2017年8月11日

教習所で感じる劣等感

 自動車教習所に通い始めてからというもの、改めて自分がひとより劣っていることを思い知らされた。
 近頃はそれなりに仕事ができるようになって、いろいろなところに名前が載るようになって、見知らぬひとがぼくの描いたものを気に入っているというような状況に浸っていたものだからついつい忘れかけていたのだが、ぼくは本来ひとが当たり前にできることをなかなかできない人間なのだ。

 たとえば走ること。どんなに真剣に走っていてもおかしな長さの手足のせいなのか、見たひとは一様にふざけていると思うらしい。もちろん速度は遅い。

 たとえば考えること。ひとが1分で理解することをおそらく10分かけて理解しているような感じ。プロセスが10倍ということだ。単純な暗算も結構考えてしまうし、分数の足し算引き算は意味がわからなくてワークブックを手伝っていた母親をよく困らせたものだ。最近はそういう、「1+1が2になること」をなかなか理解できなかったというひとの体験談や、それは気に病むことではないというような話もインターネット上でよく見かけて少し安心したりもするのだが、でも考えるのに時間がかかるのはとても辛い。ひとが言った冗談に、だいぶ時間差をもって笑い出すのは自分でも結構異様。

 たとえば読むこと。考えるのに時間がかかるのと同様読むことにも時間がかかる。本を読むのはもちろん好きだけれど、ひと月の間に読める本はせいぜい2冊くらい。世の中には一晩で読み終えるひともいるらしいが(うちの妻は大抵のペーパーバックをそれくらいで読み終える。最初は冗談かと思った)さぞたくさん読めるだろうから羨ましい。一冊を長時間読み続ける集中力がまず保てない。

 たとえば右と左。ぼくは幼少時に右と左を家の前の道で覚えた。ばあばを迎えに行く駅やジャスコの方に向かうのが右、海に向かうのが左。両親は茶碗と箸を持つ手で左右を教えたりはしなかったと思う。母は左利きだったからそういう右利き中心的な考えに抵抗があったのかもしれない。あてにならないよね、あれ。しかし、もしかすると自分の手で覚えたほうが後々のためにはよかったかもしれない。なんと26歳になろうとしている今でも、右と左を判断する際に一度家の前の風景を頭の中で経由しているのだ。歳を重ねるにつれて経由する速度は上がったかもしれないが、いずれにせよいつも一瞬家の前の道を思い浮かべている。そのせいか、左右の区別はどうもいまひとつ身体に染み付いていないような気がする。わかることはわかるんだけれど。

 それからひとと話すこと。一時期少しは改善されていたような気がするが、ここへ来てなんだか思春期の頃よりひどくなっているように感じられる。まず言葉がつっかえる。ティーンの頃は少なくとも不愛想なだけでつっかえたりはしなかった。頭の中で言葉がまだ選ばれていないのに口を開けてしまったかのようなつっかえ方をするようになった。妻は言葉が出てくるまで待ってくれるが、おそらく世の中のひとはそうもいくまい。5年前に初めて学生という身分でなくなってからというもの、ひとと直に気軽に会話するという機会が恐ろしく減った。年長のひととばかり親しくなっているせいなのか、同年代の友達との会話が異様なほど不器用になっている。その機会自体が減っているし。

 さて、これらの「ひとに比べてできないこと」の多くは自動車教習所で際立ってくる。運動神経の悪さは両足での車の操作に影響しているし、間違ってはいないが時間のかかる思考力は瞬時に判断を下さなければならない車の運転において忌々しいことこの上ない。必ず一度実家の前の道を思い浮かべなければ左右が判断できないのも問題だ。次の交差点を左折、と指示されているのに右にウィンカーを点滅させたりしていることもある。というか、ウセツ、サセツという言葉がいまひとつミギとヒダリに結びつかないでいる。思想上の左右はその中身で区別がつくのだけれど。こんなことを書いてはまるで運転に向いていない、教習を受ける資格に満たないように見えるが、一応適性試験は通っているので許容範囲かと思う。読む速度が遅いのは学科試験でだいぶ辛かったし、独特の解釈をしてしまいがちなので簡単な問題もよく間違える。おそらくあれに出題される文章は真剣に読んではだめなんだろうな。文体の特徴は毎回変わるし、主語があったりなかったりで非常にイライラするが。会話能力の低下は運転技術に直接影響しないが、狭い密室で小一時間他人と一緒にいる際に辛い。というか、たぶん余計な会話は一切しないでいいんだろうけれど、どうも沈黙が重苦しい。かといって変に運転操作の所感から広げて話題を振ろうとすると、ひとによっては薄い反応しか得られずより一層微妙な空気になる。先日は初めての路上教習だったわけだが、もう垂れ込めている空気が辛すぎて(もちろんその微妙ガスはぼくの不器用さのせいで車内に充満してしまったもの)、「あ、この通りはこういう名前なんですね」「この道は車が多いですねえ」などと要らぬことを言っては、「いいからやれよ」というような響きを含んだ「そうですね」を返されてばかりだった。ぼくの個人的な感想なんか求められていないことは重々承知している。わかっているんだ。でも、なんだかもう空気に耐えられなくなったんだ。「なんでこんなこともできないの」というような空気。

 そう、通い始めてから4ヶ月の間、とにかくこの「なんでこんなこともできないの」というような空気に気圧されている。久しぶりの感覚。美術の学校に通っていた間は多少感じなくなっていたので(これでも一応絵描くの得意だからさ……)、体育の授業があった高校以来かな。いや、美術学校でもなぜか球技大会だか体育祭だかがあってそこでも結構バカにされていたので、まあとにかく学生時代以来だ。人間というのは自分が当たり前にできることができない他人をバカにするようにできている。かく言うぼくも絵心のなさすぎるひとを見て愕然とすることがあるので、とやかく言える資格はないのだけれど、そのさ、出来ないから習いに来ているわけだからさ、安くないお金も払って習いに来ているわけだからさ、もうちょっと圧力を弱めてほしいわけよ。
 愛犬を助手席に座らせて冒険に繰り出せる日はまだ遠い。

 それからおまけにもうひとつ、なんでそんなこともできないんだという話を。
 教習所には家の近所から送迎バスに乗って通っている。近所といっても結構歩いた先にある地点だ。ぼくのような田舎者にとっては本来歩く距離として大したものではないけれど、都会生活の観点からはちょっとした距離だ。どのくらいの距離かといえば、短めコースの犬の散歩で折り返しになるくらいだろうか。実際そうしている。
 行きは所定の位置からしかバスに乗れないが、帰りは結構皆好きなところで「運転手さん、ここでいいですよ」なんて言ってさらっと降りていく。それで、ぼくが乗り降りしている地点は微妙に家から離れていて、そもそもバスはそこに行き着くまでに一度ぼくの家の前を通るんだよね。だからそこで言って降りようかと毎回思うのだけれど、運転手さんがぼくを降ろす地点を通るためにわざわざそのコースを設定して走っているとして、ぼくが急にここで降りたいと言ったらかえって迷惑というか、なんだよ、せっかくあそこを通るためのコースを走っているのに、ここで降りたいんなら最初からそう言え馬鹿野郎、とか思われても嫌だなと思って、いつも家の前を通り過ぎてだいぶ離れたところで降りて、バスが来た道をもう一度引き返している。この前の雨がしとしと降る寒い日なんかは早く家に帰りたいと思って、よし、今日こそはここで降りたいと言おうとちょっとその気になっていたが、結局言えなかった。ぼくの家、微妙な位置にあるから急に言ったら迷惑かなと思って。多分これからも言い出せないんだろうなあ。 
 どっちがいいと思う?個人的な時間を優先してわがまま(?)を言うのと、運転手さんの考えているであろう道順に水をささないでそのままでいるのと。わからない。もうよくわからないので、黙って所定の位置で降りている。

2017年8月2日

スノークとカイロ・レン


 またちょくちょくエピソード8のことなど描いていこうかと。
 スノークは新しく公開された画像から、眼が青いことがわかった。うっすら眉も生えており、傷こそグロテスクなものの、元は普通の人間なのだということが伺える。それはこれまで登場した誰かなのか、と考えたくなるが、なんかもう、スノークはスノークなんじゃないかなと思えてきた。だって、アンディ・サーキスが演じている時点で新キャラでは。もちろん、映画に直接登場せず言及された人物である可能性はまだある。皇帝の師匠、ダース・プレイガスとかね。でも、それもなさそうな気がするなあ。ぼく個人はプレイガス説はちょっとベタすぎると思っているし。

 せっかく怪物王アンディ・サーキスが演じているのだから思い切りモンスター、クリーチャー感のあるキャラクターでもよかったと思う。今のところスノークは大怪我をしたおじいさん程度でしかない。顔の崩れ方はすごいから、モーションキャプチャーでやることの意味はあると思うけれど。
 大怪我といえば、これほどの負傷はどんなことを経験したら出来るものだろうと考えたとき、爆発するデス・スターから逃れたとかいうのがそれっぽいと思うんだよね。なので当初から言っているターキン説をまた引っ張り出したいところ(ピーター・カッシングも眼は青)なのだけれど、スノークは一応ダークサイドに通じているひとだし、声はアンディ・サーキスだしということで、その説ももういいや。
 これまでのSWサーガは一貫して皇帝パルパティーンの野望が銀河を襲う物語でもあるので、スノークは皇帝の流れを汲んでいる関係者か、皇帝本人の精神が宿っているなどといった設定の方が、シリーズ全体に一本の線が出来ていいと思う。
 ということでスノークの正体はスノーク。
 金色の長衣に禿頭なせいで、なんとなくお坊さんに見えるね。

 ヴォルデモートとスネイプにヴィジュアルが似ているということで思いついたが、カイロ・レンことベン・ソロはスネイプ同様、実は大きな目的のために汚れ役を買っているのではないかなどと考えてみたり。皇帝の意志を継いだスノークを滅ぼすため、ルーク・スカイウォーカーによってその懐に送り込まれたとか。彼が皆殺しにしたというジェダイ候補生たちも実はルークを倒すために送り込まれた皇帝の刺客で、EP7でルークの居場所を突き止めようとしていたのは師を殺すためではなく守ろうとするためだとか。ハン・ソロはハリポタで言えばダンブルドアみたいなもので、息子の任務のため殺されることをよしとした、とか……(EP7を見る限り全くそんなふうには見えない、しかし、そんなふうに見えては任務は台無しだ)。
 なかなかいいんじゃないかな?ただ英雄が悪を倒すだけではもうおもしろくない。SWにはEP6でのダース・ヴェイダーの改心という熱い展開がすでにあるし、その出自を思えばいずれにせよカイロ・レンがただの悪者で終わることはないだろうと思う。そこで、ヴェイダーの改心とは違い、最初から善側だったという展開ですよ。
 うん、もうそうすると完全にヴォルデモートとスネイプだ。

LINEスタンプリリースのお知らせ



 自主制作でオリジナルのLINEスタンプを作りました。絵柄40個になります。自分で使いたくて作ったような感じなので、内容に偏りがありますが、ぜひお役立てください。40個も描いたらコツもつかめてきたのと、描くだけ描いて漏れてしまったものや、こういうのもあったらよかったな、という改善点などあるのでまた作ろうかな。
 価格は120円。
 

2017年8月1日

『ネオン・デーモン』(2016)


 顔がとんがった怖いモデルばかりのところに、飴細工のような妖精的エル・ファニングが放り込まれ、男たちはメロメロに(このメロメロが非常に嘘くさく感じてしまうのはぼくがあまりエル・ファニングに興味がないせいなのか、とにかくおもしろく見える)、モデルたちからは嫉妬と敵意と羨望の眼差しで舐めまわされる。悪趣味な「不思議の国のアリス」ととれないこともない。キアヌ・リーブスは帽子屋といったところか。あ、「猫」も出てくるしね。
 ベラ・ヒースコートは『ダーク・シャドウ』('12)のときから好きだけれど、やっぱりどこか人形的というか、ティム・バートンが描きそうな顔だね。どことなくエミリー・ブラウニングにも系統が近いと思う。ジェナ・マローンが『エンジェル・ウォーズ』('11)でブラウニングと共演していたけれど、マローンとヒースコートの組み合わせに既視感があるのはそのせいか。
 エル・ファニングの出現によって周りの皆が狂っていくのは、鋭利な顔つきが主流のモデルたちへのカウンターもあるのだろうけれど、ぼくはとんがった顔も好きだよ。ジェナ・マローンなんか、顔に触ったら手が切れそうだ。しかし、あの上半身のタトゥーは怖すぎる。

