2017年12月31日

今年できたこと

 ひとつ前の記事で年間記事数が過去最高の100件になった。できるだけ文章を書こうと意識はしていたからだと思う。もっと書きたい。今年はブログが前より楽しくなったと思う。文章を書く楽しさも倍増した気がする。

 あと今年できたことと言えば、漫画を描いたことか。そしてそれが一応賞をもらえたこと。文章を書きたいという気持ちが強くなった上に、漫画形式で作品を描けるようになったというこれは、おそらく創作をせよということなのだろうなあ。来年はなにか形にしたい。できる範囲で。

 本を読む量も少し増えたような気がする。文章を多く書くということは、多く読むというスキルにも繋がってくるのかもしれない。また読書レビューをたくさん書こう。 漫画にせよレビューにせよ、絵と文章は両立させていきたい。このふたつは切り離せない。

 森見登美彦先生の本の装画を描くという、学生時代からのひとつの目標も現実となった。あの頃ぼんやりと思い描いていたヴィジョンの、一歩先へ来てしまったんだなあと思ったりもする。やはり本や文章との関わりが強い年だったのだと思う。

 それから車。まだ筆記試験が残ってるけれど、とりあえず4月から通い出した教習所を卒業した。初めてアクセルを踏んで車体を動かしたときは本当におっかなびっくりで、こんなのは無理だと思ったけれど、ずいぶんやれるようになった。頭や筋肉を今までと違うふうに動かしたのが新鮮だった。いまだに自分で路上を走ったということが信じられない。まあ、自分で稼いだお金で教習所行けたというのも結構びっくりなのだけれど。まだまだ全然新しいことは覚えられる。

 あとなんかあったっけ。いや、かなり大きな出来事はいくつかあったのだけれど、まだ書くことができないことばかりなので、また時期が来たら書くことにする。なんでもかんでも無闇にインターネットに書かないというある種の成長はあったような気がする。もともとそんなになんでもさらけ出す方ではなかったけれど。
 そんなところかな。

雑記(4)

「ストームトルーパーのポップコーンバケツ」

 『最後のジェダイ』には大いに楽しませてもらった。一週間が経ってからは少し落ち着いてきてようやく批判的な意見にもそれなりに目を通せるようになり、なるほどそういう欠点もあるなと多少は共鳴できるようになった。しかし劇場で最初に味わったあの興奮は今でも如実に思い出せるし、ぼくとしては大満足で大好きな作品であることには変わりない。
  ただひとつ残念だったこと、というより悔しいことがあるとすればそれは、上映開始前にポップコーンとドリンクが買えなかったこと。もちろん毎週のように試写会に通っている身からすればもはや2時間かそこいら飲食できなくとも全く苦ではないのだけれど(個人的には飲食物よりも肩と首回り用のクッションのほうが欲しい)、それでもSWである。それも今作はシリーズ最長の本編で、ポップコーンの容器がストームトルーパーのヘルメットだったのだ。あれはなんとしてもペン立てかなにかに使いたかった。
  しかし、例によって売店の前にはとんでもない行列ができていた。上映開始10分前から並んでも全く列が動く気配がない。前方を見てもカウンターの中の店員が急ぐ様子も全然ない。彼らからすればいつも通りの金曜午後3時である。いつも通りの仕事してるだけっすから、みたいな感じである。これは劇場に限らずトイザらスとかロフトとか、SWとタイアップするお店全般に言えることだけれど、興味のない従業員からしたらオタクが殺到してきて本当にうんざりすることだろう。
  上映開始3分前になっても列は進まない。でもみんな全然慌てる様子がない。どうせしばらくはCMと予告が続くのがわかっているからだろうけれど、それがどのくらい続くかはいまひとつわからないし、照明が落ちてしまったあとでは席に行くのも大変だ。とにかくそういう慌てる状況というのにぼくは弱いので、なんとしても避けたい。
  とうとう上映開始時刻になったが、依然として誰も動かない。カウンターでは明らかにこの行列を予期していなさそうな数の店員(おそらく前の晩の先行上映にはたくさんいたのだろうなあ)が気だるそうにやっている。こりゃ無理だ。ぼくは諦めてスクリーンに向かう。
  案の定テレビでやっているようなCMをしばらく大スクリーンで見せられることになったけれど、2時間飲食無しでもなんら問題がなかったどころか、ものすごい集中力が発揮された。


「よくない」

 フェイスブックに愛想を尽かした。
  とは言えインスタグラムを始めたときからその更新をフェイスブックに同期していたので、ほとんどフェイスブックを直接更新することはなくなっていた。更新するものは少ない方がいい。本当ならツイッターにもインスタグラムを同期したいところだけれど、画像は表示されないし、字数制限が違い、明らかに同期のされ方がおかしいので、別々に画像をアップしている。このあたりの使い勝手は悪くなる一方で、たまに全てをやめたくなる。
  それで、兼ねてより苛立つことの多かったフェイスブックはもう放っておくことにした。メッセンジャーだけは時折届くことがあるので気にするけれど(とは言えあんな人によって使っているかどうか微妙なものを使っていて当たり前という感じで送ってこられ、気づかずにいたら無視するなと怒られるのはなんとも釈然としない)、そのほかは覗いていない。
  まず実名利用による生々しさに耐えられない。どのアカウントも実名で、実名で活動しているぼくが言うのもおかしいが。とにかくハンドルネームでない本名と顔写真が羅列している様子に耐えられなくなった。ハンドルネームで適当なアイコンのひとたちがやいのやいの言うツイッターにも疲れるというのに、本名!顔写真!おれ!わたし!みたいな感じで言いたいことを言っている空間が楽しいわけがない。匿名ならギリギリ許せる(許せないことも多いが)言動を本名顔写真でやられると、そういうひとがこの世に実在するという感じがすごくて辛い。生々しい。ぼくはインターネットを実生活の延長と見なしてはいるけれど、それは言わば図書館に行ったりするのと同じことで、図書館でゆっくりしたいときに見聞きしたくないものというのはあるのだ。図書館には図書館ならではの快適さを求めたい。同じようにインターネットにも独自の快適さが欲しい。


「クリスマス休暇」

 クリスマスは妻の実家に泊まりに行った。諸事情あって犬を預けているので彼にも会いたかったし。なんと言っても妻の部屋のベッドの寝心地が素晴らしい。よくもまあひとの家でぐうすか寝られるものだと妻から言われるわけだが、ぼくは全く気にならないから大丈夫。ぼくが気にならないからいいというわけでは絶対ないと思うが、しかし妻もまたぼくの実家で遠慮なく寝られるのだからお互い様だろう。
 妻と初めてぼくの実家を訪ねた際には、夏の昼下がり、妻が居間のソファで居眠りし、ぼくがテーブルのところでうたたねし、父が床で昼寝、そこへ帰宅した母がみんな寝てしまっているのを発見するという有様だった。世の夫婦の、互い実家との付き合いの面倒臭そうな話を思えば屈託がなく楽である。しきたり、気遣い、配慮……大変だなあと思う。
 久しぶりに犬の散歩に行ったが、思えばこの冬はこれが初めてだった。だから早朝、犬のうんちから立ち昇る湯気を見て「あったかそうだなあ」と思ったりするのもこの冬初めてのことだった。今やぼくの冬の風物詩である。
 よく眠り、チキンとケーキをご馳走になった。昨年に引き続きレゴのアドベント・カレンダーを開けるのは楽しかったし、クリスマスの絵はあまり描けなかったものの、エッセイ以上小説未満、なんと呼んでいいかはわからないがクリスマスを題材に文章も書けた。


「無駄な労力」

 『最後のジェダイ』はその実験的な作風から、あまりよく思わないひとも多いらしい。決してわからなくはないが、彼らの気に入らない部分というのは、ぼくなどからすればそこが魅力だろうという点ばかりなので、結局は前提となる実験そのものを受け入れられるかどうかだろう。
 いずれにせよSWに限らず、映画を否定や肯定といった言葉で断じたくはない。一体どんな立場から否定し、肯定するというのだろう。この言葉はあまりに強すぎるし、極端だ。ここがおもしろかった、でもあそこはいまひとつだったかも、くらいのバランスを、どうして持てないのだろう。
 気づけば素直な感想ではなく、お互いへの反論を考えてしまっているような気がする。独白であるはずのツイートも誰かへの反論と化し、それを読んだ誰かも、直接自分に宛てられたものではないが、自分の考えを否定されたような気分になり、また反論を書く(これはなにも映画の感想だけに限った現象ではない)。なにか言いたくなったときに言えてしまう世の中だから仕方がない。
 だから別に、知らないひとがなにをどう受け取ろうが知ったことではないが、身近なひとたちと意見が食い違うときには、ぼくも少しなにかを説こうとしてしまう。あの映画のいいところはこうこうこういうところで……。しかし、途中で気づく。気に入らないと言っているひとにわざわざ一生懸命良さを伝えようとしなくても別にいいと。だんだん馬鹿らしくなる。そんなことに頭を使わなくていい。そんなことをするのなら、そのエネルギーを感想を共有できる相手との会話に使ったほうが全然いい。別にそれは閉鎖空間で循環参照を繰り返すだけというわけでは決してない。作品を気に入った者同士と言ってもその気に入り方もまた人それぞれであり、共感できるところもあれば、ひとに言われて初めて気付ける魅力がある。そうして考察を深めていくのだ。
 それに気に入らないと言うひとは、はなから良いところを見ようともしないので、舌足らずなぼくがなにを言おうと響くわけがない。彼らは不満を漏らしたいだけだ。会話をしたいわけではない。そうでなければ、ひとが好きだと言っている作品についてそのひとの前で延々と悪口は言わないだろう。真面目に取り合わなくていいのだとわかった瞬間に肩が楽になった。


「教習所卒業」

 卒業してしまった。すんなりと。仮免検定の際に緊張のあまりヘマをやらかしてしまったので(坂道で発進不能4回以上)今回もあまりうまくいかないだろうと、落ちて当たり前だろうと思って挑んだら、案外うまくいってしまった。満点というわけではなかったし、だいぶ優しくされた印象があるけれど、なかなかうまくできたと思う。
 なんといっても教官がリラックスできる相手でよかった。教習でも一度当たったのことのある、物腰の柔らかい垢抜けた感じの男性である。いつぞやのジョージ・タケイみたいなおじさんではない。ひとつひとつの言葉が丁寧で、このひとのおかげでぼくはようやくアクセルの踏み加減がうまく調節できるようになったのだった。物腰が柔らかいだけでなく、どこか冷めた印象があるのもバランスがいい。そして極め付けは「あたし」という一人称である。それもすごく自然な感じの。本物の都会人の匂いがする。
 年内に卒業できて本当によかった。気持ちよく年が越せる。まだ筆記試験が残っているので免許を取ったわけではないが、少なくとも教習期限を気にして生活しなくていいのだ。4月からずっとスケジュールに影を落としていたものが綺麗に無くなったのだ。


「LINEに行く」

 LINEに行った。と言うとおかしいが、LINEのオフィスにお邪魔した。例の「LINEマンガ STAR WARS インディーズアワード」のノミネート賞の賞品を受け取るため招かれた。この場を借りて報告すると、ノミネート賞という結果だった。もちろんそれだけでも十分な成果だと思う。なんといっても初めて描いた漫画形式の作品でそういう評価をもらえたのはうれしい。普段の作品にも変化が現れるかもしれない。というか、コマ割りされた形式のものをどんどん描きたくなった。絵が描けて、物語を創作したいという意欲があるのならどんどんやるべきだろう。グラフィック・ノベルとかをやりたい。
 

 エントランスにどんと鎮座する巨大なLINE熊にニコニコな26歳。社内のいたるところにキャラクターがいて楽しかった。

営業報告



 少し遅くなりましたが、SPUR最新号ではなんといってもこの映画、『スター・ウォーズ:最後のジェダイ』を紹介しております。観る前に描いたので(レビューの連載でそんなことが許されるとは……)内容ではなくキャラクターへのフォーカスです。とは言え、結果的に公開された映画の内容に合うものになったと思います。キャラクターを描き、掘り下げることに重点を置いた作品でもあったので。
 個人的に注目する三人の女性キャラクターを取り上げていますが、三人目は誌上にて(写真だと頭がちょっと見えてるね)。三人とも活躍して本当に良かった。





 「美術手帖」2018年1月号のバイオ・アート特集では、「バイオ・アートの基礎講座」に多数カットを描きました。歴史やその先駆者たち、用語解説などがまとめられたページなので、非常に勉強になります。

2017年12月27日

「あなたを選んでくれるもの」感想


 なにかに取り組まなければと思いながらも、気付けばインターネットを巡回して時間が経ってしまっているというのは誰にでもあるんだなあと、安心してはいられない。勇気ある著者のように、自分なりの打開策を、対処法を考えなければならない。
 黄昏を迎えつつある広告冊子を通して、彼女が出会う人々のキャラクターの濃さは、現実の濃密さそのもの。寂しげなひと、ちょっとヤバいひと、孤独なひと、やっぱりヤバいひと。みんなどこかかわいらしい。その濃厚さが行き詰まった創作に刺激を与え、突破口のようなものを開いていく様子がすごく熱い。
 ウシガエルのオタマジャクシを育てる高校生(当時)はぼくと年が変わらないので、特に共感を覚えた。彼だけでなく、ここに登場した人々は今はどうしているのだろうと、想像が膨らむ。
 家で仕事をしていると、今日はなにも成果が出なかった、という悲観的な感想とともに深夜を迎えることは多く、時間に追い詰められている気さえしてくる。時間がない、時間がない、時間がない。もちろんそんな、ただ単に有意義を求めるだけのぼくの強迫観念と、ジュライの時間に対する切実さは比べ物にならないかもしれないけれど、それについて考え、なんとかしようとする彼女の姿には励まされる。
 時間さえあればもっとできたかもしれないのにとか、本当はもっとできるはずなのにとか思わなくていいのだとわかったとき、少し楽になれた。いや、本当に洗われる気分だった。   
写真もとても綺麗。出会った人々やその自宅、アイテムの数々が、飾らないそのままの生活感とともに切り取られている。それでいて色合いがとても良い。インターネットを使わない人々の、決してひとに見せるようには整えていないであろうその暮らしぶりが、そのままで画になる。もちろん撮ったひとのセンスと技量あってこそだと思うけれど、現実そのもののかっこよさみたいなものが感じられる。

