2016年8月28日

小説を読んで思うこと

 控えめに言って、本はわりと読みます。しかし、最近我慢ならないことがある。
 フィクションに既存の企業、銘柄、商品名、ブランド、人名、サービス名等といった固有名詞が出てくること自体、ぼくはまったく抵抗がなく、それどころか「コカ・コーラ」や「マクドナルド」や「グーグル」が出てきたほうが物語が身近に感じられるし、なんというか文章の中に生活が見えてくるから好きだ。たとえばアメリカ文学を読めばだいたい「コカ・コーラ」や「カッツ・デリカテッセン」、「ナショナル・ビスケット」といったものが登場する。もっと馴染みのないものが出てきたときには、これはなんなのだろう?と興味が湧いて、調べてみたりすることで作品が歴史の一部に感じられるというものだ(一般的な読書から少々飛躍していることは否めないが)。
 これに対しての批判的な意見と言えば、たとえば当世の流行りものを取り入れると作品がすぐ古びてしまうだとか、後世のひとに伝わりづらいだとか、そういうのがあるらしい。古びてしまう問題に対しては、「作品が書かれた当時を知る資料」としての価値がつくだろうと思うし、後世のひとがポカンとするのではないかという問題に対しては、そんなに未来のひとが読む本なら注釈や解説がついたりするから平気だろうと思う。谷崎潤一郎の小説に「円タク」というものが出てきても特に注釈などなかったけれど。まあ要するに物語を紐解く上で当時のひとにとって身近だった固有名詞がちょっと挟まってるくらい大した問題じゃないということ。そもそも「コカ・コーラ」や「マクドナルド」や「グーグル」が人々から忘れ去られるほど先の時代の人々に読まれる際のことを心配するのは、正直言って杞憂だよね。
 という具合に、ぼくは既存固有名詞の挿入は好きだ。ではなにが我慢ならないのか?これは固有名詞を使う使わない以前の問題というか、そのひとの文章表現、手法の問題になってしまうのだけれど、通信における会話についてだ。
 現代を描く作品には当然現代の生活様式が反映されるので、登場人物たちはタッチパネル式の携帯電話(小説の文中で「スマホ」と俗称で書かれていることにまず抵抗を感じる)を使って、通信アプリケーション「LINE」を使って交信したりする。上で書いてきたようにそれは全然問題ない。それくらい現代人の生活に浸透しているし(もちろん使っていないひとも大勢いるけれど)、近い将来インターネットが姿を変えたとき、あるいはとても古いものになってしまったときにはレトロ・テックとして新鮮さが出るだろうし、ちょっとしたSF感だってあるかもしれない。まあ、10年後に「LINE」という名称を見たときに、たとえば今の感覚で00年代の小説を読んで「mixi」とかが出てきたときに感じるやるせなさと同じものを覚える可能性はあるので、MSNメッセンジャーからスカイプ、imessage、LINEといった似たようなツールをひとまとめに「メッセンジャー・アプリ」とかなんとか、そういうふうに呼んだほうがニュートラルで無難な気もするけれどね。

 さて、本を読んでいると登場人物たちがLINEで交信を始めたとしよう。
 A子の「スマホ」が振動して画面上にLINEの通知が浮かび上がる。交際中のB太郎からだ。
「ようA子、今度の土曜日、映画を見に行こうぜ」
「いいわよB太郎。あたしゴーストバスターズが観たいんだけれど」
「はん?あんなオバンだけのゴーストバスターズなんかゴーストバスターズじゃないぜ」
「オバンですって?彼女たちは最高にクールな存在よ」
「なんでもかんでも主人公を女にしやがってからに俺の子供の頃の夢を奪わないでくれよ」
「ちょっと、聞き捨てならないわね。逆に言えば今までなんでもかんでも主人公はオジサンか小僧だったじゃないの。主人公が男だったときにはなんの疑問も湧かないくせに」
「ぐぬぬ」

