2017年10月18日

オフライン



 もやもやと考えていることも文章にするとすっきり整理できることがある。さらに絵も合わせて漫画のような形式にしたら、さらにすっきりした気がする。いや、全くすっきりと晴れ渡ったわけではないのだけれど、せいぜい雲が少し千切れて日が射してきたような感じなのだけれど、思いのほか絵と文章をかけ合わせて考えをまとめていくということは、ぼくにとって一種のセラピーになるらしい。

営業報告


 「Pen」2017/11/1号(CCCメディアハウス)のSF特集内にてイラストを2点描いています。


 まずは『スター・ウォーズ』シリーズの今後のスピンオフ映画の動きについて触れた記事にて、SWのイラスト。ちょうど正式なタイトル(『ソロ』!)が発表されたハン・ソロ映画ですが、ハンの後ろには次なるスピンオフの主役として噂の絶えないオビ=ワン、さらにかねてよりファンから熱望されているボバ・フェット、あったらいいなのジャバ・ザ・ハット等が並んで順番待ちの図。ジャバより後ろはもう完全にぼくの妄想。これ幸いとスローン大提督を描きました。


 もう1点はジェームズ・キャメロンの似顔。新作、続編、リブートとたくさんSF作品が出てきている中でキャメロンは今後どうするのかな、という記事への挿絵です。キャメロンの顔をよく知らないひとでもなにを監督したひとなのかわかるように……ということでこんな感じになった。ぼくはこの短髪のイメージが強かったけど、一時期は髪が長いときもあったらしい。ターミネーターの骸骨ロボットって結構難しい。

 今月27日公開の『ブレードランナー 2049』をはじめ、最近とても盛り上がっているSF映画の数々、そのオリジナル・シリーズや原作など、映画だけでなく小説まで網羅した非常に読み応えある特集になっています。個人的にはシド・ミードの特集ページが熱いです。こんな企画に大好きなSWのイラストで参加できて最高です。見かけた際はぜひご覧ください。

2017年10月16日

SWサイト構想

 アイデアばかり書き連ねて全然形にしないのはなんとも格好悪いものだけれど、しかしアイデアを全然提示しないのもまたおもしろくないので、まあ、こいつ言うだけで形にしないなと思われない程度には構想を小出しにしてもいいのかなと、自分の考えの整理のためにもアイデアを書いてみようと思い筆を取る。
 と、前置きはさておき。
 実は2年前の『フォースの覚醒』公開までに一度SWのファンサイトを自分なりに作ってみようと思っていたのだが、なんといってもエピソード7公開に向けて妙なテンションの上がり方をしており、仕事もなかなか勢いづいていた時期なのですっかりタイミングを逃してしまっていた。美術手帖にSWイラスト・エッセイを寄稿させてもらった時点でSWワークの方は少し満足してしまったところがあったし。
 しかし、それ以降もSWイラストを描いたり、いろいろと文章の小ネタも結構投下しているので、それらをアーカイブしたり、もっと掘り下げて思い切り書き散らしたいところもあるので、やっぱり別個のウェブ・サイトを作りたいなあと思っていた。専門的な技術はこれっぽっちもなく、既存のブログ・サービスを使ったり、ちまちまとタグを打つくらいのことしかできないけれど、それでもやはりホームページ作りは楽しい。

 SWの個人ファンサイトといえば、ひと昔前、プリクエル三部作公開の頃は検索したらいくらでもヒットしたように思う。規模の大きいところからページ一枚だけの小さいところまで、本当にいろいろあって、自作のイラストや小説、論文、レゴ・ブロックの作品などを掲載したり、おなじみのメイン・テーマをオルゴールBGMで流していたりと、時代を感じさせる手作りホームページの雰囲気も手伝って非常にオタクなサイトという感じで良かった。だいたい背景は真っ黒でテキストが白とかなんだけど、たまに綺麗な色使いのものもあって、スタイルが様々なだけあって管理人によってはセンスが際立っていた。管理人という言葉がもはや懐かしい。SWサイトだからカウンターとかも大抵は「あなたは……人目のジェダイです!」みたいな言い回しで。ぼくよりもずっと年長の、インターネット勃興期を間近で目撃してきたひとたちからすれば、もっともっと懐かしい用語がいっぱいあるのだろうけれど。所詮ぼくの言っているのは00年代初頭のこと。

 最近は「スター・ウォーズ」と検索欄に打ち込んでも、とにかくニュース・サイトやバイラル・メディアだかの記事が上位に上がって来て、ウェブ上のSW百科事典として名高い「ウーキーペディア」や「スター・ウォーズの鉄人!」すら検索結果のページを結構めくらなければたどり着けない(この辺は個人の履歴にもよるのだろうけれど)。昔ながらの手打ちサイトは当然ながら、個人のブログすら物好きなひとしか続けていない状況だし、いずれにせよ商業ページばかりヒットして非営利なページなんてとてもではないが見つけられない。
 SWに限らず、なにか作品や人物が気になって調べると、有志によるファンサイトに行き当たるというのはちょっと前なら普通のことだったように思うけれど、もはやそういう同好の志がこっそり集まっているような隠れ家感は、ない。まだそれほどメジャーでない分野ならあるかもしれないけれど。

 ブログやSNS(主にツイッター)でファンダムを覗くことはできるけれど、あまり個人サイトを覗いていたときの、ひとの部屋を覗いたりそこに集ったりという感じはせず、どちらかというと世の中全体に対して開かれた、ショーウィンドウ的な感覚しかせず(つねにたくさんの人に見られているから行儀よくしようというような。もちろん中には好戦的なのもいるだろうけれど)、ましてやツイッターにおけるファンダムなど個人的に非常に同調圧力を感じるので、正直あまり居心地がよさそうとは思えない。と言うか実際よくない。殺伐としていたほうがいいのかといえばもちろんそんなことはないのだが、なんというか、議論するところは議論して、尊重し合うところは尊重して、ケチをつけるところはケチをつけてみたいな、そういうバランスに欠ける気がする。要するにベタベタしていて気持ちが悪い。おそらくツイッターで主流な(それを主流と認めてしまうことにも抵抗があるが)SW好きのコミュニティには一生加われないと思うが、まあ、ぼくは多分それでいいのだろう。賑やかなところからは少し離れて自由に独りでやろう。
 
 またひとさまの話になってしまったけれど、さて、SWサイト構想である。 
 ここまで書き連ねて来たように手打ちのサイトを作りたいという気持ちは強いのだが、自分の本業サイトですら作品ページをTumblr、テキストをこのブログという具合に、コンテンツを外部サービスで済ませてしまっている始末なので、現実的に難しいだろうと思う。更新や管理のしやすさを追い求めると結局ブログになってしまい、手打ちのページはそれらのアーカイブというか、表紙程度に留まっている。がんばって手打ちで自由なスタイルを作れれば理想なのだろうけれど、更新や管理が負担になってそのことがストレスになったりして結局放置気味になってしまうのがいちばんよくない。楽できるところは楽をして、とりあえず既存のものをうまく使っていくのがいいのかもしれない。まずは形より内容をちゃんと書きたいしね。

 スマート・フォンで閲覧するひとも多いということを考えると、文字の大きさ等が画面の大きさに合わせて調整される、いわゆるレスポンシブ・デザインを意識しないといけなかったりする。本来そんなに気にしなくてもいいことなのだが、自分自身も出先で自分のサイトを確認する機会があり、そういうときは「見づれーな!」となったりするので、ある程度は対応していたほうがいいのだろう。そうして、そのへんのことを突き詰めようとすると技術的な壁にぶち当たり、これ、ぼくのやることだろうか?などと自問して苦しむことになる。だったら最初から既存のサービスを使って書いていったほうが楽、ということに。

 せっかくのSWサイト、イラストをふんだんに使ったサイトにしたいなあとも思うので、そういうのはやっぱりテキスト・サイトのほうが勝手がよさそうなので悩ましいけれど。たとえばそうだなあ、モス・アイズリー宇宙港のカンティーナの店内の絵があって、その中にあるハン・ソロとグリードが向かい合ってるボックス席の部分をクリックするとそのシーンの詳細に飛べて、飛んだ先にはハン対グリードのシーンがより大きく描かれていて、いろいろとテキストも書いてあって……みたいなやつ。そんな感じで全ロケーション、全シーン作れたら最高だ。しかし、そんなマップ的なものが作りたいのかと言えばそういうわけでもなかったりも。イラストありきなサイトになるので、それはそれでもいいのだが、わりと延々とコラムを書き散らしたいという気持ちのほうが強いので。ウェブ上にSW紙芝居を展開できたら楽しそうだけれど、それをやるなら自分の創作をちゃんとやりたい気も。

 やはり、普段描いているようなファンアート&コラムをアーカイブするなり、より掘り下げるなりしてちまちま記事を増やしていく方が今のテンションには合うのかもしれない。一度始めてしまえば方向性が見出せるかもしれないし、そもそも方向性なんて要らないのかもしれない。いずれにせよこのブログであまりにもSWについて掘り下げることが少なくないので、別個のページも用意しておきたいと思っている。

2017年10月14日

『ワンダー・ウーマン』(2017)


 たぶんマルという名前に親近感を覚えているところもあるのだろう。そもそもこのドクター・ポイズンというキャラクター、コミックにおける初登場時その正体は日本のプリンセスだったというのだから、マルは丸なのだ。
 影のある物憂げな表情(綺麗な顔にカバーマスクというアンバランス感が素晴らしい)としゃがれ声が醸し出す幸の薄そうな雰囲気が良いよね。カバーマスクの下もクライマックスであらわになるのだが、あのダメージはどうして負ったのか。おそらく枯れた声から察するに自ら実験中に毒ガスを浴びたりとかそういうことではないだろうか。いずれにせよ神経ガスやカバーマスクは第一次世界大戦時代のダークなアイコンである。
 結末の話をしてしまうが、「闇」が晴れたあとにドイツ兵が皆一斉に不気味なガスマスクを脱ぎ捨てて、純朴そうな青年たちの顔が覗くシーンが好きだな。わかりやすい勧善懲悪な世界観でそれまで展開していただけに、そう来たか!と。『キャプテン・アメリカ:ファースト・アベンジャー』もそうだったけれど、世界大戦当時の原作コミックにおける敵国や善悪の価値観との折り合いをうまくつけているなと思う。キャップの場合は、ドイツが悪役というより、あくまでナチスのいち部門である結社「ヒドラ」をメイン・ヴィランに置いていた。敵と悪が分けられている。
 キャプテン・アメリカの話が出たからついでに言うと、キャップとワンダー・ウーマンが付き合えば万事うまくいくのではないかと思ったり(会社の壁なんぞ持ち前のパワーでぶち抜けよう)。ていうか、キャプテンはスティーブ・ロジャースで役者はクリス・エヴァンス、ワンダー・ウーマンの相手役はスティーブ・トレバーで役者はクリス・パインって、すごいかぶり方。
 思えば『キャプテン・アメリカ:ファースト・アベンジャー』における、トビー・ジョーンズ扮する悪の科学者ゾラ博士もお気に入りのキャラクターだった。世界大戦ものには必ず悪の科学者がいるらしい。
 マル博士も終戦後連合側に協力し、スーパーコンピューターに意識を移して後にジャスティス・リーグの前に立ちはだかったり……ないか。

『スパイダーマン:ホームカミング』(2017)



そうそう、思えばスパイダーマン対バットマンなんだよね。で、マイケル・キートン自身もバットマン、バードマンに続きまたしても翼のある役。まあいずれもバットマンを演じたことに起因しているような気もするが。キートンの悪役は、本作と同じくこの夏に公開された『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』や2014年のリブート版『ロボコップ』でもそうだったけれど、そのひとなりの信念につき動かされているというか、単に悪いやつとして片付けられないなにかがあるよね。

 ピーターの部屋に飾ってあったSWグッズは棚の上の3.75インチ・フィギュアだけではない。このスケールのフィギュアが乗れるXウィングが吊るされていたりするのも、ナード男子の部屋に素敵さを出している。このXウィングは見た感じオールド・ケナーのものだと思う。

 ケナーというのはSW第一作目公開時からSW商品をつくっていた会社。映画の関連商品、ましてや玩具を出すなんてそこまで定番じゃなかった時代に、今日まで続くSWトイの礎を築いた元祖中の元祖。今では数多ある、ディズニーへのライセンス移行以降は毎秒増え続けているかのように感じられるSWグッズ、その全ての元祖がケナーなのだ。

 最初に出されたフィギュアのつくりは非常に素朴で、可動箇所は首と両肩、両脚の5箇所だけ、ポーズは気をつけの姿勢というシンプルなもの。大きさはそのときから3.75インチでそれは今も変わっていない。1977年のEP4公開に合わせて販売する予定が生産が遅れたので、その年のクリスマスには引き換え券を売るという手法を使ったのは有名な話。なのでEP4に合わせて登場したフィギュアには公開から一年後の「1978」という製造年が刻印されている。ちなみにこのときの日本の代理店はタカラ、続編のEP5からはポピー(現バンダイ)となる。今ではそのバンダイが自社でものすごいクオリティのSWフィギュアやプラモを出していることを思うと感慨深い。
 これら旧三部作時代に出されたものは、のちにケナーのブランドがハズブロに吸収されることもあり、後年のものと区別してオールド・ケナー(あるいはヴィンテージ・ケナー)と呼ばれる。今の水準からすれば粗悪なところもあるかもしれないが、そのレトロさに魅了されているファンは多い。ぼくも何体か集めたし、ピーター・パーカーもまたそのひとりだろう。日本よりアメリカ本国のほうが入手は容易らしい印象がある。インスタグラムとか見てると結構みんな持ってる。状態にこだわれば(未開封とか)もちろん値段も高くなるが、ぼくは開封済みで色剥げはもちろん付属品もないようなものを1000円くらいで買う程度。ちなみに発売当時の定価は380円くらいだったとか。

