2017年1月27日

『ラ・ラ・ランド』デミアン・チャゼル監督&ライアン・ゴズリング会見



 全体的にミュージカルの古典をリスペクトしつつも、カジュアルさや新鮮さがあったのには、共感と共有を重点に置いた配慮があってこそなんだなあと。ライアンは「映画は映画館で観るもので、大勢が同じ体験を共有できるよね。この作品でそれが実現できてうれしいよ」と言っていたけれど、作る側と観客とでの共有だけでなく、観客同士も共有できるということを改めてこの作品が証明したように思える。映画館で観るのは大きなスクリーンのためだけじゃない。大勢と一緒に観て時間すら共有できることこそ素晴らしいことなのかもしれない。ミュージカルという、音楽や歌、ダンスによって語られるところの多い作品なら尚更。
 書き出したら止まらなそうだけれど、詳しい感想は公開後に。ぼくは妻に一緒に観に行こうと一生懸命誘っているところ。
『ラ・ラ・ランド』は2月24日公開!

2017年1月25日

SPUR 2017年3月号


 今月号SPURでは2月3日公開のティム・バートン監督、エヴァ・グリーン主演『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』を紹介しております。超かわいく描けたのでぜひ誌面にてご覧ください。何人もの「奇妙なこどもたち」が登場しますが、中でもぼくが誰推しか一目でわかる形になっております。みなさんもぜひお気に入りの子を見つけてください。
 ちなみにバートン映画について仕事で描いたのは初めてなので感慨深いです。寂しい気持ちに寄り添ってくれるところが、やっぱりいいなあ。ティム・バートンの新作と、『スター・ウォーズ』の新作が観られるのだから、まだこの世界は素晴らしいし、ぼくはいつまでもぼく。

2017年1月23日

日記:2017/01/15 - 22

2017/01/15 日

 「ハリー・ポッター」原作シリーズの最新作「ハリー・ポッターと呪いの子」をやっと読み始めた。舞台用につくられた物語なので、本も小説ではなくスクリプト形式。読むのに時間がかからない上、テンポも良いので楽しい。
 それにしても相変わらずハリーはクソ野郎である。シリーズも世界観も大好きだがハリー本人はどうしても好きになれない。彼はあれだけ虐げられてきた経験があるのに、あまり弱い人に優しくないんだよね。もちろんそういう不完全さが現代的な英雄としての魅力になっているのかもしれないけれど。とりあえず彼にはイライラする。というか、息子に尊敬するひとの名前つけるのもうやめようぜ。ダンブルドアとかオビ=ワンの名前つけられたらそりゃ辛くてグレるよ。「アルバス・セブルス・ポッター」って、重圧しか感じられない名前でやばい。尊敬する恩師の名前だからって、このふたりの名前はちょっと意味を持ち過ぎちゃってるだろうに。第7巻の最終章にも大人になり子供ができたハリーの様子は描かれるのだけれど、そのときにこの名前見たときもなんて安直なんだと思った。きっとこの子は辛い思いするぞと思ったものだけれど、案の定この「呪いの子」でアルバスはそうとう苦しむらしい。

2017/01/16 月

 映画『沈黙 ーサイレンスー』のマーティン・スコセッシ監督来日会見に行った。監督のみの登壇ということあって質問もそれに対する返答も濃厚な内容で非常に圧倒された。聴いていて勉強になった。ぼくがぼんやり考えていた質問はだいぶスケールが小さかったなあ。

2017/01/17 火

 ラッセル・クロウとライアン・ゴズリング主演『ナイス・ガイズ!』の試写へ。今期のゴズリングは『ラ・ラ・ランド』だけではない。70年代を舞台にへっぽこ探偵が陰謀に巻き込まれるのだけれど、アメ車やポルノに彩られたサイケな色彩が楽しかった。
 書店で「沈黙」を買った。