 といったような微笑ましいやり取りがなされ、結局その土曜にふたりは『ゴーストバスターズ』を観に行って、B太郎もケイト・マッキノンのかっこよさに痺れて考えを改めるのであった。と、重要なのはそこじゃなくって、会話の部分。これは一応LINEでなされている会話として進んでいるが、アプリについてよく知らないひとにはこのままではちょっと不親切ではないだろうか?「画面上にLINEの通知が浮かび上がる」とあるが、通知が浮かび上がったらなんだというのだ?通知が浮かび上がってから会話に発展するまでのプロセスが謎だ。LINEでの会話描写について、こういうふうに書かれている本は多い。これがぼくの我慢ならないことだ。なんの断りもなく「LINEによる会話」とされている会話が急に始まって、終わる。この通信アプリが廃れてしまった時代に読まれるときのことを気にするとかいうレベルの話ではない。同時代人であっても同じアプリを使うひとじゃないといまいちピンと来ないのではないか。ましてや会話中に「スタンプ」なるものが入れられることもあって、こればかりはもうLINE利用者じゃないと伝わらないんじゃないかと思う。
 まだあるんだ。これはLINEだけに限った話ではなく、電話による会話、電子メールによる会話描写にも当てはまるのだけれど、全てのセリフが面と向かっての会話のときと同様「」で囲まれているのが気になって仕方がない。通信による会話であるという区別がまったくなされていないのだ。別に全てのセリフが「」で囲まれていても、前後にそれが電話による会話であること、メールによるやり取りであること、 ラインによるものであることがわかるように書かれていればいいのだけれど、それがいまいちわからない場合もよくある。いや、さすがにぼくもちょっとは考えることができるので「ああ、メールでのやり取りなんだな」くらいのことは思うのだけれど、一瞬「ん?」と前のページに戻ってなにか見落としてるものがないか文字を追ってしまう。「そうとわかるならいいじゃないか」とも思われるかもしれないけれど、それでいいんだろうか?説明不足というか、読者の多くも自分と同じようにLINEを使っているからこれくらいわかるだろうというような、早まった一般化とでも言うようなものを感じずにいられないのだ。もちろんそのひとの表現手法があるので、間違っている、と言うつもりは全然ない。ぼくが読んでいて微妙な気持ちになるというだけのこと。
 著者のひとが、どこを省略し、どこを丁寧に書いたかという話に尽きるんだけれどね。
 ぼくが気にしすぎなだけだろうか。

2016年8月26日

“The Another Rescue"


“The Another Rescue” 
- STAR WARS : THE FORCE AWAKENS [2015]

 実際にないシーンの妄想なので、『フォースの覚醒』タイトルをキャプションしていいのかどうかよくわからないけれど、まあいいでしょう。
 最高指導者から「カイロ・レンを連れて脱出しろ」と直々に命じられたからには、ハックス将軍自ら救出に向かうはず。『シスの復讐』('05)で火山惑星ムスタファーまで四肢を無くして大火傷したアナキンを助け出しに行った皇帝の図と、なんとなく重なる(皇帝の方は大事な所有物を回収に行ったという感が強いが)。
ハズブロ社製6インチ・フィギュアのスノートルーパーがお気に入りなので、見ながら描いた。フィギュアはこの上ない資料になる。ハックスのフィギュアも持っているので細部はもちろん、立体でとらえることにより正しい形状が把握でき、それだけで絵に説得力が出る気がする。と、フィギュア購入を正当化してみる。でも、絵に描きたいと思ったキャラクターは、立体を持っていたほうがいいと思う。
 アダム・ドライバーの素顔付きのカイロ・レンを持っていないので、欲しいのだけれど、今年ロンドンで開催されたスター・ウォーズ・セレブレーション・ヨーロッパで限定販売されたそう。素顔とマスク、ヴェイダーおじいちゃんの溶けたマスク、ファースト・オーダー軍旗といったものが付属。どうにかこれ手に入れられないかなあ。