 その後ケナーは会社が傾いてハズブロ傘下に(正確には87年にケナーがトンカ傘下になり、そのあとトンカ自体がハズブロに買収された)。SW旧三部作が一旦終了した頃だということを考えると、いかにSWトイが稼ぎ頭だったかと想像がつく。
 95年にはハズブロがケナーのブランドで再び名物ラインの3.75インチフィギュアを展開。97年の特別篇公開に向けて登場したそのシリーズは、その頃のアメトイの流行りなのか、とにかく逆三角形のマッチョ体型なので、遠目にもそのシルエットがわかりやすい。顔の再現度もとても低いので、特にレイア姫なんかマッチョで顔がごつくて、さすがにキャリー・フィッシャー怒るだろという感じである。ピーターの部屋に飾ってあったものだと、左から三番目のストームトルーパーや、一番右端のパイロットがそれっぽい形に見えるがどうだろうか。
 ぼくが幼少の頃初めて買ってもらったのもこの頃のシリーズだった。同世代のひとはやはり、緑色や赤色のライトセイバーとダース・ヴェイダーの顔がプリントされたブリスター・パッケージの台紙は懐かしいはず。
 この頃はまだ一応ハズブロがケナーというブランドを保持していたので、パッケージにもケナーのロゴが入っていたりする。そのためこのシリーズのこともオールド・ケナーと呼ばれることがあるが、それは間違い。あくまでオールドやヴィンテージと呼ばれるのは旧三部作公開時代、ケナーが独立して出していた頃のものだ。

 特別篇やEP1の公開を経て、ケナーのオフィスは閉鎖され、完全にハズブロに吸収される。以後、ハズブロは最新作『最後のジェダイ』に至るまで3.75インチ・フィギュアはもちろん、それが乗り込めるサイズの乗り物などたくさんのSWトイを生み続けてきた。時折ケナーのロゴをつけた復刻パッケージとかも出していたが、そういったヴィンテージ・シリーズが来年また再始動するという話もあるから楽しみである。

 ちなみに3.75インチという半端な数字はどこから来たのか。当初ルーカス・フィルムは当時定番だった8インチくらいのフィギュアをケナーに希望していたが、ケナー側はSWに登場する宇宙船やスピーダーなどの乗り物に可能性を見出し、フィギュアもそれらの玩具に乗せられる大きさにしようと考える。そこでどれくらいの大きさだったら乗り物もそこまで大きくせず遊びやすいサイズにできるか検討している最中、ある社員が「これくらいでどうだ」と親指と人差し指の距離でもって示したところ、もうひとりがそこを測ったら「3.75インチ」だったという逸話がある。こうしてこの非常に半端な数字は今日に至るまでSWのみならずあらゆるフィギュアにおいて定番スケールのひとつとなった。もちろんスパイダーマンをはじめマーベルのフィギュア・シリーズにもこのスケールはある。

 最後になんとかスパイダーマンに戻ってこれた。でもここで思い出したから書き加えておくと、『E.T』にもオールド・ケナーのSWフィギュアがいくつか登場し、主人公エリオットが「カルリジアン、ボバ・フェット、ハンマーヘッド」などとキャラクター名まで言いながら遊ぶシーンがある。『ホームカミング』よりもちゃんとフォーカスされるので、気になる方は見返してみよう。 
 

2017年10月11日

展示のお知らせ「Back To School」


 渋谷のSiS / Violet And Claireにて10月11日から「Back To
 School」と題して展示をさせていただきます。イラストレーションの展示・販売とグッズの展開を予定。普段デジタル彩色ばかりですが、展示なので肉筆原画を展示したいと思います。ちゃんと絵の具で色を塗りました。

以下、SiSのブログより抜粋。

MIZMARU KAWAHRA presents - "Back To School" exhibition
10/11 - 10/17 at Violet And Claire / SiS 
渋谷区宇田川町36-2 ノア渋谷308 
(東急ハンズ向かい、HMVが1Fに入ったマンションの3F)

WEEKDAY (10/11、12、13、16、17):14:00 - 20:00 
WEEKEND (10/14、15) 13:00 - 19:00


2017年10月6日

ぼくの考えたSWプリクエル

 『スター・ウォーズ』シリーズの前日譚三部作、いわゆるプリクエル三部作を個人的に補完しておく必要がある。世代的にぼくはプリクエル三部作が好きな方だが、贔屓目に見てもここがこうだったらなと思うところは少なくない。オリジナルにある程度の敬意(果たしてどのくらいなのか自分でもわからないが)を払いつつ、部分的にこうしたらどうか、というくらいにところどころをアレンジして、項目ごとに書いてみたいと思う。
尚、各エピソードのことはEP+数字で表記する。


・ミレニアム・ファルコンの旅

オリジナル三部作でのミレニアム・ファルコンのような主役格の宇宙船の不在は、プリクエルにおけるSWらしさの欠如に繋がっている気がする。EP1では女王の船、ナブー・ロイヤル・スターシップに一行が乗り込んで旅をするが、もちろんファルコンほど個性を与えられているわけでもなく、登場するのもEP1一度きりだ。ハイパー・ドライブの故障で途中修理に立ち寄らなければならなかったり、女王を連れた悪の手先からの逃避行はファルコン号の冒険にも通じるところがあるが、ヌビアンにファルコンの代わりが務まっているとはとても言い難いだろう。

EP2にも同じようなクロムメッキの曲線美を持ったナブー船でアナキンとパドメが旅をするが、この船も移動手段以上の意味はなにも持っていない。オビ=ワンのジェダイ・スターファイターのほうがよっぽど冒険の友っぽい(惑星ジオノーシスに置き去りにされてしまうが)。
プリクエルに登場するメカは、どれも独創的で色や形など個人的に好きなのだが、どうもひとつひとつが愛着を持って大事にされていないというか、使い捨て感が否めない。ちょうどそこにあったから使われているという感じ。いちばん乗り手が思い入れを持ってそうなものと言えばアナキン少年のポッド・レーサーだろうか。少年の手で組み立てられ、少年を束縛から解放するのに一役買う乗り物だが、もちろんその後の旅に同行することはない。

EP1のナブー・ロイヤル・スターシップがEP3まで引き続き主人公たちの乗り物になればよかったのだろうか。いや、いっそミレニアム・ファルコンをEP1から登場させればいいのだ。後にシークエル三部作でもファルコンが主人公の愛機として飛び回ることを考えると、プリクエルにもファルコンが登場したほうが、シリーズ全体がファルコンの旅の軌跡にもなる。プリクエルでの持ち主から巡り巡ってハン・ソロへ、そしてレイに。様々な持ち主の手に渡っていく感じもファルコンらしい。
ではプリクエルで誰がそのオーナーにふさわしいだろうか。ぼくはとりあえずクワイ=ガン・ジンをファルコンの最初の船長にしてみたい。はみだしジェダイのクワイ=ガンが乗り回していた頃はまだガラクタのような見た目ではない。船体ではどの部品もおさまるところにおさまり、一貫した色使いのパネルできっちり覆われていて、几帳面に手入れされているせいか、それともジェダイ騎士団や共和国というバックアップがあるせいかレーザー跡等の傷やエンジンの不調は少ない。クワイ=ガン・ジンとオビ=ワン・ケノービの師弟はこの船で銀河中を旅してきたのだ。

オビ=ワンがファルコンに乗り込んだことがあるなら、どうして彼はモス・アイズリーの酒場でハン・ソロと出会ったときに知らんぷりしているのか。簡単だ。かつてクワイ=ガンが所有していた頃はミレニアム・ファルコンなんていう名前ではなかったのだ。だから酒場で胡散臭いコレリア人から船名を聞いたときにはその船だと気づいていない。ドッキング・ベイ94に降りていってその姿を見たときに、初めてそれがかつて自分が乗っていた船だと気づく。その瞬間いろいろな記憶が蘇ってきて非常に感慨深くなるわけだが、なにも言わないでいたわけだ。いや、輝かしい時代を友にした船が下品なならず者の密輸船となり、あまりの変わり果てた姿にショックを覚えてなにも言えなかったのかもしれない。とにかく黙っていた。ルークに父親のことを聞かれたときに本当のことを話さなかったのと同じような心理だ。

EP1ではクワイ=ガンとオビ=ワンが後にファルコンとなるこのYT-1300貨物船でナブーを危機から救いに行く。途中原住民のタフな戦士ジャー・ジャー(こいつの新しい設定はあとで説明する)と出会ったりしながら、アミダラ女王を連れて侵略軍から逃れる。しかし、船は追っ手からの攻撃でハイパー・ドライブに異常をきたし、修理のためタトゥーインに立ち寄ることに。あとはご存知の通りの展開だ。クワイ=ガンはナブーの戦いの最中にシスの暗黒卿ダース・モールとの闘いに破れて命を落とすが、船はオビ=ワンとその新たな弟子、アナキン・スカイウォーカーに受け継がれる。

ファルコンにアナキンが乗り込むというのも重要だ。ハン・ソロのファルコンがどうしてあそこまで特別な船になり得たのか。それは天才的メカニックでありスピード狂でもあるアナキンの魔改造が基盤にあったからこそだ。クワイ=ガンの死後、オビ=ワンとアナキンはこの船で冒険を繰り広げるわけだが、アナキンは師に無断で様々な改造を施してしまう。オビ=ワンはそのたびにやれやれと呆れるが、いつもその改造のおかげで危機をかいくぐれたりするわけだ。

EP5でダース・ヴェイダーがファルコンとその乗員を執拗に追い回すのは、もちろんその乗員を餌にルーク・スカイウォーカーをおびき出そうという魂胆もあったが、同時にファルコンがかつて自分と師が乗っていた船だと知っていたからでもあった。今や忌々しい記憶の残滓となったその船を完全に破壊して葬り去ることで、アナキンだった頃の記憶も完全に葬り去ろうとしたのだ。

アナキンによる数々の改造と、クローン大戦の戦火により船はいよいよガラクタ的になっていく。ところどころ煤で汚れ、つぎはぎだらけになり、瑞丸版EP3の頃にはEP4のファルコンにぐっと近づいてくる。
アナキンの闇への転落、ジェダイ粛清によるオビ=ワンの隠遁に伴い、船はジェダイの持ち主たちの手を離れ、銀河のマーケットに流れて行く。あるときは平凡な貨物船として使われ、あるときは海賊船と、様々な人々の手に渡っていき、優男なギャンブラーの持ち物となり、そのギャンブラーを打ち負かした密輸業者ハン・ソロの手に渡ることになるのだ。
ミレニアム・ファルコンを登場させることでプリクエルもオリジナルもシークエルも繋がってくる。まあ、若干世界が狭くなってしまうところもあるが。


・タフな戦士ジャー・ジャー・ビンクス

 プリクエル世代なのでジャー・ジャーは個人的には普通に好感の持てるキャラクターである。むしろ原初的なイメージではこいつこそSWのキャラって感じさえした。まあ、今はそこまで思わないが、それでもジャー・ジャーは「幼少の頃のSW」のイメージと結びついている。というか、クリーチャー・デザインとしては普通に良いと思う。

とは言え、落ち着けよお前と言いたくなるシーンはいっぱいあるし、訛り(と言っていいのだろうか)は本当にひとを馬鹿にしているとしか思えない。そこでジャー・ジャーを出来損ないのバスター・キートンからタフな戦士へとアレンジしてみよう。ああ、本当に良い意味で彼がキートンやチャップリンの雰囲気をまとい、SW世界にうまく溶け込んでいたら大成功だったのになあ。

アニメ・シリーズ『反乱者たち』におけるゼブというキャラクターは、主人公一味におけるチューバッカのような頼れる異星人キャラだ(『反乱者たち』一味の場合はリーダーである船長も異星人だが)。大柄でタフで、少しひねくれていて乱暴だがユーモアと情に熱い戦士である。外見はチューバッカのボツになったデザインが取り入れられているが(そのことをネタにしているのか、自分を毛の無いウーキーにたとえるくだりがある)、チューバッカとは別個のキャラクターが確立されていて見事だ。

チューバッカのポジションだが全く別のキャラクター。これをジャー・ジャーで実現できればどれだけよかったことか。というわけでぼくの考えるプリクエルではジャー・ジャーはゼブのようにタフとユーモアを両立させたキャラクターにしてみたい。とにかく身体能力が高く(沼に飛び込んで泳ぐジャー・ジャーは確かにチューイよりアクロバティックである)、パワーもありひとつひとつの所作が雑で乱暴だが、その分抜けているところがあって失敗してしまう。自分が引き起こしたドミノ倒し的な騒ぎに本人は気づかず至って平然というキートンっぽさ、チューイとは違い機械には強く無いのでわけもわからず無意味な作業を延々と続けるチャップリンっぽさなど。それでいてここぞというところでは頼りになる力持ちだ。本来ならグンガン族は偉大な戦士たちである。ジャー・ジャーは追放された落ちこぼれだが、それでも戦士としてのパワーを備えているのだ。

乱暴者というイメージは食い意地を張るイメージともぴったり合う。このバージョンのジャー・ジャーもまたなんのためらいもなく露天に吊るされたカエルに舌を伸ばして食べてしまうだろうし、スカイウォーカー家の食卓でも行儀悪く舌を伸ばすことだろう。セブルバに絡まれるところでも、やられっぱなしではなく、持ち前の喧嘩っ早さが原因でもはや殺し合いにまで発展しそうなムードを、アナキンが止めに入るとか、いいんじゃないかなあ(アナキンも喧嘩っ早いのにね)。


・オビ=ワンの酒場慣れ

EP4でオビ=ワンは若きルークに対し、モス・アイズリー宇宙港の危険さについて警告し、案の定酒場で悪党にからまれたルークを助ける。酔っ払いの腕を斬り落とすという無慈悲さは、それまで温厚な老人にしか見えなかったオビ=ワンがめちゃくちゃ強いということを垣間見せてくれる(ちなみに小説版では腕どころか脳天から縦に真っ二つにしてしまう)。

アンダーグラウンドな世界に慣れている様子はプリクエルでも見られる。EP2で暗殺者を追ってナイトクラブに入ったとき、オビ=ワンは弟子のアナキンに「一杯やりに行く」と言い残してカウンターに向かう。そこでドラッグの売人にからまれるが、お馴染みのマインド・トリックで退散させ、背後から忍び寄った暗殺者の腕を、例によって斬り落としてしまう。そりゃEP4の酒場も慣れてるよなと思わせるくだりである。
しかし、前日譚であるなら、どうしてそんなに暗黒街に慣れたのかという経緯を描写して欲しかったりもする。EP2のナイトクラブのシーンではすでに完成され過ぎている。というかEP4の酒場と同じことをしただけのような気がする。

