2016年12月23日

『ローグ・ワン:スター・ウォーズ・ストーリー』(2016)感想


 昨年のEP7『フォースの覚醒』がニュートラルなSW像を現代的に再解釈して見せた王道的作品だったのに対して、今作『ローグ・ワン』はそのよく知られている英雄譚を裏側から支えるもうひとつの魅力に迫った、まさに根っからの外伝作品と言える。EP7はファンのみならず、SWにそこまで馴染みのないひとも楽しめるようなキャッチーさやポップさが備わった「映画」だったと思うけれど、今作はまるでそれに対するカウンターのごとくこれっぽっちもビギナーに優しいところがなく、徹頭徹尾SWを愛するひとのために作られた「SWユニバース作品」になっている。外伝作品の大前提として本筋を知っている必要はあるだろうから、そのあたりは割り切ってしまっていいと思うし、作る側もある程度割り切っているからこそこれほどまでにおもしろいSW映画になったのだと思う。逆に言えばEP7は多方面に気を使いすぎた作品だったとも言えるが、今作でここまでファン向けに振り切れたのは、EP7で「SWってもともとはこういうものだよね」という普遍的な物語を展開した後だからこそだと思う。

 もちろん世界観の追求だけでなく、外伝としての役割も申し分なく果たしている。時代設定はEP3とEP4の間(正確にはEP4の直前)に位置しており、前日譚であると同時に後日譚でもあるわけだ。EP3に登場した兵器が一線を退いて地味なところで使われていたり、レイア姫の養父であるベイル・オーガナや、モン・モスマがEP3に引き続いて同じ役者が演じているところなど、ところどころにプリクエル世界観の延長が感じられ、新旧三部作の間に本作が挟み込まれることで、両三部作の境界が融和してひとつのシリーズとして繋がってくるようにも感じられる。まさにブリッジとしての役割だね。

 ベイルやモスマ以外にも過去の六部作から何人ものキャラクターが登場するが、その中でももっともアイコニックで有名なのはやはりダース・ヴェイダーだろう(C-3POとR2-D2も一応登場するけれどカメオ出演程度)。そのヴェイダーは今回初めてその住まいがお披露目され、入浴シーンまで見せてくれるのだけれど、そのヴェイダー城はどこか見覚えのある溶岩の川の上に建っている。あの惑星がEP3に登場した、ヴェイダーがあんな身体になった舞台であるムスタファーであるかどうかはまだわからないけれど、新しく登場した惑星には必ずテロップで名前とどういう特色を持つ星なのかの説明がある中、この火山の星には無いので、観客がすでに一度見たことのある星なのだろうと思われる。いずれにせよヴェイダーがわざわざ火山の中に住んでるという事実はなかなか胸にずっしり来る。きっと苦痛を忘れないように、そこから負の感情をたくさん引き出してダークサイドの力を追求するため、そして戒めのためにわざわざ住んでるのだろうなあと、ぼくは思う。その印象的なロケーションと、バクタ・タンクの中でうごめく手足と頭髪の無い痛々しい姿は、EP3で起こったことを思い起こさせるし、アナキン・スカイウォーカーはもういないのだと思い知らされもする。なによりすごいと思ったのは、EP3によって悪の権化から悲劇の男に印象が変わってしまったEP4のダース・ヴェイダーを、再び悪の権化に更新しているというところ。EP3の悲劇を思い出させながらも、この男は完全に悪に染まって久しいのだという事実を強くつきつけてきたクライマックスのシーンはそのままEP4の冒頭へと繋がるので、第1作目で初めて姿を見せた暗黒卿の印象を「当初のもの」に戻したと言え、さらにそこに深みすら与えている。この偉大すぎるキャラクターを再定義したのは本当にすごいことだと思う。
 
 惑星の名前と役割がテロップで流れたり、そもそもオープニングタイトルがいつものやつじゃなかったり(もちろんあらすじスクロールもない。だってこの作品自体があらすじスクロールの中で語られたことだからね)、本筋のエピソードでは決して見られない禁じ手が多く観られたのも新鮮だけれど、個人的には全然違和感や抵抗はない。むしろ外伝映画だから柔軟にいろいろなスタイルで良いと思うし、一通りプロローグが描かれたあとにタイトルがどーんと出る流れなどは、SWの枠におさまらないイマドキの映画という感じで良かった。惑星のテロップも、数々のロケーションが次々に登場する中で混乱を招かないようにしていたし、テンポの良さにも一役買っていたと思う。EP7が「映画」であり本作は「SWユニバース作品」だと上で書いたけれど、EP7がメイン・エピソードとして従わなければならないルールがたくさんあったのに対し、本作は外伝で自由がきくので、そのあたりは一般的な「映画」に近いものがあったと思う。