2017年12月25日

イヴの夜の物音




 クリスマスのローストチキンに憧れていた。
  シャーロック・ホームズの短編でもお馴染みのようにヨーロッパではガチョウだし、合衆国では七面鳥なのだろうけれど、この際本場ではどうこうは関係ない。そもそもクリスマスの本場がどこかという話をはじめると僕の手には負えなくなる。ともかく自分の暮らす地域に馴染んだクリスマスとして、ローストチキンだ。
  クリスマスの魅力のひとつは、なんといっても冬の外の寒さと、家の中の暖かさとのコントラストにある。外が寒ければ寒いほど、家の中が暖かければ暖かいほど、幸せな感じが増すと思う。冬至の寒さの中、年末という、一年を一日としたときの「夜」を暖かく過ごしながら、その一年に想いを馳せるのが僕の思うクリスマスだ。
  家の中、食卓で暖かさと幸福感、そして豊かさを象徴するのが、鳥の丸焼きだ。鶏でも七面鳥でもガチョウでも、鳥の丸焼きのあの色合いやフォルムが食卓に幸福感をもたらす。いろいろあって大変な一年だったとしても、それさえ食卓に並べば一応は豊かな生活だと思える。
  妻と暮らし始めた最初の年のクリスマスを控えたある日、近所のスーパーで鶏がローストチキン用に丸々一羽売られているのを見てうれしくなり、買って帰った。インターネットで適当にレシピを調べ、リンゴとタマネギを炒めて中に詰めるベラルーシ風というのをやってみた。ベラルーシってどこだっけ。響きがベラ・ルゴシっぽいから東欧かどこかだろう。いや、ルゴシはハンガリーのひとだっけ。
  特別美味しくできたような印象はないけれど、鶏の丸焼きを食べられたということで満足だった。ともかくイヴにローストチキンを丸ごと食べるという夢はかなった。クリスマスのディナーはイヴの晩に食べるものなのか、25日当日の晩に食べるものなのかはよくわからないけれど。
  次の年、またローストチキンを食べようと思うも、ことに当たるのが遅かったせいか近所ではどこも売り切れていた。被害妄想が激しいのでなにかの嫌がらせかと思ったくらい途方に暮れてしまった。
  その次の年、今度は妻が最初のものよりも大きなチキンを買ってきてくれた。丸々としていて、頭のない、羽をむしられたボツボツの鳥肌を見て心が踊った。
  バターで炒めたお米が鶏のお腹の中に詰めこまれ、首の根元とお尻の穴がタコ糸と爪楊枝でもって閉じられた。鶏の周りにはタマネギとジャガイモとニンジンが添えられた。妻がやったほうが凝ったものになる。思えば僕のベラルーシ風はかなり簡単だった。
  最初の年もそうだったけれど、当然痩せ型のふたりでは食べきれず、少し食べてもういっぱいだった。残りはまた明日にしよう。しばらくこれだけ食べていられるくらいだろうと、愚かにもそのときは思った。
  1メートル足らずのツリーの電飾を点けっ放しにしたまま、ぼくら夫婦は寝床に入った。暗闇の中で暖色の電飾が一定のリズムで点滅し、あたりがうっすらオレンジ色に照らされる。そのそばに食卓があり、その上にはラップをかけられた食べかけのチキンの大皿が載っていた。この頃暮らしていた部屋はずいぶん小さく間取りが奇妙だったので、ベッドに寝ながらその様子が見えた。
  もちろん北極の良い子リストに載るような良い子ではないので、そんなすぐに眠りに落ちたりはしないけれど、それでもだんだん意識が暗闇の中にゆっくり沈んでいきそうになった頃、ふとゴンゴンという鈍い物音が聞こえた。
  どこか外ではない。その部屋はすぐ外側でのひとの出入りが激しく、同じ建物の住人であれ、前の通りを行き交うひとであれ、その気配は察知できるが、この音はそうではない。もっと近く、部屋の中から聞こえる。
  それはだんだん、コツンコツンという軽い感じのする音に変わっていた。
  白いファーの縁がついた真っ赤な毛皮の服を、黒い極太のベルトで締めた白ひげのファーザー・クリスマスのことを連想するほどには、素直さを忘れてしまったぼくだったけれど、その奇妙な音はイヴの真夜中に不思議に響いた。横では妻がすでに寝息を立てている。彼女は本当にすぐ眠ってしまう。そのくせなにかの拍子に突然眼をぎんと開き、大きく見開いたり瞬きしたりしてまた眠ったりするからびっくりする。眠りながら眼を開いて反応を示す現象にはなにか名前があるのだろうか。とにかくこの物音には全く気づいていないようだ。やすらかな寝顔はとても石炭などもらいそうにない。
  ツリーの電飾に照らされている中で、影らしきものが動いた。我が家で動くものといえばなんだろう。もちろん最初に物音がしたときから、ぼくはこのことを考えている。この小さな家でふたりの人間以外に動くもの、生きているもの。
  がばっと上体を起こして、掛け布団が弾かれる。このような冬場では一度布団に入れば翌日の午後まで起きる気が起きないけれど、このときは身体のどこか、頭のどこかが無理矢理それを促した。大急ぎでベッドから飛び出し、ツリーの灯りの方へ向かう。寝床から食卓が見える部屋だ、大股で数歩行けばたどり着く。
   暖色の灯りの中で、決して小さいとは言えない黒々とした影が、ソファの上から食卓の上へと覆いかぶさっていた。僕は大声を上げる。そいつの名前を呼ぶ。呼ぶというか、ほとんど怒鳴った。
  大した真相ではない。誰でも読めることだ。我が家の愛犬が食卓のローストチキンの皿を懸命につついていたのだ。ソファの上から、短い脚を精一杯伸ばして無我夢中。かけてあったラップがめくり上がり(どうやった?)、鶏の手前に添えてあった野菜がきれいに消えている。ジャガイモもニンジンも、犬が食べてはいけないと言われているタマネギまでもが、跡形もなく無くなっていた。手前の野菜を片付けて、さあチキンに取り掛かろうとしたところで、僕が駆けつけたというわけらしい。
  ゴンゴン、コツンコツンという音はサンタ・クロースのブーツやベルトの金具、赤と白のストライプのキャンディ・ステッキの立てた音ではない。犬が夢中になるあまり、その突き出た鼻面で皿をぐんぐん押していたのだ。彼はだから、どんどんソファから身を乗り出してとんでもない姿勢になっていた。
  僕の声で動きを止めたり、いたずらがバレて決まり悪そうになるわけでもなく、むしろ見つかってしまったから捕まるまでに少しでも多くチキンを食らおうと躍起になった。皿を遠ざけて犬の腹に手を入れてひょいと持ち上げる。実際はひょいというほど軽くない。
  思えばこいつは鶏肉が大好きだった。それは別に散歩中に鳩や雀を脅かして追っ払うのが大好きなのとは関係ないところで好きだった。先ほどまで僕たちが食事をしているのがさぞ気に入らなかったことだろう。せっかくチャンスがあったのに野菜しか食べられずふてくされた顔だった。チェッ、見つかっちまったか。
  チキンのラップをかけ直し、犬の届かないであろう場所に置いて、今度はちゃんと犬を連れてベッドに入る。妻は騒ぎで目を覚ましており、すごい剣幕で犬に起こったけれど、やがてコーギーは夫婦の間にすっぽりおさまり、ふたりと一匹は眠りについた。 
  その後三日ほどかけてチキンをたいらげようとしたけれど、途中で中のお米が傷んでしまった。


2017年12月21日

『スター・ウォーズ:最後のジェダイ』(2017)


 いやはや、この年末は妙に忙しく12月15日もその日締め切りの仕事に前の晩から取り組んでおり、早朝にそれらを送り出してから一旦眠り、午後になって飛び起きて映画館に向かったわけで、非常に頭がぼんやりとくたびれていたのだけれど、そんなところにこんなとんでもないレーザー・ビームのような映画を見せつけられては、もはやぼくの脳みそは処理が追いつかない。
 だから、鑑賞間もない今はまだ自然と感想もとりとめのないものになってしまうかもしれない。実際、観た直後にノートにめちゃくちゃに書き散らしたものを今参考にしようとしても、ほとんどなにを言いたいのかわからない感じである。ただ、すごい興奮していることが伝わってくる。

 とにかく胸がいっぱいだった。これまでで最もフラットな気持ちで観ることができたSWでもある。事前の考察を全くしなかったわけではないけれど、それでも積極的に予告編でわかる以上のことを調べようとはしなかった。と言うのも、前作の『フォースの覚醒』の際にあまりにも調べ、考えすぎたからである。
 そのおかげか、全く予想のつかないストーリーを大いに堪能できた。金曜日に観て、帰宅してから前述のようにノートをとり、あまりインターネットを見ることもせず、自分の中だけで感動を増幅させていった。土曜、日曜もまだ余韻が残っており、思い返してはうれしくなってため息をつき、始終ニヤついていたので妻から大変気味悪がられた。
 未知のSWを観ることがこれほどまでに楽しいのかと、驚き、感動した。これもことあるごとに言っていることだけれど、オリジナル三部作の前日譚であるプリクエル三部作世代のぼくにとって、先のわからないSWを観られることはこの上なくうれしい。だって、先がわからないのだから。

 なにより情報量が多い。キャラクターが多い。展開がめまぐるしい。スピードがある。それでいて全く収拾がつかなくなるということはない。
 新しい『帝国の逆襲』として観ることはできるし(もっと言えば『ジェダイの帰還』要素も強い)、同じシリーズとして他エピソードと通じる部分も少なくないけれど、そこまでテンプレートに沿うこともなく、全く新しいストーリーを見せてくれたと思う。SWにおいては新しい演出、美しい画作り、シリアスの中にほどよく挟まれるユーモア、ダークさとポップさ……物語として非常にバランスが取られている。

 バランス。それは本作のテーマでもある。光と闇、善と悪の境界が曖昧になり、絶対的な正義として信じられてきたジェダイさえ過去の遺物であることが示される。光があたるぶん闇も深くなるというルークの言葉はとても印象的だ。まるでその言葉が言い表すように、レイとカイロ・レンは拮抗する。そうしてレイは闇に、カイロ・レンは光への誘いに心を揺さぶられ、いつしかふたりの間に奇妙な絆が出来上がる。

 ふたりが交信をするときの演出もおもしろい。その場に互いの姿が見え、互いの感触が伝わり、互いがいる環境さえ伝わってくる(雨が降る中にいたレイと交信した際に、宇宙船の中にいたカイロ・レンの顔が濡れるのだ)。表裏一体のふたり。ふたりの関係は非常に興味深い。
 山場である共闘もとても熱いけれど、最終的にカイロ・レンはファースト・オーダーの新たなリーダーになることを選ぶ。かつてダース・ヴェイダーが皇帝を倒して自分が支配者になろうとしていたことを考えると、ようやく祖父に代わってそれを成し遂げたかのように見える。その点では彼はかの暗黒卿を超えたわけだ。もちろん、レイはそんな彼にもう手を差し伸べることはなく、拒絶する。カイロ・レンからの交信を遮断するレイの心境が、ミレニアム・ファルコンのタラップが閉じられることで表現されているのもとてもよかった。それは父親の船からの拒絶でもあるのだ。
 
 レイの出自が明らかになることで、このふたりの間にはもうひとつの構図が生まれる。特別でない者と特別な者だ。一方は名もない貧しい人々から生まれた孤児であり、もう一方は空を歩む選ばれし血筋を引く。前者は愛されず、後者はきっと多くの期待を背負って育ったはず。しかし、今では逆だ。どこの馬の骨とも知れないレイが愛と期待を受け、伝説のスカイウォーカーの血を引くベン・ソロ——カイロ・レンは深い闇に落ちた。
 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』で、主人公の父親が実はとんでもない化け物で、育ての親の方が本物よりも親らしかった、という展開が非常に魅力的だった。SWに代表される血統主義的な物語に対するカウンターのようでとても今っぽく感じられた。これを先にやられては、もうレイの出自が結局ルークの子供だとか、そんなんじゃ絶対ダメだと思った。他の物語がどんどん新しさを得ていく中で、まだSWは血統の物語にこだわってしまうのかと。確かにSWのサーガは同時にスカイウォーカーのサーガでもある。しかし、それだけではない。それだけではいけない。もっともっと物語に広がって欲しい。
 そもそもぼく個人はあまりSWを血筋の物語というふうには捉えていない。そこにあまり還元したくない。まずルーク・スカイウォーカーという主人公がいて、それからその父親の物語を明らかにしていった、というだけであって、別に家系図を追っているわけではなかろう。正直、たった親子二代で血筋もくそもあるかと思う。
 果たして、新しいSWは血統の呪縛から離れた。もちろんスカイウォーカーの物語もまだ続いている。今回のスカイウォーカーは闇に落ちたベン・ソロだ。そして彼に対抗するのが、特別でない人々、名もなき人々代表、レイ。もしかすると今後、レイがベン・ソロを救うという展開があるのではないだろうか。だって、そうすれば特別でない人々がスカイウォーカーを救ったことになる。これまでのお返しのように。そうだったらとても優しく、美しいと思う。

 フォースはジェダイのものではない、というルークの言葉は同時に、フォースはスカイウォーカーのものではないと言っているようにも思える。それに呼応するかのように、本作のラストではリゾート都市で働かされていた少年が、なんとフォース感知者であることが示される。ルークの「最後のジェダイは私ではない」という言葉は、まだレイがいるということを指しているのと同時に、まだ銀河のいたるところにフォースに目覚め、可能性を秘めた人々が大勢いるであろうことを示唆しているようにも思えてならない。スカイウォーカーだけがフォースの申し子でないのだ。