2016年8月22日

『シン・ゴジラ』(2016)感想


 ゴジラが現れた。しかしSFチックな秘密兵器は無いし、光の巨人も人型兵器も戦闘ロボもいない。あるのは現代科学と知恵、それから膨大な役所的手続きに会議、諸々の物資に姿を変えた税金くらい。本作はその全てを駆使して巨大不明生物(あくまで巨大不明生物。カイジュウという言葉は明らかに意図的に使われていない)、ゴジラを倒すプロジェクト・ドキュメンタリーでもある。そこも同時代人であるぼくたちを引き込む理由だろう。庵野監督の代表作にして今や代名詞でもある『ヱヴァンゲリヲン』シリーズ同様の縦長の明朝体によるテロップの多用もまた、単にエヴァ的であるだけでなく、ドキュメンタリー・タッチのディティールのひとつ(ディティールという言葉もまた本作を表すキーワードのひとつに違いない)。ある目的に向かって皆で力を合わせてプロジェクトを進める感じ、最近だと『オデッセイ』('15)もそうだった。皆で力を合わせてがんばるというのは普遍的な魅力とパワーがあるんだね。
 ドキュメンタリー・タッチに説得力をもたせているのはやはりそれだけ細部までリアルに描いているからだろう。特に今作は政府中枢の視点で物語が進み、その極めて専門的な場での言葉のやり取り、出来事への対応などは、実際の官公庁や政治家達に取材を重ねて徹底して考証しただけあって非常に現実的。そして、そのリアルさはぼくたちが2011年の春にテレビを通して見た光景に自然と重なっていく(青い防災服が象徴的だ)。
 政府中枢の会議や駆け引きがストーリーの中核を成している、という点でぼくは『博士の異常な愛情』('64)や『日本のいちばん長い日』('67、'15)を連想した。なんとなく通じるものはあるのではないかなあと思っていたら、今作のキーパーソンである牧五郎元教授役(写真のみの登場)が67年版『日本のいちばん長い日』の監督岡本喜八であった。第1作『ゴジラ』('54)の直系的コンセプトを持ちながら、日本の未来を決する政治シーンは『日本のいちばん長い日』にも通じる。さらに言えば昨年公開の15年版ではヴェラ・リンの『We'll Meet Again』が印象的に流れるが、この曲は『博士の異常な愛情』のテーマ曲でもある。ここに会議映画(なんか乱暴なくくり方だが)として3作(厳密には4作か)が繋がっていくように感じる。
 音楽と言えば、エヴァでお馴染みの(新劇場版シリーズにおいてはだいぶ重厚感と壮大さを増してきた)鷺巣音楽がゴジラとの融合を果たしていて、それがとても合っている。劇中には伊福部昭のゴジラ音楽原曲も使用されているが、こちらとも自然と合わさっている。ぼくはまったく音楽について鈍感なので、エンドロールのクレジットを見るまで、劇中で流れたお馴染みのゴジラ音楽が過去の原曲使用と思わなかったのだけれど、それくらい自然とはまっていた。
 それで、肝心なゴジラはと言うと、これはもうとても驚く仕掛けがあって多くのひとが騙されてしまうのではないだろうか。ゴジラというキャラクターのデザインが作品に対する知識の有無に関わらずアイコンとしてよく知られていることを逆手に取ったトリックで、これは本作の重要なポイントのひとつなのであえて説明しないでおきたい。ただし、それにも関わらず関連グッズに使われている名称などからその展開が安易に予想できてしまうことが非常にもったいない。もちろん、仕掛けについてわかっている上で観てもインパクトがあるし楽しいと思う。
 ゴジラが最も大きな破壊と絶望をもたらす最高潮のくだりは、音楽の悲壮さも手伝ってこの不遇な生き物の悲痛と怒り、それが体現する自然界の強大さと放射能の恐怖とそれを生んだ人間の愚かさといったものが、その大きく裂けた口から吐き出される放射熱線とともにぼくらの頭に降り注いでくる。それはまさに畏敬の念を抱かずにはいられない姿だ。けれど、同時にゴジラは人類に可能性をもたらす福音(ヱヴァンゲリヲン!)でもあった。長谷川博己演じる矢口蘭堂が人類はゴジラと共存しなくてはならないと考え至るのも、放射能との付き合い方、自然界との付き合い方そのものに通じていくのだと思う。
 ところで、ほんの5年前の大地震がこうしてエンターテインメント作品のテーマに取り込まれる時点まで来てしまった。災害だけではない。携帯電話の進化によりインターネットが完全に人々の生活の一部になり、SNSや動画共有サイトにより報道の形が変わりはじめた様子や、有事法制の整備についてまわる議論というような要素もふんだんに盛り込まれている。まさに今日の日本(というより東京だが)をストレートに描いていて、かつ昨日までのことが史実として感じられるつくりだ。シュテファン・ツヴァイクではないが、まさに歴史とは「昨日の世界」のことだ言える。1954年に水爆の恐怖を体現するゴジラを目撃した人々同様、ぼくたちも歴史の中を生きているのだ。