2017/01/18 水

 「Firewatch」という山火事監視員が主人公のヴィデオ・ゲームの存在を知る。コロラドの山でひと夏のあいだ監視員の仕事についた男が、無線を通じて声しかわからない同僚とコミュニケーションを取りながら、山のあちこちに現れる謎を追うというストーリー。著名なイラストレーターがデザインしたというアメリカの大自然の色彩がとても良い。主人公の声はドラマ「マッドメン」のハリー役のひとらしい。テレビ広報屋の眼鏡の太った蝶ネクタイのあいつね。PCとPS4でできるゲームらしいのだけれど、iMacでも最近できるようになったらしい。やってみようかな。全編英語だけど。

2017/01/19 木

 もう木曜日だ。早いなあ。ぼくはどうも大人になりきれないせいか、体感時間の早さにショックを受けている。子供の頃はあれだけ長かった1週間、1日がこんなに短くなってしまうとは。この変化にまだ気持ちがついていけない。学生でなくなり、バイトもしなくなったので決まった場所に決まった時間に行くということがなく、それがより時間の早さに拍車をかけていると思う。
 
2017/01/20 金

 妻が友達と夕食に行くので夜はひとりだった。久しぶりに友達とオンライン・ゲームで遊ぶ。もちろんへたくそである。ぼくはヴィデオ・ゲームもアナログ・ゲームも得意ではなく、苦手なものには進んで手を出さないタイプだけれど、珍しくゲームに関してはへたくそながらも楽しめる。
 仕事に追われているとこういうこと考える暇がないから、かえって楽なのだけれど、落ち着いた時間が続くとだんだん自分の創作の悩みが頭をもたげてくる。映画のワンシーンを切り取って絵にしたり、既存のものをアレンジして描くのは楽しいし、テーマにも困らないのだけれど、やはり自分自身の創作もしたい。けれどそれを意識すればするほどなにも思いつかないし、なにを描いていいのかわからない。好きな映画や作品に対して自分なりのアプローチはできているとは思うけれど、今のままでは正直ただのファンと変わらないような気もする。ぼくは作る側の人間なのだろうか?評論や批評自体を作品に仕上げられるひとはいる。素晴らしいことだ。発表された作品については誰もが感想を述べる権利があり、その感想自体も新しい作品になれるのだ。ぼくもイラストを描くことで感想を発表してきた。けれど、どうせなら感想ではない作品もつくりたい。ひとの作品に触発されたものも描けば、依頼されたものも描き、自分で考えた世界も、まんべんなく描いていきたい。こんなことわざわざ言葉にするものでもないかもしれない。思うままに描いていけばいいってことはわかっているんだけどねえ。

2017/01/21 土

 海の向こうで金髪の皇帝が誕生したわけだけれど、最近ぼくがちょっとなって思うのは彼自身よりも彼にメロメロになっちゃってるひとなんだよね。こういうこと、もしかするとあと何年かすると非常に言いづらく書きづらくなってしまいそうなので(今日この国でも時の政府にケチつけることが全然流行ってなくて、水を差すようなことだと思われがちなように)こっそりさりげなくメモしておこう。
 生活の苦しいひとほど理想主義なひとよりも乱暴なひとを支持するってのは、最初はすごく不思議だったのだけれど、だいたいわかってきた気がする。それはもしかすると金銭的に貧しいのとともに心もなんとなく貧しくなっているせいじゃないかとね。「心が貧しい」ってのは別にそのひとのこと卑下してるわけじゃない。いろいろ辛いことがあるからこそ気持ち的に疲れてしまっている、という意味。そういうふうにダメージを負ってしまって余裕のないひとなら、美しい言葉で理想を掲げるひとよりも、多少暴力的だがパワーがありそうなひとのほうが、今の状態を変えられるんじゃないかと期待してしまうものなのかもしれない。ぼくだって、どうにか理想に思いを寄せられる暮らしをしているけれど、状況が違えばどんな考えを支持しているかわからない。もし出会う人、影響を受ける相手が少しでも違っていたら、何でもひねくれた見方をして、外国人嫌いで、男性優位を信じてやまず、客観的かつ包括的な世界史における日本史を自虐的だなんて言って、ホロコーストは無かったなんて言い出して、やられる方も悪いみたいなことが平気で言えちゃって、その卑屈さゆえに電車の中でベビーカーに嫌悪感を示すどうしようもない男になっていたかもしれない。ゾッとするね。まあ、ぼくの性格上いくつかは絶対無さそうだが。
 男って言えば、今回のこのことについて身近な男性、あるいは目が届く範囲で世間の男性たちを見渡してみると(ぼくの偏った感想であって統計を取ってるわけじゃないよ)、ああやっぱり男って基本的に綺麗なものより暴力的なもののほうが好きなのかもなあと思った。例のあのひと(この呼び方とてもしっくりする)の演説に勇気付けられたとか、前のひとより良いなんて意見が目について信じられなかったけれど、これがやっぱり男性性とかいうものなのかもしれない。もしそうなら、そんなものからは抜け出したい。男だって本当はもっと思慮深くいられるはずなんだ。硬い棒で相手を殴ったり、ただ精子を放出する以外にもできることはあるんだよ。
 ぼくの考えもぼくの考えで偏っているというのは十分わかっている。でも、こんなことをうーんうーんと唸りながらちょっと足りないところのある頭でなんとか考えているぼくみたいなのがいるってこと、ちょっと知って欲しかった。誰かに。