 だからこそ、全ての人々がフォースとともにあると言える。そう思うと、本作に登場する大勢のキャラクターたちがより魅力的に思えてくる。フォースやジェダイとはなんら関係のない人々。ときに悪の側につき、ときに正しい道を歩んでいる勇気ある人々。
 前作から登場したキャラクターたちの拾い方が見事だった。特にマズ・カナタ。ここぞというところで登場し、しかもそれなりに戦闘スキルがあることがわかって熱い。あのゴーグルにはあんなスキャン機能があったのか。そしてジェットパック。ジェットパックだよ?前作ではヨーダとジャバ・ザ・ハットの要素を兼ね備えているように思えたが、なんとボバ・フェット要素まで持っていたとは。急に気に入ってしまった。

 もちろんキャプテン・ファズマが大好きなぼくとしては、彼女のリベンジが実現したのもとてもうれしい。憎きFN-2187への執念が伝わってくる。それはもう一筋縄ではいかない複雑な感情のはずだ。かつて自分が訓練した部下の脱走は彼女にとって大変な屈辱であろう。フィンを倒すことは自分の失敗の後始末をすることでもある。だからこそより一層執念深くなる。

 フィンの攻撃で片目のレンズが砕け、演じるグウェンドリン・クリスティーの左目が覗くシーン。食いしばった歯の隙間から押し出したかのような声で「やはりお前はクズだ」と言い放つ。悔しさと憎しみが溢れる。彼女は確かに悪党だけれど、冷酷で残虐な悪党だけれど、信じていた部下に裏切られ、対決するも破れてしまった悔しさや苛立ちに全く共鳴できないわけではない。常にそのクローム・ドームに顔を隠し、およそ人間のように見えなかった彼女が、最後に一瞬だけ片目を覗かせて人間らしい苛立ちを見せ、奈落へと落下し炎に包まれる。最高である。キャプテン・ファズマよ、永遠なれ。

 それにしてもレーザーを弾いてしまうあの装甲、かっこよすぎる。あの立ち姿が素晴らしい。前から好きだったキャラクターを、より好きになれるのはとても幸せなことだ。というか、レーザーでも傷ひとつつけられない装甲服、炎の中でも耐久性があるのではないだろうか。もちろんそれなりに火傷を負うことにはなりそうだけれど(むき出しになった左目はもうダメだろう)、それでも一命は取りとめられるのではないか。大火傷からの生還だなんて、ほとんどダース・ヴェイダーじゃないか。まさか、あのクローム・ボディに機械の呼吸音を加えて復活するのでは、などという妄想が捗る。
 あの最後はとてもかっこいいので、あれでもういいと思うけれど、もちろん復活したらそれはそれで大歓迎である。ぼくはわりとなんでも大歓迎なのだ。

 ファズマとは違うタイプで、やはり同じくらい魅力的なのがハックス将軍である。本作ではよりキャラクターに磨きがかかっていたのではないだろうか(ファズマもピカピカに磨かれてはいたが)。
 若くて実戦経験が浅く、それでいて冷酷さや大言壮語は人一倍というキャラクターだからこそのあの憎めなさ。まさに頂点でない悪役、ミドル・ヴィランの魅力である。冒頭から本当におもしろかったなあ。一体ポー・ダメロンの言っていた彼の母親の話とはなんなのだろうか。それをレイアが知っているというのはどういうことだろうか。
 本作でかなりの比率でユーモアを受け持っていたのように思えるけれど、しかし、彼はスター・キラーのレーザー砲で共和国の惑星をいくつも滅ぼした張本人である。いかに未熟で小物然としていても、その冷酷さや狡猾さは油断できない。というか、だからこそ恐ろしいところもある。
 今回、それまで対等なライバル関係だったカイロ・レンと、ようやく明確な上下が出来たわけだけれど、ハックスが隙あらば新しいリーダーを出しぬこうとしているのはその表情から見て取れる。実際にスノークの謁見室で倒れていたカイロ・レンに対し若き将軍は銃を抜こうとしていたのだ。彼はこのままカイロ・レンの言いなりになるのか、どこかで彼を陥れようとするのか。レイとカイロ・レンの関係だけでなく、カイロ・レンとハックスの関係もまた興味深いものがある。

 ハックスの部下たちもまたいい味出している。ドレッドノートの艦長キャナディのふてぶでしさなどとてもいい。投下された爆弾によってドレッドノートが破壊されていく中、ブリッジに炎が達するときの「ふん!」というよう表情がたまらない。短い登場シーンだけれど、常にふてくされたような表情は、どこか未熟で若いハックス坊ちゃんの指揮下にいるのが不満げに見える。キャナディの部下たちもなんだかいい表情のひとたちばかりなんだよなあ。特にスコープを覗いている薄めの顔をしたアジア系のひとがかっこいい。

 アジア系といえばペイジとローズのティコ姉妹である。なにを隠そう前述のキャナディ艦長とそのドレッドノートを沈めたのは捨て身で爆弾を投下されたペイジである。演じるのはベトナム人女優のゴー・タイン・バン(英名:ヴェロニカ・グゥ)。そうそう、爆撃機の内部のディティールもよかったな。『博士の異常な愛情』を思い出した。ヴェロニカ・グゥは表情がとても凛々しく、アジア系ならではのエキゾチックさがSWと合っている。そして、その顔つきと薄汚れたフライトスーツなどの装備との組み合わせが、妙に戦争感を増しているように見えるのは、ぼくが同じアジア人だからかもしれない。
 ペイジの妹ローズを演じるケリー・マリー・トランも同じくベトナム系。パンフレットによると両親はベトナム戦争時にアメリカに渡った過去を持つらしい。そのバックグラウンドが戦火に巻き込まれたローズと重なる。ローズのキャラクターも素晴らしい。とにかく顔がチャーミングである。姉役のヴェロニカ・グゥとは全然違う顔つきだけれど、ローズはケリー・マリー・トランだったからこそあそこまで魅力的で立ったキャラになったのではないかと思う。

 キャラクターと言えば、ヨーダのことも忘れられない。
 なんと、『帝国の逆襲』の懐かしのパペットの姿でヨーダの霊体が登場するのだ。ジェダイの書物を燃やそうとするルークの背後に、その特徴的な後頭部が映った際には声を上げそうになったほどだ。ルークを見守る霊体の後ろ姿が映るだけで終わりかと思いきや、ルークとの会話まで始まった。その昔ながらのヨーダの姿に泣いた。
 ヨーダはルークに対しジェダイの書物を焼き払うよう促し、躊躇するルークをよそに雷を落として全てを燃やしてしまう。ヨーダはうれしそうに笑う。
「カビ臭い書物のことなど忘れてしまえ!」
 ああ、このケタケタと笑うヨーダこそヨーダという感じがするなあ。険しい顔で戦うヨーダも悪くはないが、やはりこれがオリジンだ(時系列ではこちらがあとだけれど)。
 ヨーダはジェダイの書物などよりもレイが重要だと諭し、ついにこのジェダイ・マスターまでも古から続いてきた概念を捨てたのには驚いた。ヨーダもフォースとの旅の中で変わったということか。いや、もしかしたらこの霊体のヨーダは、ルークが自分の意識と対話しているにすぎないのかもしれない。いずれにせよふたりの対話は懐かしいものを感じさせ、ヨーダの優しげな眼差しはついつい見ていて顔がほころんでしまう。

 なんか、本当にフォースの力とは関係を持たない普通の人々が続々と登場してきて楽しい。その一方でヨーダがジェダイの呪縛を解いたりするのだからおもしろい。
 確かに今までの神話感とは変わる。しかし、こうして物語のスタンダードが崩され、作り変えられると思うとわくわくするものがある。今までにない雰囲気に戸惑うひともいるだろうけれど、予想の範疇で作られてもおもしろくないだろうと思う。
 これまでのSWの、なんとなくあったルールを壊し、誰も思ってもみなかった形に再構築していくからといって、決して今までの神話が否定されるわけではない。むしろ今までの作品があるからこそ、こうして新しいことができるのだ。そうして、新しいものが古いものを際立たせもする。
 いずれにせよぼくは、オリジナル三部作の呪縛から解き放たれ、真の新しさを持ち始めたSWを応援したい。物語は、神話はそうして更新され、続いていくのだと思う。


 どのキャラクターも愛おしい。それは人物だけではなく、動物——クリーチャーたちも同様である。レイが目撃したルークの自給自足生活の一部始終ではタラ=サイレンの乳しぼりのほかにも、ルークが長い銛でもって大きな魚を仕留めるくだりもある。ルークがチューバッカと同じディナーを作ったことがあるかどうかはわからないけれど、あの島ではそういう自然の恵み的なものがかなり描かれる。SWではあまり描かれなかったことだ。タトゥーインの露天でなにやら生き物の肉がぶらさがってたりしたこともあるけれど、直接的に狩りや採取といった、命を得るという描写はなかったと思う。そこが新鮮だった。それにしてもチューイ、あそこまで調理したならちゃんと食べなよ。

 SWにはとにかくクリーチャーが多く登場するし、中でも騎乗用に使役されているやつはたくさん出てくる。デューバック、バンサ、トーントーン、イオピー、カドゥ、ファンバ、ドラゴン・マウント……本当にたくさん登場する。しかし、それらの動物はほとんど道具か背景くらいにしか使われない。ましてやそれらが虐げられたり、酷使されたりしている描写はない。しかし、描かれていないだけで普通にあり得ることだ。そこで本作ではようやくヒューマノイドの都合で酷使される動物が登場した。

 食べて、使役する。ここまでは獲物や家畜との関係である。しかし、酷使されていたファジアーを主人公たちが助け出したところからその関係は変わる。ファジアーを助け出すと同時に、ファジアーに乗って逃げ延びるのだ。助け、助けられたのだ。
 そうしてクライマックス。ミネラルの惑星クレイトで窮地に陥ったレジスタンスの戦士たちは、クリスタルの体毛を持つヴァルプテックスの導きによって脱出路を見出す。ここでも動物に助けられたと言える。また、クレイトの戦いに駆けつけたミレニアム・ファルコンの船内にはポーグが何羽も住み着いており、巣まで作っていた。操縦するチューバッカはもうポーグに手は出さない(船を荒らされてかなり頭に来てたようだけれど)。特に巣を作っていたのは印象的だ。だって、それはもう生息域が広がっているということであって、チューイによってローストチキンにされていたシーンとは真逆の意味を持っているのだから。
 こうして物語を通して、ひとと動物の関係が変わっていく。一方的に動物から得ていただけだったのが、最後には共生という関係に発展していくのである。共生。非常にフォース的で、SWにおける、いや、世界における理想である。
 全体的に暗く、試練の多い物語だけれど、ときにユーモアやポップさがあり、ときにこういう希望の種のようなものが散りばめられているところが、この作品の愛おしいところである。
 大好きな『スター・ウォーズ』となった。

2017年12月12日

吸血鬼のセルフィ

 普遍的かつ洗練された通信端末であるところのiPhoneを手にするまで、インスタグラムというアプリケーションに憧れがあった。小さな正方形の中に都合よく切り取った景色がおさまり、現実ではありえないがこうだったらいいなと思うような色合いに加工されている様が、ミニチュアの家の中を覗いているような感覚で素敵に思えた。今でも本来はそういうものだと思っている。まあ、そういうふうな写真を自分がアップできているかは微妙なところだけれど。

 で、なにが言いたいかと言えば、なんかすっかりユーザーの層が変わっちゃってるなということ。ぼくも初期の方のことを知っているわけでは全然ないのだけれど、それでも前述のようにiPhoneを使っていなかった頃はなんだか素敵そうなアプリだなと思っていたものだ。世の中で変な持ち上げ方、揶揄のされ方はしていなかったと思う。ぼくが知らなかっただけかもしれないけれど。

 利用者が増えればそれだけ人それぞれの使い方が出てくるので、それはもうこれが正しいとかこういうのが本来とかは言ってられないし言うべきでもないのだけれど、ともかく憧れていた頃のインスタグラムは今はもうない。インスタとかいう安い呼び方とともに消えた。

 イラストを描いているけれどインスタグラムにイラストを載せることにあまり積極的になれないのは、たぶん写真を載せるアプリだという印象が染み付いているからだろう。その名の通りインスタントカメラ的なアプリとして使うべきで、写真でもなければ加工もしていない画像や、ましてや長ったらしいブログ文章を載せるのもなんだか違う気がするし、売り物の写真を載せて通販的に利用するのも台無しだと思う。

 台無し。そう、近頃本当にどんどん台無しになっていく気がする。別にそこまでインスタグラムに思い入れがあったわけではないのだが、やはり憧れていたぶんなんとなく落胆する。

 タグ遊びも見ているこちらが恥ずかしくなるばかりである。思えばタグ遊びの起源みたいなものはピクシブとかニコニコ動画とか、投稿者以外のひとがタグを編集できるサービスにあったように思う。感想とも少し違うが、アップされている画像ないし動画への印象や構成要素について閲覧者がタグに追加していき、それが投稿者にとっても反応をもらえたということで楽しく、また後から見に来たひともその作品がどういうものかを理解するのに助けになったりした。いずれにせよ投稿者がひとりで意味のないタグを打ち続けるのは寒すぎるし、投稿者が自分で打っているのでいわゆる「タグ理解」(一見内容と全然関係なさそうなタグだが動画を観ていくと確かにそのタグが相応しい展開になったりしたときのコメント)などというコメントも成り立たない。ていうか、タグがなんのためにあるのかわかっているのだろうか。

 これはインスタグラムに限らずSNSにありがちなのだけれど、なんだかインターネットのエチケット的なものが完全に忘れ去られていて、わけのわからないノリのひとが多すぎて恐ろしい。使うひとが増えればいろいろなひとが現れるとはもちろん当然のことながら、なんというか、それ実生活でも失礼では?と言いたくなるひとがあまりにも多い。いや、そもそもぼくはインターネットはあくまでいち通信手段として実生活の延長にあるものとしてとらえているので、実生活とは別世界などという割り切りをしていないから、普通にわけのわからない絡み方をされるとひいてしまう。ネットのやつら、みたいな区別もあまりしていないので、ひどいひとがいると世の中にはこんなひとたちもいるのかと必要以上に憂鬱になったりしてしまうのだけれど。