個人的には、EP1でクワイ=ガンとともにモス・エスパの酒場かなにかに入り、舐めてかかったためにゴロツキにからまれたところを師匠に助けられる等のシーンがあってもよかったのではないかと思う。ルークと全く同じ失敗はあからさますぎるとしても、クワイ=ガンに諭されるとか。酒場のことに限らず、EP1のオビ=ワンには未熟さがほとんどが見られず(優等生ということなんだろうけど)、もうちょっと修行中の弟子っぽさがあったほうが、前日譚らしさが出ると思うんだけどなあ。


・クワイ=ガンの必要性

オビ=ワンがそこまで未熟でないのなら、だんだんクワイ=ガンというキャラクターの必要性も疑問に思えてくる。名優リーアム・ニーソンが演じた偉大なジェダイ・マスターの存在を抹消するなんてことはさすがに勝手の利く二次創作でも躊躇われるが、それだけオビ=ワンが弟子っぽくないのだ。やたら崖っぷちでぶら下がったりするものの、失敗らしい失敗をほとんどしない(せいぜいライトセイバーを落とすくらい)。ギリギリやられそうだったとは言え、最終的に師匠を殺した敵を倒してしまうほどよく出来た弟子だ。

クワイ=ガンがいないバージョンを考えるのなら、オビ=ワンは弟子を持たない一匹狼だったところに、アナキンという特別な少年が現れ彼を訓練することをヨーダに熱望するとか。現行だとオビ=ワンがアナキンを修行させたがるのって、クワイ=ガンの最期の望みだったから以上の動機を感じられないんだよね。タトゥーインから出発する際には新しく旅に加わったアナキンをはっきりお荷物扱いするし、彼を修行させたがるクワイ=ガンには反対する。それまでずっと嫌がっていたのにマスターが死に際にそう願ったからというだけで最後にはアナキンを弟子に取る。少なくとも観ている限りではそう見える。オビ=ワンとアナキンの関係についてはまた後述したい。


・ベイル・オーガナ救出

EP4でレイア姫のホログラムは隠遁する老オビ=ワンに対してこう告げた。
「あなたはかつてクローン大戦で父を救ってくださいました」
プリクエルにはレイアの養父ベイル・オーガナが直接オビ=ワンに助けられる描写はない。むしろオビ=ワンがベイルに助けられている(EP3にて、ジェダイ粛清後)。レイア姫は「ジェダイが共和国や元老院を守るために戦った」という広い意味で、「父を救った」という言葉を口にしたのかもしれないが、それでも少し違和感がある。そこはやはりプリクエルにてオビ=ワンがベイルの命を助けるくだりがあったほうが直接的でわかりやすいのではないか。レイアとパドメ・アミダラという実の母娘の共通点はもちろんたくさん描かれるが、養父ベイルにも、後のレイアを彷彿とさせる経験があってもよかったと思う。


・クローン大戦の再構築

 「クローン大戦」という言葉だけはEP4の時点から登場する。ぼくは 2002年のEP2公開のときに本格的にSWにハマり始めたのだけれど、10歳の少年は25年も前に公開されたEP4にすでにこの言葉が出てきたことにわりと驚いたものだ。そんな昔から考えていたのか!という驚きと同時に、子供ながらに全然趣が違って見えるEP2とEP4を同じシリーズの話なんだなあと感じられた。
 そんなわけなので、リアルタイムでEP4を最初に観たひとたちはルークやレイヤのセリフにだけ登場する「クローン大戦」という言葉を聞いて、どんなものを想像したのだろうか。非常に想像を掻き立てられる用語だと思う。

 プリクエル以前のクローン大戦のイメージに関するヒントは、EP1公開よりも前、1991年から93年に刊行されたスピンオフ小説のシリーズ、スローン三部作に少しだけ見つけることができる。EP6で大敗した帝国を再建し、反乱軍が樹立した新共和国に反撃しようとする天才戦略家スローン大提督が、兵員補充のためにクローン技術を手に入れるくだりがあるのだが、そのことを知った登場人物たちは恐怖に震え上がる。クローン兵士の再来は、クローン大戦の悲劇が繰り返されることを意味していた。そこでは後に描かれるようなクローン大戦像とはだいぶ違う、無表情な兵士たちが絶え間なく投入され続ける、終わりのない戦争のイメージが語られる。悪夢的かつトラウマ的な戦争であったことが際立っているのだ。

 おそらくこのイメージにおいては、両陣営がクローン兵士を投入する戦争だったのではないだろうか。実際のプリクエルでも共和国がクローン軍、敵対する分離派がドロイド軍という、どちらも大量生産の兵士を投入するので、物量対物量の果てし無い戦いというところは再現されている。心を持たないドロイド軍もそれはそれで恐いものだが、両陣営ともにクローン軍だったら、より不気味で恐ろしいものとなっただろう。それに、クローン軍同士の戦争の方が、クローン大戦という名称がしっくりくる。もちろんナポレオン戦争みたいに片方だけの陣営にちなんだ呼び方をされる戦争はあるにはあるが。ドロイド軍の影が薄いんだよね。

 EP2でクローン軍が投入されて開戦するまでの展開も、どうも釈然としない点が少なくない。明らかに先に分離派の領域を侵したのはオビ=ワン、アナキン、パドメであることとか、そんな3人を救出するために大勢のジェダイが駆けつけたり(分離派との緊張状態に蹴りをつけようとしたのかもしれないが)、秘密裏に製造された明らかに陰謀の匂いしかしないクローン軍をなんのためらいもなくヨーダが連れてくるところとか。最後のが個人的にいちばんひっかかる。

 まずヨーダが全然陰謀の存在を察知していないところ。ジェダイはおろか共和国も関知していないところで、「共和国のため」という名目で軍隊が用意されていて、しかもその軍隊を注文したのは発注の時点ではおそらく死んでいたと思われるジェダイ・マスターなのである。いくらなんでも怪しすぎるだろう。怪しい上に、その軍隊とは戦うためだけに生み出されたクローン人間たちによって構成されているのだ。表向きには戦闘ドロイドや奴隷が禁止されている共和国にあって、どうしてこのような軍隊を容認できるだろうか。戦闘という特定の目的ために生み出されたクローン人間、これは戦闘ドロイドと奴隷を掛け合わせたようなものだ。そんなものを一刻を争うからといって賢者ヨーダが引き取って連れてくるのである。結果、クローン大戦は勃発した。

 分離派がドロイドを大量に製造、保有していて今にも共和国に攻撃を始めそうだったから、とりあえず理念や倫理、議論は後回して対処に向かったのだろうけれど、もう少しクローン兵士を使うことに抵抗があるような描写が欲しい。最終的に使うことにはなるのだが、そのあたりの葛藤を見せてくれたほうが物語に厚みが出来たのではないだろうか。もちろん、あんまりそっちにフォーカスするとそのことが際立ってしまうので、ほどほどにする必要があるけれど。
 でもEP2では一応、迫り来る脅威に備えるために共和国は正規軍を持つべきか否かという論争が起こっていて、パドメはその投票のために首都にやってくるんだよね。これまで大規模な正規軍を持ったことのなかった共和国が、一度でもその力を持てば果てし無い戦いが続くことになるだろうという懸念を持って、パドメは軍隊創設に反対するわけだけれど、そういった論争が持ち上がっているのは興味深い(今思えばどこぞの国も同じような問題に悩まされている)。同時にクローン軍の倫理性についての論争などもうまく織り交ぜられて入ればよりおもしろいのになあ。たとえばEP2冒頭からすでにクローン軍の是非が議論されているとかね。

 外側でクローン軍使用への葛藤が起こるのもいいが、クローン兵士自身が葛藤や苦悩に苛まれるという描写が多少はあってもいい。クローンたちがまったく悩んだりしないところがちょっと恐かったりもするのだが、たまに悩んでしまう個体が登場して始末されてしまうとか。なんだか『ブレードランナー』みたいだが、こういう話は『クローン・ウォーズ』にあってもよかったな。あるのかな。さすがのぼくも全話は網羅できていないが、確かジェダイ粛清命令であるオーダー66が誤作動したり、クローン軍やパルパティーン議長の秘密を知ってしまって脱走するクローンのエピソードはあった。彼は彼を脱走兵として追いかけた「兄弟」に撃ち殺されて終わる。

 『ブレードランナー』における人造人間「レプリカント」という名称も、複製を意味する「レプリケーション」から来ているので、クローンに通じている。クローン論争やクローンの苦悩などを盛り込むと、ブレランじみてしまうとルーカスが判断した可能性はある。そっちが主題ではないからね。でもなんとなく触れられる程度でもよかった。というかせっかくクローンを題材にしているのだから、そこを掘り下げないともったいないような気がするのだ。どうしても。

 たとえばレプリカントを製造するタイレル社のような企業が銀河に存在したらどうだろうか。実際にはクローニングは惑星カミーノの産業で、そこで軍隊が製造されるわけだが、カミーノアンがもっと商売熱心で、銀河中に自分たちの商品を売りたいと考えたらどうか。そこに大戦勃発とジェダイ抹殺を企むいち政治家パルパティーンの陰謀が絡んでくるのだ。パルパティーンはいち早くクローンの可能性に目をつけると同時に、裏の顔である暗黒卿シディアスとして分離運動を活発化させ、開戦への緊張を高める。シディアスとしてカミーノアンたちからクローン軍を買い、また共和国の議長パルパティーンとしてもクローン軍を買う。分離派はともかく共和国は民主主義なので反発や論争が発生するが、そこは議長の謀略と外面の良いカリスマ性でもっておさえつけてしまう。ジェダイは眉をひそめるが、彼らも元老院の決定には渋々従ってしまう。分離派がクローン軍を手に入れた以上、こちらも同じものでなければとても対抗できないことは皆わかっているので、クローン軍に頼るしかないのだ。カミーノアンは両陣営に兵士を補充し続けることになるが、彼らの立場は、なんか適当な法律だか協定だかで守られている。実際のクローン大戦でも確か銀行グループが両陣営に出資していたらしいし、なんかそういう感じで。ひとつの企業が両陣営に兵力を補充し続けるとか、なんかディストピアSF感ある。

 かくしてクローン軍同士の戦争が始まる。どちらも同じカミーノアンの製品であり、どちらもひとりの男の命令によって戦っている。ひとつの目的のために仕組まれた戦争。果てしなく続く戦いで星々は荒れ果て、市民は疲れ、ジェダイは理想を体現できなくなっていく。同一人物であるリーダーによってパワーバランスが調整され、分離派が優勢となる。共和国議長は厳しい状況であることを理由により一層戦時体制を強化し、市民の自由を制限した。そうこうするうちに分離派クローン軍は共和国中枢まで到達し、首都コルサントに攻撃をしかけた。首都が破壊され、激戦が繰り広げられた。

 やがてパルパティーン議長は共和国軍の大反撃を演出して英雄となる。首都に侵攻してきた分離派クローン軍も突如として降伏し、共和国軍のコントロール下に移る。この壮大な茶番により、絶望的な状況から首都を救い、希望をもたらした英雄を演出したパルパティーンの地位は、不動のものとなる。

 それでも戦争は続き、まだまだ分離派の脅威が健在であることを強調する議長は、非常時大権により次々と新しい議長令を発令し続けた。議長が直接指名した総督が各惑星に置かれて戦時における統治の効率化が計られ、元老院は形骸化していった。首都攻撃の傷跡は未だ生々しく、首都攻撃のような悲劇を防ぐために命令系統や手続きはより簡略化され、議長の権限は肥大化していった。もはやそれは皇帝といってよく、実際にも非公式にそう呼ばれた。

 ジェダイたちは変わり果てた共和国を憂い、コルサントを立ち去って遠い星でフォースの探求に努めようと決心するが、若きアナキン・スカイウォーカーは反発した。共和国中枢から離れるということは密かに結婚した妻とも会えなくなるからである。身重となった彼女を、スカイウォーカーはなんとしても危険から守りたかった。彼はまたジェダイという家族と議長という父親同然の友人との間で板挟みになり苦悩するが、議長が自らの正体をほのめかし、妻を守るためにはジェダイの技では足りないこと、ジェダイとともに立ち去るのであれば敵と見なし、妻の命もないだろうと告げられると、シス卿に怯え、最終的にジェダイの「逃亡」を議長に密告し、ダークサイドに教えを仰ぐのだった。議長はジェダイが敵に亡命しようとしたとしてその粛清を命じた。クローン軍を引き連れて聖堂を攻撃したのはシディアスから新たにヴェイダーという称号を与えられたスカイウォーカーだった。聖堂にいたジェダイは皆殺しにされ、銀河各地で任務に着いていたジェダイは現地のクローン軍に抹殺された。ジェダイ抹殺の際には各地で戦闘が中止され、両軍のクローン兵が一斉にジェダイを攻撃した。

 議長はジェダイの裏切りという非常事態を理由に、首都を封鎖して戒厳令を敷いた。情報が錯綜して混乱が起きるが、議長には好都合だった。ジェダイと親交を持っていたり、兼ねてより自分の政策に反抗的だった派閥の議員たちをも一夜のうちに粛清したのだった。ヴェイダーはそんな議員たちの抹殺にも手を染めたが、その所業は妻にも知れるところとなった。パドメは絶望したが、ベイル・オーガナによって連れ出され、オルデランへと逃れる。同じくコルサントを脱出したモン・モスマも合流し、パドメはそこで密かに小規模ながら抵抗組織が結成されつつあることを知った。

 やがてこの混乱を鎮め、再び危機を取り除くことに成功した議長は、とうとう"議会からの提案"を受ける形で帝政への移行を宣言し、自らを満場一致で推薦された君主とした。新皇帝から分離派の指導者たちの抹殺を命じられたダース・ヴェイダーはクローン兵を連れて火山惑星ムスタファーに向かい任務を遂行するが、密かに追ってきたオビ=ワンとの死闘に敗れる。

 粛清を逃れていたメイス・ウィンドウとヨーダは皇帝に戦いを挑むが、メイスは命を落とした。ヨーダもまた負傷するが、自我が独立して皇帝の命令に従わなかったクローン兵士たちが乱入し、皇帝を足止めする。ヨーダはクローンたちによって逃がされる。彼らは戦時中から自由意志を持つようになっており、脱走して姿をくらました者もいたが、共和国軍に残って行動を起こすタイミングを待った者も多かった。彼らは一連の粛清には加わらず、ジェダイを助け、オーガナ議員の一派と合流しようとしていた。皇帝を足止めした者は全員命を落としたが、残りはヨーダとともに逃れた。彼らは後に反乱同盟軍兵士たちを訓練することになる。