2017/01/22 日

 雲ひとつないすっきりした天気だった。ドッグ・フードを変えてからポコの体型がずんぐりしてきている。くびれが無くなって寸胴、普通のコーギーの体型。彼は元来コーギーにしては小さめで線が細かったのだけれど、シニア用の餌は異様に栄養価が高いらしい。動物でも人間でも痩せているより太ってる方が健康そう、なんてのはひと昔前の感覚だから、やたらと太っているのは犬のためにもよくないのだけれど、表情は前より満足げなんだよなあ。

2017年1月18日

マーティン・スコセッシ監督来日会見


 監督のコメントが濃厚すぎて圧倒されたので、さっそく原作を読み始めた。監督すら最初に読んだときに、どう解釈していいか戸惑ったというのだから、そりゃぼくがすぐにこの作品について思うところをまとめられるわけがないよなあ。けれど、だからこそ映画と原作をこれからじっくり咀嚼していけると思うと楽しい。監督は自身の信仰に疑問を抱き迷っている時期に「沈黙」を読み、より深く掘り下げて答えを見つけなければならないと思ったのだそう。
 幕府の役人が宣教師たちにしたことは言うまでもなく暴力なのだけれど、宣教師も日本に自分たちの宗教を唯一の真理として外部から持ち込んだのであって、これもまた一種の暴力である、というコメントが印象的だった。ふたつの暴力のあいだで、セバスチャン・ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)はそれまで持っていた宗教観を崩され、一度空っぽになったところで真の信仰に目覚める。その姿が美しい。「沈黙」は信じることも疑うことも含めた非常に包括的で、相手を否定するのではなく受け入れる、弱きを抱擁する作品なのだと語っていたところも印象に残った。みんなが強くある必要はなくって、まずは除け者にされているひとをひととして知ろうとすることが重要なのだそう。
 作品をつくり、それと付き合っていく過程、まだ続いているその関係全体を「学びの旅」って呼ぶの、とても素敵だと思う。とても創作意欲が刺激された。
 『沈黙 ーサイレンスー』は21日土曜公開。
 

