2015年7月16日

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」感想


 全編カーチェイスのディストピア冒険物語とでも言いましょうか。スピード感が爽快であるとともに、余計な説明が無いというか、すんなりその世界観に引き込まれる。キャラクター造形も重厚でありながらわかりやすい。それでいていろいろと分析の余地がある楽しい映画です。3DIMAXという環境にぴったりの映画でした。またああいう設備で映画を観ると、映画がただ観るものから体験するものに変わりつつあることがわかる。映画体験とはよく言ったもので、この「マッドマックス」も、車と車のぶつかり合いによってはじけ飛ぶ火花や金属の破片みたいなものを無意識に頭を振ってよけたくなる迫力があった。顔をしかめて避けたくなったそのとき、いつの間にか自分が映画の中に入っちゃってることに気付く。
 ディストピアの未来世界というと、ぼくは強くなりすぎた政府が徹底的な管理体制を敷いてる世界を連想するのだけれど、政府なんてものが無くなっちゃって、秩序がすっかり崩壊しちゃった世界もまたディストピアなのだなあと思った。自由すぎる世界もまた危ないんだな。
 キャラももちろんだけれど、いろいろな改造車が出て来るのも楽しい。これまた子供の妄想みたいな車が出てきてヴィジュアルがすごすぎて笑ってしまうくらい。これは確かにレゴ・ブロックで再現してみたくなる。

2015年7月9日

「おはなしして子ちゃん」感想


 たとえば「アダムス・ファミリー2」における、キャンプ場でのネイティブ・アメリカンと白人様のお食事会(の劇)をウェンズデーがぶち壊しにした後、ブロンド白人ギャルをこらしめるとどめの一発にマッチを擦って火をつけた瞬間、高らかにアダムスのテーマが流れる。あのときの邪悪な高揚感に似たようなものを、この本を読みながら感じた。ブロンドギャルをこらしめるお話ではないけれど、「善良な人々」を戸惑わせ恐怖させる才能を持った人物が登場したり、今までそれほど注目されたこともなかったような「物」程度の存在だったものが突如怪物に変貌して逆襲してくるところなど、ウェンズデー・アダムスの邪悪な笑みが浮かんで来るようでとても楽しかった。
 ホルマリン漬けの動物はぼくもずいぶん恐いもの見たさで観察したことがある。個人的に動物の姿をしているものよりも、「眼球(牛)」というラベルが貼られたガラス円柱の中で異様に大きくてうつろな灰色の球体が浮かんでいるのが恐かった。あの誰も意識を向けず、誰からも手入れはおろか触れられることすらなく忘れ去られた容器の中に、ぼくがよく知っている世界のものとは別のものが潜んでいるのではないかと不気味に思ったものだ。
 同様の理由で藻に覆われてなにを飼っていたかわからなくなった古い水槽なども恐い。田舎の民家の庭にはだいたいあるもので、中を確認することすらなんだか気味が悪くて放置されがちな古い水槽。けれどときどき分厚い藻のベールの中で金魚なのかなんなのか、なにかがぬうっと動くのが見えるのだ。

2015年7月6日

「マーベル・シネマティック・ユニバース」/「アベンジャーズ」以降 - 再集結


 先週末から日本でも公開が始まった「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」。ぼくはまだ観ていないので、とりあえず前回の「アベンジャーズ」以降、「エイジ・オブ・ウルトロン」に続いていく「フェーズ2」シリーズ群のまとめです。
 
「アイアンマン3」は「アベンジャーズ」後のトニー・スタークの苦悩を描き、彼自身のキャラクターを掘り下げている。「アベンジャーズ」で数々の異形や、科学では太刀打ちできない未知の脅威を知ってしまった彼は、アイアンマン・スーツに頼るしかない自分の無力さに苦しみ、取り憑かれたかのようにスーツ作りに励む。「アイアンマン」シリーズのテーマのひとつ「作る」がここに極まる感じ。トニーの精神的な面に焦点を当てているためか悪役や戦いはいまひとつ(一作目のジェフ・ブリッジス同様、ベン・キングスレーという名優の雑な扱い)。まあ、一作目も二作目も個人的にはいまいちだったけれど。アイアンマンがアイアンマンたる所以のようなものを今一度確認できる作品になっている。

「アベンジャーズ」のあとでソーとロキ(特にロキ)がどうなったかを描く「マイティ・ソー/ダーク・ワールド」。地球から故郷に戻ったソーは王位継承者としての仕事に励み、前作の傲慢なドラ息子から優れた次期指導者に大きく成長し、ロキは地下牢で服役中。しかし、宇宙征服を目論むダーク・エルフの出現をうけてふたりは一時共闘することに。同じ頃地球でも宇宙で起こっていることの影響を受けて異変が起き、ジェーン、ダーシー、セルヴィグ博士も奮闘する。前作同様、宇宙サイドの戦いのスケールとのバランスか、地球側のキャラクターがちょっとお間抜けな感じでてんてこまいになる様子が笑える。

「キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー」は前作「ファースト・アベンジャー」とは打って変わった雰囲気。「アベンジャーズ」後、国のために数々の任務を遂行していたキャプテン・アメリカだったが、アメリカは彼が知っていた戦前戦中のアメリカではなくなっていた。持ち前の愛国心が組織を疑うという発想を彼に抱かせてこなかったが、とうとうキャップは疑問を持ち始める。敵は味方の中にいたのだ・・・。
 「ファースト・アベンジャーズ」では第二次世界大戦を通して無条件でアメリカの戦いを賛美して描いていたけれど、「ウィンター・ソルジャー」では反対にその幻想が通用しない現代のアメリカの暗部を彷佛とさせる。その中で変化になかなか適応できずに苦しむキャプテン・アメリカを描き、彼により強大で複雑な敵を用意している。キャプテン・アメリカの個人的な物語であるとともに、アメリカそのものの変化を描いていると思う。
 
 「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」に関しては個別に感想記事を書いたのでざっくりと。MCUにおいては今のところ「アベンジャーズ」のメンバーと関わりがないけれど、同じ世界観を共有している作品(「アベンジャ―ズ」に少しだけ登場したサノスが登場)。とは言え遠い銀河系の物語なのでなかなかその実感はないけれど。宇宙繋がりで「マイティ・ソー」の世界とリンクがあり、「ダーク・ワールド」のエンドクレジット後には、「ガーディアンズ〜」に登場する宇宙の蒐集家コレクターがソーの手を焼かせたアイテム「エーテル」を預かるシーンがある。MCUシリーズは「インフィニティ・ストーン」という複数のアイテムを巡った戦いが一本の筋になっており、フェーズ1には「コズミック・キューブ」(四次元キューブとも)を巡ってアベンジャーズが戦ったが、この「エーテル」もインフィニティ・ストーンのひとつ。「ガーディアンズ〜」には「オーブ」というインフィニティ・ストーンが登場し、これの争奪戦というのが本筋となる。アイテムによって別々の映画が繋がっていくのもMCUの特徴。

 さて、「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」が公開された今、フェーズ2も残すところあと一本となった。これが「アントマン」というまたユニークなキャラクターの映画であり、アリのサイズに縮小して戦うもっとも小さなヒーローの物語となる。
 大変楽しみだが、どうしてフェーズ2はアベンジャーズで終わらずに、このアントマンの映画で締めくくられるのだろうか。そこにはなにか、アントマンの大きさからは想像できないような大きな展開があるはず!

2015年7月1日

「トゥモローランド」感想


 確か「イミテーション・ゲーム」の感想で西尾維新先生の「世界は天才に厳しい」という言葉を引用したと思うのだけれど、この映画もまたそれがあてはまると思う。直接的ではないにせよ。ディストピア未来が主流の近頃だけれど、この映画ではこれでもかと華麗な映像美やデザイン性とともに夢のような未来世界を見せてくれる上、ディズニー的ジョークも連発され大変楽しい。
 しかし驚いたことになにかの才能に秀でた者を選んでトゥモローランドに招待し、大多数の一般人にはその存在を隠したままというのは、選民思想ではないかという否定的感想を持った人が多いらしい。まあ他人の感想にはあまり興味がないのだけれど、頷けるところもある。だが、それも踏まえて思ったのは、トゥモローランドは天才が自分の分野に没頭できて、現実世界をより良くするための技術革新をする場所というだけでなく、天才と呼ばれる人々のためのユートピアとしても考えられるのではないかということだ。実際にトゥモローランド建設に関わった歴史上人物たちは皆天才で、テスラ、エジソン、ヴェルヌ、ディズニー、アインシュタイン・・・明言はされていないがロケット的ガジェットが登場したり、ディズニーランド内のトゥモローランドにも関与しているためヴェルナー・フォン・ブラウン博士などもそこに加わっているはずで、史上に登場する天才的人物はだいたい関わっているのではないか。そしてその目的は、明日を創るための技術を研究するところであるのと同時に、「才能」を現実世界の抑圧から守るためなのではないか。
 そりゃ、才能のある人のための場所だから選民思想的なのは当たり前である。けれど、それを完全に悪いことだとはぼくには思えないのである。その才能故に孤独に生きるしかなく、時代や世界のせいで不遇な運命を辿った人がいるのは、「イミテーション・ゲーム」のアラン・チューリングを見てもわかるはずだ。そう考えれば、大多数の「普通の人々」のほうがずっと選民的と言えないだろうか。才能はときに嫉妬されるし、恐怖すらされるものなのだ。