 クローン兵たちに火山の火口から救出されたヴェイダーは、コルサントに帰還する。皇帝はシスの芸術品として彼を復活させるよう命じ、かつて分離派のある将軍に施されたのと同じサイボーグ手術が行われた。皇帝は意識を失っているヴェイダーに対してシスの幻術をかける。彼の妻は行方不明となっており、報告では粛清の最中死亡した可能性があるとされていたが(オーガナたちの工作である)、そんなことを言えばヴェイダーが自分に牙をむいてしまう。そこで彼は怒りに駆られたヴェイダーが自分で妻を殺したという夢を見させ、それが事実であると思い込ませた。目覚めたヴェイダーは激しい怒りと後悔に苛まれ、シスの道を極めれば死者すら復活させることができるという皇帝の言葉にすがりつくのだった。これにより皇帝はヴェイダーにとって欠かせない師となることで弟子の裏切りを予防したが、ヴェイダーの強いフォースは彼に真実をうっすらと察知させていた。師は嘘をついている。だが彼から得なければならないものがまだある。それまでは従順な弟子でいることにしよう。かくして何度も繰り返されている欺瞞に満ちたシスの師弟関係が築かれた。

 一方パドメはオルデランで双子を出産し、衰弱した。
 この双子はスカイウォーカーの力を受け継いでおり、皇帝を倒すことのできる最後の希望だとオビ=ワンは主張した。ヨーダは子供たちを訓練すれば父親と同じような運命をたどるのではないかという懸念を抱いたが、他に望みはなかった。
 皇帝やヴェイダーから隠すため、男の子がオビ=ワンによってタトゥーインにいるアナキンの唯一の親類のもとに預けられ、女の子の方はオルデランに残された。オーガナは弱ったパドメとその娘を守るため、王としてふたりを家族に迎えた。当然パドメの存在は隠されたが、レイアは姫として表舞台に立ち、のちに最年少の帝国元老院議員にもなる。表向きのレイアの母親はブレハ女王であり、パドメとふたりでレイアを育てた。オルデラン女王とかつてのナブー女王は良き友人であった。
 レイアの成長とともにパドメはいよいよ衰弱した。王女が物心着く頃にパドメ・アミダラは息を引き取った。レイアのわずかな記憶に残っているパドメは、いつも物憂げな表情を浮かべていた……。

 なんだかだーっと書いてしまったが途中からクローン大戦どころかもうEP3を作り変えてしまった。別にこっちのほうがおもしろいとは思っていないが、思いつくままに書いた。とは言え一応個人的に釈然としなかったところはフォローした。ジェダイが共和国を見限って文明での権威よりも探求の道を選ぼうとするところとか、好きである。アナキンがキレてパドメを手にかけるところもなんだか言い知れぬアホらしさを感じずにはおれないので、このように変えてみた。より皇帝がずる賢く見えるし、アナキンへの同情の余地がある。
 オーガナとパドメの関係は、1980年頃にキャリー・フィッシャーがローリングストーン誌によるインタビューで触れたレイア姫の身の上に関する解釈を参考にした。曰く、レイアの母親は夫が闇に転落したのでキング・オーガナと結婚した。自身の母親の離婚歴や父親の薬物乱用などの過去と重ね合わせての彼女なりの解釈である。ぼくはこれが非常に気に入っている。なんか、ハリウッドっぽいなあというところもあるんだけれど、EP6でレイアが語る母親の記憶問題も解決する(ぼくとしては普通にブレハ女王のことを言ってるんだろうと思ったし、EP3のラストで彼女が登場するのもそのことへのフォローに他ならないんだけれど、なぜか公式設定ではブレハはEP4のオルデラン破壊で命を落としているとされている。公式さえレイアの発言をフォローする気がないのか……)。
 でも、パドメが本当にオーガナと再婚してしまうと、ヴェイダーから逃れた手前その存在を表に出せないパドメと、王女として表に出なければならないレイアを両立させるのが難しくなるので、あくまで実際のEP3のように、レイアは表向きにはオーガナ夫妻の養女とし、パドメはオーガナ家で保護される、ということにした。一夫多妻制にしてもいいかと思ったけどそれはあまりオルデランっぽくない。
 なんとかこれでいいんじゃないかな……。

 まだまだ補完したい点はいくつかあるし、時間が経ったらこのクローン大戦(というか改変EP3)についてもさらに改変したくなるかもしれないので、また書く。とりあえず今回はこのへんで。
 

違和感と偏り

 『スター・ウォーズ』とか『ゴーストバスターズ』とか、有名作品の主人公を女性に置き換える流れに反感を抱く男性諸氏が、やっぱり少なくない。ぼくの身近にもいて、大好きな作品たちが奪われてしまった、乗っ取られてしまったというような感覚すらあるらしい。なんとなくそのような話題になるたびに、うーん、どうにかわかってもらえないだろうかとぼくなりの考えを述べようとするのだが、実際の会話ではなかなか思っていることを言えないので、ここにちょっと書き留めておこうと思う。

 これまで男性の主人公ばっかりだったことに違和感を持ってみてはどうだろうか。これに尽きると思う。ぼくたちは男性なのでなかなか難しいかもしれないが、異性(女性)が主人公になることに違和感が持てるのであれば、異性(男性)の主人公が当たり前というこれまでの世界が偏っていたと思えるはずである。
 主人公が男性に設定されている場合、特に注目は集まらない。しかし、女性が主人公に設定された場合にはそのことが注目される。これも前者が当たり前で後者は特殊であるという価値観が根強い証拠だろうと思う。もちろん近頃はだんだん女性が主人公であることをわざわざ特筆する必要も無くなってきている。もとより特筆する必要はないのだ。
 今抱かれているであろう違和感は、これまでの偏りの大きさを表しているのだと思う。だから、その違和感自体は無理もないのかもしれない。ただ、それを反感や嫌悪へと展開させるのは、見当違いではないだろうか。
 別に、今日のこの流れは男性の主人公を駆逐しようというのではない。全ての主人公を女性にするのだったら、それは単に性別を入れ替えて同じことを繰り返すだけなので意味がないと思う。単に反動ではなく、バランスをよくしようという前向きさからこのような動きがあるのだと思う。 

 性別だけでなく、いろいろな人種のひとの登場が際立って見えるのも、これまでの作品にあまりにも登場しなかったためである。もしかしたら無理矢理なキャスティングに見えるかもしれない。それが無理矢理に見えるのも、これまでが無理矢理だったことの裏返しなんだけれど、今ここでちょっとくらい強引でも勢いをつけて変化を投じないと、大きく変われないのではないかと思う。それくらいこれまでの偏りは大きいのだ。変わっていく様子を、見守ってはどうだろうか。

 世の中にはそれはもうたくさんの人種がある。肌の色もたとえ同じ民族に数えられてもひとそれぞれ膨大な数がある。その全てのひとが共感できるよう配慮したキャスティングは不可能と言っていいだろう。しかし、それでもいろいろな人種が登場することで作品は厚みを増すと思う。カラフルになると思う。いろいろな地域でいろいろなひとが楽しめるものになるのではないか。ましてや広大な銀河系を舞台にした作品ならなおさらであろう。
 というか、ぼくとしては自分と同じか、近い人種のひとが大好きな作品に登場したらうれしいものなんだけれど。
 

2017年10月4日

ミニマリズムとオタク

 ミニマリズムにちょっとした憧れがある。
 別にミニマルがミズマルと似ているからというわけではない。ある程度まで切り詰められたデザインや、簡略化を追求したデフォルメ、それでいながら確かな個性を発揮させるあの具合が良いのである。
 近頃は生活様式にもこの言葉がよく使われている。ミニマル(最低限)な調子で整えられた部屋やライフスタイルにも、やはり憧れる。ぼくはご存知のように所持品の多いタイプのオタクなので、そういう一見無欲で渋い感じがかっこよく見えるのだ。そういうのに憧れて、一度物をたくさん手放したこともあった。
 
 とは言え、物をできるだけ持たないこと、物を所有することを絶対悪みたいに捉えることがミニマリズムというわけではないと思う。一見無欲と前述したが、それはそう見えるというだけで別に禁欲的なジェダイのような生活(ぼくはプリクエルで提示された、あの融通のきかない禁欲的なジェダイ像があんまり好きじゃないんだよなあ)ではないはずだ。ぼくが憧れるのは、ゆったりしたスペースを保ちながらもお気に入りの品物がちょこちょことセンスよく飾られているような部屋なのだ。

 小物はおろか家具すらもなにもない、不動産屋さんと一緒に内見に来たときのままみたいな、がらんとした部屋の真ん中にぽつねんと座って白米だけを食べているというようなヴィジュアルには、なにも惹かれない。というかそれはたぶんミニマリストではなくただの苦学生である。なにかが違うと思う。

 そもそもこの思想は美術や建築等の分野のものだ。なにか作品を作ろうというひとが、品物の所有や購入をそこまで否定するだろうか(中にはそういうひとも多少はいるかも)。そういった美術的文脈とは関係なく、流行りのライフハック的な記事だけを鵜呑みにしたひとびとが、ああいうなんのセンスも感じられない、逆に貧乏臭いだけの部屋をミニマルだと思い込んでしまうのではないだろうか。ミニマリズムはケチになることではないはずだ。

 と、ひとの生活はともかくとして。
 ミニマリズムとオタク趣味の両立は可能だろうかといつも考えている。たぶんできるのだろうけれど、そこには相当のインテリア・センスが求められると思う。もちろん問題は外観だけではない。コレクションに対する考え方、デザインへの意識が改めて試される。持ち物や部屋について考えを巡らせるということは、生活様式をデザインすることに繋がるはずだろうと思う。
 そう、なにが楽しいって、この、持ち物と部屋について考えることが楽しいのだ。かっこいいコレクション、かっこいい飾り方、かっこいい部屋とはどんなだろうと考えると、ミニマルっぽいのが良いなあと思い至るわけだ。
 かっこいいだけでなく、すっきりさせたいのだ。僕はそれはもう集中力がない。なにか描いたり書いたりしていてもふとなにかに気を取られてしまう。それが周囲に置かれている物のせいだとは決め付けられないが、ほら、机の上を片付けてまっさらにすると気分が変わることがあるでしょう。ああいう感覚で気分転換をしたいのだ。それから、そう、頭の中もすっきりさせたい。

 恐らく、これからもぼくは好きな物を買ったり集めたり揃えたり作ったり飾ったりしまったりすることをやめない。大切なのは物を減らすことではなく、快適に暮らすことだ。その快適さを乱すノイズがあればそれを取り除き、好きなものや大切なものがクリアになるように努める。それがミニマリズムを取り入れた生活というものなのではないだろうか。

  引っ越しの際に持ち物の整理はいやでもしなければならない。というか、その良い機会とさえ言える。ぼくは2度目の引っ越し——実家から出てから最初の引っ越しということ——の際にたくさん持ち物を手放した。なにもない田舎から出てきたせいか、初めての都会生活でそれはもういろいろ買って楽しんだものだ。玩具とか本とか洋服とか。しかし、2年間の学生生活の間にいろいろと見聞きしていった中で、ひたすらに物を買うことにだんだん疑問を抱き始めていた(今思えばただ単に反動が来ただけなんだが)。まあ、それもひとからの受け売りなんだけどね。親元を離れてからの学生生活、それはもういろいろなひとのいろいろな意見に感化され、惑わされたものだ。そうして、そこに例の大地震が起こる。当時のぼくは森見登美彦作品に登場するような骨董アパート(の二階)で暮らしていたが、それはもう部屋がとんでもなく揺れた。もう随分時間が経つのでそのときの感覚を如実には思い出せなくなっているのだが、一瞬にして部屋の中にあった数々の品物のことがどうでもよくなり、なにも持たずに外へ出たことは確かである。自分なりに物への執着が強いと思っていたので、これが大変意外で自分でも驚いたものだった。
 それで、持っていなくてもいいものなんじゃないかという気持ちが強くなって、引っ越しに向けてその数を減らしてしまった。それでも自分が好きな物たちであることには変わりなかったので、捨てるなんていうことはせず、同じものが好きなひとたちに譲ってしまった。熱に浮かされたような愚かしい断捨離の真似事だったが、その判断だけはマシだったと思う。
 
 今となってはそれらを手放したということを後悔していたりする。それらが減ったことで引っ越しの荷物が少なくなり身軽になった、ということは全然なかったのだ、結局のところ。それに全てを手放したわけではなかった。これはさすがに大事だろ、というような物は手元に残しており、今もその粛清(?)を生き残った古参としてコレクションの中におさまっている。そんなわけでかなり中途半端であった。
 
 それ以来、なんでもかんでも無闇に捨てるということに懐疑的になった。手紙は読んだ時点で役割を終えているのだから保管していても無駄、一度読んだ本は本棚に置いておく必要がないから売れ、買ったもののいつまでも読む機会の来ない本も売れ、音楽も映画もデジタル・データで楽しめば十分だなどというスタンスの自己啓発、ライフハックに懐疑的になった。確かにそれを実践していけば物は減る。机の上が広くなる。部屋が広くなる。身軽になった気がする。いざとなればすぐに逃げ出せる。
 