『エドウィン・マルハウス』感想


 去年の夏に読んだのだけれど、ひと夏の読書にぴったりだった。克明に書かれた他愛もない少年少女の世界に浸っていると、どうしたって自分の中でも子供の頃の感覚が蘇ってくる。エドウィン・マルハウス伝記は子供の頃よく経験するありがちなことに彩られているわけだけれど、興味深かったのはどこの国でも子供って同じなんだなということ。興味は次から次へと移ろっていき、恋の熱に浮かされて、午後の授業中に雷が鳴り出すと妙にわくわくしてしまう。ましてやぼくは落書きをたくさんする子供だったから、エドウィンの漫画熱にも非常に親近感が湧いたし、エドワード・ペンのような子と出会ったらぼくも夢中になり、また嫉妬しただろうと思う。というか、実際自分より絵がうまかったり、自分では思いつかない、新鮮な遊びに熱中している子にはよく関心を持ったのをよく覚えている。時代や環境、国も違うぼくがこれほど共感できるのだから、エドウィンの11年の短い人生は、わりと誰にでも経験があり、誰にでも当てはまる普遍的な少年時代なのではないだろうか。そうして、そんなありふれた短い人生を、ドラマチックな伝記に仕上げているのは(文字通りその人生までも”仕上げる”ことになる)狂気の伝記作家である語り手ジェフリーなのだと思う。
 生まれて間もない赤ん坊のときから隣人エドウィンの観察者となったジェフリー。彼がエドウィンを”失う”まで、彼の人生は常にエドウィンのことばかり考える日々。最初は仲良しなのねと思うも、これがだんだん気持ち悪くなってくる。エドウィンのことが大好きとかそんなレベルではない。執着や呪いの類だ。やがてジェフリーはエドウィンの人生を記録することこそ自分に与えられた使命だと思うようになる。
 とは言えやっぱりジェフリーも子供なので、エドウィン同様の稚拙さはそこかしこに漂っている。エドウィンをまるで偉大な作家であるかのように書き綴る様子は微笑ましいくらいだ。彼がいかに非凡かがややオーバーな言葉で語られているのは可笑しくもあるけれど、書いているジェフリーはいたって真剣だということは伝わってくるから、そこに引き込まれていく。たとえば、生後6ヶ月のエドウィンがあーうーと奇声をあげたことについて、「賢明な読者ならこれが彼の最初の詩だとわかるはずだ」なんて真剣に書いているところには、この伝記の特徴的な雰囲気がよく表れている。エドウィンが生後6ヶ月ならジェフリーもそのはずだ。どうしてそんな時期のことを克明に書けるのだろうか?そこで、ジェフリー自身も物心がついていない幼少期のエドウィンについては、創作である可能性も出てくる。ここだけ創作なのか?ほかにも創作しているところがあるのではないか、と考えていくと、この伝記自体どこまで事実が書かれているのか怪しくなってくる。ジェフリーはエドウィンを、伝記を通して大天才として脚色したのではないか。エドウィンは子供らしい過剰な自意識の持ち主だったから、ジェフリーの伝記計画に乗り気になったけれど、伝記の材料になれば誰でもよかったのかもしれない。彼は誰かちょうどいいひとを題材に伝記を創作したかったのではないか。実際、ジェフリーはエドウィンを天才少年として「完結」(あるいは「保存」かな)させたあと、また新しい題材を見つけて狙いを定めている。おっかない。けれどやっぱりどこか微笑ましくもある。
 特別な子供の話としてとらえることはできる。けれど、ぼくはどちらかというと、作家の方も伝記作家の方も、普遍的な少年たちだと思いたい。奇妙なところ、そら恐ろしいところ、狂気じみたところ、いろいろ変わったところはあれど、やっぱりそれは子供なら誰しも持ち得る熱量ゆえのところだと思う。どこにでもいる普通の少年たちの物語だと思ったほうが、より恐ろしいしね。
 ところで、去年の夏はこの本を読んでいて改めてルート・ビアなる飲み物に興味がわいたのだけれど、ちょうど近所のカフェのメニューにあるのを見つけて、暑さも手伝って思い切って注文してみた。子供の頃脱臼癖のために通っていた接骨院の香りがして、おもしろい味だった。というわけで、ぼくにとってこの本はルート・ビアの味と結びついている。
 

2017年1月16日

日記:2017/01/07 - 14

2017/01/07 土

 たくさん寝た。新年に願った通りにたくさん寝れているのだけれど、どうも夢を三種類くらい見ていてあまり休めた気がしない。
 犬のおしっこ漏らしは、ひたすらかわいがって寝るときもがっちり抱きしめて前足などを揉んであげるようにしたら、おさまった。やっぱり拗ねていただけか。