 「色彩が綺麗」とか「色彩が独特」という文句もだんだん紋切り型になってきたんじゃないかなと思う。最近では『ラ・ラ・ランド』や『ムーンライト』がいい例だけれど、視覚的な綺麗さばかり誉めそやしていると、観ていないひとからは「それで、お話の方は?」と聞かれてしまいそうだ。あまりにも視覚的な部分に注目が集まると、「見た目だけの映画」なのだという誤解すら招いてしまうかもしれない。
 もちろん映画は視覚的なもので、色彩やヴィジュアルは重要な要素だと思う。ヴィジュアルが綺麗なことは決して悪いことじゃないし、ヴィジュアルありきな映画だから駄目だなんていうことも全くない。
 前述の二本を引き合いに、最近の観客は視覚的快感の大きい映画を求めがちで、頭が悪くなっているなんていう論調も散見されるけれど、全くのナンセンスだ。それこそなにも読み取れていない。なにかを観て綺麗だなあと思うことは知識がなくてもできることだし、それは知能で測れるものではない。むしろ、観客の観たことのないものを見せて、視覚的快感をもたらすのは映画の大きな役割、機能ではないだろうか。
 だからべつに、ヴィジュアルありきでも問題ないのだけれど、映画を紹介する際に「色彩が綺麗」という言葉が最初に出るのは、どうも陳腐な感じがする。


2017年7月26日

営業報告


 「SPUR」9月号(集英社)「銀幕リポート」第18回では、ジョン・リー・ハンコック監督、マイケル・キートン主演『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』(7月29日公開)を紹介しています。


 トット先生の表紙が眩しい「婦人公論」2017/8/8号(中央公論社)では、ジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第18回の挿絵を描いています。離婚したあとの元夫婦の関係、子育ての行方などについて書かれております。

『ハクソー・リッジ』(2016)


 『沈黙 ーサイレンスー』に続き、祈りながら日本人から逃げるアンドリュー・ガーフィールド。ここでも信仰はテーマだが、キリシタン弾圧と同様戦争も善悪で捉えることはできない。日米戦が舞台なのでそのあたりのことに思考を巡らせたくなりがちなのだが、はっきり言ってどことどこがやった戦争なのかはあまり重要ではないように思う。なによりもまずデズモンド・ドスという人物だ。彼には戦場に行くより前に立ちはだかった障壁があり、本来なら味方である人々から理解を得る戦いに挑み、実際の戦場でも信条を貫き通して信頼を得ていくところにこそ注目したい。

『沈黙 ーサイレンスー』(2016)


 イッセー尾形扮する井上筑後守本人もまた、元キリシタンだったことが興味深い。原作を読んでもあまり詳しく掘り下げられていなかったけれど、信仰を捨てて弾圧する側にまわり、自らもそうだったからこそ知り尽くした信者たちを、狡猾に攻めていくその心理は気になる。
 憎まれ役、であって敵役や悪役という表現は避ける。まあ、主人公との関係上敵役といっても十分正しいと思うし、個人的には悪役と言いたいところなのだが、善悪で片付けられるものではないと思うからね。善いか悪いかではなく、もっとこう、人と人、というような構図としても捉えたい。ということで言葉のことにも注目した。

2017年7月2日

営業報告


 ファッション・エッセイがとても楽しい「SPUR」8月号(集英社)では、ジャック・ニコルソンがハリウッド・リメイク予定のマーレン・アデ監督作『ありがとう、トニ・エルドマン』(公開中)を紹介しています。


 「クイック・ジャパン」vol.132(太田出版)、P169(ピンク色のページ)にて有名な人たちの似顔絵を描いています。


 「婦人公論」7月11日号(中央公論新社)のジェーン・スーさん連載の挿絵を描いています。今回のお話はご自分の文章についての考察。自分の作っているものは果たしておもしろいのかどうかという不安には非常に共感します。そして、そんな悩みについてのお話でもやっぱりおもしろいので、スーさんはすごいです。

 ***


 そして今年も「FRAPBOIS」とのコラボレーションをやらせていただきます。まずは今季のブランド全体のテーマ、「シルクロード」に合わせた絵柄。シルクロードぽい動物がばらばらといるTシャツと、


羊と、


ラクダの一点プリントの三種類となっています。


 7月中の発売となっています。

「一九八四年 [新訳版]」感想


 迎えたくない未来を描くディストピアというものに、どうしてこうも人は(というよりぼくは)惹き寄せられてしまうのだろうか。現実が不穏で陰惨としているのには耐えられないのに、フィクションの世界では枢軸国が勝利したりロボットが人間を支配したり、核戦争後の荒廃な世界にわくわくしてしまう。
 
 本書はまずその世界観の設定や、独裁政治機構のディティールがおもしろい。イースタシア、ユーラシア、オセアニアという三つの超大国によって分割統治され、常に戦争が続いている世界。平和省、潤沢省、愛情省、真理省といった皮肉めいたネーミングの機関。いたるところに貼り出された指導者のポスターと、市民を監視する双方向テレビとも言うべき装置テレスクリーン。市民の思考を制限するために必要最低限の言葉しか使わせない新語法ニュースピーク。その思考様式の大前提となっている「二重思考」……。どれもこれも今ではディストピアを表現する上で定番の概念となっている。本当によくできていると思う。

 無表情な新語法であるニュースピークは、極端な略語や単純な言葉が語彙を奪うことで、思考の幅も狭まってしまうということを教えてくれる。ぼくもそれほど語彙が豊かな方ではないが、もっといろいろな言葉や表現を身につけてそれを大切しないといけないなあ。
 言葉を知らなければそれが言い表す意味について思考が及ぶこともない。知らないことは考えようがない。本書でニュースピークについて知るまで、そんなこと考えたこともなかった。当然のように行なっている思考というものが、自分の語彙に基づいているなどと。けれど、知ってからはそれについて考えることができる。素晴らしいことだ。

 主人公ウィンストンの仕事は過去の記録を改竄すること。誰かが粛清されればその人の存在の痕跡を抹消すべく、名前の載っている記録を全て修正する。半永久的な戦争における交戦相手と同盟相手が党の都合で突然入れ替わるが、それに関する記録も全て書き換えなければならない。そうすることで交戦相手と同盟相手は開戦以来ずっと同じままだという「事実」を維持するのだ。党が間違っているという事態を避けるために現実を歪め続けるというわけ。
 過去の記録を完全にコントロールすることは同時に現在と未来をも支配することにもなるのだ。
 ウィンストンは紙の新聞を修正する作業をしていたわけだが、今日ぼくたちの身近にはもっと簡単に編集できる百科事典がある。もちろん好き勝手に歴史を書き換えてそれを読む人に信じ込ませるのは簡単なことではないが、インターネットの宇宙的図書館にはすでに事実かそうでないか判断するのが難しいものがたくさんあり、それを真に受けてしまう人も少なくないということはもうわかっている。真理省の悪魔的な仕事はそう現実離れしたものではないかもしれない。材料はすでに揃っているように思う。

 そういえばアメリカで新しい大統領が生まれてから、この本が非常に売れたらしい。世の中が怪しげな方向に舵を取ったのを機会に、有名だがまだ読んだことがなかったこの名著を手に取ったのだろう。かく言うぼくもその流れでやっと読む機会を得たのだけれどね。
 オセアニアは1940年代末に想像された未来の社会主義国家なので、現実の未来を考える際に条件が全て一致するわけではないが、もっと広い意味で言うところの悪夢的な未来像として、手がかりのようなものは見出せるかもしれない。トマス・ピンチョンによる本書の解説でも、現実世界に息づいているオセアニア的要素について言及されていて興味深い。そう、このピンチョンの解説もとても読み応えがあっておもしろい。
 
 いずれにせよディストピアとは、迎えたくない未来を先取りすることでそれを反面教師にできる、素晴らしいエンターテインメントだと思う。

 さて、ぼくはもっと日記を書こう。

2017年6月6日

『メッセージ』(2016)感想


 詩情的な静寂は文学的で、丹念に読み進めているような感覚で観ていられるけれど、それでいて圧倒的な「異物感」を感じさせる画面はやはりSF映画。奥深いジャンルだなあと思った。ベースはあくまで外宇宙とのファーストコンタクトという、これまで何度も映画で描かれてきた直球な王道だからとっつきやすく、だからこそエイリアン言語の翻訳という地道かつ気の遠くなるような作業を通して描かれる闘いが際立つ。ミステリアスなエイリアンの外見が「一見」脚が何本もあるという非常に古典的なものになっているのも、入口がスタンダードになっていていいと思う。独創的かつグロテスクなエイリアンはここでは必要ないのだ。まあ、あの外見にはひとつのギミックが施されてはいるのだけれど。

 とは言え宇宙船ーと呼んでいいか少し迷うーがその巨体をひっそりと草原や都市に、これまた微妙な高さで浮かんでいるヴィジュアルがもたらす異物感はすごい。ずっと見とれてしまいそうな画だ。

 どちらかというとこれは宇宙船というよりはモノリスと言えるんじゃないかな。『2001年宇宙の旅』('68)では四角柱のモノリスが現れてまだ猿同然だった人類にある種の啓示を与えて進化ーー別の個体を撲殺することで成された進化だーーを促したが、『メッセージ』ではこの微妙な曲線をもつ、種のようでも砂浜の丸石のようでもある自然的形状のモノリスが、人類にまた別の啓示ーーメッセージを与える。このメッセージは、かつて類人猿が受け取ったものとは正反対のもの。それがなんなのかは伏せておくけれど、ぼくには本作のモノリスが、『2001年』のモノリスのアフターケアにやってきたかのように思える。

2017年6月3日

クレッセント・クルーザー


 クレッセント・クルーザーは三日月船団を象徴する旗艦である。三日月船団は三日月を信仰する平和の民によって構成され、ひとつの場所にとどまらずに銀河中を旅している。クレッセント・クルーザー自体に強力な火器は備えられていないが、強固な外殻とシールドを持ち、つねに流星型戦闘機メテオ・ファイターの護衛に護られている。無数の流れ星を引き連れた三日月の姿はいろいろな惑星の空で見られ、見かけた者はその黄金に輝く船団に魅了された。
 側面から見たときこそ三日月型に見えるよう設計された三日月船だが、正面から見れば非常に細長い楕円形であり、決して現実の三日月のように球体に基づく形状ではない。これは、船団の信仰において満月が不吉の象徴だからである。クレッセント・クルーザーをまだ直に目撃したことがなく、その存在や形について口伝えやごく限られた資料でしか知らない人々のあいだでは、よくこの形状が話題となり、正面から見たら満月なのか否かは賭け事の対象となることが多かった。

2017年6月1日

CAT-CAT


 CAT-CATはキャッティア帝国軍が誇る地表歩行兵器である。重厚な装甲と強力な火器を持つ金属の猫は戦場でもっとも遭遇したくない相手であり、そのシルエットは犬の兵士たちから恐れられた。
 搭乗員は操縦士2名、砲手5名の6名からなり、さらに部隊の指揮官が乗り込むこともあった。砲手のひとりは操縦士たちとともに頭部の操縦席に着き、顎の左右にある連射式中型レーザー砲と口から覗く重レーザー砲を操作し、残りの3名は背中に配置された二基のレーザー砲塔、尻尾の先についた対歩兵軽レーザー砲をそれぞれ担当した。胴体には多少の収容スペースがあり、兵員や補給物資を積載することができる。
 重量により歩行時に生じる地響きは足の裏に発生させた磁気場によって軽減されるので、大きな足音を立てることなく、敵陣地に接近することができた。また、眼にあたる部分には高性能センサーやスキャナが取り付けられており、夜間でも操縦士は申し分ない視界を確保できた。
 コーギー・タンクやダックフント・クローラー、スヌープ・スカウトといった犬の地上兵器に比べて速力と機動力に長けているだけでなく、長い脚を利用してそれらを踏みつけて破壊することもできた。ただし、多少の攻撃ではびくともしない犬の地上兵器に比べて安定性に欠けるのが弱点だった。機体の安定性はその速力の犠牲になっていたのである。
 どれだけ強固な歩行戦車でも地面に倒れて身動きが取れなくなってしまえば一貫の終わりだ。その場で固定された砲台基地と化して戦いを続けられる場合もあったが、ほとんどの場合は敵の兵士や戦車に取り囲まれて破壊、もしくは投降を余儀なくされた。集中力を維持しづらい上にすぐ戦意喪失してしまう猫の兵士たちが後者の道を選ぶのは言うまでもなかった。