 しかし、それはぼくに合ったスタイルだろうか。一度読めば十分だとひとからの手紙を捨て、一度読んだ本を読み返すことなく手放すというようなことが、ぼくのしたいことだろうか。ぼくはこれでもアナログなスタイルを大事にしている。手紙や年賀状、お誕生日カード等を保管しているスニーカーの箱を時折開けるのは楽しいものだ。熱心に読み返すことはしないけれど、こんなのももらったな、こんなポストカードもあったな、なんてぼんやりと見返しているのが楽しいのだ。それを無味乾燥な調子で捨てられるだろうか。
 ぼくに取って良い本とは読み返しても楽しい本である。二周目三周目と読み返すたびに新たな発見がある。何年も経ってから、前に読んだときよりも多少知識が増えて感性が変化した状態で読み返すと、全く違う印象を受ける文章や、そういうことだったのかと初めて気づくこともある。買ったまま読まないままになっている本は、それでも持っていさえすればそのうちタイミングが訪れるかもしれない。それが自分にとっての絶好のタイミングだろうと思う。手放したら、もう読む機会すら訪れないかも。縁が無かったということもあるが、少しでもそのうち読みたいなと思っているなら残しておいてもいいのではないか。
 地震のときの経験は、ぼくに物をたくさん持つというのはいざというとき不利になるのではないかと考えさせた。いざというときになったらこんなものは全部無駄なものになってしまう。
 そりゃそうだろうけれど、いざというときに無駄になるからといって現時点でも無駄で無意味だと言い切ってしまっていいのだろうか。そんなのは、いつかなにかの拍子に価値が暴落したら紙くずになってしまうからといって、お金を捨てるのと同じようなことだ。
 なにか起きたら、確かに割り切って逃げ出さないといけないかもしれない。必要な物だけ持ってゾンビパンデミックに陥った世界でサバイバルを強いられるかもしれない。しかし、そうなるまでは無駄なものに愛着を持ってもいいのではないだろうか。生きていく上で必要不可欠ではないものを大事にできるところが、人間の人間たる所以ではないだろうか。そんなことを言えば、ぼくが生業としている仕事もまた、最低限の生命活動を続ける上では必要不可欠ではない。
 そうなると、当のミニマリズムを掲げた美術や建築もまた無駄なものということになる。物を持たない生活、無駄や余地、遊びを捨て去った生活、衝動買いを嫌悪して自然な欲求をも否定した生活、そのようなややズレたミニマリズムは、本来のミニマリズムすら否定していくことになるのではないかな。
 
 ちなみにさっきゾンビ・パンデミックを例に出したけれど、「いざとなったら」という不安がなんとなく頭にあるのは、地震のことだけではなく、最近流行りの終末もののフィクション作品の影響もまた強いのだろうと思う。映画、ドラマ、ビデオ・ゲームと様々なところで終末系の作品は展開されている。このような世界になったらどんな装備でもってどんなふうに生きていったらいいのだろうと想像するのはそこそこ楽しい。楽しいと同時に、もっと実用的で役に立つ物を優先して持っていた方がいいのではと不安に思ったりする。しかし、そんなこと考えながら生きていても仕方がない。これは別に危機感がないとかそういうことではない。ある程度の備えは必要だけれど、そのことに取り憑かれて好きなものまで犠牲にし、今ある生活を楽しめないのは、それはそれでおもしろくないんじゃないかと思う。
 いずれ、自分に合ったミニマルなオタク趣味を体現できたらいいな。

2017年9月30日

営業報告

 いつもの連載に加えていくつかあるので、まとめて紹介。



 「SPUR」11月号(集英社)「銀幕リポート」第20回では、セオドア・メルフィ監督、タラジ・P・ヘンソン、ジャネール・モネイ、オクタヴィア・スペンサー主演『ドリーム』を紹介しています。
 『ビッグ・バン・セオリー』が大好きなぼくとしてはジム・パーソンズ扮する嫌味なキャラクターに注目。女性で有色人種である主人公を二重に見下すとともに、自らの頭脳を過信する自信満々なNASAスタッフ(学者なのかな?)なんだけど、なんとなく『ビッグ・バン〜』のシェルドンから愛嬌を奪い去ってもっと嫌なやつにしたような感じ(宇宙工学はハワードの専門だが)。シェルドンもわりと差別意識を隠さないところがあるし。でもこの人、顔がかわいらしくてマイルドなので、冷たさや乾いた感じはするものの、どれだけ意地悪な役でもいまひとつ憎めない。
 逆に主人公たちを同性の立場から抑圧するキルスティン・ダンストの役は心底憎たらしい。顔もなんだか怖い。でもキルスティン・ダンストを嫌いにならないでね(ぼくが言うまでもないが……)。
 同性だけど異色という隔たり、あるいは同色だけど異性という隔たり(本作の主人公たちは夫や恋人からの理解を得られるのでこの点はそこまで強調されてはいないものの)、二重差別はそんな厄介なねじれも生んでいることを思い知らされた。




 「婦人公論」2017/10/1号(中央公論社)ではジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第20回の挿絵を描いています。夏休みのラジオ体操のスタンプを引き合いに、習慣の継続と連続の違いに触れてらっしゃいます。連続でなくとも積み重ねが大事ということでブロック風。



 映画『ムーンライト』のソフト特典エッセイのひとつにイラストを。エッセイスト3名、イラストレーター3名で3組ずつなのですが、どなたの文章との組み合わせかは購入されてからのお楽しみだそうです。





 「HOUYHNHNM Unplugged」第6号(講談社)のゾンビ映画特集にカット数点。ゾンビなロメロとアルジェント、マイケル・ジャクソンを描いたりしてます。ゾンビ映画といえば今月公開した『新感染 ファイナル・エクスプレス』がおもしろかったですね。あれもそのうちイラストを描こう。




 オダギリ・ジョーが日系ボリビア人ゲリラを演じる映画『エルネスト』オフィシャル・ブックにレビューを描いています。アクション・フィギュアのブリスター・パッケージ風。これ他の映画のことを描くときもやってみようかな。




 「UOMO」11月号(集英社)にもカットを多数描いてます。なんか、ちゃんと人間が描けるようになったなあ。



 「損害保険を見直すならこの1冊 第3版」(自由国民社)の表紙にワンカット描いています。

 というところです。

2017年9月22日

画材について


 最近また画材を調整しているので、ここで一度振り返ってみる。
 色の塗るのは専らフォトショップでの作業になってしまったが、今もまだ線画は紙にペンで描いている。線を引くことが好きだ。ペインティングよりもドローイング派だろうと思う。
 
(よく見るとペンのお尻にたくさん噛んだ跡が……)

 ステッドラーのピグメント・ライナーと出会ったのは美術学校に入ったときだった。最初に一括で購入した画材の中にあったのがこのペンのセットだった。0.05、0.1、0.5、1.0ミリの4本セットだったと思う。このペンを使うのはもちろんドローイングの授業で、この授業には製図作業も含まれていたが、好きな授業だった。描く楽しさや大変さ、物の形の捉え方を覚えられた。授業としてはデッサンよりも自分に合っていた気がする。もちろんデッサンは軽視していないが、デッサンがどうも苦手というひとは、ペンによるドローイングという形で物や人体を描くのがいいかも。
 エドワード・ゴーリーの作風が好きだったので、0.05や0.1をよく使って描いていた。ゴーリー的な線の引き方にはぴったりだ。細かい作業も好きだし、なんといっても描き味が好きだった。滑らかで、加減次第ではかすれた線も出る。扱いやすかった。当然入学時に買ったものはすぐインクが切れたので、画材店で買い足し、他の太さも試してみた。結局いちばん多く使ったのは0.5だと思う。ちなみに学生時代によく使った画材店は神保町にある文房堂である。学校は曙橋だったので、千葉方面から通っていたぼくは新宿の世界堂まで行くよりも、都営新宿線の神保町の方が定期内だったので行きやすかった。そのおかげで神保町界隈を散策を楽しめたし、秋葉原にもよく行けた。あのあたりは今でも好きだ。ちなみに文房堂は母もよく使っていたらしい。
 
 学校を出たあとも変わらずこのステッドラーを使い続けた。しかし、だんだんと線に物足りなさを感じるにようなった。扱いやすく、思った通りの線が引けるものの、そのぶん強弱がなく偶発的な変化も出づらい。画家になる前の、商業イラストレーター時代のウォーホルの線に憧れてもいたので、ああいう途中で太さが変わったりにじんだりする線はなにを使えばいいのかなあといろいろ調べた。
 その頃は水彩絵の具で色をつけていたので、線のインクは耐水性である必要があった。それでとりあえずGペンというのを使うことにした。ゼブラだ。カートリッジ式ではなく、瓶のインクにつけて描くというところがかっこいいじゃないか。それになんだか漫画家みたい。


 これに慣れるのにはペンタブレットに慣れるのと同じくらい時間がかかった。全然思ったように引けない。意図しないところでぶちゅっと、インクが多く出てしまったりする。細かいところを描いているときにそうなったら悲惨である。それで、あまりインクをつけすぎないようにする。ペン先につけるインクが少ないとそのぶん頻繁に瓶につけなければいけなくなるけれど、変ににじむよりはいい。にじみを求めて使い始めたのに結局にじみを避けるようになってしまった。そうやって何枚もケント紙で練習するうちにいくらかはマシになり、仕事の絵もこれで描くようになった。ちなみに週刊文春での「お伊勢丹より愛をこめて」の最初のほうはステッドラーだったけれど、途中からGペン。翌年の「ヤング・アダルトU.S.A」の挿絵も全てこれで描いた。つまりこれまでの仕事のほとんどはこのペンで描かれているのだ。中には時間的問題で線画もデジタルで描いたりしているが。
 

 インクはこんなかんじ。開明のドローイングゾルーT、フィルム製図液墨。耐水性かつ遮光率が高いということで手を伸ばした。ステッドラーの製図ペンは日に当たったりすると薄くなってしまったりする。しかし、随分液体が濃いので描画面がもこもこしてしまったりする。普通のコミック用としてニッカーのコミック・インクも使った。
 それでかれこれ3年ほどGペンとインクで続けて来たが、未だに線をコントロールし切れない。似顔は必ずといっていいほどスキャン後にフォトショップのブラシで描き直すし、細かい描画もだいたい描き直す。インク量もコントロールできないのでなかなか綺麗な原画を作れない。汚くにじんだものばかり。するとだんだん原画に重きを置く感覚も薄くなってくる。紙に描くのはあくまで素体、本番はスキャンしたあとのデジタル作業というようになった。前述したようにいちからデジタルで描いたものも多い。Gペンが使いこなせないおかげで、デジタルでの描画が上達したとも言えるから、それは全然悪いことではなかった。デジタルを覚えたことで本当にいろいろと幅が広がったと思う。イラストの仕事は全てデータ納品なので、デジタル上で仕上げて完成させてもなにも問題はない。まあ、そんなわけで原画での完成度がどんどん下がっていったわけ。

 いくらでも修正、改変ができるデジタル作業に慣れきったため、アナログ作業での緊張感も薄れてしまった。どうせ後で直せるからまあいっか、みたいな感じ。
 プロのイラストレーターや漫画家の多くがGペンを使いこなしている。ぼくも使いこなせないといけないんじゃないかとずっと思って苦手ながらに使い続けて来たが、だんだんなんのためにこれを使っているのかわからなくなってきた。Gペンでへなへなに描いたものをコンピューターに取り込んでフォトショップで描き直す。この工程に意味があるのか。全くないとは思わないが、なんだかなあ。
 で、なにが問題かというと、なんと言ってもGペンがうまく使えないということにある。上達させればいいだけの話だが、これがなかなかうまくいかない。描きたいものが描きたいように描けないというのはなかなかのストレスだ。楽しくないことをあえてする必要があるだろうか。ステッドラーの製図ペンを使いさえすれば、思い通りに描けて楽しい。そりゃ確かに強弱はつけづらいが、その分いろいろな太さが用意されている。太い線が引きたければマーカーを使えばいいのではないか。
 というわけでつい最近はまた製図ペンを使い始めた。しばらくはイラスト記事中の文章部分にしか使ってなかったが、久しぶりに絵を描くのに使ってみたら、やっぱり非常に描きやすく、線の動きも読み取れて最高である。なにより手が疲れないし痛くならない。Gペンは変に力が入ってしまい手や腕が非常に疲れる。作業するにあたり手に負担をかけないのも重要だ。あえて辛い思いをしてまで描きたくない。製図ペンは非常に心地良い。今のところは自分にあった道具なのかもしれない。
 Gペンはすっかり諦めたわけではないけれど(使っていないインクもまだ随分残っている)、とりあえずメインで使うのは製図ペンがいいかもなあ。ロットリング・イソグラフというのにも興味があるので近々使ってみたい。


 おまけ。無印良品のこすって消せるボールペン。ゲルボールペンの書き味でありながらキャップ先端についているラバー部分でこすると鉛筆のように消せる優れもの。近頃の書き物は全部これ。漢字を間違えても綺麗に書き直せるので、日記のページもずいぶん見やすくなった。書き直しもできるので紙の上での創作もやりやすい。まあボールペンなので書いた跡が深いし、こすって消すたびに紙もよれよれになってしまうので、無限に書き直せるわけではない。
 画材、文具事情はこんな感じである。