2017/01/08 日

 模様替えでよくなった点はぼくの仕事部屋がテレビを置いているところから遠く奥まったので仕事中に気が散らないことと、逆に寝床からテレビが見えるようになったので(いまいち部屋の構造が全然伝わらないと思うがあえて伝えたいとも思わないので、書いてある通り、字面通りの配置だととりあえず思ってもらえれば)寝ながらテレビが観られること。就寝する際に観るのもいいのだけれど、朝起きたときにそのまま朝の番組を観られるのもいい。子供の頃はそうして寝床から日曜朝の子供番組をひたすら観ていた。寝床から観られる環境でなければとても朝の戦隊ものなど観られなかったろうと思う。それで、久しぶりにそういう見方もできるかなと思ってここのところ日曜の朝を楽しみにしているのだが、まあそんな早い時間に起きられるわけもなく、この日も太陽が高く上がってから起きた(太陽が出てたかどうかもよく覚えてない)。

2017/01/09 月

 やっと月曜が来たから、世の中が動き出したのに合わせてぼくも活動的になれるぞと思ったが、祝日らしいので休みモードが抜けなかった。年末年始はもっとアマゾン・プライムやレンタル映画など心置きなく観たかったなあと思いつつも、いざそういう時間ができてもなにか観たいものが浮かばないし、もともとあまりテレビの前に座って続けざまに何本も映画観るみたいなことができないので(『スター・ウォーズ』六部作一気見とかも何度か挑戦したが、SWですら集中力がもたなかった。EP1のレースのシーンを観ながら、このあとに控えてる5本のことを考えて気が重くなった)そんなに観れなかったなあ。楽しみにしていたドラマの『高い城の男』も全然前半しか観れてないし、借りて来た映画も『フルメタル・ジャケット』というど定番一本だけ。友達から絶対瑞丸は観たほうがいいと毎回推されている『未来世紀ブラジル』もようやく借りて来たが結局観そびれたまま返してしまった。そうなのだ、ぼくは意外と定番の作品や名作を観ていないのだ。勉強中ということで今後にご期待ください。でもさ、映画って新作も過去作も多すぎるよね。供給過多。

2017/01/10 火

 今週は結構試写を入れている。今日は遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督作『沈黙 ーサイレンスー』。江戸時代の百姓たちが英語を話すっていうだけで本来なら日本の観客がリアリティを感じられなくなってしまいそうだけれど、そのたどたどしさや日本訛りがリアルで全然気にならなかった。言語についてどういう配慮をしていったのかが気になる。時間をかけて咀嚼したい作品。長い映画だったけれど、ぼくは全然長く感じなかったなあ。イッセー尾形はやっぱりすごい。
 このところインターネットで見つけたペーパークラフトを作っている。無料公開されているテンプレートで、『スター・ウォーズ』の主要なヘルメットがだいたい作れるのがとてもうれしい。ヴェイダー、カイロ・レン、キャプテン・ファズマ、ストームトルーパー、クローン・トルーパー、ファースト・オーダー版ストームトルーパー。これくらいなら全部作りたいな。とりあえず順番にトルーパーを作って飾りたいのでクローン・トルーパーを作っているんだけれど、手先が不器用だからまた苦戦している。一度コピー用紙でテストしたんだけれど、貼り付ける順番を間違えるととても作りづらくなってしまう。テンプレート作成者のひとに言わせると、貼る順番を番号などであえて書いていないのはその順番を自分で考えるのがペーパークラフトにおける醍醐味だからだそう。なるほど。確かに頭を使うし、楽しい。
 新年のはじめに設定した目標のひとつ、「深夜まで起きない」はなかなか実践するのが難しい。だって気づくと深夜になっているんだもの。