 他作品から登場するのは六部作映画の人物ばかりではない。同じく外伝として展開しているアニメ・シリーズ『反乱者たち』のキャラクターたちも本作にこっそり登場している。『反乱者たち』は本作より4年前の時代で、反乱同盟軍が結成される前のまだばらばらだった反乱者たちが帝国相手に戦いを挑むストーリー。ディズニー移行前に展開されていたやはりアニメ・シリーズの『クローン・ウォーズ』の後日譚でもあり、さらに今では旧設定扱いされてしまった昔のスピンオフ作品からのネタの逆輸入、ラルフ・マクォーリーやジョー・ジョンストンのコンセプト・アートを再利用してその絵画のような雰囲気を随所に取り入れるなど、様々なSWユニバースを包括するスピンオフのショウケースと言えるシリーズだ。特に個人的にはマクォーリー画を意識した線や背景などが興味深く、また最近ではレジェンズ(旧設定の世界観)における超人気キャラ、スローン大提督などの逆輸入によって、膨大なユニバースの特におもしろいところをどんどん映像に取り込んでいく様子が楽しい。
 『ローグ・ワン』では、『反乱者たち』でおなじみの人物の名前が秘密基地のアナウンスで呼ばれていたり、マスコット的ドロイドのチョッパーが画面の端を横切ったり、主人公パーティが乗り込む宇宙船が基地の発着場や集結する艦隊の中に確認できる。時代設定は近いので、少しは『反乱者たち』のキャラクターが絡んだりしないだろうかと前から淡い希望を抱いては「まあ作品の趣が違うし無いだろうな」と思っていたので、まさかここまで登場させてくるとは思わなかった。とてもうれしい。スピンオフ群を包括する『反乱者たち』の要素が絡んでくることによって、いよいよ本作は映画世界とスピンオフ世界をも繋ぎ合わせ、ユニバースを統合してきている。
 
 ぼくは映画としてのSWももちろん好きだけれど、ここまでSWに熱中したのはやはり膨大な設定が世界観に奥行きをつくっているからだった。小説、コミック、ビデオ・ゲーム、アニメーションなどによって展開された拡張世界は、映画を補完するだけでなく、ぼく自身の創作意欲をもかき立てた。思えばぼくは自分の創作意欲が刺激した作品をとことん好きになってきたと思う。たくさんある、それでいてわりと穴のあったりする愛らしい設定の数々は、ぼくに創作の楽しさを教えてくれた。自分でSW世界の住人を創作するのも、あったかもしれない戦いを創作するのも好きだった。だから『ローグ・ワン』を観て、映画として、SWとしておもしろい以上に親近感も湧いた。自分が思い描いていたものが映画になった、というのはちょっとオーバーかもしれないけれど、本筋じゃない、ジェダイもヒーローも出て来ない知られざる物語を映像にすると、こんな感じになるのかと感慨深かった。やっぱりSWはぼくを刺激する。ぼくもなにかを描きたいと思わせてくれる。

 「映像の魔法」って言われて正直ぴんとこないことのほうが多かった。物心ついた頃から『トイ・ストーリー』や『ジュラシック・パーク』があった世代にとって、特撮や特殊効果は驚くべきもの、というよりは当たり前のように楽しめるものという感じが強いと思う。新しいプレイステーションが発売されるたびにグラフィックがリアルになったと騒がれるが、そういうのも別にそこまで感動はなかった。そりゃあ時代を経てどんどん綺麗になっていくのは当然だろうと、そんな可愛げのないことを思ったものだ。そう、ぼくにとってCGは魔法というより、年々綺麗になっていくもの、という感じだった。年々本物に近づいているものという感じ。むしろ進歩しないほうがおかしいという頭だから、全然感動がないわけだ。
 しかし、故人が動いて話すのを新作のスクリーンで観られるとなれば別である。死者を蘇らせるという、人類の禁忌が破られたところでようやくぼくは映像の魔法というものがなんなのか理解した。かつてピーター・カッシングはシャーロック・ホームズを演じた際に「生きて呼吸するホームズ」と評されたらしいが、本作のターキン総督はまさに生きて呼吸するピーター・カッシングだった。よく見ればその表情の動きはどこかアニメーション的で、リアルなゲームのキャラという感じは確かにする。けれど、カメラが引いて初めてターキンの全身が映ったとき、思わず涙が出た。ターキンが、カッシングがそこに立っている。その佇まいを見て、大好きなひとと再会できたかのように思えたのだ。
 このターキン総督を描くにあたって、EP4だけではサンプルが少なかったと思う。EP4には全身が映って歩いたりするシーンはないから、他の作品から動きや佇まいを研究する必要があるし(正確にはこのターキンは丸ごとフルCGではなく、ガイ・ヘンリーという『ハリー・ポッター』シリーズへの出演でも知られる俳優が演じており、顔にCGを重ねているらしい)、顔にしてもEP4以外の作品を参照する必要があったろうと思う。自分のイメージするターキンの顔とは若干違って見えたという意見が希にあるのは、おそらくそのせいだと思う。ハマー作品など(それこそホームズもあったかな?)たくさんの他作品から引用して構成したカッシングなので、EP4のターキンとは違って見えてもおかしくない(もちろん実際にどういうプロセスで作られたのかまだわからないけれど)。でも、キャラクターとしてのターキンよりも、俳優としてのカッシングを追求したのなら、やっぱりそれはすごいことなんじゃないかな。CGの俳優に演技をさせるっていうのは、当のジョージ・ルーカスが繰り返しやりたいと言っていたことだ。ほかでもないSWで映像の魔法を体験できたのはとてもうれしい。ようやく「光と魔法の工房」という意味がわかった。