2017年9月20日

スコッチエッグ

 インターネットの楽しいところはなんといっても外国のひととやり取りできるところだ。と言っても今までそんなに何人もやり取りしたわけではないけれど、スコットランドのイラストレーターの女の人とは高校以来ちょくちょくやり取りをしている。高校時代に閲覧範囲がぐっと広がったときに彼女のブログを見つけて、ミリペンによる繊細なタッチと、しっかりした画力に裏付けられた絵が素晴らしかったので、つたない英語で感想を書いてメールしたのが最初だったと思う。以来インターネットの過剰な情報量に圧倒されてたびたび興味の対象を変えながらも、それでもなんとなく安定して使用できるSNSの登場で彼女とのやり取りを続けられている。インスタグラムではスコットランドの織部色の山々の写真を観ることができて、あちこち岩が散在している霧のかかった草原は、まさにホグワーツ城を目指したホグワーツ特急が煙を吐きながら通っていたような景色で、同時にシャーロック・ホームズが魔犬との闘いを繰り広げていそうな景色でもあった。あの環境があのかっこいい絵のタッチを生むんだろうか。繊細さと硬さが同居して、ドライで古風、けれどそこまで無愛想でもないあのタッチ。
 先日、珍しくフェイスブックのメッセンジャーに彼女からメッセージが届いた。たまごっちが欲しいが手に入らないのでそっちで売っていないかなという内容。もちろん売っているので、アマゾンのリンクを貼って返信した。オリジナルが欲しいということだったけど、ガチの96年製よりも最近出た復刻版の方が安いし新しいよ。復刻版を探してたから全然オーケー。
 さて購入方法である。日本のアマゾンにあったわけだが、これは外国のひとも購入できるんだろうか。こっちのひとでもアメリカのアマゾンを利用している人はいるけれど、アカウントを別に作ったりしているんだっけ。なんだかよくわからない。そんなことも知らないのかと言われそうだが、ぼくはなんだかんだネットに疎く、外国のものを買うのはもちろん、通販だって実のところよくわかっていないところが多い(我が家が使うアマゾンのアカウントは専ら妻のもの)。方法はいくらでもあるんだろうけれど、それを英語で説明するのも面倒くさいし、ある程度は向こうだって調べていることだろう。代理購入してペイパルかなにかでお金のやり取りしたっていいけれど、それも面倒くさい。ていうか、そんなに高いものじゃないし、プレゼントしちゃえばいいじゃん。それに彼女、最近入院して脚の手術をしていたから、一応お見舞いになる。
 というわけで、よかったら買って贈りますよと言ったら、大変喜んでいた。それならこちらからもなにか贈るよ、UKのものでなにか欲しいものある?
 UKで欲しいもの。なんだろう。すぐに思いつかず妻に聞いてみると、例によってロンドン土産のコーギーのぬいぐるみとか言う。スコットランドに住んでるひとにロンドン土産を頼むのはどうなのか。と言ってぼくがぼんやり思いついたシャーロック・ホームズのグッズとかも同じことであった。じゃあハリー・ポッターの何かとか、ドクター・フーの何かとか?何かとはなんだろう。そしてぼくはドクター・フーを一度もちゃんと観たことがない……って結局オタクなグッズしか思い浮かばないので、なにかUKっぽいものを!とお任せでお願いした。と、さっきからスムーズに英語のやり取りができているように見えるが、実際は返信するたびにネット検索と翻訳アプリを使いまくって一文ずつひいひい言いながら書いていた。言いたいことを言いたいニュアンスのまま伝えようとするのが、一言で済むものでも大変。
 アマゾンからたまごっちが届いたが、小さな物なので箱の中にずいぶんなスペースが余っている。そこで妻のアイデアでスーパーでうまい棒をたくさん買ってきてスペースに詰めた。こうやってプレゼント贈るひとがネットにいたらしい。さらに原宿のキディランドに行ってピカチュウとかハローキティの食玩を物色する。スコットランドの彼女はこのあたりの日本製キャラクターものも好きなようだったから、気に入らないということはないだろう。でもあまり日本感出すのは趣味じゃないしダサいのでそのあたりにしておく。
 かくして箱の中はほどよくぎゅうぎゅうになった。手紙を書いて箱をテープで頑丈に封印する。この手紙ももちろんコンピューターに助けられながら書いた。文法的に正しいのか、体裁が整っているかは二の次で、とりあえず伝えたいことを、悪い意味に取られることのないように書いた、つもり。ぼくの場合はひとまずそれで十分だと思っている。それでもこれまで特に誤解や問題なくやり取りができているのだから、まあまあ伝わるだろうと思う。
 郵便局に行って、EMS(海外スピード郵便)の伝票を書く。自分で外国に手紙も出したことがないし、荷物も初めてだ。個数とかそれぞれの重さとか値段とかの記入欄があって少し焦ったが、ひとつずつ計算して書いていく。
「『Toys』って、具体的になんですか?」 
 郵便局のひとに聞かれたので、
「えーと、プラスチックでー」
 我ながらひどい答えだった。だいたいのおもちゃはプラスチックだ。積み木とかじゃない限り。
「なんか電池入れて動くとか?」
「動くといえば動きます」
「どんな電池?ものによっては送れないかもしれないんですよ」
「えーと、ボタン電池でー」
「ボタン電池、それなら大丈夫かな。それでどういうふうに遊ぶものですか?このあたり詳しく聞いといたほうがいいんで」
 ええい、言ってしまえ。
「ていうか、たまごっちなんですよ」
「ああ、たまごっちねえ。たまごっちって英語でなんて言うのかしらね」
 と同僚の女性に聞く。
「さあ、『タマゴッチ』じゃないの?」
「そう書いとくしかないのかなあ」
「エレクトロニクス・ゲームとかですかね」
 とぼく。適当である。
「じゃあ、ここんとこにそう書いといてもらえます?」
 iPhoneでエレクトロニクスのスペルを調べるぼく。すると背後で自動ドアがスライドして、歩み寄ってくる気配。妻だった。仕事の帰りとちょうどタイミングが合ったので郵便局にいると伝えていたのだった。
「書けた?」
 伝票を覗き込む妻。
 現状を説明するのが面倒くさいので適当に「うん」と言っておく。
「電池が何個入ってるかわかります?」
 と郵便屋さん。
「一個くらいかと……」
「じゃあボタン電池が入ってるよってことも小さく書いといてください」
 んー、ボタン電池って英語でなんて言うのかな。すかさず手のひらの中にあるグーグルに「ボタン電池 英語」と打つと「Button battery」と出たのでそのまま書こうとする。すると妻が、
「ちょっとちょっと、Coin Batteryだよ。ボタンって打ったらそりゃButtonって出るでしょ」
 ええい、うるさーい!
 そんなことはわかってる!わかっているが焦っているのだ。
 郵便局員ふたりと妻が見守る中こうしてぼくは初めて海外宛ての伝票を書き上げた。
 ああ、これでぼくはこの郵便局では「たまごっちのひと」となってしまうんだろうなあ。仕事の請求書を出しに頻繁に使うところなのに。今後は「来たわよたまごっちのひと」とか言われるんだろうか。
 本当にあれで問題なく届くのかな。少し不安だがもう出してしまったものは出してしまった。あとは祈るほかない。途端、ぼくの頭には税関でぼくの出したダンボールがとめられる光景が浮かんでくる。赤毛でひょろっとした制服のおじさんが麻薬犬のブルドッグとともに箱を調べ、ボタン電池について調べようとして開封し、開けた途端いっぱいに詰め込まれているうまい棒を見て、そういえばランチがまだだったな、昨日カミさんと喧嘩したから今朝はニシンの燻製を食べ損ねていたんだった。こいつは日本のお菓子かな?なんだかうまそうだ。よう、ジャック、おまえも食うか?とブルドッグに尋ねるとブルドッグはうれしそうに短いしっぽを振り、そうこうするうちに他の職員も群がってきて珍しい日本のスナック菓子を奪い合い、うまい棒の、チートス並みにやみつきになる味に夢中になり、ボタン電池のことも忘れて仕事そっちのけで皆で指先をオレンジ色にしながらうまい棒を食べるという光景が浮かんだ。もちろんぼくの空想で、連合王国の税関がそんなんなわけがない。
 無事に届きますようにと思うばかりだ。

図書館と猫

 図書館に本を返しに行った。本来なら期限は前日までだったが、うっかり忘れてしまった。なにかと心を持ってかれがちになっていて細々した予定を忘れてしまう。
 前にも一度図書館の本を返すのが一日だけ遅れてしまったことがあったので、そこまで怒られたりはしないことはわかっていたけれど、それでもやっぱり気分はよくない。そういえば子供の頃、市の図書館から本を返してくれという葉書が延々と届き続けたことがあった。言われていた本は隔週で学校の校庭にやってくる移動図書館のバスで借りたものだったけれど、とっくに返していた。図書室や図書館の本を借りたままにして本棚に並べているほかのクソガキ達と違いぼくは律儀な良い子だったのだ。結局その騒動は図書館の確認漏れだったことがわかってごめんなさいという葉書が一通届いて終結した。あらぬ疑いをかけてきた上に菓子折りも寄越さない図書館に対して素直で良い子なぼくは全然腹を立てたりしなかった。腹を立てたりしなかった。
 そんなわけでとぼとぼと図書館の近くまで歩いてくると、一匹の猫が垣根の中からがさごそと現れた。そういえば子供の頃に飼っていたインチキロシアンブルーのデイジーも、図書館の垣根からぼくの日常に現れたのだった。母が早々に女の子だと判断してデイジーと名付けたものの、呼び名が定着したあとにそうじゃないことがわかって、それ以降見るからにふとましい顔つきで体もがっちりしたオス猫なのにデイジーと呼ばれ続けた。母は図書館でよく絵本「ねこのオーランドー」を借りていて、確かデイジーを拾ったときも借りていたんじゃないかと思う。デイジーはオーランドーに似ていたな。
 垣根から現れたその猫はピンクの首輪をしていて、顔は丸くて耳の毛が薄かった。柄は腹や足の白いサバトラ。このあたりは愛想のない外猫が多いけれど、首輪をしていて外を出歩いているのは珍しい。ぼくが立ち止まると、「うぇー」とブサイクな声で鳴いた。そのままこちらにやってきて足元にすり寄ってきたので、頭を撫でて顎の下をかくと、そこそこと言わんばかりに後ろ足をぱたぱたやって自分でもかこうとする。そんなに綺麗な猫じゃなさそうなのでそのへんにしておいて、図書館に向かう。すでに手がかゆい。
「あのう、一日遅れてしまったんですが」
 言いながらペンギン・ブックスのトートバッグから借りていた二冊を取り出す。
「いーえー」
 と受付の女性が軽く言った。
 その「いーえー」がさきほどの猫の「うぇー」となんとなく響きが似ている気がした。
 返却手続きはすぐ済んで、ぼくは空っぽになったオレンジ色のトートを肩にかけなおして湾曲した自動ドアをくぐって外に出た。さきほどのところにまだ猫はいた。道の脇の砂地に寝転んでいる。
 近寄るとまたぼくの方に寄ってきたので、同じようにして顎の下の柔らかいところをかいてあげたら、またしても「うぇー」と鳴いた。
 手が非常にかゆくなったので家に帰って入念に手を洗って、今度はうちの犬を触った。 
 

2017年9月9日

『ダンケルク』(2017)


 1940年、ドイツ軍の侵攻によりフランス本土最北端のダンケルクに追い詰められたイギリス海外派遣軍。ドーバー海峡のすぐ向こうは祖国イギリスだが、ドイツ軍はすでに彼らを包囲していた。貨物船や漁船、遊覧船、救命艇、タグボート、水に浮くあらゆる船舶が緊急徴用されて兵士たちの救出へ向かったというこのダンケルク大撤退を、なんとか船に乗り込んで国に帰ろうとする若い兵士や、地上の部隊に襲いかかるドイツ軍爆撃機と戦う空軍パイロット、自らの意志でダンケルクに向かおうとする民間遊覧船の船長など、陸、海、空に視点を分けて、それぞれで戦いと脱出に挑む人々を描いた群像劇。
 イギリス軍のお鍋型のヘルメット、ブロディ・ヘルメットはいっぱいいるとより良いな。現実の戦闘機にそれほど興味はなかったのだけれど、本作を観ればイギリス空軍のスピットファイアが好きになること間違いなし。劇中のマーク・ライランスでなくともべた褒めしたくなるロールスロイス社製のエンジン(エンジンが停まっても飛び続けられるなんて知らなかったよ)、手に汗握る正真正銘のドッグファイト。空だけでなく、海も陸も、全てにおいて細かい描写があって、全部に焦点が合ってるかのようなノーラン作品の鮮明さが「イギリスの物」特有の独特のディティールと合わさって、まあ、とにかく没入しちゃう。没入するということは、それだけ悲惨なシーンに胸が痛くなるのだけれど、民間の小さな船が大挙して押し寄せて、イギリス軍が撤退に成功し、兵士たちが本国で予想外の熱い歓迎を受けるところでは劇中と同じ喜びを感じることもできる。チャーチルの有名な演説もやっぱり良い。帰還した兵士たちにトーストや紅茶が振舞われるところも、ぼくの好きなイギリス的温かさ。おうち感とでもいうのかな。ノーランは戦争映画も上品。

2017年9月6日

ポーグ、BB-9E、スノーク


 ナイニーの声がはやく聞きたいな。BB-8のようなかわいらしい声ではなく、もっと邪悪な電子音になるのだろうけれど、原型の声は誰かがやるんだろうか。BB-8はビル・へダーがやっているわけだが。
 黒いアストロメク・ドロイドは旧作に登場しているし、なんなら黒い球体ドロイドなら、EP4の尋問ドロイドというのがいるし(黒い球体のあちこちから注射針やら電極やら拷問のツールが突き出しているやつ)、黒くてちょこちょこと動き回る小さいやつならデス・スターやスター・デストロイヤーでダース・ヴェイダーの足元を動き回るメッセンジャー、マウス・ドロイドというのもいる。わりとみんな不気味さとかわいさを両立させているので、ナイニーも難なく仲間入りできるだろう。どういう役割を果たすのかな?


