・・)。
 突っ込みどころはたくさんあれど、それもまた「ファントム・メナス」の個性と言えるのではないか。いずれにせよSWファンは賛否に関係なく、「ファントム・メナス」について語ることをやめないのだ。その意味でもこの作品はシリーズ中において特別な位置づけにあると言える。

2015年6月1日

「シンデレラ」感想


 やっぱり皆が観たいのは後日譚前日譚とかよりも、その物語自体の実写版だと思う。よく知る物語だからこそ新たにアレンジするのだろうけれど、よく知る物語を本物の俳優や映像で観たいのだ。もちろんこの「シンデレラ」に一切新要素がないわけではない。けれど、その唯一挿入されたアレンジ要素が、今までほとんど語られなかったシンデレラの実母との思い出という、ごく自然ですんなり入って来る、本当に丁度良いアレンジなのだ。それ以上変なアレンジを加えていないので、ストーリーの進行も自然で、突っ込みたくなるところもほとんど無い。
 ケイト・ブランシェットの継母も、とても嫌なやつだったが女性としてちゃんと立体化されているようにも思えた。その嫌な性格にも少し含みがありそうだったけれど、それを決して全部語ろうとしないところが良い。あれくらいで丁度良いと思う。継母なりに思うところもあったらしいが、とりあえず悪い奴は悪い奴だから悲惨な最期を迎えなければならない、と「綺麗に」収まっている。
 アニメ版では戯画化されて邪気の無かった宮殿側の人物達も、良い具合に権威や階級に毒されていて、ステラン・スカルスガルドの大公はアニメ版のような道化ではなく、狡猾な野心家として描かれている。こういったところにこそ実写化する意味があるのではないだろうか。本物の生きた人間が演じるのは、元のストーリーをそのままトレースしたり、派手なアクションシーンを取り入れたりするためだけではないはず。生きた人間としてのキャラクターが物語に深みと奥行きを与えてこそ、実写化する意味があると思う。
 特にCG製の妙なクリーチャーが出て来ることもなく(むしろ最新の映像技術で表現されたカボチャや動物が馬車や従者に変身していくシークエンスは素晴らしい)、徹頭徹尾「シンデレラ」を実写化することに努めていて大変好感が持てた。昨年の「マレフィセント」で消火不良を感じた人は満足できるのではないだろうか(そもそも映画のタイプが全然違うが)。
 そういえば、継母の飼う凶悪な黒猫ルシファーも実写で登場したのは個人的に大変うれしかった。