 なんというかな、インターネット触り始めたばかりの中学生みたいなノリではしゃいでいる大人が多い気がする。もちろんどれくらいの年齢でそのひとがインターネットに触れるかなど知ったことではないし文句もないけれど、正直言うとみっともない。別に自分の世代を棚にあげようとは思わない。それでは平成生まれ相手に昭和時代のカルチャーを話題にあげて相手がそれについて知らないことにわざとらしく驚いて馬鹿にしてくるおじさんおばさんと同じになってしまう。

 インターネットの利用歴などひとそれぞれだし、そんなものはどんな道具でも同じである。何歳だろうと知らないものは知らないし慣れないものは慣れない。だから別に昨日今日インターネット始めましたということについてケチをつけるつもりはこれっぽっちもない。だからインターネット云々はもう関係ない。電子だろうと実生活だろうとなんとなく他人との距離感があると思うのだ。

 あと、定期的にやってくるツイッターうんざり感がまた今シーズンもやってきた。いやなんかね、作品発表やPRの場として非常に役に立っているのだけれど、いかんせんひとが多い。ひとが多いっていう不満もどうかと思うけれど。こちらからフォローしておいて失礼な話だけれど、なんか別に興味ない話が多い。ごめんなさい。ただ、全てを読むのはどだい無理だ。というかみんな別に全てを読んでいないだろうと思う。ぼくは道歩いてても目に入った文字列を読むくせがあるからなあ。口には出さないにせよ、読めるものは全部読んでしまっている気がする。もしもこれで語学に堪能だったら大変だった。600万語理解できたらとても生身はもたないだろう。生身じゃないからこそ600万語理解できるのだろうけれど(ちなみに『フォースの覚醒』の時点でのC-3POは700万語精通しているらしい。30年で100万語か。多いのか少ないのかわからない)。

 で、流しながらなんとなく全部に目を通してしまうと、ああ、読みたくなかったな知りたくなかったなという気分になることが多い。あなたの悩みなど知らない。あなたの不満など知らない。あなたの考えなど知らない。勝手なことを言っていることはわかっている。でも、わりとそう感じるひとも多いのではないだろうか。ぼくの書いたものも誰かにそう思われているに違いない。そう思うと、余計にうんざりしてくる。
 二つ以上ツイートしてなにかに言及したくなったときは、ツイッターで消費しないで、ブログに書こうと思ってからしばらく経つ。ブログを書く習慣も結構ついてきて、まとまりに欠けるにせよ文量を書けるようにはなった。それでもまだ、やはり勢いでだーっとツイートしてしまう。それはそれで、そのときだけ楽しいのでいいのだけれど。

 字数制限があるので、結局どれも似たりよったりな文章になっちゃうのもおもしろくない。よく見かける、おもしろいことを言おうとしているツイートも、触りからオチまでのリズムが一定というか、もうなんかテンプレートと化しているところがあるので飽きた。うまいこと言おう、という感じのツイート自体うんざりする。うまいこと言おうというだけならまだしも、一段上に立ってものごとを見下ろしてるような感じや、安全なところ(と本人は思っているであろう距離)から好き勝手書いている感じも、頬杖をついてため息が出る。インターネットとはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが。そうして、ぼくはSNSに向いていないと言ってしまえばそれまでだ。

 向いている向いてないと言えば、それはもう人間がいっぱいいる場に向いていないのだろう。しかも距離感がめちゃくちゃで、それぞれの思考がダダ漏れの空間。ぼくのようなのが耐えられるわけがない。
 だから別に耐えてまでやることはないのだけれど、いずれにせよこんなものは道具にすぎない。ぼくのキャリアを俯瞰してみるとツイッターの恩恵にあずかっている部分が少なくないと思うけれど、それを恩恵などと言ってしまうあたりが結構来てしまっていると思う。道具を活用して結果が出た、ただそれだけである。道具に呑まれてはいけない。

 ついでにこの際だから書くけれど、フォローされたからどんなひとかなと覗きに行くと非公開アカウント、というのが多い。特にインスタグラムは写真を載せるサービスゆえなのか非常に非公開アカウントが多いような気がする。非常に非公開って。

 こちらが発表のために使っているのだから別にいいのだけれど、どうも一方的に見られている感じがしてしまう。みんながみんなアカウントを公開したいわけではないので仕方がないけれど、ただ、見せ合って楽しむものでは……とも思う。見せられないものは載せなければいいのにとも。いやいや、それぞれみんな事情や用途があるので、乱暴な言い分だということはわかっている。もちろん。

 さっきはひとのツイート読むのに疲れていたくせに今度はひとの写真が見たいと言い出すあたり、ぼくもあまり一貫性がない。

 非公開アカウントに対するモヤモヤの延長として、有名人とのセルフィ写真に対するモヤモヤもある。有名人とのツーショット、もちろんSNSにアップしたくなるのだろうけれど、その際自分の顔を隠しているひとがまあ多い。

 いやだから、もちろん誰もが顔を出せるわけではないことはわかっているのだ。勤め先の手前出しづらかったり、匿名性の保持のためとか、いろいろあるのだろう。

 ただ、マーク・ハミルの横に立ってるひとの顔がものすごい大きなスタンプで覆い隠されている写真を見ると、なんじゃこりゃと思う。あまりにも目隠しスタンプが大きすぎてもはやマーク・ハミルがひとりで写ってるようにしか見えない写真もあったりして、一体これは誰のなんの写真なのだと言いたくなったりも。記念や自慢として成立しているのかもわからない。

 ふと吸血鬼が有名人とセルフィを撮ったらどうなるだろうかと想像する。恐らくハリウッド・スターがひとりで、妙に隣の空間を空けている写真になる。吸血鬼なら写真を一切加工せずにアップできるので、そのぶんSNSライフが楽そうだけれど、スターとのセルフィを楽しむことはできない。写真に顔どころかひとの気配すら写らないのでツーショットにならないし、セルフィにもならないのだから。

 しかし、吸血鬼でないひとは、ちゃんと手元に未加工の、顔を隠していない元の写真が残るわけだ。それはSNSには見せないそのひとだけのもの。SNSを通してぼくが目にするのは言わば記念のおすそ分けであり、検閲済であり、フィルター越しに見せられたものである。こっそりと。

 全てを見せることもできれば、なにを見せてなにを見せないかを決められるのもSNSである。そう思えば、大きな黄色い絵文字で覆われた誰か、がマーク・ハミルと並んだ写真も、その誰かの幸せの加工物で、ぼくのような見知らぬ者はオリジナルを見ることができない、ミステリアスで貴重な宝物のように感じられてくる。じゃあいいか。
 別に羨ましいわけでは、断じてない。

2017年12月2日

「太陽と乙女」刊行記念手ぬぐい


 先日刊行された森見登美彦さんの新刊「太陽と乙女」(新潮社)の記念手ぬぐいが登場しました。装画をはじめカバー下に使われた絵を集めたデザインでとてもかわいらしいです。思案する四畳半主義者、登美彦氏も柄の中にいます。差し色の黄色が効いていますね。
 新潮社のページからご購入いただけます。






 「×」で名前を結ばれると非常に照れますね。まさかこんな未来があろうとは、古いアパートの六畳間で「四畳半神話大系」をもそもそと読んでいた頃はまったく想像がつきませんでした。ここまで名前をピックアップされるのもうれしいです。

『フォースの覚醒』から『最後のジェダイ』ストームトルーパーの進化


 そもそも旧三部作の帝国軍のストームトルーパーも一作ごとに顔つきが少しずつ違う。『エピソード4:新たなる希望』などは特に数種類の表情があったと思う。この場合の種類とは別に設定における兵種とかそういうのではなく、ただ単にメイキング上の成型の話。これもまた図に描いてもいいのだけれど、たとえば冒頭から反乱軍兵士と撃ち合いをしていたようないちばんスタンダードな連中と、ルーク・スカイウォーカーが潜入のために変装するヘルメットは口やら目やらがだいぶ違う。
 今更ながら最近気づいたけれど、『エピソード6:ジェダイの帰還』のストームトルーパーは口が黒く塗りつぶされていたりする(お歯黒)。気持ち頭頂部が長かったりして前二作に比べてかなり表情が変わっていると思う。また、97年の特別篇で人数を増やすために追加されたトルーパーなどもまた若干違うヘルメットに見えるし、昨年公開の『ローグ・ワン』に登場したトルーパーももちろん新造形で、綺麗な左右対称なのでなんだか優等生みたいな顔になっている。均整が取れていてぼくはわりと好き。
 というように作ごとに造形が新しくなってきたトルーパー。昔と違って成型技術そのものは安定しているので、同じものとして作り直して形が変わったというわけではなく、最新作でのアップグレードは意図して部分的に変化を加えているわけだけれど、ただ改良するだけでなく、これまでのメイキング上の伝統を踏襲してるようにも思える。

2017年11月29日

営業報告



「SPUR」2018年1月月号(集英社)「銀幕リポート」第22回では、アキ・カウリスマキ監督、シェルワン・ハジ主演『希望のかなた』を紹介しています。朴訥とした飾らない優しさがかっこいいフィンランド映画。いろいろな困難に遭いながらやっとのことでフィンランドにたどり着いた難民の旅を中心に、彼が出会う、固い表情の下に温かみを秘めた北欧人たちの生活を描く。普段欧米の映画では見ることのない、北欧らしい淡々として乾燥した笑いどころがまた楽しい。かっこよくて笑えて、それでいながら今日的問題も描き出すからすごい。



 「婦人公論」12/12号ではジェーン・スーさんの連載挿画。今回はマイリー・サイラスの変遷について。かく言うぼくも『シークレット・アイドル ハンナ・モンタナ』世代です。というか、マイリーとほとんど年が変わらない。ひとそれぞれ色々な道のりで大人になるんだなあ。
 個人的には『ハンナ・モンタナ』での共演者エミリー・オスメント派だったりする。

雑記(3)

「白湯」

 カフェインを控えようということで1日中白湯ばかり飲んでいる。白湯自体はここ数年で結構好きになっていた。が、コーヒーやお茶を控えた今や身体に取り入れる白湯の量が半端ではなくなった。だからさあ、なんでそうやってなんでも大量摂取するかね。
 人間はつねに水分が足りていない状態なので、本当はもっとたくさん水を飲むべきなのだそうだ。ものの本、というか、もののブログに書いてあった(正しくはひとのブログだろう)。しかし冷たい水はもちろん飲みすぎてもよくない。味のついた飲料や、コーヒーやお茶なども消化するのに力が要るらしく、曰くコスパがよくないらしい。
 ということで、体温に近い白湯のほうが吸収されやすいのだとか。もちろん白湯もたくさん飲むと問題が起きる。毒素がよく流れるのと同時に、大事なものも流れ出てしまうらしい。大事なものがなんなのかはよくわからないけれど、とにかくどんどん流れるというのは実感としてわかる。というのも、非常にトイレが近くなった。年寄りのようにしょっちゅうトイレに行っている。
 とは言えどうせ飲みすぎるのなら白湯のほうがいいのだろうと思う。


「冷静な俺」

 ひとと言い合いになったときに、意識してか無意識なのか、とにかく相手の神経を逆撫するようにして煽り、相対的に自分の冷静さとか大人感を演出して優位に立とうとする、立ったつもりになる、そしてその上で論点を自分の都合の良い方向にズラし続け、相手を苛立たせ続けてどんどん口がうまくまわらないように仕向け、そんな相手をただのヒステリーであるかのようにやはり演出し、冷静な俺とヒスってるこいつ、みたいな構図を作り上げてその場を制することに長けているひとが、世の中にはたくさんいるのだろうなあ、と思う週末であった。
 いや、例え話なのだけれどね。


「ブログは生物」

 ちょっと書き留めておきたいなという気持ちを起こさせてくれるような引用の多いブログがあって、そのとき抱えていた悩みとか不安とかとちょうど合致したのか、ためになるなあ、などと月並みな感想を抱きつつノートにメモしたりしていたほどだったのだが、久しぶりに覗いて見たらなんだがとても質が落ちていた。ひとのブログをつかまえて質が落ちていたというのも、同じブログを書いている人間としてあんまりではないかとも思うのだけれど、そこはまあ、ご自身でなにか書いているのではなく、ただひたすら引用という体で転載をしているだけのブログなので、どうしてもその引用されているものの質は気になるわけだ。
 なんというか、以前は知っているひとでないとなかなか知らなさそうな難しそうな本(なんと子供っぽい表現だろう)の文章だとか、わりと新鮮味のあるエッセイであるとか、まあとにかく引用しているもののセンスが良く感じられたのだけれど、しばらく見ないうちにすっかり様変わりしていて、いわゆる「ネットで話題の」という言葉が似合いそうな、普通にインターネットを使っていたらよく目にするタイプの安っぽい美談とか、そんな当たり前のことを言われてもと言いたくなるような自己啓発的ツイート、絵の良し悪しよりもネット受けしそうな内容だから拡散されていそうなイラスト・エッセイとか、そういうのばかりで埋められていた。まあ、一時的にそうなっちゃった、ってだけなのかもしれないので(引用や転載だけのブログとは言え引用や転載をする人間にも感情の起伏がある)、またしばらくして覗いたら違うのかもしれないけれど、なんというか、わっ、良いなと思ったブログがしばらくすると全然良くなくなっているというのは結構ある。ぼくが短期間に変わってしまったとう可能性は大いにあるにはあるだろうなあ。なんせ根が飽き性だ。どのブログもぼくが興味が持ってブックマークしてから変化しているように感じられるのも気になる。それはきっとブックマークするまでは、広大かつカオスな海で偶然見つけた、新鮮な魅力を持った未知のブログだったのが、ブックマークをして日常的に、短期間に繰り返し覗くようになった結果輝きが失われて飽きてしまうとかそういうやつ。いや、しかしそれを差し引いたとしても明らかにリブログされているものの種類が変わっているような気がするんだよなあ。あ、リブログと言ってしまったからTumblrのブログだということがバレてしまった。まあ、引用と転載と言えばね。
 お気に入りのブログを探す旅はまだ続く。