キャットラーの演説


 標準歴35290年のキャットラーの演説より抜粋。背後に立つのはキャットラーの右腕と称された内務大臣のルートヴィッヒ・サバトラー。演説の原稿は全て彼の作成したもので、キャットラーの政策方針にもサバトラーの意向が反映されていることから、独裁者を操る恐るべき人物と呼ばれた。

「偉大なる女王陛下の名のもとに銀河を統一する大事業は、忠実なる臣民諸君の努力のおかげで着々と進んでいるーー(中略)ーー決して無視できない障壁があるとすれば、それは人類による妨害である。旧世界の支配者たちは未だ我々を支配したつもりでいる。彼らは我々が持つ当然の権利を決して認めようとはしないーー(中略)ーー我々はホモ・サピエンスの支配から脱却せねばならない。あらゆる意味で連中の影響下から脱するのだ。銀河が彼らのものではないことを思い知らせてやろうではないか!ーー(中略)ーーもちろん、犬が人類の味方をするのなら、連中のことも敵と見なすしかあるまい。有史以来人類の腰巾着でしかなかった彼らが、人間どもと手を組んで全てを牛耳ろうとしていることは明らかだ。警戒を怠れば、瞬く間に世界は人間と犬に支配されてしまうだろう。我々自身の自由と安全を守るためには、武器を取って抵抗しなくてはならない。戦いは私の望むところではないが、キャッティア帝国、ひいては銀河社会に暮らす全ての生命を守るためなら、喜んで試練に挑む覚悟をしよう」

 この演説で初めてキャットラーは人類と犬を明確に敵と見なした。銀河社会の大半はこの自意識過剰な猫の指導者とのその新体制を警戒したが、いくつかの種族、共同体はこれに共鳴してその野望に加担することになる。そうして対立はやがて戦いへと発展し、後に「猫と犬の宇宙戦争」と呼ばれる大戦が始まるのである。

2017年5月25日

歩行者優先

 教習所に通い出してから新たに知ったことは当然多いけれど、中でも驚いたのは「歩行者の保護・優先」というやつで、ぼくが思っていた以上に歩行者は大事にされていて、そうすることはドライバーの義務らしい。

 当たり前じゃん?なんでそんなことで驚いてるの?とお思いだろう。まあ待ってくれ。わけがあるのだ。一度ぼくが生まれ育った地域に場所を移し、ぼくが小学生だった頃に時間を巻き戻そう。

 ぼくの地元は小さい農村である。山に囲まれた谷のようなところを一本の県道が通っていて、その周りにぽつぽつと家や商店、小学校が点在して集落を形成している。真ん中に通る道路から外れて、それぞれの山の方へ入り組んだ細い道を入って行けば、もっといくつも民家の集まりがあったりするけれど、それ以上先にはなにもない。てっきりぼくが知らないだけでもっと奥の方にも人が住んでいるのかもしれないと思っていたが、今改めてグーグルの航空写真地図を見るとそんなことはなかった。本当に、ぼくが子供の頃見た以上の地域はないらしい。真ん中を突っ切る県道、それに沿って並ぶ家、三軒のみの商店、いくつかの方向に分岐する細い道と細かく区分けされた田畑、そこに点在する家。あとは丘だか山だか緑があるだけ。以上。その他諸々の事業の看板を自宅に掲げている家もあるだろうけれど(かく言うぼくの家もそうだが)、まあとにかくこれがぼくの故郷である。

 なにが言いたいかというと、そういう「通り道にある集落」なものだから、真ん中を突っ切る県道をしょっちゅう車がひっきりなしに行き来しているのだ。街から街へ抜けていくところにちょうど位置していると思ってくれていい。そんなわけで登下校する小学生は車に気をつけるようきつく言いつけられる。とは言えこの地域には信号機がひとつもない。道路が一本しか通っていないのだから当然だ。だから子供たちは信号機無しの横断歩道(辛うじて二つある)を渡るために車が途切れるまで、あるいは親切なドライバーがやってくるまでひとかたまりになって待っていなくてはならない。

 そう。ぼくの記憶が確かなら、ぼくらは登下校の際に車が「停まってくれる」まで横断歩道の前でボケっと鼻垂らして突っ立っているしかなかった。来る日も来る日も車がびゅんびゅん走り去るのを「はやく途切れないかなあ」とか「誰か優しいひとが停まってくれないかなあ」と思って待っていたものだ。小学生にありがちな無茶を覚えるようになると、しびれを切らして適当なところで横断歩道に飛び出していって、無事に渡り終えるというスリルを味わったりもした(ただ横断歩道を渡っただけなのだが)。渡り終えると背後でまた車がびゅんびゅん走り去る。もう少しで轢かれて死んでいたんじゃないかと思うとヒヤッとする。もしかすると今の自分は霊体で、振り返ると横断歩道の真ん中で血を流して倒れている自分がいるんじゃないかなどと妄想にかられたこともある。それくらい車は停まってくれないもので、ましてや横断歩道のないところで渡るなんていうのは危ないことで、万が一のことがあっても渡るやつが悪いのだ、そんなふうに刷り込まれていた気がする。

 連休前などになるとよく帰りがけに教師から、よそから遊びに来る車が増えるので特に気をつけて過ごしましょう、などという注意を受けた。普段通勤にここを通っていく人たちですら横断歩道で立ちすくむ子供達を気にせず通り過ぎていくのだから、よそから来たひとなどきっと隙あらばぼくらを轢き殺そうとするかもしれない(?)などと子供心に恐れたものだ。それくらいよそから来た車とそのドライバーは恐ろしく無慈悲な連中だと叩き込まれていた。教師たちもよそから車で学校に来ているということには子供たちはまだ思い至らない。
 
 このように車通りが多い道路沿いの集落ではとにかくいろいろな意味で車が中心だった。
 移動の中心は車。これはどこの地方も同じだろう。歩道を歩いているのは子供か畑帰りの老婆くらいで、そのどちらにも属さないひとが歩いていたらそれだけでかなり目立つくらいだ。背広など着ていたら押し売りが来たと近所中で噂になるだろう。もちろんセールスマンだって車で移動するのは間違いない。
 路上でも車が中心だ。ここまで書き連ねてきたように、あの道路でいちばん偉いのは車だ。横断歩道を渡ろうとしている子供たちなどもっとも地位が低いはずだ。ほとんど無視される点ではよくはねられて死んでいる狸や猫と変わらない。時折親切なドライバーに当たって横断歩道を渡らせてくれたときの、うれしさと救われた感じといったらない。そういうときは本当に感謝の念が湧いて来るので、自然と渡り終えたあとに最敬礼である。停まってくれた車にはお辞儀しましょうと学校でも教えていた。車は「わざわざ」停まって「くれた」のだから。感謝しなくてはならない。

 さて、時は流れてぼくは都会で暮らし結婚した。妻と連れ立って犬の散歩などしていると、何度も道を渡る場面があるのだが、ぼくは子供の頃の刷り込みでどこでも車が途切れてから渡るという癖がついているのでついつい車をやり過ごすために立ち止まってしまう。渡ろうとしたときにちょうど車がやってきてしまったときにも反射的に立ち止まってしまう。もちろん車も一時停止する。やたら背のでかい男が短足の不恰好な犬を連れて道を渡ろうとしているのが見えたからだ。しかし、なぜか男は立ち止まったまま渡ろうとしない。どうしたんだろう?すると男は一緒にいた女性に促されてやっと道を渡る。ヘンなの。
 道を渡り終えて車が去ったところで、妻がぼくに言う。ああいうときは渡らないと車の方も困るでしょ。なんでいちいち立ち止まるのよ。ぼくは言う。車に譲ろうと思ったんだよ。車を先に行かせたほうがいい。すると妻はますます不審がる。そういうのは車にも迷惑だし、あっちは歩行者を優先しなきゃいけないんだよ。ぼくはこれを聞いて始めは非常に不思議だった。歩行者を優先?車が?そう言ったか?ぼくは子供の頃から車は基本的に停まってくれないもので、かりに車と自分の動きがかち合ったらとにかく車に譲れと教わったんだがなあ、などと漏らすと、あんたんとこはやっぱりおかしいのよ、と妻が言い、そうかなあ、とぼくはまだ納得いかないでいるので、妻も呆れる。
 
 果たして妻が正しかった。教習所の講習で確かにドライバーは歩行者をとにかく優先して保護しなければならないと教えられた。信号機があろうとなかろうと横断歩道を渡ろうとしているひとがいたら、停まってゆずりましょう。これは義務です。横断歩道がなくとも、道を渡ろうとしているひとがいたら停まって渡らせましょう。思いやりです。義務です。このような言葉が繰り返され、もはやぼくが7歳から12歳までの間に叩き込まれた車と歩行者の関係はあっさり崩れた。歩行者の方が偉かったのだ!教習ビデオの中で言うこと聞かなそうなクソガキが母親の手を引いて突然目の前で道に飛び出して渡ろうとした。歩道で反対側に向かって手まねきしてるおばさんがいる。次になにが起こるか予測できますか?とナレーション。反対側から女の子が飛び出してきて道を渡る。
 これら全てに車は停まってあげなきゃいけないのだ!なんだってぼくたちは横断歩道の前でバカみたいに突っ立ってたんだろう。渡っちまえばよかったのだ。横断歩道で失った時間を返して欲しい。あれのせいでどれだけ朝の会に遅れそうになったか。そのたびに担任に嫌味言われてさ。まったく。車中心の車信仰が根付いたとんでもねえカルト村だぜ。停まってくれた優しいドライバーにあんなにお辞儀までして。優しいひとだったろうとは思うが、あれは普通だったのだ。義務なんだから。あーあ。
 車は全然偉くないことを知り、小学生のときに叩き込まれたものに今更疑念を抱いたわけだけれど、ぼくも歩行者を優先する側になろうとしているので、気をつけないとなあと思ったのでした。

猫の将校とこわいポスター


 標準歴35285年にキャットラー政権が成立して以降、かの独裁者が安酒の酔いにも等しい民衆の熱を原動力に次々に自らの権限を拡大させる法制定を行ってきたのは言うまでもないが、一連の改革は最終的に指導者への個人崇拝へと繋がった。その頃にはキャッティア帝国領の至るところでこのようなポスターが見られたが、用紙に仕込まれたナノ・カメラとスキャナー、マイクにより、市街地や個人宅における市民のあらゆる動きを、秘密警察「黒猫」が監視していた。多くの市民たちはこの監視の事実に気づいていたが、最初の頃はほとんど関心を示さなかった。
 しかし、ポスターがある程度普及(ポスターの貼り付け自体は半強制の「任意」であり、公共施設以外は当局がどこに何枚貼るのかを決めていたわけではない)していくと、ポスターの上にかぶせる覆いも闇ルートで出回った。大抵はスキャナーやマイクを無効化できるシート状のもので、黒い覆いのような露骨なものもあったが、透明のシートがもっとも人気だった。パトロールの憲兵が見たとしても一見ポスターは通常の状態にしか見えないのだ。無論、憲兵の方でもこうした道具が出回っていることを十分承知であり、市民が重要施設への爆弾テロを計画でもしていない限りはポスターへの加工を放っておいた。と言うのも、彼ら方でも自分たちのプライバシーを守るため、忠誠を誓った首相閣下の肖像の上に同様の遮断フィルターをかぶせていたのだ。