2016年8月19日

個展『THE ART OF FRAPBOIS × MIZMARU』



 現在ファッション・ブランドFRAPBOISとのコラボ中です。そのコラボに関連した原画展を開催させていただくことになりました。洋服の絵柄を基にした原画を中心に展示・販売します。9月3日(土)から10月23日(日)までと長めですので、よければぜひ。中目黒店は空間の広い店舗ですので、珍しく大きめの絵を描いています。

『THE ART OF FRAPBOIS × MIZMARU』
期間:2016年9月3日(土)〜10月23日(日)11:00〜20:00(定休無し)
場所:FRAPBOIS中目黒店
   東京都目黒区青葉台1-19-14 1F
         TEL:03-5784-0258

2016年8月16日

"R2, don't leave me!"


 「お悔やみ申し上げます」とか「ご冥福をお祈りします」とかいう言葉は、ひとが旅立ったときに口にするものだけれど、正直ぼくはこういう特定の事象が起こった際に決まった言葉をオートマティックに口にするということに抵抗がある。きっとそれはぼくに一般常識が備わっていないのと、持ち前の天邪鬼な性格のせいかもしれないのだけれど、こういうオートマ言葉は自動的ゆえに言葉の中身があまり意識できないと思うんだよね。と、まあひねくれた話は置いておいて、「R2-D2だったひと」が亡くなったと聞いて、ぼくは真っ先に「R2, don't leave me!」という、『ジェダイの帰還』('83)でC-3POが発する台詞が思い浮べた。
 ケニー・ベイカーのことを「R2-D2だったひと」と認知してしまっていること自体、彼に対して誠実かどうかわからない。コメディアンとして頭角を出し始め、演技も認められつつあった彼は、若き映画監督に大金を積まれたためにその後の人生をこの金属のドラム缶の中に閉じ込められてしまった。もちろん銀河一優秀なアストロメク・ドロイドは彼のおかげで命を吹き込まれ(低身長なだけでなく、内部からドーム型頭部を動かすことに力が必要だったことも彼の起用の理由)ミッキー・マウスと肩を並べる(文字通り肩を並べている)アイコニックなキャラクターとなった。その中に入ったことに意義はある。けれど、彼の俳優としての人生のことを思うと、複雑である。
 彼の訃報と同時に彼R2-D2だった彼と、C-3POだったアンソニー・ダニエルズが不仲であったことを知った。ファンの間では常識に近いほど有名な話だったらしいが、知らなかった。いや、もしかしたら自分に都合の悪い情報としてシャットアウト、あるいはスルーしていた可能性もあるのだけれど、とりあえず事実として認識したのは訃報の際に友達から聞いてから。ああ、知りたくなかったなあ。最初は「三船敏郎がダース・ヴェイダーをやるはずだった」とかいうのと同じくらい、つまらないガセネタ都市伝説かと思っていたが、いろいろ読む限り本当らしいところが余計ショックで参ってしまった。
 R2は作を追うごとに特撮技術が進んだために、途中からひとが中に入らなくても動かせるようになってしまう(そもそもこのこと自体不憫に思えてならない。自分である必要があったから演じていたのに、その必要がなくなってしまうのだから)。ところが相棒のC-3POは一作目から昨年の最新作まで全作を通してトニー・ダニエルズが動きづらく視界の悪いロボット・スーツを着て演じている。ベイカーからすれば、キャラクターをずっと自分で演じることができているダニエルズが羨ましかっただろうし、ダニエルズからすれば自分のような苦労をしなくともコンビの片割れを演じた俳優として扱われているベイカーが気に入らなかったかもしれない(演じ方がどうであれ、2体のドロイドはワンセットで数えられるのだから)。でもダニエルズからすれば、ベイカー以外の役者との関係だってストレスに感じていたかもしれない。見た目は金色に輝く美術的フォルムであっても内部は劣悪、自分以外は誰もそんな環境で演技していないと思うと、誰だって陽気にはなれない。ダニエルズはベイカーにだけ冷たかったわけではなかったのかも。と、こんなことはぼくが心配するようなことではないのだけれど。実際にどうであったかはわからないのだから、知ったようなことを書くつもりもないしね。
 けれど、やはりこうしたアイコニックなキャラクターの、スーツアクターをやるというのは大変なことだ。俳優でありながら顔を出せない葛藤、一生(あるいは死後も)つきまとってしまうキャラクターの影、共演者たちとの確執‥‥‥。映画は楽しいし、キャラクターは愛らしい。だがその背景を知ると、「R2, don't leave me!」という気持ちは強いものの、R2ではなく、ケニー・ベイカーというひとりの人間として送り出さなければいけないと感じずにはいられない。さようなら、ケニー・ベイカー。
 