「軽薄な輸入」

 この3年くらいで「ブラックフライデー」のセールが目につくようになった。ブラックフライデーがなんなのかは各自調べるように。もう面倒くさい。いずれにせよクリスマスやハロウィンのように季節を楽しむものとかではなく、ただ単に商戦のために輸入した風習である。その前日にあたるイベントが本来はメインなのだが、要はクリスマス翌日のケーキのセールの部分だけわけもわからず「ケーキを売る日」として輸入したようなものだ。馬鹿馬鹿しいことこの上ない。なにより嫌なのはこの軽薄な輸入のせいでクリスマスやハロウィンという愛すべきイベントまで一緒くたに批判に晒されてしまうことだ。商戦に利用されているという点ではどれも変わらないが、いやしかし、それでもクリスマスやハロウィンはちゃんとそれ自体に愛着があってのことだよ。そもそもこのふたつはそのイベントそのものを楽しもうとするからこそ買い物とかをするわけで。黒字金曜のセールは売り物がなんにも関係ない。
 外国の文化から商戦に使えるものだけ上辺だけ取り入れるくせに、もっと見習うべきところは、うちの国のやり方には合わないだの伝統に反するだの言って都合よく無視し続けてどんどん時代に遅れていって、もう一体なんなのだろう。
 なんだかまともなことを書いてしまった。まともだと思われてしまう。


「お世話になっております」

 メールの書き出しで「お世話になっております」という挨拶が必ずと言っていいほど使われている。使っている。確かに本題に入る前にワンクッション入れるにはちょうどいい言葉だなとは思うのだけれど、しかしどのメールにも必ず入っているともうなにも考えなしに書いている感がすごい。なにをどうお世話になっているのか。もちろんそういう実際的な意味ではないということはわかるが、あまりにも便利に使いすぎると言葉は多分刃こぼれする。それにどうもやり取りとして逆に丁寧さに欠けるような気がするんだよね。
 なので、最近できるだけそれに変わる言葉をなにか入れるようにしている。なにも思いつかなければ変わらず「お世話になっております」と書く程度の、ゆるいスタンスではあるのだけれど、少しでも違う言い回しを使う方が頭を使っていいかなと。いや、そんなだから一通メールを返すのに小一時間かかっちゃうんじゃないの。メールを打ってる間にしびれを切らした相手が電話をかけてきちゃうんじゃないの。まあしょうがない。
 具体的にどういう言葉に置き換えているかというと、「お返事ありがとうございます」とか「ご確認ありがとうございます」とかそういうの。返信が前提である。ここから少しずつレパートリーを増やしたいなと思っている。
 案件によっては結構な量のやり取りをするじゃない。ほとんどインスタント・メッセージというか、ちょっとしたチャットと言ってもいいくらいに何通もやり取りをする場合にさえ、その全ての頭のところに「お世話になっております」がついているというのは、ちょっとどうなんだろうと。もうその言葉には多分中身がない。中身のない言葉を意味もなく書き続けたくない。意味のないことは別に否定しようと思わないし、むしろ好きな方だけれど、意味がない上に楽しさとか美しさがまったくもたらされない謎の習慣はとっとと葬り去りたい。

2017年11月25日

雑記(2)

「熱風」

 寒くて仕方がない。末端冷え性なので手先や足先が死体のようで落ち着いて座っていられない。作業に集中できない。仕事にならない。エアコンの暖房は気持ち悪くなるので、電気ストーブ(加湿器付き)を点けるわけだけれど、これは1箇所にしか熱を送らないので部屋自体は全然温まらず、身体にしてもストーブが当たる部位が妙に熱くなるだけで温まるわけではない。ストーブの加湿器だけを点けてエアコンを使うのもありなのだけれど、加湿しようとしまいと熱風が気持ち悪い。というのも、このあいだの模様替えで机がエアコンの真下になってしまったのがいけない。


「すっきり」

 なんだか食器棚がやけにすっきりしたなあ、整理はしたけれど処分をしたわけではないのになあと不思議に思っていたら、ただ単に流しに洗ってない食器が溜まっていただけだった。しかしすっきりした棚はなんだか見ていて気持ちがよかった。気持ちのいい景観をたまに見て気分を和らげるためにもある程度洗い物を溜めてから洗うのはどうだろうか。流しの景観は最悪だけれど。


「わいわい」

 大人数でわいわいできないことに一種のコンプレックスというか(一応設定上コンプレックスはない、ということにしているのだが)、苦手意識と羨ましさを同時に抱いたりしていたわけだけれど、このほど原因がわかった。ひととあまり仲良くできないのだ。ただこの一点に尽きる。
 あまり心を開けないとか、距離感が測れないとか、他人に期待しすぎる(無意識に幻想を押しつけている)などいろいろあるのだろうけれど、本当に幸運な感じに条件が揃った相手でないとなかなかうまくいかない(それは誰でもそうだろうけれど)。そんな具合なので複数人での集まりでうまくいくわけがない。性格が面倒。世の中みんながみんな面倒な性格を許容してくれるわけではない。
 ぼくだって仲間でわいわいと、『最後のジェダイ』のチケットを予約して公開日当日にみんなで観にいくみたいなことはしたかったわけで。きっと劇場を決めてチケットを予約する過程からして楽しかろう。前回やったから知っている。楽しかったけれど、同じことができる精神状態ではない。相手方との関係も維持できていない。基本的に誰とも関係が維持できない。それでいながら疎遠になること自体がストレスに思えたりもする。そのあたりを思うとなかなか新しい友達をつくろうというテンションにもなれない。いや、本当にここ数年、恐らく初めて学生でなくなってからというもの、率先してひとを誘うことにも及び腰になっている。
 ただ、みんなでわいわいが楽しそうには見えても、実際そこに自分が身を投じても楽しいのかといえば、それはわからない。これはよく妻に言われる。妻も同じタイプらしいのだけれど、多分実際にわいわいの中に身を置いたら疲れる。変なストレスを覚える。曰く私たちみたいなのはそういうのに向いてないのよ、らしい。
 そもそも、ぼくはどうも「わいわい」を無限定に使いすぎているというか、無条件で楽しそうな呪文のように唱えているところがある。常日頃から仲間と盛り上がっている当人たちはまずわいわいなどとは言わないだろう。他人に幻想を押し付けているのと同様、集団のわいわいにも幻想を持っているのだろう。実際わいわいの中に飛び込んだらくたびれてしまうくせに。
 向いていない、と言うとどうもそれに関してスキルが欠けているように感じられて劣等感がむくむくと沸いてきてしまうのだけれど、まあ、やらなくてもいいことなんだと思うしかないなあ。


「熱風を出すファン」

 SWチケット争奪戦にやはりどうしても気分が乗らず、参戦せずに終わった。もう疲れた。公開日に観なければならないという決まりはないので、好きな日の好きな時間に好きな場所でのんびり観たい。そう自分で決めたはずなのだけれど、公開日に観るためにあの手この手を使ったり、仕事を休んだり、予約ができて狂喜したりしているファンの様子を見ていると、こういう熱意がないぼくは冷めているのかな、ファンとして失格なのかなみたいなことを思ってしまう。失格もなにもないのは百も承知だけれど、自分とはベクトルの違う熱量を目の当たりにすると、なんとなくぼくがおかしいのかなと思えてくる。
 まさか公開日に観なかったからといってお前はファンではないなどとは言われないだろうし、ぼくがこれでファンじゃなかったらなんなんだという話なのだけれど、そもそも誰からもなにも言われちゃいないのだけれど、不安になる。どうしてぼくにはああいう熱量がないのだろう。騒げる熱量、わいわいできる熱量(またわいわいか)、テンション、元気。もちろんぼくにはぼくなりの「好き」をアピールする手段があるから気にすることではないとはわかっているのだけれど、結局さっきの「わいわい」の話と同じで、羨ましくなるのだ。
 自分が素直じゃないだけではないかとも思う。そうしてまた自分の性格の面倒くささが嫌になる。どうしたら素直になれるのかとか、果たしてどういうのが素直なのかとか、いろいろ考えてしまうわけで。そうして恐らくそんなことは考えることではないということもどこかでわかっているのだけれど。


「コーヒーのせい」

 何日も嫌な感じの頭痛(嫌な感じじゃない頭痛などないのだが)。朝早めに起きられはするのだけれど午後をまわると急激に頭が痛くなって眠くなり、昼寝のつもりで寝転がったら夜中だった、というのが何度か続いた。しとしとと雨が続いて気温も急激に下がったので、きっと天気のせいだろうと思っていたのだけれど(天気のせいで頭が痛いとひとに言うと大抵バカにされる)、なんとなく原因がわかった。コーヒーの飲み過ぎだと思う。
 我が家ではケメックスの一番大きなサイズでコーヒーを淹れているのだが、最近妻がカフェインを控えるようになったので淹れたぶん全部ぼくが飲むようになったのだが、よく考えれば異常な量である。そのケメックスだと普通は3、4人が飲む量なのだけれど、ぼくはそれを台湾のスターバックスで買ったお気に入りの特大マグ2杯くらいで飲んでしまう。マグ2杯ぶん程度だから、と思っていたがそのマグが特大だということをたびたび忘れる。どのくらいの大きさかというと、今も机に置いてあるが、高さが110mm、直径が95mmといったものである。
 ともかく3、4人が飲む量をひとりでがぶがぶ、それを1日に二回くらいやっているわけである。8人ぶんのコーヒーをがぶがぶやっているころになる。いや、やばいでしょ。ついこのあいだ、ふとカフェオレ・ボウルというのがあるくらいだから、コーヒーを飲む用のボウルもあるのではないか、などとより大容量の容器について考えたりしていたのだけれど、立派な中毒である。やめだやめだ。しばらくやめよう。ああ、危ないところだった。
 カフェインを断った際に頭痛が起こるらしいのだけれど、まあ、とにかく飲み過ぎで気持ち悪いのだと思う。以前はコーヒー好きじゃなかったのに、不思議なものだ。


「ラジオ」

 朝起きて午前中のラジオなど聴いていると、世の中と一緒に活動しているというような感じ(錯覚)が半端ではない。いつまで続けられるのだか。


「狸」

 雨が続いたあとの濡れた夜道で犬とも猫ともつかないものがのっそりのっそり歩いていたのだけれど、狸だった。
 田舎で散々見たことがあるので(生きているのも死んでいるのも)存在そのものは全然珍しくないのだけれど、都会で目にすると新鮮である。一緒にいた妻は街の育ちなので感激していた。なによりその日は装画と挿絵を担当した森見登美彦先生の新刊「太陽と乙女」の発売日で、装画に大きく狸を描いていたのだ。狸に関する一連のエッセイも、本当に愛に溢れた素敵なもので、改めてぼくも狸が気になり始めていた。
 犬を連れていなくてよかったなと思う。大興奮で吠え立てて怖がらせるか、逆に怒らせて襲われていたかもしれない。
 食事を終えて家に戻る途中、また遭遇した。今度は二匹、連れ立って歩いていた。仲間だろうか、夫婦だろうか、兄弟姉妹だろうか、とにかく結構丸々と太った立派な狸がのっそりのっそりと二匹並んで歩いていた。でも、ぼくが思わず「あっ!」と子供のように指をさしたものだから、ぎょっとして立ち止まり、逃げて行ってしまった。
 ちなみに母が電話で聞かせてくれたが、ぼくの地元は最近猪の被害が大変らしい。前に帰省した際にもどこかのおじさんが退治した猪の鍋を食べたような気がする。食べてあげることができるのであればまだいいのではないか、とも思ったのだけれど、どうやら地元にはちゃんと獣を退治できるひと、それ用の装備を持ったひとがいないので(鉄砲撃ちはシーズンによそから来るし、一帯には農家と大工しかいない)、撲殺というなんとも原始的な手段で退治しているらしい。
 『2001年宇宙の旅』かよ。途端ぼくの頭には、あの無害そうでのんびりしたお百姓のおじさんおばさんたちが戸惑いながらも棍棒を握り、おっかなびっくり獣の頭を叩いている光景が浮かんだ。全然致命傷を与えられないのでみんなくたびれ、猪も辛すぎるという地獄……。
 銃とか薬とかを持っているはずもないので、殴って殺すしかないというわけだ。どちらにせよ命を奪うことには変わりはないが、それはお互いしんどいのではないか……。せめてちゃんと調理してあげてほしい。

2017年11月22日

森見登美彦さんの新刊エッセイ「太陽の乙女」装画を担当しました


 本日発売(早いところでは昨日から)、新潮社刊行の森見登美彦さん新刊「太陽と乙女」にて装画と挿絵を担当させていただきました。デビューから14年、エッセイや書籍解説、日記まで収録したエッセイ大全集です。


 太陽の塔や四畳半、狸、赤玉ポートワインなど、森見作品を象徴する要素を中心に、たくさんのエッセイの中に出てくるあれやこれやを詰め込んだ賑やかな絵になりました。
 ぼく自身学生の頃から森見さんの小説が大好きでしたので、これはもう本当に、只事ではないという緊張感を覚えながらも、楽しくて仕方のない作業となりました。
 収録エッセイの中から拾った要素もありながら、全体的には自分で読んできた森見作品への総合的なトリビュートみたいになったかなと思います。




 題字は金の箔押しという豪華さ。



 「有頂天家族」でもお馴染みの狸は毛玉感を意識。森見さんの作品はイラストの装画も多く、アニメ化もされていて既存のイメージが結構あるので、同じ対象を描きながらも自分の絵にしなくちゃなあというところを、結構考えていたように思います。




 レゴ四畳半。
 レゴ・ブロックについてのエッセイが、レゴ好きとしてはやっぱりうれしくて共感したので、絵にもちょこちょことブロック要素を入れました。自分も好きなものが登場すると、とことん糸口にしたくなります。