 やはりSWのクリーチャー&エイリアンは黒目がちなものほどかわいらしいし魅力的。普通のキャラクターにしたってかわいいキャラはみんな黒目がちだ。ピカチュウとか。なんか、ポーグのグッズを買ったせいかフォルムがちゃんとしてきたような。やはり立体物が手元にあると形がちゃんとわかる。


 先日初めて『グーニーズ』を観て、アイコニックだがよくは知らなかったキャラクターであるスロースが、幼少時からの母親の虐待でああいう顔になったと知った。こいつは何者なんだろうとずっと思っていたので謎が解けた。
 最初は左目のズレ具合とか、名前の響きが似てるってだけでこのひとたちを並べたんだけれど、よく見ると鼻筋のズレ方とか耳の下がり方も似てるんだよね。まあ絵なので意識して似せてしまったところもあるけれど。もしかしたらスノークもすごく悲しい過去を背負っているのかもしれない。

プレス

 こんなことを書いてまた悲劇的な主人公を気取っているように思われるかもしれないけれど、自分としてはかなり衝撃的かつ新鮮さすら感じたことがあった。
 
 8月が終わろうとしていた昼下がり、横になっていたら妻がふざけてどーん、とのしかかってきた。この様子だけならたわいのない、微笑ましい若い夫婦の日常なのだが、その瞬間、妻の全体重がなんの前触れもなくぼくの胸から腹にかけてかけられた途端に、あるイメージが記憶の奥底から一気に浮かび上がって来た。重しに繋いで沈めていたものが、なにかの拍子で紐(鎖か)が切れて、しゅるしゅるしゅるっと一気に水面まで上昇して来た感じだ。まあ、その記憶自体はそこまで軽々しいものではないが。
 
 21世紀初頭でありながら『マッドマックス』風に荒れ果てた中学校に通っていたぼくは、言うまでもなく身を守り切れずにいた。いや、完璧に安全を確保できていた人間なんてほとんどいなかったんじゃないだろうか。学校を『マッドマックス』風たらしめている当の連中は別として。たとえウォーボーイズ(昔のやつはあんま観てないんだよねえ)の仲間であってもちょっとしたことで失脚して粛清(要するにスクール・カーストの下層レベルに追放されるということ)される恐れがあっただろうから、油断ならなかっただろう。
 
 理不尽な暴力の数々はほとんど前述のように重しに繋いで沈めてしまったのでだんだん細部を忘れ始めているのだけれど、妻に体重をかけられた瞬間に思い出したのは「プレス」という拷問(立場次第では「遊び」)である。同じようなものはよくいじめのニュースで聞いたりするから、知っている人もいるだろう(知ってること自体不幸な気もする)。ひとりが床に横になる。もうひとりがそれにのしかかる。さらにもうひとりのしかかる。さらにもうひとり。という具合にどんどんかわいそうな男子たちを積み上げていって、一番上に当のプレイヤーは腰掛けたり乗っかったり、あるいはクラスで一番重量のあるやつをけしかけたりして、そいつ以外の全員が苦痛にもだえる様子を観て楽しむというわけ。非常にシンプルかつ野蛮で馬鹿で危険なものだ。『20センチュリー・ウーマン』に主人公が友達と失神ゲーム(胸部をぎゅっと抱きしめて一時的に失神させるらしい)をやるシーンがあるんだけど、ああいうのに近いかな。あれは身体の仕組みを利用したものだけれど、プレスはそんな知識とは無縁。もっとタチが悪いのは、仕掛けるやつが一切自分を危険に晒さないところ。そして、ブロックとして使われるやつらは無理やりやらされるというところ。一番上になるやつ以外、全員苦痛を味わうことになるからね。
 
 言うまでもないが、大抵ぼくが一番下、床に寝かされる役だった。毎回必ずではなかったと思う。時折一番下でないことがわかるとほっと安堵したものだ。そのときの最下部の子には悪かったけれど。辛いのは皆が皆保身のためにやりながらも、互いに悪いと思っていただろうということだ。その気のない者に暴力を強制するというのは数々の残虐行為の中でもいちばんタチが悪い部類に入るのではないだろうか。そういったことが、言葉は知らなかったものの感覚的に察していたものだから、プレスのあいだ誰に怒りをぶつけていいかもはっきりわからなかったくらいだ。すぐ上に乗っかってるやつか?その上か?一番上に乗っかった100キロくらいありそうな彼か?けれどその彼でさえも辛そうな顔をしているのはわかった。何度意識が遠くなったか、何度腹や胸が裂けそうな気分になったかわからないけれど、常に感じていたのはなんでこんなことしてんの?という馬鹿らしさである。
 
 そういった苦痛の記憶が、標準に比べればほっそりしたタイプである妻がのしかかっただけのその瞬間に一気に溢れ出して来て、まるで一瞬であの生臭い教室に戻ったかのような気分になって、苦痛も如実に蘇ってきたかのようで吐き気がした。誇張ではなく本当に拒絶反応を示して妻が驚いたくらいだ。12年も経つのに、こんななんでもないことであんなにはっきりと思い出すとは自分でも驚いた。
 
 ぼくは昔あった嫌なことをいつまでも覚えすぎかもしれない。いじめにしたって、いじめらたやつはいつまでも覚えているが、いじめっ子はなんも覚えちゃいないものだ。シャーリーズ・セロンの『ヤング≒アダルト』でもドラマの『ビッグバン・セオリー』でもやっていたが、相手はなんにも覚えちゃいないのだ。その証拠に、世の中いじめられたという経験を語るひとは大勢いるが、いじめたという経験を語るやつは少ない。というかぼくは見かけたことがない。いっぱいいるはずなのにな。
 
 荒野を支配するファシストたちにも怒りは覚えるが、より苛立ちを覚えるのは教師たちだった。ぼくが限界になるそのときまでなにもしないで、それどころか何事もないように振舞っていた公僕たちのことを思い出すと未だにムカつく。俺は注意したからなと言わんばかりの申し訳程度の「おいやめときなさいよお」は何度も聞いた。どうせぼくの性格にも問題があるとかなんとかそんなことを考えていたのだろう。センスのないジャージ姿でだらしない腹を突き出した彼らはいつでも俺だって辛いみたいな顔をしていたっけ。苦しいのはぼくだけでなく、理不尽な暴力は学校中に振りかざされているとかなんとか。皆が我慢しているから我慢しろみたいな感じすらした。ぼくはぼくで我慢ならないことがあると本当に我慢ならないタイプの人間で、他の子たちのように従順さにも欠けたから、半端に抵抗もするし、反乱同盟軍的な精神も当時から少しずつ(その後帝国軍に魅了されちゃうんだけれど)育っていたから、そういう態度でもって余計にやられちゃったんだけれど、ある教師が言うには変に反抗しないほうがいいのだそうだ。自分が職務を全うしていないことは棚に上げて、ぼくの性格をまず直せとよ。今思えば笑ってしまう。
 彼はぼくが「スター・ウォーズ全史」を読んでいたことも馬鹿にしていたな。国語の教師だったからなおさら、ぼくの読解力の問題はこういう本ばかり読んでいるところにあるとかなんとか。そんなぼくが読書レビューでお金をもらえるようになるとは思ってもいなかったろう。
 こういうのを読んでさ、自分だったらここでこういう命令を出したいとか、宇宙船をこう動かしたいとかそういうことばっかり考えてるわけだろ?それじゃだめなんだよなあ。こんなんだからやられっちゃうんだよ。
 これはその教師に限った話ではないけれど、どうも教室の大多数からのウケを狙ってそのクラスで一番立場の弱い、馬鹿にされがちなやつを教師も一緒になって笑うみたいな傾向もあったな。ぼくのクラスで言えばぼくになるんだけれど。あんなんで信頼なんて得られるわけないのにな。 

 田舎でヤンキー・ファシズムが蔓延しやすいのは、ああいう大人のせいでもあるんじゃないかなあ。不良を「やんちゃ」とかいって甘やかす傾向にあるというか。やんちゃなくらいでないとだめだみたいな風潮もあるし。で、ヤンキーはどうせ地元でずっと暮らしていくので、そいつもまたそういう大人になり、同じような子供たちを育て、非常にヒルビリー的な村を維持していくんだろうなあ。
 なんだか結局ぶうぶうと不満と悪口を並べてしまったけれど、かわいい奥さんにのしかかられて暗黒時代を思い出してしまったのでした。

2017年9月3日

営業報告



 遅くなりましたが、SPUR最新号ではジム・ジャームッシュ監督の新作の『パターソン』を紹介しています。主演は我らがアダム・ドライバー!『スター・ウォーズ』の悪役とは大違いのとても穏やかな役。詩人の日記を覗いたような、いつまで観ていたくなる作品。



 婦人公論9月1日号のジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第19回の挿絵。今回はアメリカのプラスサイズ・モデル、アシュリー・グラハムが登場します。モデルの体型が多様化すると、誰でもモデルと同じ体型になれるという未来の予感。


 映画『ムーンライト』DVD&ブルーレイの早期購入特典にイラストを描いております。3枚のアナザージャケット(本来のジャケットとは別にケースに付け替えができるシート)が付属していて、それぞれイラストと映画に関するコラムが刷られているものですが、そのうちの一枚でイラストを担当しました。豪華な面々が参加しておりますが、どなたのコラムとの組み合わせかはお楽しみです。

・ブルーレイ:コレクターズ・エディション

・ブルーレイ:スタンダード・エディション

・DVD:スタンダード・エディション


 これに関連して、ソフトの発売元であるTCエンタテインメントのウェブでインタビューを受けています。映画のイラスト・レビューについてや、『ムーンライト』について話しました。『ムーンライト』についてはもちろん、映画のイラスト・レビューを描くことについても話しました。
https://tce-interviews.com/2017/09/01/%E5%B7%9D%E5%8E%9F%E7%91%9E%E4%B8%B8/

2017年9月2日

落書きとiPad

 お盆の次の週に遅めの帰省をした。感覚的にだんだんよその家と化し始めている実家で、それでもぼくはわりと他人の家(たとえば妻の実家とか)で気にせずぐうすか寝られるタイプなので普通にくつろいでいたら、ふとテーブルの上にメモ用紙があり、そこに鉛筆でひとの顔が描いてあるのを見つけた。そこいらのひとの描いた落書きとはもはや次元が違う絶妙な筆致は、明らかに母のものだ。簡単な絵だったけれど、実際にいそうな、妙に生々しい顔からして誰かの似顔だろう。

 母に聞けば、父とテレビを観ていた際にタレントだか芸人だかを説明するために描いた似顔だという。「あれだよ、あのひと、顔を見ればわかるはず」というような言い方はタレントを話題にした日常会話でよく出るものだけれど、そこで実際に似顔を描いて説明してしまうのが母だ。実際にその絵を見て父がそれを誰だか思い至ったかどうかはちょっとわからないけれど。というかぼくはそもそもそのタレントを知らないので(いやもう本当に最近は誰がなんなのかさっぱり)誰だかわからなかった。

 子供の頃、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』は観ていてもまだティム・バートンのひととなりを知らなかった頃に、母が深夜の映画紹介番組でその姿を観て、こんな感じだったと言いながら似顔絵を描いて教えてくれたことがあったっけ。ヒゲモジャで眼鏡をかけた天パのおじさんで、バートン監督との最初の出会いは母の似顔絵を通してとなった。

 もう少し年月が経った後、今度はぼくが1000円カットの理髪店で散髪してもらう際に、母は理髪師に一枚の紙切れを見せた。チップの類ではなく息子の似顔絵で、彼女がイメージする髪型に描かれていた。帰りの車の中、ぼくは母の思う通りの髪型になっている。母は「あのおねえさん、最初は絵なんか見せられても困るみたいなこと言ってたけど、見たらすぐ理解してんの。全く、誰が描いたと思ってんだか」みたいなことを言っていた。ぼくが絵心と一緒に性格の悪さも受け継いでいるのは言うまでもない。

 アップル社のiPadは、確か元々はテレビを観ながらでも手軽にインターネットを見られるようにというのがコンセプトだったという話を聞いたことがある。今観ているドラマの出演者について調べたり、放映されている映画について調べたり、クイズ番組の問題を先回りして知ったり(それは楽しくないと思うが)。日常会話でなにかを説明する際に、iPhoneで画像検索して相手に見せるというのはもはや普通に見かける光景だが、そういうのはまさに母が日頃から落書きでもってやっていたことそのもの。

 実家のテーブルに似顔が描かれた紙切れがあるのを見つけたとき、まだこの世界にこんなアナログなやり方が残っていたかとちょっと感動すら覚えた。母にとってはなんてことないことであり、ぼくにとっても本来なんてことないことなのだけれど、そのアナログさにかえって新しさを感じて、ぼくも描けるからにはこういう習慣を取り戻したいなと思った。絵が描けるというのはこういうことができるということなんだし。
 そんなわけであまりデジタルに毒されていない実家だが、それでも両親はネットを観るのをわりと楽しんでいる方で(このブログの感想をメールしてくるのは勘弁して欲しいが)、パソコンが不具合を起こすのは困りものらしい。ぼくも別にパソコンに詳しい方じゃないので(むしろなにか不具合が起きたときにはすぐヒスる)、結局そのレノボのThinkPadを直すことはできず、パソコンひとつ直してあげられない不甲斐なさと、どうしてこうもこの家にやって来るパソコンはすぐ壊れるのかという苛立ちと、思えばパソコンに詳しくないことでパソコンができる男ども(ぼくの世代は男子はパソコンできて当たり前みたいな向きがあるんです)からやたら馬鹿にされたなあという怒りの勢いで、持ってきていたiPadを両親にあげてしまった。初代で、裏側が凹んでいて、速度も遅いしもうOSの更新ができないから新しいアプリもおとせないんだけど、ネットサーフィンするだけならこれで十分だ。パソコンのようにしょっちゅう壊れないし、複雑な操作もいらないから両親のようなひとにはぴったり。
 ThinkPadがiPadになったわけだけれど、今後も母は父にタレントを説明するために似顔絵を描いていくことだろう。
 

2017年8月11日

教習所で感じる劣等感

 自動車教習所に通い始めてからというもの、改めて自分がひとより劣っていることを思い知らされた。
 近頃はそれなりに仕事ができるようになって、いろいろなところに名前が載るようになって、見知らぬひとがぼくの描いたものを気に入っているというような状況に浸っていたものだからついつい忘れかけていたのだが、ぼくは本来ひとが当たり前にできることをなかなかできない人間なのだ。

 たとえば走ること。どんなに真剣に走っていてもおかしな長さの手足のせいなのか、見たひとは一様にふざけていると思うらしい。もちろん速度は遅い。

 たとえば考えること。ひとが1分で理解することをおそらく10分かけて理解しているような感じ。プロセスが10倍ということだ。単純な暗算も結構考えてしまうし、分数の足し算引き算は意味がわからなくてワークブックを手伝っていた母親をよく困らせたものだ。最近はそういう、「1+1が2になること」をなかなか理解できなかったというひとの体験談や、それは気に病むことではないというような話もインターネット上でよく見かけて少し安心したりもするのだが、でも考えるのに時間がかかるのはとても辛い。ひとが言った冗談に、だいぶ時間差をもって笑い出すのは自分でも結構異様。

 たとえば読むこと。考えるのに時間がかかるのと同様読むことにも時間がかかる。本を読むのはもちろん好きだけれど、ひと月の間に読める本はせいぜい2冊くらい。世の中には一晩で読み終えるひともいるらしいが(うちの妻は大抵のペーパーバックをそれくらいで読み終える。最初は冗談かと思った)さぞたくさん読めるだろうから羨ましい。一冊を長時間読み続ける集中力がまず保てない。

 たとえば右と左。ぼくは幼少時に右と左を家の前の道で覚えた。ばあばを迎えに行く駅やジャスコの方に向かうのが右、海に向かうのが左。両親は茶碗と箸を持つ手で左右を教えたりはしなかったと思う。母は左利きだったからそういう右利き中心的な考えに抵抗があったのかもしれない。あてにならないよね、あれ。しかし、もしかすると自分の手で覚えたほうが後々のためにはよかったかもしれない。なんと26歳になろうとしている今でも、右と左を判断する際に一度家の前の風景を頭の中で経由しているのだ。歳を重ねるにつれて経由する速度は上がったかもしれないが、いずれにせよいつも一瞬家の前の道を思い浮かべている。そのせいか、左右の区別はどうもいまひとつ身体に染み付いていないような気がする。わかることはわかるんだけれど。