2016年8月6日

「PRESIDENT WOMAN」9月号の特集カット


 本日発売の「PRESIDENT WOMAN」9月号、特集「イヤな仕事も大スキになる!魔法の自己暗示」にイラスト描かせていただきました。表紙には本と映画の特集が際立っていますが、お手伝いしたのは職場の苦手を克服するアイデアに関する特集になっております。




 最近点数の多いカットはデジタル描画でやっていましたが、今回は水彩着色です。デジタルだと線の強さや色のぱきっとした感じが際立つのが綺麗ですが、水彩だとやはり誌面で見たときに、紙との相性がよいですね。
 
 そういえば、藤子・F・不二雄の大人向け短編でサラリーマンが主役の話が結構あるのだけれど、オフィスでのシーンとか、やり取りとかがすごくリアルな感じがしたのが印象的だった。会社勤めの経験がないぼくがリアルに感じるというのもおかしな話なのだが、当のF氏も会社勤めをしていないので(ほんの一瞬就職したが3日でやめたとか)そう感じさせるのがすごい。ここに、「会社を知らないひとが描いた漫画を読んで、会社という世界を垣間見る会社を知らないひと」という妙な構図が生まれる……。
 やっぱりそれは優れた洞察力や観察眼、リサーチの賜物なんだろうなあと思う。本来自分が知らないはずの世界をリアルに描写できたら漫画家のみならず、イラストレーター、絵を描く人間としては最強ではないか。とりあえず、世のOLさん(この呼び方いい加減やめない?)の服装というのを、さらっと自然に描けるようになりたい。
 もちろん伝えたいことや主な目的によっては、リアルさは二の次になることもある。『サザエさん』のマスオさんと穴子さんのオフィスでのシーンは、前から「こいつら一体なんの仕事してるんだ?」と思わせるくらい適当である。仲良く机を並べておしゃべりし(手にペンを持って紙になにか書いているようには見えるのだが……)、お昼ご飯を仲良く食べて、定時に退社してやはり仲良く飲んでくる。なんてお気楽なんだろう。サザエさんやおフネさんたち主婦の日々に比べるとまったく中身がないと思っていたのだけれど、あとで長谷川家が女系家族だったことを知ってちょっと納得した。サラリーマンの仕事についてもとよりリアリティがないというか、あのマスオさんと穴子さんのシーン以上のイメージがないんだな。そのかわり、編集者という比較的漫画家に近いところで働くノリスケさんの仕事についてはかなり具体性を持って描かれている。いろいろなことについてのイメージの引き出しが多い方がいいのはもちろんだけれど、ああやって作者自身の興味の度合いが推し量れるのもおもしろいんだよね。そのひとのパーソナリティが反映されることで作品の枠を出て、逆に現実感のある奥行きが生まれることもあるということか。