 土壇場になってかなりの部分が撮り直されたという騒動があって、トラブルも多かったみたいだし、最終的に再編集で今の形になったとは言え、画の中のことについてはやはりギャレス・エドワーズのセンスがものを言っているのではないかなと思う。『GODZILLA ゴジラ』のときにすでにミリタリー描写へのこだわりようは伝わってきたから、今度もSWの世界で軍隊描写にマニアックさを出してくるだろうなと思っていたけれど、想像以上だったと思う。武器の持ち方構え方、ディティールなどもそういうのが好きなひとなんだろうなあと思えたし、その趣味がSW世界を描く上で思いの外親和性が高いのだ。それにミリタリー趣味以上に、SWへの愛が強い人なんだなということがとても伝わってくる。センスだとかよりも、愛が一番重要なのかもしれない。
 今作ではシリーズにおけるアイコニックな超兵器デス・スターがテーマなのだけれど、その存在は自然とぼくらの世界における核兵器と重なってくる。マッツ・ミケルセンの演じるゲイレン・アーソは惑星を丸ごと破壊できるデス・スターのレーザーを開発する科学者で、ロバート・オッペンハイマーを意識していると言われているし、劇中でデス・スターが出力を弱めたレーザーで地表を攻撃すると、まるで原爆のような爆風が上空高く昇っていく。EP4のオルデラーンの破壊は一瞬で済んだけれど、これは一瞬では終わらない。本作では惑星はひとつも破壊されないけれど、地表にある都市や地形がじわじわと破壊されていく様はとても生々しくて恐ろしいし、現実の兵器にも通じる。ギャレス・エドワーズは『GODZILLA ゴジラ』で描ききれなかった核兵器の恐ろしさをも、本作に盛り込んだのかもしれない。スカリフという、モルディブで撮影された美しい海と点在する砂浜が特徴的な惑星で、デス・スターの放ったレーザーが炸裂して海の上に眩い光のドームが浮かび上がるシーンが、どこかビキニ環礁での核実験を彷彿とさせるのは偶然ではないと思う。

 お気に入りのキャラクターはたくさんいる。ベン・メンデルソーン演じる悪役クレニック長官、ディエゴ・ルナ扮するキャシアン・アンドー、ドニー・イェンのチアルート・イムウェ。スカリフ専属のスカリフ・トルーパーも、新鮮だがストームトルーパーの一種だとわかるデザインで好き。過去作からの登場はターキンやヴェイダーはもちろんだが、ドクター・エヴァザンとポンダ・バーバの二人組みの登場もうれしかったし、レイア姫の船ブラッケードランナーの船長であるレイマス・アンティリーズの姿も見られて良かった。このあたりはオタクへのサービスという感じかな。改めてお気に入り度が上がったのは、やっぱりブラッケードランナーの反乱軍兵士たち。白くて大きなヘルメットに襟付きシャツと黒いベストという、EP4の冒頭でばったばったと倒されてしまう名もなきヒーローたちが、実はダース・ヴェイダーの行く手を阻むために、「希望」を紡いでいくためにあれだけ犠牲になっていたとは(「犠牲」もまた本作の重要なテーマだろう)。
 
 第一作、EP4『新たなる希望』をよりドラマチックに深みあるものに補完するだけでなく、SWユニバースとはなんなのか、外伝映画になにができるのかを見せつけてくれた作品になっていると思う。今後も広がり、また深まっていくSW世界の行方が楽しみになった。なによりぼくの創作意欲が燃えてきたのがとてもうれしい。
 本筋エピソードの公開と外伝の公開を交互にやっていくいうのは、もしかすると作品を作品で補強してシリーズを掘り下げるだけでなく、誰でも楽しめる作品と、ファン向けの作品という二本の道を用意することでみんなが楽しめるようにするってことでもあるのかもしれないなあ。