2017年5月23日

営業報告

 今回はいくつか成果があるのでまとめて紹介したいと思います。


・まず連載から。「SPUR」7月号ではマイク・ミルズ監督最新作『20センチュリー・ウーマン』(6月3日公開)を紹介しています。やっとグレタ・ガーウィグが描けました。映画そのものもひと夏の物語で、初夏に合う色使いの記事になったかと思います。


・「婦人公論」6/13号のジェーン・スーさん連載も、スーさんの8年ぶりのバカンスについてのお話で、夏らしい挿絵になっています。



・明光義塾の保護者向け会報「Meit」で巻頭扉(写真2枚目)のほか内容に小さなカットを描いています。こちらも夏休みの過ごし方特集なので夏らしい絵です。

2017年5月18日

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』(2017)感想


 
 キャラクターたちの造形や互いの関係をより深く描き出し、前作の伏線を綺麗に回収していく展開、また新しいキャラクターとの出会いや、かなりスケールアップされた脅威との対峙、より広がりを見せる世界観の構築と、とにかく続編に必要なもの全てが備わっていると思う。前作と同じくらい愛せて、同時にそれを上回る興奮やカタルシスをもたらしてくれる、そんな最高の続編である。

 やはり『スター・ウォーズ』シリーズとは別に夢中になれるスペースオペラが出てきたことがとてもうれしいな。そのヴィジュアル世界がSWのそれとは全く違うタイプのものならなおさら。
 ぼくがSWに対して抱く数少ない不満の中に、「宇宙船に色がない」というものがあったりする。
 だいたいのメカニックは灰色や白で、原色はその船体に一本ラインが入っていたり、マーキングが施されたりする程度である。だからこそ『ファントム・メナス』(EP1,1999)に登場するようなボディが黄色や赤で、フォルムが丸かったり流線型だったりする宇宙船が好きなのだけれど、平和かつ文化的に成熟していた旧共和国最後の時代を描いたEP1以外にはそのような船は登場しない。もちろん最初の三部作を象徴する工業的なデザインの宇宙船も他の追随を許さない魅力があるが、どうしても色の少なさがね。

 カラフルで曲線が使われているのがいいのなら日本のSFアニメもいいのではないかと思われるひともいるだろう。もちろん悪くはないけれど、ぼくは母国製のSFメカがどうしても金属製に見えないのだ。玩具化を前提に考案されているからか(必ずしもそうではないだろうけれど)、どう見てもプラスチックに見えるものが多い。

 そこで、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(GOTG)だ。巨匠クリス・フォスによる有機的な曲線フォルムにカラフルな配色。熱帯魚や南国の鳥のような船が、これまたSW等の真っ暗な宇宙とは違い、様々な色に輝く宇宙空間を飛ぶ姿はとても綺麗。宇宙船だけでなく、登場する種族も色とりどりの肌をしていて楽しい。コミックが原作であるからこその色使いだろうか。
 とにかく、SWでしか宇宙世界を見てこなかったぼくのようなやつにとっては、前作が衝撃的で、もっといろいろな銀河系の姿があってもいいんだなと思った。

 ぼくたちが住むのとは別の世界が舞台となっているSWとは異なり、GOTGは地球が存在する銀河のお話。だからこそ、レトロ・フューチャー感や親近感があって、わかりやすい世界になっているのも楽しいところ。
 スペースオペラの主人公がソニーのカセットウォークマンを愛用しているという渋い設定は前作以降知れ渡っていることであえて説明する必要もないけれど、今作『リミックス』では冒頭から古い電子フットボールゲーム機がなぜか敵の接近を示すレーダー機器に改造されていたり、エリザベス・デビッキ演じるアイーシャが率いるソヴリン艦隊が、ゲームセンター的スタイルで遠隔操作されているというとても楽しいアイデアがあったりして最高だった。超ピコピコ言ってた。
 兵器のインターフェイスがだんだんゲーム機じみてきていて、シューティングゲーム感覚で戦争が行われているというような現実への皮肉もあるのかもしれないが、まあ、難しい考察はほどほどに。とにかく古いのに新しい、まさにレトロ・フューチャーだった。
 ソヴリン人は身内に死傷者を出したくないということは劇中でもデビッキの口から語られるが、まさかだからといってゲーセン艦隊とはね。
 そういえばSWにも身内に死者を出したくないからドロイドの軍隊を使う種族がいたな。がちがちの設定で固められたSWにはSWの魅力があるが、GOTGのユーモアセンスというか、緩さのある世界観もたまらない。

 SWとの比較が続いてしまったので、ついでにSWとの関連に触れよう。今作新たに登場したカート・ラッセル扮するエゴ(イーゴと発音されていたような気がする)はピーターの父を自称する謎の男だ。まあ、はっきり言って本当にお父さんなんだけどね。これは別にかの暗黒卿が息子に告げる衝撃の事実とかに比べると別段なんでもないので。劇中でも早々に明かされてしまうし、重大なのはそこではない。
 実はカート・ラッセルはSWの一作目『新たなる希望』(EP4,1977)であのハン・ソロの候補にあがっていて、スクリーンテストまでしているのだが、そんな過去をふまえると、次世代ハン・ソロと呼ばれるピーター(クリス・プラット自身若きハン・ソロ役の候補になっていたっけ)の父親という役は繋がりが見えてくるようでおもしろい。ただ、実際は父親としてはダース・ヴェイダーに匹敵、もしかするとそれ以上のヤバさがあったりするのだが……。あとは本編で。

 そうそう、人に勧めやすいのもいいよね。SWはもはや勧めること自体お勧めできないとしても、GOTGはまだ2作だけで、しかも『アベンジャーズ』シリーズの一部とは言え実は他の作品ほど劇中にクロスオーバー要素が無かったりするので、完全に独立した作品として楽しむことができる。予備知識ももちろん不要。 GOTGからアベンジャーズへの参戦はあっても、その逆はないので安心。クロスオーバーの時代、続編が作られ続けてシリーズ数がどんどん増えていく時代にあって、たった2本だけで楽しめる作品も珍しいのではないだろうか。というわけであなた、まだ観てないなら、SWに乗れないんならGOTGを観ましょう。

 というわけで超楽しかった『リミックス』でした。

 そういえばエンドクレジットで流れるメイン・テーマのディスコ・バージョン(「Guardians Inferno」)は、やっぱりSWのメイン・テーマのディスコ版を思い起こすよね。ああ、どうしても比較せずにはいられない。
 つらいときは思い出せ、ぼくらはグルート。

悪い魔女につかまって労働させられてるコーギー


 この絵の着想を得たのは、ある夜の散歩で通りかかった工事現場。うちの近所ではぼくたちが越してきた頃からずっと地下鉄の拡張工事とかいうのをやっていて、その地上部分も資材や入坑口なんかが並んで車道や歩道が変則的になっている。夜の散歩でその地上部分の現場の横を通った際に、ぽっかり開いた大きな穴を見かけた。地下の現場まで通じているらしく、オレンジ色の灯りが漏れていて、ガリガリとかギンギンとかいう作業音や男たちの声なんかが響いてくる。本当に地下を掘っているんだなあという感じでわくわくした。もっと近寄って覗き込んだら、ずっと下のほうにはつるはしやスコップで作業をする人々、行き来するトロッコなんかが見られたのだろうか(いつの鉱山だよ)。
 そこでぼくの空想がはじまる。奴隷商人に売られたかわいそうなコーギーたちが短い脚でせっせと歩き、石ころや土を積んだ台車をひっぱったり、ヨイトマケなんかに従事させられている光景。現場監督の目線よりもずっと低いところでせっせと働いているものだから、奴隷コーギーたちはこっそりお互いの顔を見合わせて「がんばろうねえ」「うん、がんばろうねえ」などと励まし合う。泥だらけの顔で……。
 かわいそうだが、なんて健気だろう。というわけでちょっとかわいい設定にして絵にしたってわけ。

『ムーンライト』(2016)感想


 『アデル、ブルーは熱い色』(2013)の感想のときにも書いたことだけれど、形が同性同士だというだけで(もちろんゆえに抱える問題もあるのだけれど)、そこで描かれることは誰の身にも起こりうる普遍的なものだと思う。『ムーンライト』はそれに加え、特定の人種とその生活圏、そこから連想されるものや生じてくる問題など、これでもかというくらいの要素がてんこもりである。それらのてんこもりはもちろん欠かせない重要な要素だけれど、先入観に惑わされずに見つめれば、そこには自分と同じように生きる人間がいる。

 三つのチャプターのうちの最終章では、それまで小柄だったりひょろかったりした主人公がめちゃくちゃごつい大人の男に成長している。いかついアメ車を転がしてブリンブリンを身につけた寡黙な売人。おまけに歯にも黄金のグリルズを装着しているくらいなのだが、子供の頃から想い続けてきた相手の前では、その小さな目が落ち着かなげになり大きな肩をすぼめてモジモジし出す。子供の頃からのうつむき癖(この仕草が特に別々の時期のシャロンを演じた三人の俳優たちを本当に同一人物かのように見せてくれる)も手伝って非常にかわいらしく感じる。ギャップ?そう、ギャップなのかもしれない。だがギャップってなんだ?こんなごついやつがモジモジなどするわけがないという前提があったなら、ぼくたちはその時点でなにかを決めつけてしまっていたのかもしれない。そんなことではティーンエイジャーのシャロンを、"逞しくなさ"、"男らしくなさ"といった理由で虐めていた連中と、変わらないのではないか。
 
 そんなにコアが普遍的ってんなら、なんの変哲も無い個人的な物語を観せられているってこと?なんて思うこともあるかもしれない。もちろん、そうではないと思う。他人の物語から感じることや学べることは多いし、自分との共通点を見つけられるからといって、その特別さが薄れるわけではない。そうやって親しみが持てて、美しくて、いろいろなことを考え想いたくなるから特別なのだ。
 特別であり、特殊ではない。特異な物語というわけではない。
 一見特異な予断を持ちやすい骨格は、ぼくたちへの試練でもあるのかもしれないな。

 なんだかどんどん思考が流れ出てきて自分の手には負えないような文章になってしまったけれど、ぼくにとっては、美しくてかわいらしい恋の物語で、そっと打ち明けられた人生のハイライトだ。
 誰かに恋をして、なにかに夢中になった人生の一時期をトリミングした『アデル〜』とは通じるところも多いと思う。とまあ、これも結局は同じ恋の形でカテゴライズしてしまうことになるのかもしれないけれど。でもやはり並べてみたくなる作品だ。
 なんといってもブルーというテーマカラーが共通している。
 色や空気感の美しさもこの映画の魅力のひとつだけれど、色の濃い肌が月光を浴びて青く輝くところなんか、身体の美しさってやつを思い知らされるね。

2017年4月28日

自動車教習所で初乗車した話


 本来ぼくのような人間は専属の運転手にベントレーで迎えにきてもらうくらいでなければならないのだけれど、まあできる限り節約するにこしたことはないだろうし、自分でできることはやらないとね。ということでこの春から教習所に通っている。通っていると言ったってまだ三度くらいしか足を運んでいないが。この前は諸々事前に受ける説明やテストが終わったので、初の乗車だった。
 いやあ、おっかなかった。おっかなすぎて、やっぱりぼくは運転手を雇った方がいいのかもしれないとうっすら思ったくらい。しかし、同時に愛犬のニタニタ顔なども浮かんできて、あれが元気なうちにいろいろなところに連れて行ってやるのだ、小さなカゴに閉じ込めて混み合った地下鉄で運ぶのなんてやってられるか!という気持ちも強くなり、まあとにかく犬のために、ただひたすら犬のためにがんばろうと思った。車に乗っているときのあの喜びようを思い出せば苦にならない、はず。
 海辺に連れて行ってあげるからねえ。

嘆きのMA-1


 すっかり暖かくなってしまい羽織っているひとも少なくなってきたけれど、この前の冬はとにかく道ゆく人々がMA-1を着ていたような気がする。みんな一斉に空軍に入隊したかというくらい、カーキやオリーブ色のフライトジャケットで溢れていた。
 というわけでぼくも少し前にMA-1を買った。