 京都の大学生もののお話も好きですが、それらとは少し違ったテイストの「ペンギン・ハイウェイ」もとても好きなので、ペンギンを描けてうれしいです。



 絵は後ろ側まで続いています。本当に伸び伸びと描かせていただきました。



 中の挿絵も別で描いています。全7章の章扉で7点です。さらに、カバーを外した下にも別個で描いたイラストが使われています。本当に盛りだくさんです。ボリューミーな内容に見合った量が描けていたらいいなと思います。



 これはとても感慨深いクレジットの入り方です。まさか並べてもらええる日が来ようとは。いっぺんにいくつも夢が叶いました。
 内容も本当に読み応えがあり、ファンにはたまらないエッセイ集となっています。子供の頃の思い出とか、お馴染みのあの作品が書かれた背景とか、日頃どういうことを考えられているのかとか、森見さんのパーソナルな部分も垣間見えて興味深かったです。創作意欲というか、文章を書きたいという気持ちも刺激され、個人的にもお気に入りの一冊となりました。大切に読み返して行きたいと思います。

2017年11月21日

頭の大きな提督


 『フォースの覚醒』で一段と貫禄が増していた提督。もう敵のシールドのことは忘れない。レジスタンスでは少しゆったりした衣装だったけれど、今度の『最後のジェダイ』ではずいぶん締まった軍服を着ているらしい。アクバー提督と言えば『ジェダイの帰還』での歯医者さんの白衣のような衣装がトレードマークだけれど、こういういかにも軍服調のものもまた良いな。かっちりした制服だが帝国軍やファースト・オーダーのそれともまた違う、少し可愛らしいデザイン。ファースト・オーダーが完全に白黒調になったのに対して、レジスタンスはカーキや柔らかな中間色が基調になっているようだ。反乱同盟軍時代よりモダンさも増している。
 アクバーの、というかモン・カラマリの魅力は個人的にこの肩幅と頭の大きさの妙なバランスではないかなと思う。魚のバケモノのような頭なのに肩幅は人間のそれというバランス。下半身なども普通の人間と変わらないシルエット。技術的にそこまで人間離れした体型にできなかった時代ならではの着ぐるみ感が、今日の新作映画でも健在なのが素晴らしい。
 それにしても襟や袖はどうやって通すのだろうか。

2017年11月19日

雑記(1)

「気持ち悪い文章」

 教習所、いよいよ残すところ1コマとなり、そのあとは検定と試験となる。実技への苦手意識が強くそのことばかり気にしがちになっていたけれど、別に学科のほうが得意というわけでもない。要するに両方とも不安というダメダメな状態である。読み書きして覚えることは嫌いではないのだが、どうにも問題の文章というのは気持ちが悪い。読み手にその文章で述べられていることが正しいのか間違っているのかを問うだけという、そう言えばシンプルなのだけれど、だからこそ文章のどこに重点が置かれているのか、なにを強調しているのかがわからないので、内容が頭に入ってくるまでに時間がかかる。あと表現が一定でないところも気持ちが悪い。気持ちの悪い文章を読み解くのもなかなかきついものである。


「自転車乗りの罵声」

 黄昏時を歩いていると、向こうからおじさんが自転車に乗ってやってきた。すれ違いざまにおじさんがこちらを憎たらしそうに睨みつけて、「このキ○ガイィィ」とダミ声で言ってきた。背筋がひやあっとした。
 ば、バレたか。なぜわかった。
 突然知らないおじさんに罵倒されて恐怖を抱いたというよりは、なにかを見抜かれた気がしておっかなくなってしまった。
 こっちの台詞だ、と言い返す神経の太さや余裕はなく、怪しげな自転車乗りは走り去って行ってしまった。


「部分的共鳴」

 作品集に使っているTumblrで、ちょっと嫌だなあと思うブログから描いた絵がリブログされた。リブログされた先をあまり覗きに行かないほうがいいという教訓にもなったのだけれど、もう少し気づいたことがあった。
 ぼくが嫌だなあと思った数々のポストの中に自分の描いたものが混じっているということがなにを示すのか。
 そんなやつに気に入られたくなどない、と言ってしまえばそれまでだけれど(世の中に対して描いたものを貼り出している身としてそれは随分勝手だろう)、相手にリブログされているということは、その一点においては共感が生じているということではないか。絶対仲良くなれなさそうな相手でありながら、共感が生じている。うっかり見落としてしまいそうになるけれど、これは結構重大なことなのではないだろうかと思った。
 それはきっと、ぼくが相手に抱くほどには、相手がぼくに予断を持たなかったからではないだろうか。それはぼくが相手と相容れないであろうことがよくわかるような要素を、絵や文章に盛り込んでいないからではないだろうか。余計な情報を盛り込んでいないからではないだろうか。だからこそ、相手は予断を持たずにフラットな感じで、ぼくの描いたものに対して共感を抱いた。抱いてもらえた。
 作品に個人的な部分を盛り込むのは大切なことだと思う。主義主張を盛り込むひともいるだろう。けれど、たぶんぼくはこのままでいいのだろうなと思った。絵にしても、本や映画のグラフィック・エッセイにしても、趣味や好み、思ったことや性格は出ていても、際立った主義主張など別になくていいのだなと。まあ、そんな立派に確立した思想など持っていやしないのだけれど。


「ホームページ改良の構想」

 しばらくホームページの改良に取り組んでいたのだけれど、いろいろ考えて試したものの結局現状のままとなった。作品集ページをTumblrでなく自分で打ち込んで作ろうとしたのだけれど、結局ひと昔前のイラスト・サイトみたいなことにしかならず、そしてそれは今日あまり見やすい方とは言えず、さらに更新の手間が馬鹿にならないので諦めた。小さなサムネイルをだあっと並べてライトボックスで拡大されたり、あるいはたた単純に下から上へ縦向きに絵を並べて行くというものも考えたのだけれど、その手間とそれがもたらす外観などを天秤にかけた際、結局今のままでもいいじゃないかと。
 なによりTumblrページをここまで数年に渡って更新し続けて、作品が蓄積され閲覧者もそれなりに得られているという、積み重ねみたいなものがなんだか愛おしくなってしまって、このまま使い続けようと思ってしまった。別に新たに作品集のページを作ったところでTumblrも続けはするのだが、そうすると更新するものがまたひとつ増えるというだけだし、今のままでもそれなりに依頼をもらえたりして、見るひとは見ているということを思うと、とりあえず現状のまま、中身となる作品をどんどん作るほうに時間をかけようよと思ったわけだ。
 柄にもなく世のポートフォリオ・サイトなどをいろいろ見てまわって参考になりそうなものを探したりもしたのだけれど、正直言って全然なかった。少なくともぼくが望むようなスタイルのものは。ぼくと同じくらいの年齢、キャリア歴で、ぼくと同じくらいの仕事量、作品数で、商売の規模も同じくらい、というひとがいたら理想的なのだが、いるわけがない。これは別に自惚れでもなんでもなく、そんなになにからなにまで他人と条件が合うわけがないということ。
 「おすすめのポートフォリオ・サイト」とか、「参考にしたいポートフォリオ・サイト」などという触れ込みで紹介されていたサイトをひと通り見て思ったのだけれど、なんというか、デザインやインターフェイスが凝った作りのひとほど、そこに並んでいる作品とか仕事は少ないというか、そんなに大したことのないひとが多かった。やっぱりね。逆にそんなに綺麗にまとめられていないひとのほうが、もうそんなのやっている暇がないんだよというような感じで仕事をしまくっている印象を受けた。仕事が仕事を呼ぶという状態に達していれば、ホームページなんて必要最低限のものがあれば十分という感じ。たぶん突き詰めれば近況や仕事の記録、連作先を載せただけのページ一枚で済むことだろう。僕の場合はそれだとちょっと物足りないというか、もう少しウェブ・サイトで表現したいことがあるので手狭だけれど、けれどもう少しシンプルさを突き詰めてもいいかもなあ。
 トップページを開いた時点でどういうのを描いているのか、どういうことをしているのかが伝わるような形にしたいなあとも思うのだけれど、なかなか一枚のページにいろいろ詰め込むのには工夫が要る。表紙は表紙としてあったほうがいいのかもしれない。というかクリックして開くくらいは見るひとに任せればいいのだが。それでももう少し直感的に伝わる形は模索する必要がありそうだ。
 その一方で、作品集以外にもいろいろページというか、小部屋的なものがあるのも憧れるんだよね。秘密基地的なホームページというか。全然サブのコンテンツを作る余裕がないのだけれど、いろいろ見るところ読むところがあるサイトにしたいなあと思っている。

2017年11月18日

営業報告


 『コララインとボタンの魔女』でお馴染みライカの新作ストップモーション・アニメ『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』(本日公開)についてのイラスト・コラムが映画ナタリーの特集ページに載っています。特集ではメイキング動画なども観られ、ぼくもどちらかというとメイキングに寄った内容で描いています。
http://natalie.mu/eiga/pp/kubo

2017年11月15日

『最後のジェダイ』は赤い


 『ジェダイの帰還』におけるジョージ・ルーカスのコメンタリーで、帝国に色はないが、皇帝の周囲だけ「赤く」することで支配者の強大さを強調したという話が印象的。曰く赤は力を象徴しているとか。

 『最後のジェダイ』の基調が赤色なのはポスターやトレーラー、公開されている画像からして言うまでもないだろう。とにかく赤い。前作『フォースの覚醒』におけるファースト・オーダーはかつての銀河帝国よりも赤を強調させており、白い装甲の兵士たちや黒い制服の将校たちの中で、旗や肩当て、階級章といったところに赤が使われ、ファシズム的色彩をより強めていた。銀河帝国にあったようなくすんだ中間色は一切排され、白、黒、赤というはっきりした三色で統一されている。ファースト・オーダーの性質上、この三色は帝政ドイツやナチスを連想させたりもするだろうけれど、同時にぼくはティーンの頃に好きだった「エミリー・ザ・ストレンジ」のコミックの色調を思い出した。なのでゴス的色彩とも言うことができる。カイロ・レンがまずゴスだし。

 4コマのうち3コマが悪の組織ファースト・オーダーのシーンである。恐らく最高指導者スノークの身辺にも、かつての銀河皇帝と同様赤い衛兵がいるのではないかと考えられていたが、やっぱりいた。赤いひとが。赤いひとが実際に戦うところが見られるのはうれしい。思えば12年前の『シスの復讐』でも赤い人の戦う姿に期待したものだけれど、武器を構えるか構えないかという一瞬のうちにヨーダに倒されてしまった。後ろの壁に頭をぶつけてダウンするというあっけなさで、14歳のぼくは落胆したものである。そう考えれば新登場する「プレトリアン・ガード」は12年越しの願いを叶えてくれるというわけだ。まあ姿はだいぶ違うが、赤いひとには変わりない。

 スノークの赤い衛兵については以前自分なりに想像図を描いたこともあったので、答え合わせではないけれど、その姿を見比べてみましょう(→該当記事)。

 残りの1コマも、やはり赤を強調させたシーンではあるのだけれど、これはファースト・オーダーではなく、赤い尾を引きながら戦いに挑むレジスタンスの乗り物である。これらの目前にはファースト・オーダーの歩行兵器がずしんずしんと迫ってきているわけだけれど、要するにオーダーに立ち向かう側も赤を帯びているという演出と見ることができる。これほどまでに悪の色として強調されてきた赤色に、主人公たちも染まっているということだろうか。

 ここで本作のタイトルをもう一度見てみよう。
 『最後のジェダイ』。
 これまで三部作の中間に位置するエピソードのタイトルは、ダークサイド側にかかったものであり、物語もダークサイド側が勢いを増すというものだった。EP5『帝国の逆襲』に、EP2『クローンの攻撃』。クローンは最初悪者として登場するわけではないし、なんならそのクローンの攻撃とやらでひとまず主人公たちは救われるわけだけれど、広い目で見ればこれも悪の側のアクションと言えるだろう。クローン軍の力を借りたことで、戦争が始まり、共和国は崩壊への道を辿ることになる。そうしてジェダイたち自身も、やがてクローンの攻撃に晒されることになるのだ。

 そして、EP8となる『最後のジェダイ』もまたシークエル三部作の中間に位置する、三部作の二話目である。しかし、ジェダイ。それは圧倒的に善を象徴するような存在ではなかったか。
 最後の、と言っている時点で十分ネガティブでダークサイド寄りだと見ることもできるけれど、同時に、ジェダイが必ずしも善ではないということが語られるのではないか、なんて思ったりもする。これまでの帝国やクローンといった言葉とともに、新たなる二話目のタイトルとして(たとえ「最後の」だとしても)ジェダイを並べるというのはなかなか抵抗がありはしないか。

 たとえば、二枚並べて完成するデザインのポスターがある。片方は主人公レイを中心とした善側の人物たちによる構図、対するもう一方はカイロ・レンを中心とした悪役たちによる構図だ。しかし、どちらの主人公の背後にも同じ人物の大きな顔が描かれている。
 ルーク・スカイウォーカーである。
 善と悪どちらの側にも共通する形でルークの顔があるというのは、もちろん彼こそが最後のジェダイだから、どちらの側にとっても重要な人物だからなのだろうけれど、善も悪も、光も闇も超越したバランサーみたいな印象も、やっぱりあるんだよね。フォースにバランスをもたらす選ばれし者の血を引いているのだし。

2017年11月14日

日記の構想

 日記を書くのも楽しいけれど、日記の付け方とか形式とかを考えるのも楽しい。
 このブログでのよりいい日記の形を考えていた。もうあまり日が空くことは気にしないということでストレスは消えたけれど、でもなんかいつなにがあったかを、ブログを書く余裕ができたときに思い返すのが面倒だったりする。いやそれくらい思い出せよとも思うし、そうならないように常にどこかに書き留める習慣を持ったらいいじゃないかとも思うのだけれど、それがもう面倒くさい。少しでも負担に感じる方法は避けたい。書くことがあまり楽しくなくなるんだよね。