2017/01/11水

 エイミー・シューマー主演、ジャド・アパトー監督作『エイミー、エイミー、エイミー!』の試写へ。原題は『TRAINERECK』で鉄道の脱線事故とかそんな意味。ちなみに邦題の方は『こじらせシングルライフの抜け出し方』というサブタイトルがついている。ぼくは個人的に最近よく見聞きするこの「こじらせ」という言葉、実際なんなのかよくわからない。大人になりきれないとか、成長できないで停滞しているとかそんな意味なのかな。ビル・ヘイダーは見ているだけでおもしろいなあ。彼が声を当てたって思えばBB-8もだいぶ好きになれる。たくさんの犬の散歩をするダニエル・ラドクリフの正体もわかって楽しかった。ぼくもマリサ・トメイの犬の散歩したい。

2017/01/12 木

 この日の試写はグザビエ・ドラン監督作の『たかが世界の終わり』。レア・セドゥが両腕にちょっとダサめのバラのタトゥー入れて「恋のマイアヒ」に合わせて踊る。ヴァンサン・カッセルと兄妹って設定なんだけれど、ずっと観てるとちょっと顔が似てるように思えて来た。目の感じとかちょっと似てるような気がする。そういえば『美女と野獣』では美女と野獣だったふたり。
 夜はSPURの編集の方と、連載でも試写でもお世話になっているライターの萩原さんと新年会の食事をした。とても冷える日が続くのでスパイシーなネパール鍋。試写で観た映画や雑誌のこととか、『ローグ・ワン』の話をした。映画を観るプロとSWの話するのはすごく楽しいし、楽しい会話は自分の考えもまとまっていく。とても温まった。

2017/01/13 金

 この日は少し休んだ。犬の餌が切れたのでデパートの最上階にあるペットショップまで買いにいく。どうも減りが早いと思ったが、少し痩せ気味なのを気にしてぼくが少し多めにあげていたんだった。ペットショップにいくと、ガラス張りの遊びスペースで子犬がじゃれあっているのをいつも眺めるんだけれど、決まって気持ち悪い笑みが顔に張り付いたひと(だいたいおばさん)が突っ立って見入っている。子猫が放たれているときは猫好きだろうし、子犬が放たれている日そこにいるのは犬好きだろうと思うんだけれど、どちらも共通しているのは不自然な笑みとほかになにも見えていなさそうな目つき。前に来たときは遊んでいた猫の一匹がおしっこをその辺にしたとき、おばさんが大声で店員を呼びつけて大変よ大変よあなたあの子おしっこしちゃったみたいなんですよおと騒いでいた。別に大騒ぎすることでもないのに。掃除の時間は決まっているだろうし。この日はやはり子犬が途中でうんちをしてしまって、案の定見入っていたおばさんが他の仕事で忙しそうな店員を呼んで大騒ぎしていた。よかったら私が掃除や世話をしてあげたいくらいなんですが、みたいなことを口走っていてやべえなと思った。いずれにせよああいうひとは自分の家では飼えないからこういうところに来て恋しさを紛らわせているのだろうけれど、都合のいい世話焼きだよね。看板猫や看板犬のいる店なんかでもよく見かける。よそのペットだから都合のいい可愛がり方だけする。野良猫に無責任なやり方で起き餌をするおばさんおじさんと一緒。
 それにしてもペットショップの犬は本当に自分でしたうんちをそのまま食べちゃうんだな。あの子たちに罪はないが、やはりペットショップを通して犬を迎えようとは思わない。ペットショップは餌と用品だけ売ってくれればそれでいいと思う。
 デパートで義母と合流して三人で帰宅するとポコが大喜び。寝転がって久しぶりにドラえもんを観た。義母の前で。今年で26歳になるけれどドラえもんを観て大笑いした。狭い路地をがんばって通り抜けた後のドラえもんがものすごい細長くなってておもしろかった。ドラえもんが細長くなる回は結構あって、シリーズにおける鉄板ギャグのひとつなのだけれど、いつ見てもあの姿はおもしろい。ぼくは小五からなにも変わってない。