 もう冬も終わりかけていたので、お店に出ているものはだいたいぺらぺらのものが多く、なかなかこれといったものが見つからなかったけれど、なんとかちょうどいい厚さ、伝統的なフォルム、くすんだ緑色以外の色(少しは珍しい色がいいよね)等条件の合ったものと出会うことができた。
 ただ、アルファ・インダストリーズなどの実物仕様ではないので、細かいところがなんとなく安っぽく見えてしまい、だんだんアルファ製じゃないならMA-1と呼べないんじゃ?偽物では?などと考えるようになり、数時間前は嬉々として買って帰ってきたのにすっかり落ち込んでしまった。

 落ち込んで我慢ならなくなるとだいたいそのことをツイートに書くのだが、そこでフォロワーの方が言ってくれたのは、実物仕様はかっこいいが重かったりして日常シーンに合わないこともあるので、軽くて着やすいファッション特化型も悪くないよということだった。確かにぼくはこれまで上着といえばミリタリーの放出品ばかり着てきたが、どれも非常に硬くて重かった。実物の軍服なので機能性に長けているだろうなどとも思っていたが、果たして第二次大戦中のスカンジナビアの野戦服が冬の東京の日常に適した機能性を持っているだろうか?
 そういう実物ばかり着てきたことがかえって変なこだわりを呼び起こしてしまっていたんだろうな。思えば街で着るように作られたミリタリーウェア風のものを新品で買ったのは初めてだったから、無骨な古着との違いに戸惑ったのかもしれない。適度に暖かい上に軽くて着やすいフライトジャケット(モチーフの上着)、いいじゃないか。と、ちょっと声をかけてもらっただけでこの機嫌の取り戻しようである。
 だいたいアルファ製だってあくまで実物「仕様」なだけで、そこいらで売っているのは米空軍規格とはまた違うのだ。本物も偽物もないじゃないか。
 というわけで今日にいたるまですっかりお気に入りでずっと着ている。今日もたぶん着るだろう。暖かくなってきたから、Tシャツ一枚の上にこれを着るという形でもちょうどよかったりする。とにかく着心地のいい上着が見つかってよかった。

 MA-1といえば父親が着ているイメージが強かった。着ている姿もそうなのだが、昔ワールドカップ開催期間中にオランダに行った際にMA-1を着ていたので、オランダ代表の色に合わせて裏地のオレンジを表にしたら、行く先々で大歓迎されなんでもおごってもらえたという、大しておもしろくもなんともない話を繰り返し聞かされたせいもあるだろうな(本来は墜落したパイロットが救助の目印になるように裏返して着るためにオレンジになっている)。
 オランダが決勝戦まで残ったということは74年の西ドイツか78年のアルゼンチン大会だろうと思うけれど(どちらも開催国が優勝)、西ドイツ滞在の話もよく聞かされたので(「電車を降りそびれてもう少しで東側に行っちゃうところだった!」)74年の方かもね。オランダの話はそのMA-1を裏返しにした話しか聞いたことがないが、きっと子供たちに聞かせられない話もたくさんあることだろう。いや、案外本当に上着を裏返しにして歓待された話しかないのかもしれないが。
 MA-1を着てニット帽をかぶって犬の散歩をしていると、ふと通りかかった建物のガラスに映った自分のシルエットがだんだん父親じみてきているように見える。

2017年4月23日

営業報告


 「SPUR」6月号ではヘイリー・スタインフェルド主演、ケリー・フレモン・クレイグ監督作『スウィート17モンスター』(公開中)を紹介しています。ティーンエイジャーの新たなバイブルということで、絵はダニエル・クロウズの漫画「ゴーストワールド」を少し意識しました。
 「ゴーストワールド」は久しぶりに読み返したんだけれど、やっぱりおもしろいなあ。また映画の方も観たい。

『スウィート17モンスター』にはコメントも寄稿しています。豪華な方々の中に紛れ込ませていただいて、恐縮です。
https://twitter.com/Sweet17Monster/status/848713546267480065


 「婦人公論」5月9日号のジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」もぜひ。今回は会社員からフリーランス(個人事業主)に転身したときのギャップや悩みが綴られています。
 『スウィート17モンスター』の記事と同時進行かつ、「ゴーストワールド」読み返していたときだったこともあり、スーさんの絵が少しイーニドぽいかもしれません。

2017年4月16日

アクバー提督とテセック


 キャラクター単体でフィギュアっぽく描くというのを最近やっている。よく知っているものほどデフォルメの練習になるし、そのうちオリジナルのものもどんどん描いて世界観を膨らませたい。
 すでに作品集のページにはフィン、レイとBB-8、R5-D5を先行でアップしている。今回はアクバー提督とテセックをじっくり描いてみた。ふたりともお気に入りのエイリアン。アクバー提督について説明はもはや不要だろう。実はアクバーをはじめとする魚頭のモン・カラマリ族はテセックに代表されるイカ頭の種族クオレンたちと同じ星に住んでいて、たびたび喧嘩をしている仲。このことは正史扱いの『クローン・ウォーズ』でも描かれているので(一応該当エピソード中で仲直りしている)、まだ設定として生きているはずだ。犬猿の仲というやつだ。魚とイカだけど。


 モン・カラマリのアクバーが反乱同盟軍の優れた司令官であるのに対して、クオレンのテセックはジャバ・ザ・ハットの宮殿にたむろする犯罪王の取り巻きのひとりという、どうしようもないやつだ。だがほかの連中と違って頭が良いらしく(決めポーズがいかにも頭良さそうだ!)、なんとジャバの犯罪組織を乗っ取ろうと企むほど狡猾なやつと言われている。勇敢なヒーローたちがジャバを滅ぼしてなければ、テセックがそうしていたことだろう。もちろんジャバが倒されたあと、爆発する砂上船から逃げ出したテセックは宮殿に戻って全てを独り占めしかけるのだけれど、宮殿に住み着いていた、脳みそだけを入れた蜘蛛型メカでうろついているボマー・モンクの修道僧たち(住み着いていたというか、もともと宮殿は彼らの寺院だった)に取り囲まれ、無理やり脳みそを吸い出されて「改宗」させられてしまいましたとさ。

『最後のジェダイ』ティーザーより


 もし地面をひっかくことで赤い煙が漏れ出してるのだとしたら、赤い煙がウォーカーと戦う上で必要ということなのかな。ウォーカー戦が見られるということはわかったので、次はその歩行兵器の見た目が気になる。あまり期待はしてないのだけれど、オリジナル三部作のAT-ATも、プリクエルのAT-TEも好きなので、今度のも好きになれるといいな。

  EP7のティーザーほどテンションが上がらないのは、当時は新シリーズのヴィジュアルがお披露目される最初の機会だったのに対して、今回はかれこれもう立て続けに2本も新作が公開されたあとで、気分が平常運転に切り替わっているからだろうなあ。もちろんティーザー自体の内容もあるのだけれど。毎年新作を公開すると聞いたときからちょっと恐れてはいたんだよね。怠くならないかどうか。ぼくはちょっと疲れたな。それでも、本編そのものは何であれ楽しめると思うけれどね。
 とにかくEP5の劣化版のようにならないことを祈る。
 

2017年4月9日

『レゴバットマン ザ・ムービー』(2017)感想


 実はジョーカーよりもトゥーフェイスが好きである。初めてこのキャラクターを認識したのは『バットマン フォーエヴァー』('95)でトミー・リー・ジョーンズがハイテンションで演じているのを観たとき。その後改めてティム・バートンによる第1作('89)にもまだ顔が無傷な正義の検事ハーヴェイ・デントとして登場していることを知った。『スター・ウォーズ』シリーズの我らが男爵でおなじみビリー・ディー・ウィリアムズが演じているところも興味を惹かれた。子供の頃は、別々の映画で同じ俳優が出ていることに気づくと、ものすごい大発見をしたような気分になったものだ。

 トゥーフェイスは堕ちた怪人である。元々は善人だった、というところがいちばんの魅力ではないだろうか。正義を追求するあまり、正義に裏切られ、物事の二面性に取り憑かれて、コイントス無しにはなにひとつ決断できなくなってしまう哀れな男。とあるコミックでの描写が興味深かった。アーカム精神病院に収監されていた際に、治療の一環として医師から彼の行動の全てを決定する唯一の道具、コインを取り上げられ、代わりにトランプのカードを数枚渡されて選択肢を2つ以上に増やされてしまうのだが、選択肢が「多すぎ」たためにトイレに行くかどうかもなかなか決められず失禁してしまうというくだりがあった。改めて彼がいかに「2」という数字に支配されているか、またそれに依存しているかがわかる。もはや彼はそれなしには生きられない。

 顔や身体が左右で全く異なるというヴィジュアルの魅力についてはもはや語る必要はないだろう。そんなものは見りゃわかる。今回のレゴムービーでは、左側は完全に映画作品で最初に登場したビリー・ディーのハーヴェイ・デントで、声も本人が当てている。右側はどうだろうか。派手なマゼンタ色はトミー・リー・ジョーンズが『フォーエヴァー』で演じたスタイルを思い出させるし、顔が骸骨になってしまっているところはアーロン・エッカートが『ダークナイト』('08)で扮したヴィジュアルを意識しているように見える。そしてダメージの感じが今までの実写映画やアニメ作品で描かれたような火傷とは異なり、溶けている感じに近いのは、レゴ人形がプラスチック製だからだろうね。おもしろい。
 そういうわけでトゥーフェイスというキャラだけ見ても、そこにはこれまでの映画版全ての要素が取り入れられた上で、デフォルメによって再解釈され、そのキャラクターが持つ元々の魅力を最大限に表現されている。それは作品全体に行き渡っているので、もし特にお気に入りの作品やキャラがいるひとは、そこに注目したらきっと楽しいはず。
 原作コミックはもちろん繰り返される映画化、アニメ、ビデオゲームによって本当に様々なスタイルを持ち、絶えず更新され続けているアイコン的キャラだからこそ、ここで今一度バットマンとはどういうものか、というのをシンプルに教えてくれる。

2017年4月3日

営業報告


 Pen最新号の結婚特集では、「テクノロジーが変える、婚活やウェディングの形。」という記事にて、映画におけるAIやロボットと結婚・夫婦をからめたイラスト描いてます。もちろんあの夫妻とドロイドの姿も。


 発売中の婦人公論、ジェーン・スーさんの連載ではGuns N' Rosesのダフなど描いたりしています。ダフがいかにかっこいい年の取り方しているか、スーさんのダフへの想いが書かれています。

2017年3月23日

営業報告


 「SPUR」5月号ではロジャー・ロス・ウィリアムズ監督作『ぼくと魔法の言葉たち』を紹介させていただきました。自閉症により2歳で言葉を失った少年が、大好きなディズニー映画の台詞を通じて再び他者とコミュニケーションを取れるようになったという奇跡を追ったドキュメンタリー作品。
 彼、オーウェン・サスカインドがぼくと同い年であり、ぼくらの幼少時代はちょうどディズニー・ネオ・ルネサンス最盛期だったというところが今回のポイント。ぼく自身のノスタルジーやオーウェンを支えた魅力的なディズニー・キャラクターもまじえて思ったところをまとめています。

 連載での紹介のほかにも、公式広報に応援イラストも描かせていただきました。
 https://twitter.com/bokutomahou/status/844355143692943360

 4月8日公開。ディズニー・ファンはもちろんのこと、ネオ・ルネサンス世代のひとはぜひ。

2017年3月21日

フィン


 初めて主人公になったストームトルーパー、フィン。本来取るに足らないはずの人物がヒーローになったことも感慨深いけれど、演じているジョン・ボイエガが92年生まれでぼくとほとんど変わらない年であることもなんだかうれしい。同世代人の活躍をまるで世代全体の功績とするようなお馬鹿なことは考えちゃいないけれど、ただなんだかうれしいのだ。先日、3月17日に25歳になったばかりだという。10月にぼくが26歳になるまでは同い年だ。同い年がSWの主人公。元気が出る。
 ぼくも彼に負けないくらい、良い20代だったと思えるように過ごしたいと思う。

ドン・ルイージのゲーム代行


 どうして今Wii Uかというと、義兄が任天堂の新型機スイッチを購入したので、Wii Uを貸してもらったというわけ。実は「スーパーマリオ」でちゃんと遊んだのはこれが初めてである。任天堂の横スクロールは「ワリオランド2」しかやったことなかったので、敵に触れたら即終わるマリオのシステムはとても難しく感じる(「ワリオランド2」以降ワリオは基本的に敵に接触しても死なず、マリオのように残機やゲームオーバーの概念がない)。
 