 それからひとと話すこと。一時期少しは改善されていたような気がするが、ここへ来てなんだか思春期の頃よりひどくなっているように感じられる。まず言葉がつっかえる。ティーンの頃は少なくとも不愛想なだけでつっかえたりはしなかった。頭の中で言葉がまだ選ばれていないのに口を開けてしまったかのようなつっかえ方をするようになった。妻は言葉が出てくるまで待ってくれるが、おそらく世の中のひとはそうもいくまい。5年前に初めて学生という身分でなくなってからというもの、ひとと直に気軽に会話するという機会が恐ろしく減った。年長のひととばかり親しくなっているせいなのか、同年代の友達との会話が異様なほど不器用になっている。その機会自体が減っているし。

 さて、これらの「ひとに比べてできないこと」の多くは自動車教習所で際立ってくる。運動神経の悪さは両足での車の操作に影響しているし、間違ってはいないが時間のかかる思考力は瞬時に判断を下さなければならない車の運転において忌々しいことこの上ない。必ず一度実家の前の道を思い浮かべなければ左右が判断できないのも問題だ。次の交差点を左折、と指示されているのに右にウィンカーを点滅させたりしていることもある。というか、ウセツ、サセツという言葉がいまひとつミギとヒダリに結びつかないでいる。思想上の左右はその中身で区別がつくのだけれど。こんなことを書いてはまるで運転に向いていない、教習を受ける資格に満たないように見えるが、一応適性試験は通っているので許容範囲かと思う。読む速度が遅いのは学科試験でだいぶ辛かったし、独特の解釈をしてしまいがちなので簡単な問題もよく間違える。おそらくあれに出題される文章は真剣に読んではだめなんだろうな。文体の特徴は毎回変わるし、主語があったりなかったりで非常にイライラするが。会話能力の低下は運転技術に直接影響しないが、狭い密室で小一時間他人と一緒にいる際に辛い。というか、たぶん余計な会話は一切しないでいいんだろうけれど、どうも沈黙が重苦しい。かといって変に運転操作の所感から広げて話題を振ろうとすると、ひとによっては薄い反応しか得られずより一層微妙な空気になる。先日は初めての路上教習だったわけだが、もう垂れ込めている空気が辛すぎて(もちろんその微妙ガスはぼくの不器用さのせいで車内に充満してしまったもの)、「あ、この通りはこういう名前なんですね」「この道は車が多いですねえ」などと要らぬことを言っては、「いいからやれよ」というような響きを含んだ「そうですね」を返されてばかりだった。ぼくの個人的な感想なんか求められていないことは重々承知している。わかっているんだ。でも、なんだかもう空気に耐えられなくなったんだ。「なんでこんなこともできないの」というような空気。

 そう、通い始めてから4ヶ月の間、とにかくこの「なんでこんなこともできないの」というような空気に気圧されている。久しぶりの感覚。美術の学校に通っていた間は多少感じなくなっていたので(これでも一応絵描くの得意だからさ……)、体育の授業があった高校以来かな。いや、美術学校でもなぜか球技大会だか体育祭だかがあってそこでも結構バカにされていたので、まあとにかく学生時代以来だ。人間というのは自分が当たり前にできることができない他人をバカにするようにできている。かく言うぼくも絵心のなさすぎるひとを見て愕然とすることがあるので、とやかく言える資格はないのだけれど、そのさ、出来ないから習いに来ているわけだからさ、安くないお金も払って習いに来ているわけだからさ、もうちょっと圧力を弱めてほしいわけよ。
 愛犬を助手席に座らせて冒険に繰り出せる日はまだ遠い。

 それからおまけにもうひとつ、なんでそんなこともできないんだという話を。
 教習所には家の近所から送迎バスに乗って通っている。近所といっても結構歩いた先にある地点だ。ぼくのような田舎者にとっては本来歩く距離として大したものではないけれど、都会生活の観点からはちょっとした距離だ。どのくらいの距離かといえば、短めコースの犬の散歩で折り返しになるくらいだろうか。実際そうしている。
 行きは所定の位置からしかバスに乗れないが、帰りは結構皆好きなところで「運転手さん、ここでいいですよ」なんて言ってさらっと降りていく。それで、ぼくが乗り降りしている地点は微妙に家から離れていて、そもそもバスはそこに行き着くまでに一度ぼくの家の前を通るんだよね。だからそこで言って降りようかと毎回思うのだけれど、運転手さんがぼくを降ろす地点を通るためにわざわざそのコースを設定して走っているとして、ぼくが急にここで降りたいと言ったらかえって迷惑というか、なんだよ、せっかくあそこを通るためのコースを走っているのに、ここで降りたいんなら最初からそう言え馬鹿野郎、とか思われても嫌だなと思って、いつも家の前を通り過ぎてだいぶ離れたところで降りて、バスが来た道をもう一度引き返している。この前の雨がしとしと降る寒い日なんかは早く家に帰りたいと思って、よし、今日こそはここで降りたいと言おうとちょっとその気になっていたが、結局言えなかった。ぼくの家、微妙な位置にあるから急に言ったら迷惑かなと思って。多分これからも言い出せないんだろうなあ。 
 どっちがいいと思う?個人的な時間を優先してわがまま(?)を言うのと、運転手さんの考えているであろう道順に水をささないでそのままでいるのと。わからない。もうよくわからないので、黙って所定の位置で降りている。

2017年8月2日

スノークとカイロ・レン


 またちょくちょくエピソード8のことなど描いていこうかと。
 スノークは新しく公開された画像から、眼が青いことがわかった。うっすら眉も生えており、傷こそグロテスクなものの、元は普通の人間なのだということが伺える。それはこれまで登場した誰かなのか、と考えたくなるが、なんかもう、スノークはスノークなんじゃないかなと思えてきた。だって、アンディ・サーキスが演じている時点で新キャラでは。もちろん、映画に直接登場せず言及された人物である可能性はまだある。皇帝の師匠、ダース・プレイガスとかね。でも、それもなさそうな気がするなあ。ぼく個人はプレイガス説はちょっとベタすぎると思っているし。

 せっかく怪物王アンディ・サーキスが演じているのだから思い切りモンスター、クリーチャー感のあるキャラクターでもよかったと思う。今のところスノークは大怪我をしたおじいさん程度でしかない。顔の崩れ方はすごいから、モーションキャプチャーでやることの意味はあると思うけれど。
 大怪我といえば、これほどの負傷はどんなことを経験したら出来るものだろうと考えたとき、爆発するデス・スターから逃れたとかいうのがそれっぽいと思うんだよね。なので当初から言っているターキン説をまた引っ張り出したいところ(ピーター・カッシングも眼は青)なのだけれど、スノークは一応ダークサイドに通じているひとだし、声はアンディ・サーキスだしということで、その説ももういいや。
 これまでのSWサーガは一貫して皇帝パルパティーンの野望が銀河を襲う物語でもあるので、スノークは皇帝の流れを汲んでいる関係者か、皇帝本人の精神が宿っているなどといった設定の方が、シリーズ全体に一本の線が出来ていいと思う。
 ということでスノークの正体はスノーク。
 金色の長衣に禿頭なせいで、なんとなくお坊さんに見えるね。

 ヴォルデモートとスネイプにヴィジュアルが似ているということで思いついたが、カイロ・レンことベン・ソロはスネイプ同様、実は大きな目的のために汚れ役を買っているのではないかなどと考えてみたり。皇帝の意志を継いだスノークを滅ぼすため、ルーク・スカイウォーカーによってその懐に送り込まれたとか。彼が皆殺しにしたというジェダイ候補生たちも実はルークを倒すために送り込まれた皇帝の刺客で、EP7でルークの居場所を突き止めようとしていたのは師を殺すためではなく守ろうとするためだとか。ハン・ソロはハリポタで言えばダンブルドアみたいなもので、息子の任務のため殺されることをよしとした、とか……(EP7を見る限り全くそんなふうには見えない、しかし、そんなふうに見えては任務は台無しだ)。
 なかなかいいんじゃないかな?ただ英雄が悪を倒すだけではもうおもしろくない。SWにはEP6でのダース・ヴェイダーの改心という熱い展開がすでにあるし、その出自を思えばいずれにせよカイロ・レンがただの悪者で終わることはないだろうと思う。そこで、ヴェイダーの改心とは違い、最初から善側だったという展開ですよ。
 うん、もうそうすると完全にヴォルデモートとスネイプだ。

LINEスタンプリリースのお知らせ



 自主制作でオリジナルのLINEスタンプを作りました。絵柄40個になります。自分で使いたくて作ったような感じなので、内容に偏りがありますが、ぜひお役立てください。40個も描いたらコツもつかめてきたのと、描くだけ描いて漏れてしまったものや、こういうのもあったらよかったな、という改善点などあるのでまた作ろうかな。
 価格は120円。
 

2017年8月1日

『ネオン・デーモン』(2016)


 顔がとんがった怖いモデルばかりのところに、飴細工のような妖精的エル・ファニングが放り込まれ、男たちはメロメロに(このメロメロが非常に嘘くさく感じてしまうのはぼくがあまりエル・ファニングに興味がないせいなのか、とにかくおもしろく見える)、モデルたちからは嫉妬と敵意と羨望の眼差しで舐めまわされる。悪趣味な「不思議の国のアリス」ととれないこともない。キアヌ・リーブスは帽子屋といったところか。あ、「猫」も出てくるしね。
 ベラ・ヒースコートは『ダーク・シャドウ』('12)のときから好きだけれど、やっぱりどこか人形的というか、ティム・バートンが描きそうな顔だね。どことなくエミリー・ブラウニングにも系統が近いと思う。ジェナ・マローンが『エンジェル・ウォーズ』('11)でブラウニングと共演していたけれど、マローンとヒースコートの組み合わせに既視感があるのはそのせいか。
 エル・ファニングの出現によって周りの皆が狂っていくのは、鋭利な顔つきが主流のモデルたちへのカウンターもあるのだろうけれど、ぼくはとんがった顔も好きだよ。ジェナ・マローンなんか、顔に触ったら手が切れそうだ。しかし、あの上半身のタトゥーは怖すぎる。

 「色彩が綺麗」とか「色彩が独特」という文句もだんだん紋切り型になってきたんじゃないかなと思う。最近では『ラ・ラ・ランド』や『ムーンライト』がいい例だけれど、視覚的な綺麗さばかり誉めそやしていると、観ていないひとからは「それで、お話の方は?」と聞かれてしまいそうだ。あまりにも視覚的な部分に注目が集まると、「見た目だけの映画」なのだという誤解すら招いてしまうかもしれない。
 もちろん映画は視覚的なもので、色彩やヴィジュアルは重要な要素だと思う。ヴィジュアルが綺麗なことは決して悪いことじゃないし、ヴィジュアルありきな映画だから駄目だなんていうことも全くない。
 前述の二本を引き合いに、最近の観客は視覚的快感の大きい映画を求めがちで、頭が悪くなっているなんていう論調も散見されるけれど、全くのナンセンスだ。それこそなにも読み取れていない。なにかを観て綺麗だなあと思うことは知識がなくてもできることだし、それは知能で測れるものではない。むしろ、観客の観たことのないものを見せて、視覚的快感をもたらすのは映画の大きな役割、機能ではないだろうか。
 だからべつに、ヴィジュアルありきでも問題ないのだけれど、映画を紹介する際に「色彩が綺麗」という言葉が最初に出るのは、どうも陳腐な感じがする。


2017年7月26日

営業報告


 「SPUR」9月号(集英社)「銀幕リポート」第18回では、ジョン・リー・ハンコック監督、マイケル・キートン主演『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』(7月29日公開)を紹介しています。


 トット先生の表紙が眩しい「婦人公論」2017/8/8号(中央公論社)では、ジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第18回の挿絵を描いています。離婚したあとの元夫婦の関係、子育ての行方などについて書かれております。

『ハクソー・リッジ』(2016)


 『沈黙 ーサイレンスー』に続き、祈りながら日本人から逃げるアンドリュー・ガーフィールド。ここでも信仰はテーマだが、キリシタン弾圧と同様戦争も善悪で捉えることはできない。日米戦が舞台なのでそのあたりのことに思考を巡らせたくなりがちなのだが、はっきり言ってどことどこがやった戦争なのかはあまり重要ではないように思う。なによりもまずデズモンド・ドスという人物だ。彼には戦場に行くより前に立ちはだかった障壁があり、本来なら味方である人々から理解を得る戦いに挑み、実際の戦場でも信条を貫き通して信頼を得ていくところにこそ注目したい。

『沈黙 ーサイレンスー』(2016)


 イッセー尾形扮する井上筑後守本人もまた、元キリシタンだったことが興味深い。原作を読んでもあまり詳しく掘り下げられていなかったけれど、信仰を捨てて弾圧する側にまわり、自らもそうだったからこそ知り尽くした信者たちを、狡猾に攻めていくその心理は気になる。
 憎まれ役、であって敵役や悪役という表現は避ける。まあ、主人公との関係上敵役といっても十分正しいと思うし、個人的には悪役と言いたいところなのだが、善悪で片付けられるものではないと思うからね。善いか悪いかではなく、もっとこう、人と人、というような構図としても捉えたい。ということで言葉のことにも注目した。

2017年7月2日

営業報告


 ファッション・エッセイがとても楽しい「SPUR」8月号(集英社)では、ジャック・ニコルソンがハリウッド・リメイク予定のマーレン・アデ監督作『ありがとう、トニ・エルドマン』(公開中)を紹介しています。


 「クイック・ジャパン」vol.132(太田出版)、P169(ピンク色のページ)にて有名な人たちの似顔絵を描いています。


 「婦人公論」7月11日号(中央公論新社)のジェーン・スーさん連載の挿絵を描いています。今回のお話はご自分の文章についての考察。自分の作っているものは果たしておもしろいのかどうかという不安には非常に共感します。そして、そんな悩みについてのお話でもやっぱりおもしろいので、スーさんはすごいです。

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 そして今年も「FRAPBOIS」とのコラボレーションをやらせていただきます。まずは今季のブランド全体のテーマ、「シルクロード」に合わせた絵柄。シルクロードぽい動物がばらばらといるTシャツと、


羊と、


ラクダの一点プリントの三種類となっています。


 7月中の発売となっています。