 あと、具体的な日付がついていると、その日の出来事を固有名詞一切出さずに書いたとしても、読む人が読んだらあのことかこのことかと、察せてしまうのではないかという不安があったりする。そこまで心配することではないのだけれど、わりとひとの悪口も書きたかったりするのだ(おい)。たとえば、最近はわりと教習所での出来事を書くことがあるけれど、そのときに変な大学生とか、変な教官とかに遭遇するじゃん。で、そのことについて書きたくなるじゃん。そこに具体的な日付がついていたりした場合、かりにその変な大学生が偶然ぼくのツイッターを見つけて、このブログにたどり着いて日記を読んで、あれ、これ俺のことじゃんとか思って傷つかれたり苛立たれたりしたら悪いじゃん。嫌な気持ちにさせちゃうのも悪いし、怒りを買うのも嫌じゃん(なにより怒られるのが一番嫌である)。

 まあ、そんなことは恐らく稀だろうとは思うけれど。しかし、教習所に限らずいろいろな出来事について書くことがあるだろうと思う。誰かが嫌な気持ちになりそうな内容を書かなければいいじゃんとも思われるかもしれないけれど、日々の自分の苛立ちとか憤りとかを避けて書くと恐らく当たり障りのないつまらないものになると思う。当たり障りのないブログほどつまらないものはないと思う。それならただ新しく描いた絵や、仕事のお知らせだけ更新していればいい。それよりはぼくは自分の個人的な部分を少し、出したい。個人的な部分を出すからこそ、絵や文が見られるものになっている、というところもあるのではないかなと自己分析していたりもする。

 もちろんツイッターなどでよく見かける、読んでいてなんの得にもならないどうしようもない不平不満を垂れ流すつもりはなく、どうにか可笑しさというか、読み物として堪えられるものにしたいとは思っている。

 なにか特定の出来事があったとして、できるだけぼかすために日付をズラして書いたりすることもあったのだけれど、なんか、そんな小細工するくらいだったらはじめから日付なんかなくてもいいかなと思ったわけよ。というか、ブログはその記事自体に日付がつくので、だいたいそれくらいの時期のことだっていうのはわかるんだよね。

 そこで、日付のないいわゆる雑記が複数、ひとつの記事の中に無作為に並んでいれば、多少は不特定感が出るというか、11月15日に更新された記事だけれど、ひとつひとつの雑記が具体的にいつのことについてなのかはわからない、といった具合になんとなくぼやけるかなと。それでも記事が更新された日ははっきりしているので、だいたいの時期そのものはわかるので、記録としてはちょうどいい。

 出来事ならともかく、考えていること思っていることなどの思考の雑記については日付もなにもないんだよね。最近思っていること、くらいのものなので。なので、日付がない形のほうがそういうのも書きやすい。ひとつの出来事やテーマについてひとつの記事にすればいい場合もあるけれど、わざわざ独立した記事にするほどのことでもない、ほんのちょっと考えたこととかを書きたくなることもある。なんというか、たとえば3つくらい続けてツイートするようなことがらは、そのぶんこのブログに書くようにしたいのだ。それに、あまり記事数がかさんでも、ほかの絵とか仕事のお知らせとかが流れすぎてしまうのもよくない。
 とにかく、日付の生々しさを取り除き、もう少し「お話」感を出したい。なにかいい雑記の形式を考えよう。

2017年11月13日

Finn vs Phasma


 予告編でもっともテンションのあがるシーン。カイロ・レンが専用機を飛ばしてお母さんの乗る船をロックオンするも、発射ボタンを押そうとする指が迷う(ように見える)シーンも熱いのだが、ファズマ好きとしてはこれを描かずにはいられない。
 燃え盛る炎の中で煌めくヘルメットに、ここで会ったが100年目、宿敵でかつての部下、FN-2187ことフィンの顔が映りこんでいるのがかっこよすぎる。これだけかっこよければ、たとえこの直後またしてもあっけなくリタイアしてしまっても構わないほどである。そう、ファズマはそのヴィジュアル、佇まいだけでもう十分すぎるキャラクターなのである。
 それにしても、『フォースの覚醒』でライトセイバーを持ったフィンに挑んだ旧友トルーパーもそうだったけれど、この裏切り者に対してはみんな飛び道具ではなく、格闘で勝負を挑みたくなるものなのだろうか。それだけフィンがトルーパー時代にはその分野で名を馳せていたということか。そこに敬意を表してというより、その得意分野でフィンを打ち負かしてやりたいという気持ちからかもしれない。いずれにせよファズマはフィンの元上官であり、元教官でもある。当然フィンの射撃や武術はファズマが仕込んだものなのだ。彼女としては自分が最も評価した分野で彼と決着をつけたいところなのだろう。

憧れの黄色いチンクエチェント


 知らないうちに新型のフィアット500もいろいろなバリエーションが出ていた。というか気づけば新型が初めて登場してから10年経っていた。免許を取ったら子供の頃から憧れだった、というより唯一知っていた車種であるところのフィアット500に乗りたいなと思っていたのだが、2ドアは現実的な問題、日常生活で使いづらかろうということで今のところこの車種に乗る予定はない(友人曰く2ドアは後部座席など存在しないも同然だという)。というわけで絵だけ描いて満足しておくことにした。
 4ドアのチンクエチェントがあったらなあなどと思ったりもしたけれど、4ドアもあったらもうそれはチンクエチェントではない。丸っこくてかわいらしい、ネズミ風のコンパクトカーのフォルムが失われてはそれはもうフィアット500ではないだろう。それならフィアット・パンダのほうがいい。


日記:10月30日〜11月9日

10月30日(月)

 教習所、連続3コマ。1月が教習期限なので正直焦っているのだが、もう大詰めである。オートマチック・トランスミッションによる路上教習と危険予測ディスカッション。もともとはマニュアルを取っているので、慣れない自動変速機ですいすい走ってしまいつい速度が上がりがちであったものの、最近はもう一週間以上間が空いても運転の感覚を忘れるということはなくなった。身体になんとなくしみついている感じである。
 ディスカッションでは同乗の教習生たちとともに先の互いの運転の仕方がどうであったかを指摘し合ったわけだが、例によって他人に厳しく、他人の粗だけはよく観察するぼくなので、あれこれとほかのふたりの運転作法を指摘したら、「川原さんはどこどこの横断歩道で向こうからやってきていた自転車のひとを無視して通過していました」などと反撃されてしまうなど。
 だって、すごい離れていたしわざわざ待つまでもないと思ったんだもん。実生活であんなのを待っている車なんか見たことないんだもん。などと言い訳をしたくなったものの、紳士なので負けを認めておいた(負け?)。

10月31日(火)

 ハロウィーン。なにもそれらしいことをできずに終わる。全くそれらしいアートワーク等を作る気になれなかった。もう何年もそれらしいテンションにならないのはなぜだろうか。巷で汚らしい大人たちがハロウィーンを消費しているのを目の当たりにして嫌気が差したのだろうか。鬱憤の溜まった社会人たちの、日頃抑圧されているであろう衝動を発散するため、要は馬鹿騒ぎを正当化する理由にハロウィーンが使われていることに嫌気が差しているせいだろうか。そんなところだろうと思う。
 ここ数年でハロウィーンが急に流行りだしたなどと言うひとは結局ぼくとは違う文化圏で育ってきただけだろうと思う。ぼくには言うまでもなくずっと身近なものである。小さな頃から猫を飼ってきたひとも、猫が急に流行りだしたと言われて同じ気分になるであろう。ずっと身近だったもの、大切にしてきたものを、無関心なひとから流行りもの扱いされるのは不快である。
 とは言え、ぼくは「もう何年もそれらしいテンションにならない」と前述したわけで、その「何年」は「ここ数年でハロウィーンが急に流行りだした」の「数年」と、恐らくは重なる。ハロウィーンの文化風習はもちろん昔からあり、この国でも関心があるひとにとってはずっと前から身近なものだった。それでもやっぱり、この数年間でそれは少し変わってしまったということになるのだろう。「やや行儀の悪い大人たちの世界」と結びついたという意味でなら、「流行りだした」と言えるのかもしれない。
 別に欧米だって行儀のいいハロウィーンばかりしていないだろうと思う(そもそもハロウィーンもクリスマスも欧米の文化ではないのだが、わかりやすいサンプルとして)。というかよりゲテモノ・パーティとして発展していることだろう。こちらと同様に、向こうでも大人たちのハロウィーン・パーティは、少し歩けば性欲とぶつかりそうな(偏見である)、そんな感じのコスプレ・パーティには変わりないだろうなと思う。『ビッグバン・セオリー』でやっていたから知っている。
 そこで気づいたこと。ぼくの好きなハロウィーンとは、子供がやるそれなのだ。決して大きな金額が注ぎ込まれていないであろう手作りの仮装(コスプレではなくあくまで「仮装」という表現にこだわるべきである)、お菓子、稚拙ながら見た者にできるだけインパクトを与えようという技巧や工夫、無邪気さ、純粋に楽しいというテンション。それがきっとぼくの思うハロウィーンなのだろうと思う。そしてぼくは大人になった。別に楽しいあれこれを卒業してしまった、飽きてしまった、楽しめなくなってしまったとか、そういうわけではない。大人になったので、子供のハロウィーンが身近でなくなってしまったということである。子供向けのイベントが身近でなくなり、視界に入らなくなり、大人向けのものが日常になったのだ。ハロウィーンの方でもそらあ少しは変わったかもしれない。しかし、いちばん大きいのはぼくの目線の位置が変わったことだろうと思う。
 だから、ぼくは子供の頃のハロウィーンを思い出し、巷とは関係なく自分の思うハロウィーンだけを形にすることに努めよう。決して本格的なものではない、「ちょうどいいレベル」の手作り仮装を追求しよう。
 
11月3日(金)

 ここのところの懸念事項、ウェブサイトの整理。
 もっと見やすく、もっとシンプルに、もっと管理しやすく、もっと洒落たように、ならないものだろうかというのをずっと考えている。結局のところ現状は仮のものでしかない。それよりも中身となる作品を作らなければということで、今のようなとりあえずの形で落ち着いていたというだけだ。
 コアとなる作品集にはTumblrのページを使っているわけだけれど、これはスマートフォン等の小型端末で閲覧するとPCのようなレイアウトでは表示されない。レスポンシブ・デザインとかいう、どんな端末で見てもその端末に合わせた形でページのデザインが切り替わるという仕組みが今日のウェブ世界では当たり前になっているらしいのだが、小型端末に最適化されたデザインというのはどうも味気ない。そもそも昔の携帯電話と違って、PCのブラウザと同じ形でウェブを閲覧できることが小型端末の長所のひとつではなかったか。それをまた小型の画面に最適化したデザインを用意するというのは、結局前のガラケー・サイトと同じことではないのか……。などと思ったりもするのだが、まあそれでも、PCの画面というのは手のひらにおさまる端末のそれよりもずっと大きいので、PCサイトをそのままの形で携帯端末で見れば、それはやはり見づらい、というより小さくて見えないということになるので、ある程度気を配ったほうがいいのだろう。
 しかし、そのレスポンシブ・デザインというのも、ウェブ世界ではあくまで今のところの、とりあえずの応急手段のようなものらしく、決して最終的な解決策ではないらしい。最終的と言ったって、小型端末だってこれからどうなるかわからないのだし、閲覧デバイスが変わっていくたびにウェブサイトもどんどん変わっていくことになるのだろう。
 話をぼくの作品集に戻す。どうにかして携帯端末でも見やすいようにならないだろうか。やはり外部サービスに頼らず、一枚一枚ページを手打ちで作っていくしかないのだろうか。更新するのがめちゃくちゃ億劫になりそうだが、ホームページとは更新よりもアーカイブに向いたものだ。そんなに頻繁に更新する必要はなく、ある程度ブログやTumblrで作品を更新したら、時折メインのサイトに載せていくという形にすればいいのではないか。あくまでアーカイブとして。
 しかし、作品をある程度厳選していくとしても、その数は決して少なくない。一枚の絵につきひとつのページを作っていくようなことを果たしてやっていられるだろうか。サムネイルを作って、それをカテゴリー別に並べて……。昔も一度そういうのを作ったことがあったっけ。いや、昔の個人サイトならそれは当たり前だったはずなのだが。
 どうしようかなあ。

11月5日(日)

 最終日にしてようやくディスクユニオン池袋店に足を運ぶ。
 妻の体調は依然悪いので犬は妻の実家に預けた。
 夜、オリジナルの『ブレードランナー』をプライム・ビデオでレンタルした。この作品に関してはオリジナルなどと言うとややこしいのだが、要するに前作である。いやあ、やっぱり途中で眠くなる。1時間50分くらいなのに、なぜ2時間40分の新作と同じ体感時間なのか。
 新作に比べるとまだだいぶ生活感のあるディティールというか、埃っぽさがある。新作がそれだけ無機質になっているということなのだが。より古き良き時代の痕跡が消え去っているということか。
 ちなみに原作小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」も読んでいるところ。原作のデッカード、動物欲しすぎ。
 映画にせよ原作にせよ、前作にせよ新作にせよこのお話のいちばん興味深いところは、外宇宙にまで人類の入植が進んでいる世界であるにも関わらず、物語の舞台は地球のアメリカ、そしてその一角である西海岸のロサンゼルスに限定されているところだ。ものすごく壮大にして広大な世界の、ごくごく限られた片隅で、ややアナログな刑事物語が繰り広げられるところが魅力なのだろう。そして、新作でもそれを維持しているのがすごい。今どきの映画で、設定上宇宙にまで話を広げることが可能ならついつい宇宙における描写も入れてしまいそうなところを、たとえ技術的にそれが容易であっても、あくまで物語はアメリカの西海岸から外へは出ない。クライマックスで老デッカードがオフワールドと呼ばれる外宇宙世界に連れて行かれそうになったところを、主人公Kが阻止して救出するくだりは、なにがなんでも視点を宇宙には持っていかねえぞというスタンスの表れのようにも感じられる。

11月9日(木)