 中間ボスを倒してひと区切りつくまでセーブができないので、どこか途中でゲームオーバーになるとその面をまた最初からやらねばならず、行き詰まって途方に暮れていると「おてほんプレイ」の存在に気づいた。同じステージで8回死ぬとこの機能が現れるらしい。全自動でルイージがステージをいちばん効率的と思しきやり方で進めてくれる上、それを自分で改めてプレイするか、それでクリアしたことにしてそのまま次の面に進むかを選ばせてくれるという親切な機能である。もちろん次に進むに決まっている。しかしながら、経験や実力が伴わないままより難易度の高いレベルへ進んでいくのでその先でほとんど毎回ドン・ルイージの力を頼らなければならなくなり、ことあるごとにドンに頼み事をしにいくリトル・イタリーの葬儀屋やレストラン店主にでもなった気分である。

 それにしても初心者や、このゲームでの遊び方をその歴史の長さゆえに忘れかけているひとのために、このような機能をつけたというのは素晴らしい考えだなと思う。ゲームが得意でないひとでもストーリーの行方を追ってエンディングを見届けたいはずだ。ぼくもそう。下手くそなくせにビデオゲームが好きなやつもいるのだ。
 
 ちなみにこの「おてほんプレイ」は、ルイージによる全自動代行の最中で手動のプレイに切り替えることもできるらしい。キャラクターはルイージのままになってしまうが、このおかげで自分が苦戦していた難所をルイージに乗り越えてもらって、そこから先を自分で進めるという理想的な、まさに横にいる友達にちょっとだけ代わってもらうというような遊び方が実現するのだ。なにを今更言ってるんだって?いいじゃないか、ぼくは昨日知ったのだ。

2017年3月16日

『お嬢さん』(2016)感想



 原作はウェールズの作家によるヴィクトリア朝イギリスが舞台の物語なのだそう。莫大な遺産を相続する令嬢を結婚詐欺にかけるという詐欺師仲間の計画に乗ったスーザンは、侍女を装ってその屋敷に潜り込むが、騙すはずのお嬢様にだんだん情が移り……という筋書きはそのままに、舞台を日本統治時代の朝鮮半島に置き換えている。スーザンはスッキという少女に、令嬢は華族の秀子、彼女の後見人である叔父は朝鮮人でありながら日本人の貴族になろうとする書物蒐集家、という具合。

 原作の様子を知ってからだと、そのアレンジのおもしろさが際立ってくる。特に和洋折衷の屋敷の存在感はかなり印象的だし、支配者とその文化に憧れるあまり日本人そのものになろうとする叔父・上月の設定も興味深い。パク・チャヌク監督によれば、上月のような上流階級や知識層の一部が支配側に対して抱いていた憧れや信奉が、終戦によって今度はアメリカへと移っていったというような「人間の内面における植民地支配という課題」も重要なテーマであり、上月の建てた和洋折衷の屋敷はそれを象徴しているのだとか。令嬢と侍女の物語という原作と同じ主軸なのに、そういう別の世界観で肉付けすることで、独自の作品になっているところが良い。脚色やアレンジの可能性は底知れないなあ。
 もちろんそこにはヴィジュアル・センスも欠かせないと思う。ベタな仰々しさすらかっこいい。病院とガスマスクという組み合わせをこんなに自然にセンス良く描けるなんて。ああいうのは展開上自然に、わざとらしくしないところが大事なのかもしれない。

 ともあれ原作の「荊の城」、一度読んでみたいな。それからBBCのドラマ版も観ておきたい。スッキに当たる主人公スーザン役がサリー・ホーキンスというのだから気になる。

 よく言われている劇中の日本語について擁護しておくと、確かに学芸会っぽくて、ところどころ聞き取りづらいというか、明らかに書き言葉でしかない台詞が語られたりするので字面がまったく思い浮かべられなかったりするのだけれど(ぼくの頭の問題か)、人物たちの設定を考えれば、かえってたどたどしいながらも一生懸命日本語を話している、という様子が相応しいのではないだろうか。同じ国の人同士なのに外国語で会話しているという様もまた、チャヌク監督が言う「内面における植民地支配」を象徴していると思う。ヴィジュアルも相まって独特な持ち味になっていていいんじゃないかなあ。
 いずれにせよ外から描かれる「日本」はやっぱりぼくには魅力的だ。日本人には決して描くことのできない日本像がそこにはあるし、外国のひとの目を通して見ることに意義があるんじゃないかなとすら思う。
 

2017年3月14日

asta 2017年4月号


 ポプラ社「asta」4月号では長谷川町蔵さんの初の小説集「あたしたちの未来はきっと」(タバブックス・ウィッチンケア文庫)を紹介しております。
 東京町田を舞台にした「東京のローカル物語」ということで、先月号で紹介した山内マリコさんの「あのこは貴族」(集英社)とも通じるものがあります。先月末にはちょうど、下北沢の書店「B&B」にてこの2冊をテーマに山内さんと長谷川さんのトークショーもありましたので、連続で紹介できてよかったです。
 そして、2年以上やらせていただきました「秘密図書館 in asta*」は今号で最終回となります。いろいろな読書体験をさせてもらいましたが、「あのこは貴族」、「あたしたちの未来はきっと」という流れで締めくくることができてよかったです。外側からの目、あるいは内側からの目を通して描かれる都市圏の飽くことのない魅力や、生まれ育った街を振り返る重要さを改めて知ることができたと思います。ぼくもいつかひとりの上京者として、部外者から見た街、あるいは離れてから見えてきた地元の姿をスケッチできればいいなと思います。

2017年3月8日

『ラ・ラ・ランド』(2016) 感想


 映画館の暗い中でスクリーンを見ている間は非現実的だ。外が夜なのか昼なのかも忘れてしまう。映画が終わって外に出ると、案外とても明るくて不思議な気分になる。一気に現実にひき戻されるけれど、嫌な気はしない。寂しいけれど、映画は終わる。でも、自分の中ではなにかがふつふつと湧き上がっている気がする。ふわふわした夢から覚めるのとも似ているかもしれない。
 それこそ『ラ・ラ・ランド』の物語なんじゃないかな。夢のような時間とその終わり。映画は終わる。夢も覚める。恋も、もしかしたら終わってしまうことも。最終的に夢を叶えたはずのエマ・ストーンが、本当はこうだったかもしれない、本当はこうあってほしかったという夢を見て束の間現実から浮かび上がっていくとき、その様子が映画のセットやフィルムによって表現されているのも、映画館での体験の非現実性があってのこと。映画の都ハリウッドとそれを取り巻くロサンゼルス(LA)という街と、映画館での現実から浮遊するような時間、やがて帰っていかなければならない現実。"LA LA LAND"、なんてぴったりなタイトルでしょう。
 そしてやっぱりミュージカルは楽しい。音楽に乗って物語が進んでいくだけで楽しく、難しいことはなにひとつない。それに本作はミュージカルに馴染みの無いひとでも楽しめるんじゃないかという気がする。古典的な要素を取り入れながら決して古さや仰々しさを感じさせず、新しいものに、自然なものに更新されていてとてもポップだ。ハリウッドそのものへの敬意や映画への愛、それを次へ伝えようという意欲。こうして遺伝子は受け継がれていくんだな。ぼくも敬意を形にして作品を作っていきたい。「好き」を形にすることは素晴らしいと思う。
 ただひたすらに楽しく美しいものを人々は観たいのかもしれない。ぼくだって観たい。生きていると驚くほど嫌なことが多い。うまくいかないことの多いこと。できればずっと夢に浸っていたい。けれどこの映画は現実の苦さも忘れさせない。だから心を打たれるのだと思う。

日記の反省

 正直に言おう。結局のところ数日分をまとめていく日記のスタイルは行き詰まってしまった。この方法なら週に一度思い返すことで1日も欠かさずに記録をつけられるかと思ったけれど、どうしたって多忙な週というのがあってついつい振り返って書くことを忘れてしまうことがあり、また特筆することがないために何があったかほとんど思い出せない日なんかがあって、要するにぐだぐだになった。
 そもそもね、公開ブログに書けることってかなり制限があるんだよ。生活のあれこれを切り売りできるタイプのひとなら工夫次第でいくらでも赤裸々に書けそうだけれど、まずぼくは切り売りできるだけのおもしろい生活をおくっていないし、他人のことうまくぼかしながら書く工夫をするような余裕もなければ、仕事についても書けることが少ないのだ。今どこから依頼されたどんな絵を描いているかなんてのはもちろん書けない。映画の試写については何を観て、内容に触れることのない簡単な所感を書き留めたりもしていたが、それも連日となると試写日記になってしまう。今更読む人がおもしろいかどうかなんて気にしていないけれど(基本的に今時ブログの閲覧者はほとんどいないと自分では思うようにしている)、自分で書いていておもしろいかどうかは気にしている。ああ、まだ先週分もまとめていなければ先々週分もまとめられていない、などとだんだん日記を書けていないということがストレスになり、書かなければという謎のプレッシャーもやってきて、とてもじゃないが日記を書くことで考えや気持ちを整理して心の平穏を保つなんてことできる状態じゃなくなってしまった。
 日々のことを細かく書くのは、やはり自分自身のために書くプライベートなノートでなければいけないと思った。そこでなら誰と会ってどんな話をしたか、誰が憎たらしいとか、仕事で味わった嫌なことだとか、約束をすっぽかしてなにをしていたとか、そういうことが遠慮なく書けるわけだ。日記は愚痴を書くことでストレスが解消される面もあるけれど、それを公開ブログでやるととんでもないことになってしまう。読む人がおもしろいかどうかは気にしないけれど、不快にはなってもらいたくない。すっかりSNSの時代になってしまったが、ぼくはブログを書くということを大事にしたいし、紙のノートに万年筆で誰に見せることのない記録を書くという習慣も大切にしていきたいと思っている。
 そういうわけで、また以前のような不定期の日記に戻します。それにしても去年の11月上旬からおよそ4ヶ月くらいずっと記録をつけたことは褒めてあげたい。あれの続きは誰にも遠慮する必要のない自分のためのノートで。家族も読むことのないところで思い切り書くことにしよう。

「集めたくなる栞」最終回


 1年間毎月配布されていたブックユニオン店頭購入特典「集めたくなる栞」が今月で最終回です。本のジャンルを表す絵柄のシリーズで展開してきましたが、最終回は「POETRY」ということで「詩」です。ぼくのイメージする詩人っぽいひとを描いています。


 そんなわけで初回の「MYSTERY」から「POETRY」まで全12種類が揃いました。色とりどりになったかと思います。1年間ありがとうございました。
コレクションが前提のカード的なものをちゃんと作ったのは初めてだったけれど、自分のためにそういうのを作ってもいいかもね。対戦カードよりは、絵柄ありきの収集カードのほうが好きかな。子供の頃から対戦ものはルールが覚えられなかった。

2017年3月6日

日記:2017/02/16 - 25

2017/02/16 木 〜 21 火

 とりあえず忙しい時期だった、とひとくくりにしておく。忙しい忙しいの一点張りじゃ日記としてもつまらないと思うが。
 気分転換に上映が終わろうとしていた『ローグ・ワン』の見納めをしたのだけれど、やはり回数を重ねるごとに前半のくだりは非常に冗長に感じられてくる。回数といってもぼくはこのときを含めて4回なのだけれど、とてもツイッターで見かけるような10回以上の鑑賞はする気になれないし、そんなことなんの自慢にもならないと思っている。
 また別の機会にじっくり書きたいけれど、あの映画のテンポはどこか本を読んでいるときに似ている。というか、往年のSW小説によくある感じのテンポだと思う。前半から中盤までダルいが、終盤で一気に盛り上げていく感じ。
 電話を受けることが多くなった。電話が多いと、仕事をしているなという気分になるものだけれど、どうも近所の基地局かなにかの移転がされたらしく、部屋の電波が非常に悪い。まだ電波塔が裏の山に建つ前の実家並みに電波が悪く、通話中もわりと先方の声が途切れて困る。固定電話を引いた方がいいんじゃないか。ヴィンテージ玩具店で見かけるようなディズニーの古い電話とか置きたい。コードの繋がった大きな受話器を持って仕事の連絡を交わすという絵図に憧れもある。ドラマの「マッドメン」かなにかの影響だろうな。

2017/02/22 水

 ビデオ・ゲームがもとの映画を試写で観た。モーション・キャプチャーを多用して実際の俳優そのままのモデルにその本人が声を当てているというような「プレイする映画」とも言うべきゲームがたくさん出ている中、果たしてゲームを実写映画化する意味があるのかと疑問を思ったりもしていたが、ゲームにはプレイすることが前提に書かれた物語があり、そういったゲームでしか生まれ得ないタイプのストーリーを映画のネタに持ってくることでおもしろい化学反応が見られることもあるんだなあということがわかった。ゲームと映画は互いに刺激し合って進化していけるものなのかもしれない。

2017/02/24 金

 久しぶりによそのおうちに犬を連れていくことに。少し長い道のりだったが到着したときの犬のはしゃぎようは見ているこちらもうれしいくらい。おうちは素晴らしいところだった。何度も「素敵」を連発した。ひとの家に行くとあちこち真似したくなってしまうのは昔から変わらないが、うまく参考にできたためしはない。それでもやっぱりいろいろなところを見せてもらって、帰ったらぼくも自分の部屋をああしてこうしてと想像を膨らませた。とても楽しい時間だった。犬も楽しかったろうと思う。
 ちなみにこの日は結婚記念日で映画『ラ・ラ・ランド』の公開日だった。

2017/02/25 土

 沈むように寝ていた。夕方妻が仕事をあがるのに合わせて出かけて行き、一緒にビックカメラを覗いた。レゴ・ブロックでも買わせてくれるのかと思ってうきうきしていたが、帰り道のぼくが提げる紙袋にはフィリップス電動シェーバーがあった。生まれて初めて使ったのだけれど、綺麗に剃れる。T字では限界があった。ぼくはヒゲが濃いのだ。でも脱毛しようだなんて思わないな。年取ったらオビ=ワン・ケノービみたいに生やしたくなるかもしれない。シェーバーでヒゲを剃るのは楽しい。

2017年2月28日

日記:2017/02/08 - 15

2017/02/08 水

 下手に忙しいなどと口走ると、そんなの忙しい内に入らないだとか、どんなに忙しくってもメールの返事くらい打てるだとか、忙しいなんて言うのは100年早いだとか、まあそんなことを言ってくる大人は多いのだけれど、忙しいもんは忙しいのだから仕方ない。忙しさや疲労に基準はない。ぼくが忙しいと感じていればそれはぼくにとって忙しいということなのである。あと、メールの返事くらい打てるというのに対して言わせてもらえれば、たとえメールを打つくらいの時間的余裕があったとしても、メール一通打つだけの心の余裕がない場合もある。電車に乗ったとき、トイレに入ったときに携帯電話からでも返事が打てるはずだ、と言うひともいるかもしれないが、ぼくはそんな、全ての時間なにかしてなくてはいけないと強迫されながら生きるのはご免である。というわけで今とても忙しい。

2017/02/09 木

 この日は昼と夕方に試写を観ることにした。前日の項で忙しい忙しい言ってるのだけれど、この日に観ておいたほうがスケジュール上都合がいいからである。『レゴバットマン ザ・ムービー』と『ムーンライト』の二本。昼間に前者、夕方から後者だった。極限までデフォルメされたレゴという様式は、実はモチーフのキャラクターについて説明や批評をするのにすごく効果的ということがわかっておもしろかった。『ムーンライト』はアカデミー賞でも『ラ・ラ・ランド』の対抗馬といわれているくらいの作品だけあって、とても味わい深い。簡単に触れるのがためらわれるのでまた別の機会で。
 二つの試写の間の空いた時間は、雪がぱらぱらと降る中ひとり秋葉原を散策した。久しぶりにひとりでやってきた。ひとりということは時間が許す限り好きにまわれて、存分に迷いながら買い物もできるわけ。中古で老オビ=ワン・ケノービの12インチ・フィギュアがあって、1800円だったし、最近はオビ=ワンに気持ちが寄っているので欲しかったのだけれど、結局やめてしまった。非常にみみっちい話なのだが、現金が少し足りなかった。こんなことでやたらとカードを使うのもよくないような気がした。きりがなくなってしまう。かわりに1000円以下で転がっていたカイロ・レンのお面(ボイスチェンジャー機能付き)を買った。最近になってようやくジェダイに惹かれ始めたものの、やっぱりカイロ・レンは放っておけないのである。
 映画を見終えて家に帰ってから、妻にこうこうこういうふうにひとりで迷っていたのだという話をしたら、あっさりと「それくらいカード切ればいいのに」と言われた。なあんだ。ぼくはちょっとした金額でうじうじ悩みすぎなのかもなあ。
 ところで外に出ているときに空いた時間をチェーンのカフェなんかで過ごせるようにとオートチャージ式のICカードを持たされているのだけれど、結局電子マネーが使えるカフェを探して歩き回っているうちに時間が潰れてしまう。この日もそうだった。以前パスモやスイカが使える店舗に入ったことがあったとしても、どの店舗もそうというわけではないので、お店に入る前にiPhoneでわざわざ目の前に構えているお店でICカードを使えるのかどうかをネット検索して調べるようにしている。そうじゃないと怖くて入れない。そして、だいたいそんなことは検索したところで載ってない。ぼくも一応なんとか考えることはできるので、駅前の店舗であれば交通系ICカードが使えるのではないか、前に使えたお店も確か駅のそばだったはずだ、と思い至って意を決して駅前のスターバックスに入るのだけれど、結局そこも使えなくて、うちでは使えません、と優しく言われたにも関わらずひどくショックを受けて落ち込んでしまう。ショックくらいならいいが、ぼくはたまにそれをものすごく拒絶されたように感じてしまってパニックになりかけてしまうことがある。
 スターバックスは好きで、俗に言われているような注文システムの難しさなんでちっとも感じたことはないのだけれど、電子マネーが使えるかどうかを心配すると、どこのコーヒー店だろうと、とっても敷居が高いものに思えてくる。コーヒー店どころではない、お金には変わりないものの、使えるかどうかわからないものを頼りに街を行くのは、とても途方に暮れる感じがする。

2017/02/10 金

 妻もああ言ってくれたので、用事のあとで昨日の秋葉原のお店に行ってみた。オビ=ワン・ケノービに夢中になったのは、多分オビ=ワンとレイの共通点をたくさん見出してその関係性を考えているうちに、オビ=ワンがシリーズの中心人物としての側面のあるということに気づいてからだと思う。いろいろと考えているうちにこの人物の魅力がわかってきた。今まで被り物をしたキャラクターにしか興味がなく、生身の人間キャラは主人公含め基本的に造形がつまらないものと決めつけていたのだが、年を取って初めてわかる魅力が出て来たりして、本当に飽きの来ない作品だなあ。
 ところがである。たった1日で老ケノービの90年代ハズブロ製12インチは姿を消していた。どこを探しても無い。ああなんということだ。昨日買えばよかったのだ。やはり見つけたときに買わないとだめなんだなあ。これでは気がすまないので、同じシリーズのボバ・フェットと、『ファントム・メナス』のときのクワイ=ガン・ジン仕様のライトセイバーを買った。
 こういうふうに買い物するのは楽しいけれど、なんの意味もない玩具を買い続けることに疑問を抱いている自分が背後にいたりもする。中古で、大した額にはなっていないのだけれど、それでも自分はこんなことをいつまで続けるんだろうとも思うのである。もちろん楽しい。ストレスも和らぐ。ただ、ぼくの中にある大人になりかかったもの、死に向かい始めている心、あるいはこんなことではだめだ、もっと高みへ行こうという気持ちが、冷めた視線を投げかけてくるのである。知識や客観性が素直さを殺し始めているのか。玩具を欲しがり続けるのと同じ貪欲さが、現状に甘んじてはいけないと警告してきているのか。なにを大切にすればいいのかわからなくなっている。自分がなにを大事にしたいのかがよくわからなくなっている。絵を描くこと、文章を書くこと、好きな映画やキャラクターを愛すること、品物を、造形を、形のあるものに愛着を持つこと。たぶんどれもぼくには重要なのだけれど、時折そのバランスが崩れてしまいそうで怖いのだ。自分で表現することができずに、買い物だけでしか愛情表現ができなくなるのではないか。物に依存しすぎているのではないかと。
 部屋にある物から圧迫感を覚えることは今もある。しかし、集めて来たものを、ほんの少し部屋を広く感じようとするために衝動的に手放す、なんていうことは、もうしないと思うし、したくもない。それはやっぱり、自分のいろいろなものを否定してしまうような気がする。ミニマリストには憧れる。彼らの生活はいかにすっきりしているだろうか。部屋は汎用的で均整が取れていて、無駄がない中にほんの少しの遊び心を残して趣味の良さを表現する。なんていう、それっぽいインテリアの本に載っているそれっぽい部屋の写真を思い浮かべる。でもさ、ぼくってそんながらんとした部屋に果たして住みたいだろうか?本当は本や品物で溢れかえった小さな図書室、私設博物館のような部屋で過ごしたいのでは?そこに集められているコレクションは、ぼくの気持ちを圧迫するものではなく、ぼくの知識や価値観の記録や記念と言えるんじゃないか。頭の中におさまりきらない、溢れんばかりのイメージや想いを、目に見えて手で触れられる形のあるものに託したからこそのコレクションなんじゃないか。なにより、ぼく自身も本来人間が生きていく上でそこまで重要じゃないものを作って暮らしているじゃないか。ぼくの仕事は装飾的だし、ぼくの作ったものもまた誰かのコレクションになり得る。そんなぼくが、ひとつひとつの物に価値を見出せないでどうする。一気に袋に詰めて捨てれば、そりゃあそのときはすっきりするだろうよ。でもね、あとできっと虚しい気持ちになるんじゃないかな。やっぱり、その必要がない限り、むやみに大事にしてたものを手放すべきではないんだな。持っていられる限り、物は持っていていいし、欲しいと思ったものは、素直に買ってもいいんだよ。忘れてはならないのは、このやや供給過多の世の中で、本当に自分が欲しいものを見極めることかもしれない。
 ボバ・フェットはこの時期のフィギュアにしてはわりとよく出来ているし、少し粗く見えるところは、レトロ・トイの魅力として見ることもできる。そしてクワイ=ガンのライトセイバー!緑色が綺麗で、サウンドや光も楽しい。持ってるだけでSWという感じがする。赤いライトセイバーよりも。そうそう、どうしてぼくが急に王道的なジェダイの騎士に意識が向き始めたか。それはまた改めて書くことにしよう。

2017/02/11 土

 土曜日でもしっかり朝起きられた。このところ熱心なのは部屋の整理で、前日に物を買う自分を肯定しはしたが、部屋がごちゃごちゃ散らかるのはよくないので、なにをしまい、なにを飾るか、そのバランスを見極めたり、本棚の中を調整しているのだけれど、これはわりと楽しい。特に本棚の整理は、これだと思う形が見え始めるととても気持ちが良い。

2017/02/12 日

 月曜までと言われている仕事を昼間に仕上げたので、わりとのんびり過ごした。日曜はなにもせずに完全に休むぞと新年から意気込んでいたのだが、どうも世の中の方がそれを許してくれないというか、逆に金曜までに全て済ませなければならない、というほうが自分を圧迫することがわかり、結局そのあたり適当になってしまった。ぼくは自分で設定したルールに縛られて思い悩んでしまうタイプなのだけれど、まずはそれをどうにかしたい。いろいろな意味でぼくは時間を好きに使える環境下にあるのだから、自由にやればいいんだよね。もちろん、ある程度決めることでメリハリはつくんだろうけれど。乗れないときは本当に乗れないし、やれそうなときはやれるもので。とりあえず締め切りさえ守っていれば大丈夫だろう多分。