 恐くて不安で仕方がなかった高速教習。
 高速道路に向かう途中で結構大きな事故現場に遭遇する。トラックを含んだ数台が一様に顔やお尻を潰した状態で、警察官が交通整理をしていた。もうひとりの教習生が先行で運転していたので、ぼくは後部座席からぼうっとその事故の様子を眺めていた。通り過ぎる際に数台の事故車の陰に、それらとは比べ物にならないくらいぐしゃぐしゃになった車両がちらりと見え、ゾッとした。ずっと不安だったせいもあってとても嫌な予感がした。あの事故車の残骸、亡骸はぼくの未来を暗示しているのだろうか……。
 先行の教習生の運転は非常にスムーズで、アウトバーンをすいすい滑っていった。永久にすいすい行ってくれというぼくの願いに反してあっという間に高速を降りてしまい目的地に着く。ちょっと休憩くらいするのかなと思いきやすぐに交替を命じられてしまった。あれ、妻の話だと普通は途中休憩があるって聞いていたのだが。というか不安と緊張で下腹部が結構落ち着かないのだけれど。今思えばあのときに思い切ってトイレに行きたいと言えばよかったのだ。まさかあんなことになるとは……。
 高速道路自体は問題なく走れた。信号や交差点、歩行者がいないぶん運転そのものに集中できる。真っ直ぐ安定した速度でなかなかうまく走れたと思う。合流だけは、前のトラックが遅いこともあってなかなかセオリー通りには行かなかったので少し不安が残るけれど、操作は間違っていなかったようなので多分大丈夫だろう。というわけで運転そのものはなにも悪くなかった。
 悪いのは道路の方であった。
 すいすい走行できたのは半分くらい。いや、体感では半分以下だ。だんだん前の車との距離がやたらと詰まるようになり、速度調節に気をつかわないといけなくなり、あっという間にぼくは大渋滞に巻き込まれてしまった。電光掲示板の表示によれば、その原因はどうやら行きに見かけたあの事故のせいらしい。ぼくが事故を起こすことはなかったが、嫌な予感は一応的中した。いやまあ、あんな出入り口とも言うべきようなところで事故が起きてれば普通渋滞は予想できるのだけれど。
 少し進んでは停まる。それを延々と繰り返してアウトバーンの出口にまでやってきた。もはや定刻通りに教習所に戻れないのは確実である。教官が携帯電話でその旨を報告する。一旦報告し終えてしまうと彼もいくらか緊張が解けたらしいことが横目にわかる。ルームミラーを覗くと後部座席の教習生もだんだんうなだれるようだった。なんだ君たちは。まさかぼくにハンドルを任せて寝るつもりじゃないだろうな。もちろん本当に彼らが寝ることはなかったが、それでも高速を降りて一般道でも続いている渋滞の中をゆっくりと進んでいく中では、もはや誰も一言もしゃべらず、その顔は下を向きがちになった。なんだこれは。もう教習というよりただの帰り道だ。
 少し間隔が空き始めて流れ始めた途端、右側の詰まり気味な列から目の前に横入りされる。この渋滞の中でもう何台もせっかちな車を見かけてきた。少しでも流れが速そうに見える車線に次から次へと移っていく赤いボルボが一番馬鹿っぽかったけれど、高速を降りてからもずいぶんみんなせっかちに車線を移ってきていた。そうやって少し流れ始めたところに入ってくるからまた詰まるんじゃないのか。どうして仮免のぼくにでもわかるようなことをみんな理解できないのだ、とひとり憤った。
 一度など原付のおじさんが両足で地面を蹴りながら目の前に入ってきた。もちろん流れはとてもゆっくりなので、おじさんはずっと両足でちょこんちょこんと地面を蹴っていた。あんた、歩道を押して歩いた方が早いんじゃないかと言いたくなったところで目的についたのか、脇へと去っていった。
 お忘れかもしれないが、ぼくは下腹部に違和感を覚えたまま運転を始めている。そしてこの渋滞である。そこまで予定が遅れているわけではなかったけれど、いつ教習所に戻れるかわからないという状況が余計に下腹部を圧迫した。ペダルを踏んだりハンドルを動かしたりしていればまだ気が紛れたかもしれないけれど、じっと動かずに座ったままの方が多いくらいなので、どんどん辛くなってきた。何度コンビニの駐車場に乗り入れようと思ったことか。その間も助手席の教官はうとうとし、後部座席の教習生はぐったり首を垂らしている。途端、今このふたりの命はぼくに預けられているということに思い至るが、気を引き締めるどころかストレスになるだけだった。
 ようやく見覚えのある景色、見覚えのある建物がちらほら見えてきたところで、「ああ、やっと着いた」と思ったことが口から出た。教官がぱっと顔を上げて、「お、着きましたねえ」。
 お、着きましたねえじゃねええええ!今思えば教習時間過ぎたあたりで替わってくれてもよかったのではないか。
 とは言え余計に長く運転できた、早速大渋滞を経験できたのは、まあプラスに思うことにしよう。教習所に戻るなりすぐに解散になってしまったので、総評を聞いたりできなかったのだが、総評もなにもなかったろうな。もちろんそんなことそのときは気にもせずトイレに向かった。

2017年11月9日

『ホリデー・スペシャル』のボバ・フェットが好き


 などと言うとなんだか主流とは違うところに魅力を見出したがりなオタクといった印象を持たれるかもしれないが、それを意識していないと言えば嘘になる。オタクとはそういうものだ。
 『ホリデー・スペシャル』は第1作目公開の翌年1978年(日本ではこの年にEP4が公開)にテレビで放映された、元祖スピンオフ映像作品である。『ローグ・ワン』よりもはるか昔に、マーク・ハミル、キャリー・フィッシャー、ハリソン・フォードといったメイン・キャスト主演で実写の外伝作品がつくられていたのだ!と言うとすごいものに聞こえるが、内容は言葉では非常に表現しづらい独特さで……いや、はっきり言って現在の感覚で観ればとてもチープでゆるい。だが、本来のポップなスペース・ファンタジーとしてのSWのイメージと決して相容れぬものではないとぼくは思う。これくらいのキッチュさというか、大味な側面もまたSWの持ち味なのではないかと。着ぐるみ特撮映画なのだし。
 一言に『ホリデー・スペシャル』といってもその内容はいくつかのパートに分かれている。チューバッカの里帰りが物語の主軸だが、大半はチューバッカの家族が彼を待っている間にテレビで視聴する料理番組や音楽番組、ちょっとした短編ドラマ等で占められる。その間にもミレニアム・ファルコン号でハン・ソロとチューバッカが旅路を急いでいたり、家の中に帝国軍が押し入ってきて反乱軍との繋がりがないかどうか探し回ったりという具合に進行していく構成。
 宇宙の料理番組とか音楽番組とかは全然おもしろくないし、ホログラムのサーカスもどこがSWなんだと言いたくなる代物なのだが、なにせ一作目が公開されて間もない頃で、設定だか世界観だかが確立されていない時期だから仕方ない(ルーカス監督自身の中では確立していたかもしれないが)。どこかディズニーランドの旧スター・ツアーズにも通じる、がちがちに固められていない感じなのだ。
 その中で挿入されるのがアニメーションの短編である。これも作画や色使いがまた独特なのだけれど、なによりこのアニメで賞金稼ぎボバ・フェットが初登場する。次作『帝国の逆襲』に登場するのとは全然違うカラーリングで、なんだかかわいらしいのだが、こちらが先である。次回作に登場する新キャラを先行してアニメに登場させるという方式(?)はその後も、EP3に先行してアニメ『クローン大戦』に登場したグリーヴァス将軍、『ローグ・ワン』に先行して『クローン・ウォーズ』に登場していたソウ・ゲレラ(彼の場合はCWから逆輸入されたような形だが)といったようにパターン化している。これにより現在アニメ・シリーズに登場しているキャラクターが次の映画本編に登場するのではないかという予想や考察がなされているのである。
 とある惑星に墜落したミレニアム・ファルコンを助けにかけつけたルーク・スカイウォーカーはボバ・フェットと名乗る装甲服の男に助けられる。ボバとルークがファルコンにかけつけると、ハン・ソロが呪いの護符によって意識を失っており、ルークも同じく倒れてしまう。そこでドロイドたちを残してボバとチューバッカが街まで薬(?)を探しに行くのだが……。と言ったようなお話。なんとボバは最初は親切な助っ人として登場するのだ。かっこよくて頼りになる謎の人物。もちろんその後正体がバレるのだが、バレたあとの所作がまたかっこいい。C-3POから賞金稼ぎの正体を告げられて驚愕の表情を浮かべ始めるルークの顔とゆっくり後ずさりするボバが交互に映り、賞金稼ぎは「また会おうぜ」とかなんとか言いながらジェットパックを噴射させてファルコンの船内から飛び出して行く。天井に突然都合よく穴が開くのだが、この穴はおそらく次作でランド・カルリジアンが空中都市の底にぶらさがったルークを助けるときに使ったハッチと見ていいだろう。たぶん。正史として扱ってなんら不都合はないストーリーである。
 ボバとチューイが行動を共にするのもおもしろい。まあ、肩からウーキーの毛皮を垂らした謎の男をチューイが信用するのかという疑問があるにはあるが、まだあれがウーキーの毛皮だという設定もないのだろう。ただ、今では特別篇のEP4にて、ハンに借金を取り立てにきたジャバ・ザ・ハットの取り巻き用心棒の中にボバの姿が追加されてしまっているので、ハンとチューイがそのことを覚えているのなら、少し矛盾が出てきたりもする。
 というわけで『ホリデー・スペシャル』のアニメこそボバのオリジンなのである。

「LINEマンガ STAR WARS インディーズアワード 2017」にノミネートされました!


 「LINEマンガ STAR WARS インディーズアワード 2017」にコミック作品をノミネートしていただきました。
 すでに刊行されているSW小説「ジェダイの後継者」(ケヴィン・ハーン著)か「ロード・オブ・シス」(ポール・S・ケンプ著)のどちらかをコミカライズして応募するのですが、ぼくは「ロード・オブ・シス」を自分なりにコミカライズしました。
 漫画らしいものをちゃんと描くのは初めてなので経験値になればいいなくらいの感じだったのですが、まさかノミネートされるとは……。感無量です。

 作品は以下のページよりご覧いただけます。

(いちばん最後に載っています)

 11月9日まで読者投票受付期間になるので、よろしければご投票ください。投票方法は上述のリンク先にもありますが、以下の通りです。


(1)LINEで公式アカウントを友達に追加し、
(2)公式アカウントから投票受付画面を送ってもらい、
(3)投票、という形です。


 どうぞよろしくお願いいたします。

2017年11月6日

『ブレードランナー2049』(2017)


 東京っぽいのは日本語の看板と自販機だけじゃないってこと。誰の目にも入るところに性的イメージが溢れかえっている様子はひとごとじゃあないのだ。
 それにしても、ディストピア作品に「今っぽさ」を感じるというのはなかなかどうして怖いものである。今現在にその兆しがあるということだから。

 自分の思い通りにカスタマイズできるホログラムの恋人について思うところはたくさんあるけれど、「思い通りにできる恋人」という、人間性を否定された、というよりそれが必要ないとされた存在でありながら、どこか人間に憧れ、人間的自由を夢見ているようなところは、レプリカントほど人間に近くないだけあって(というかより「作り物」として人間から遠い)切実というか悲痛さすら感じる。

 メインを張る女性キャラクターがふたりともある目的のために造られた女性であることを、演じたふたりはどう思ったのだろうかというのは、この前の会見で気になったことだ(あまりにもハリソン・フォード一辺倒でふたりの女優たちへの質問が少なすぎたので……)。衣装が露出の多いものばかりだったと漏らしたアナ・デ・アルマスのコメント(それさえハリソン絡みのくだりで少し触れただけのことだったが)には、役柄への心境も少しは含まれていたのではないかなあと、今になってなんとなく思うのだった。いやわからないけれど。

 造られた女性といえば、レイチェルである。あまり詳しくは書かないが、『ローグ・ワン』のレイア姫のような感じだと言えば十分だろう。ただ、あのレイア姫よりも再現度が高かったような気がする。ぞれはぼくが『新たなる希望』のキャリー・フィッシャーほどには、『ブレードランナー』のショーン・ヤングを見慣れていなかったせいかもしれないが。それにしてもふたりとも変な髪型だよねえ。
 
 『インディアナ・ジョーンズ』にしろ、『スター・ウォーズ』にしろ、『ブレードランナー』にしろ、結局はハリソン・フォードの演じた伝説的なキャラクターの子供がどうなったという話になってしまうのは、仕方のないことなのだろうか。
 ぼくはそんなに思い入れが強いわけではないし、正直言ってオリジナル作は何度見返しても途中で眠くなって全然頭に入ってこないくらいなのだが(やはりSWのようにPew-Pew!なサイファイが性に合っているのだろう)、『ブレードランナー』まで家族の話になっていくのはどうなのだろうなあとも思う。もちろん続編としてうまいこと繋ぎまとめていたと思うし、おもしろかったからいいのだけれど。じっくりじっくりといった雰囲気も小説のそれに近いような気がする。Kがデッカードの息子でないだけいいか。あのふたりの擬似親子的な関係も好きである。

 まあとにかく、真空管みたいなガラスドームの中でフランク・シナトラのホログラムが歌っているのがまさにレトロフューチャーといった感じで最高である。今現在ですら亡くなって久しいスターが、未来的な技術であるホログラムによって投影されているというギャップが素晴らしい(装置もちょうどいい具合にクラシカルな雰囲気がある)。この作品世界の20世紀後半の歴史は現実のそれとは違うので、もしかすると存命中にホログラム技術が確立されて撮影をした可能性はあるのだけれど、いずれにせよ昔のものが流行るという未来像はわくわくするものがある(劇中の時点でそれが廃れてしまっているというところもまた良い)。エルビス・プレスリーのホログラムが機材の老朽化でほとんど歌が聞き取れないくらい途切れ途切れで、姿が明滅するのも逆にかっこいい。あそこマイケル・ジャクソンも欲しかったな。そっちに持ってかれてしまいそうだけれど。