2017/02/13 月

 特に書けることはなし。ひたすら描いている。今週はなかなか大変そうだ。

2017/02/14 火

 妻から『スター・ウォーズ』のチョコレートをもらう。棒にカイロ・レンやR2-D2、BB-8の形のチョコレートがついている。お腹も減っていたのでぺろっと三本ともたいらげたら、妻が驚き、一本くらい食べたかったと言った。

2017/02/15 水

 思ったのだが、これ毎日メモしておく必要ある?ないよね。また自分で作ったルールに縛られていたわけだ。一年365日分記録をつけてみよう、とは思ったが、なんにもない日はなんにもないし、事細かに書いていく気力もこう忙しいとねえ。その日の寝る前に書ければいいのだけれど、なかなかその習慣もつかないし、この形式の利点が損なわれる。
 というようなその日の出来事となんの関係もないメモばかり増えている気がする。
 

営業報告


 「SPUR」4月号ではジャン=マルク・ヴァレ監督、ジェイク・ギレンホール主演『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』を紹介しています。西川美和監督作『永い言い訳』とあわせて観たくなる、妻の突然の事故死をきっかけに人生を見直す男の物語です。公開中。


 山内マリコさんの新刊「皿洗いするの、どっち? 目指せ、家庭内男女平等」(マガジンハウス)にて装画と挿絵を描いております。
「anan」で連載されている同棲・結婚生活エッセイをまとめた単行本となります。発売中です。
 https://www.amazon.co.jp/dp/483872909X
 

  こちらは3月2日発売の「今すぐ! 集中力をつくる技術――いつでもサクッと成果が出る50の行動」(祥伝社)という本。表紙に一点カットのみとなります。中の挿絵は違う方です。

2017年2月15日

日記:2017/02/01 - 07

2017/02/01 水

 前日の緊張がまだ続いているかのようで1日中落ち着かなかった。未だティム・バートン監督を目の前にしたという事実に実感がなく、短い時間だったがなにか失礼があったのではないかと急に思えてきて不安に襲われる。何度も何度も自分が質問をしたときのことを思い出して、自分がどんなふうにしゃべり、どんなふうにどぎまぎしたかを頭の中で再現して反芻しては、ああ、やっぱりよくなかったのではと、恥ずかしさとも情けなさともつかない、なんとも言えない気分になるのであった。
 それと、やはり会場で怒鳴り声を上げていたテレビ・マンがおっかなく、別にぼく自身はなにもされちゃいないのだが、なにかいけないものを見聞きしてしまった気がし、とにかく随分と自分が傷ついていたことがわかった。

2017/02/02 木

 スーパーでスターバックスのコーヒー豆を買えたので、久しぶりに朝コーヒーを淹れた。思えばスターバックスでは大抵お菓子のような限定ものか、お気に入りのホワイトモカばかり頼んでいて、普通のコーヒーを飲むことはないので、そこまで味はわからず、言われなければわからん。
 ようやく緊張が解け始め、かわりに「うわー、とうとう本物のティム・バートンを見ちゃったなあ」とじわじわ感動がやってきた。ぼくのこの時間差でやってくるリアクションはなんなのだろう。

2017/02/03 金

 特に節分らしいこともせず。あの太くて具のたくさん入った海苔巻きあまり好きじゃないしね。それにあれが節分の食べ物だっていう感覚まだ馴染まないな。やっぱり豆まきでしょう。それもしなかったが。
 試写を一本観た。ダウン症の少年がディズニー映画のセリフを通じて言葉を取り戻し、周囲とコミュニケーションを取って成長するドキュメンタリー。非常に良かった。ぼくと同い年ってところも来るものがある。

2017/02/04 土

 だいぶ日が経ってから書いているのでなにがあったか思い出せない。土曜日だった。このあたりからようやく午前中に起きられるようになった気がする。少し前にあった緊張のおかげか、何日か続けて日中に用事があったからか。最初に目が覚めたあたりですぐカーテンを開けると、新しい日差しが入ってきてどこか覚醒した気分になる。そうそう、この前の日寝るのが早かったんだよね。22時くらい。そしたらこの日は6時に目が覚めた。

2017/02/05 日

 寝るのが遅くても早めに目が覚めるようになった。これはいいのかよくないのか。専門学校に入りたての頃、課題をたくさん出すことで有名らしい古株の講師が「睡眠時間はたとえ2時間でも1時間でも、それが慣れればそれで平気になるから大丈夫」などというとんでもない持論を展開して、睡眠時間を削ってまで仕事をするべきだという世の中に蔓延するどうしようもない思想を、早くも若者たちに植え付けようとしていたのを思い出す。教えるべきはそういうことではなく、いかに睡眠時間が大切か、それをできるだけ多く確保するにはどういう風に作業をしていったらいいかというようなことだろうに。自分が経験した辛いことを後続のひとたちにもそのまま同じように経験させようとする必要なんかないのに。あいつ、まだ教えてるのかな。いや、そんなことはどうでもいい。その、睡眠時間が短いことに慣れてしまう、というのはわりと危険なことに思えてくるので、そうならないようにしたいところだ。とは言え、やはり決まった時間帯に目が覚める日が続くと、どこか身体の調子も良いような気がする。あとは寝る時間をできるだけ早く、毎日同じくらいにしていくことだなあ。
 ああいう、睡眠を軽んじる大人がひとりでも減りますように。

2017/02/06 月

 妻の誕生日である。何日か前に郵便局限定のドラえもん食器を誕生日に買っていいかと言うので、承諾して、それで一応誕生日プレゼントは済んでしまい、妻も別にこれ以上ケーキやなんやは面倒だろうから要らないと言って、出勤していってしまった。しかしさすがになにもしないわけにもいかないよなあ。どうしようかなあと思いながら、ぼくも打ち合わせのため都心に出て行った。
 帰りにケーキやちょっとしたお菓子を買って行って、帰ってから多少なにか飾りでも作ろうか、と考えていたら、妻から体調が悪いから早退するというメッセージが。ああ、前にもこういうことがあった気がする。あれは確か、そう、同棲を始めた年のクリスマスだった。妻が仕事から帰ってくるまでにチキンを用意して飾り付けをして、くたびれて帰ってきたところを出迎えようと、きゅうに張り切って準備をしていたら、突然昼間に帰ってきたのだ。そのときは帰ってくるなりすぐ布団に入って寝てしまったから、その間に大急ぎでいろいろやったのだが、まあ、帰宅したら部屋が暗くて……みたいなサプライズはできなかったよね。どうもぼくが張り切ってそういうことを計画すると彼女は早退してくるようになっているらしい。案の定この日もケーキやお菓子を選んでぐずぐずやっている間に妻のほうが先に帰宅してしまった。
 ケーキを抱えて帰ってくると、妻はやはり寝ていた。寝床から玄関や台所まわりが見えるようになっているので、ぼくが帰るとふと目を開けた妻が当然ケーキの箱を見ることになった。でも無反応。彼女はどうも寝ている間に突然目を開けて、一瞬目覚めたかのようになるもまた目を閉じて眠る、ということをよくする。目が開いても頭が起きていないのだろうけれど(眠る時に目が閉じ切らず、薄く白目が覗いてしまう体質と関係あるのだろうか)、そのときもそんな感じ。しめた、これは気づいていないかもしれないぞ。ケーキを冷蔵庫に詰めて(こんなの開けたら一発でバレる)、さあ、飾り付けや手紙でも書くのかと思いきや、ぼくもくたびれたので買ってきたパンを食べてだらだら過ごした。
 起きてきた妻が、不思議そうにして、「もしかしてケーキ買ってこなかった?」と聞くので、「いや?だって要らないと言っていたじゃん」とわざとできるだけ素っ気なく答えると、「なんか大きな袋を持ってるのを見た気がしたんだけどなあ」とどうやら寝ぼけ眼で見たものをなんとなく覚えていたらしいので、「買ってきてないよ。夢でも見ていたんじゃ?」と冷たく言ったら、「そうか」ととても寂しそうな顔をする。要らないと言っていたくせに。これでぼくが本当に買ってきてなかったら、どうせ気が利かないやつだと思われるのだろうなあ。でも、気は利くのである。買ってきてあるのだから。
「冷蔵庫を見てみな!」
 ぼくはあまりずっと隠しておくことができないたちなので、言った。妻は顔を輝かせて黒いモノリスのような冷蔵庫を開けて中を覗き、おほうむふふと笑うのだった。

2017/02/07 火

 この日も早起きできたのでふたりでランチを食べに行くことにした。最初は朝食を外で食べようと話していたのだが、話しているうちに昼間になった。途中で古本を漁った。すると、なんと『スター・ウォーズ』第1作の小説版、それも日本公開年の1978年、昭和53年初版の角川文庫版が出てきた。カバーは一作目のポスター、タイトルはまだシリーズ化する前なのでただの「スター・ウォーズ」(ただし、「ルーク・スカイウォーカーの冒険より」という記述がある)、カバーの袖にはスチール写真によるキャラクター紹介、そしてページ内にはモノクロの劇中写真が挿絵として入っている豪華さ。こんな文庫が当時は380円だったとはなあ。
 著者はジョージ・ルーカスとあるが、これはぼくの記憶と通説が正しければ、アラン・ディーン・フォスターというSF作家がゴーストで書いていたはず。フォスターはシリーズ初のスピンオフ小説である「侵略の惑星」の著者で、EP7『フォースの覚醒』のノベライズも彼が書いていた。
 第一作目のノベライズというだけあって、後年のノベライズやスピンオフ小説のように固有名詞がばんばん飛び交うということはなく、初めて銀河世界に触れる観客・読者を前提にしているので言葉や説明が丁寧である。なにより印象的なのは、「ストームトルーパー」や「サンドクローラー」というような用語をカタカナに変換するだけでなく、それぞれ「機動歩兵」「砂上車」というように日本語にあてて訳しているところ。これだけで今読むととても丁寧に思える。機動歩兵の装甲兜。巡航宇宙艦。このほうがどこか古めかしさがあってSWっぽいくらいだ。もちろんなんでもかんでも漢字をあてられているわけではないけれど、ところどころこういう言葉があるのを見ると、とても新鮮。
 物語上も、一作目の当初の世界観、シリーズ化される前でまだ広さや奥行きが描かれず、それゆえに想像力をかき立てられる、ある意味無垢な雰囲気があって楽しい。初めてこの世界に触れたひとの気持ちを追体験できるようだ。まだこの時点では帝国とそれに抵抗する共和主義者の戦争、くらいの世界観でしかないのだ。映画版のEP4そのものにおいてよりも、「共和国」の存在に焦点が当てられていたり、早くも「シスの暗黒卿」や「スカヴェンジャー(掃除屋)」といった言葉が出てくるあたり、一番最初のこの物語に、後のシリーズに登場する要素がたくさん詰まっているかのようだ。一作目にしてシリーズを包括しているとすら言える。そうして、よく知っている物語のはずなのに、細部が少しずつ違うこの小説を読むことで、ちょっと違うSWが見えてくるようで楽しい。お馴染みの映画とどこが異なるか、わずかな設定や用語、訳の違いなどメモにまとめたい。

2017年2月12日

映画『ナイスガイズ!』PRイラスト

ラッセル・クロウ&ライアン・ゴズリング主演、シェーン・ブラック監督作『ナイスガイズ!』に応援イラストを寄せています。
https://twitter.com/niceguys_movie/status/829265379100864514

ネオン、アメ車、ポルノに彩られた70年代を舞台に、いまひとつ冴えない探偵コンビが陰謀に巻き込まれるドタバタバディものです。
2月18日土曜日公開。
公式サイト

asta 2017年3月号


 ポプラ社「asta」最新号では山内マリコさんの「あのこは貴族」(集英社)を紹介しています。ローカル少女の物語を書かれてきた山内さんの新作は、東京出身女子が主人公。帝都の上流階級に属し何不自由なく生きてきた彼女が出会ったのは、地方生まれの「都会の女」だった……。東京が地元ってどういうことなのか、都会と地方の境界が曖昧になり、その本質が姿を現します。普段疑問に思ってもなかなか言語化できずもやもやすることに、明快な言葉で答えをくれるのが山内作品の魅力のひとつ。装丁の影響でソフィア・コッポラのあの映画が観たくなる……。