2017/01/14 土

 試写通いや原稿作りも始まったのに予定がない日はどうも気だるい。休み気分が抜けていない。もう1月も折り返しになるというのに身体が痛くなるほどの寒さでまだ休んでいていいのではないかと思ってしまう。ペーパークラフトがだいたい出来上がった。
 

2017年1月9日

レイア姫




 年末年始にキャリー・フィッシャー=レイアの絵をこれだけ描いた。2枚目の公式おふざけグラビアは確かローリング・ストーン誌かなにかの企画だったような気がする。色が多めに使えて楽しかった。3枚目の舞台裏でうたたねしている写真もお気に入りだったのでそのまま模写した。

2017年1月8日

レイの正体 - オビ=ワンとの共通点


 レイがオビ=ワンの子孫である、と断定しようというのではない。ただ、こうして共通点を挙げていくと、その行為はとてもオビ=ワン的であり、スカイウォーカーの血を引く人間であるとは思えなくなってくる。

1.砂漠で独りぼっち
 EP3からEP4までのオビ=ワンの隠遁生活は過酷で孤独なものだったろうと思う。年月もちょうどレイの年齢と同じくらい。
 ブリティッシュ・アクセントに関しては、レイの親分であるアンカー・プラット(演:サイモン・ペグ)がそうだから、という見方もできるけれど、必要以上に強調されているように感じる。

2.マインド・トリック
 フォースの技としては定番かつ象徴的なので、今まではあえてオビ=ワンと結びつけようとは思わなかったけれど、よく考えて見ればこの技はオビ=ワンの得意技と言える。映画でこの技を一度も失敗しないのは六部作通して彼だけなのだ。EP1では師のクワイ=ガンが、EP6では弟子のルークが使うが、ふたりとも二回のうち一回は失敗してしまう。彼らの場合は使う相手が悪かったのだが、それも含めてこの技を使える状況に恵まれていない。クワイ=ガンはオビ=ワンの師だから、ルークはオビ=ワンの弟子だからこの技を使ったということでしかなく、第1作目で最初にこの技を通してフォースの力を観客に見せたオビ=ワンがこの技のオリジンと言えるだろう。
 そもそもレイが相手取ったのがストームトルーパーという時点で、このシーンは同じくトルーパーを相手にしたオビ=ワンのシーンに対応していると思う。

3.ライトセイバーをルークに渡す
 思えばルークに対してだけでなく、オビ=ワンはアナキンにもライトセイバーを渡すシーンがある。つまりスカイウォーカーに剣を渡す役割なのだ。レイもその役割を受け継いでいるとしたら、ケノービと関係のある人物ということではないだろうか。

4.棒を使う
 棒を使いこなすふたりだが、ブラスターに関してはふたりとも同様に不慣れだったりする。不慣れながら仕方なくこのレーザー銃を使って危機を逃れる描写も重なる。
 レイがハン・ソロからブラスターを渡されるのも意味深、というか皮肉だ。ハンはかつてオビ=ワンに向かってフォースやライトセイバーよりもブラスターの方が優位であると断言していたけれど、結局レイのブラスターがカイロ・レンに対してなんの役にも立たなかったことは、ハンよりもオビ=ワンの正しさを強調するかのようである。レイの放つレーザーを難なく弾き返すカイロ・レンの本名が「ベン」であることも忘れてはならない。

5.ハン・ソロとのフォースをめぐる会話
 EP7の予告編で観て以来「ハン・ソロがフォースを説く側になった!」ということにびっくりしてしまいこの会話シーンの本質的なところに気づけずにいたが、レイをオビ=ワンに対応させるとEP4とEP7の会話はそっくりひっくり返ったものになる。ハンの台詞も本当に真反対になっているのがおもしろい。

6.最初から決闘
 三部作の最初から決闘するのはスカイウォーカーの役割ではない。アナキンもルークも1話目ではまだ自ら剣を抜かないのだ。最初から決闘するのはケノービの役割と言える。

 オビ=ワンと大きな共通点を持つキャラクターはレイだけではない。カイロ・レンの本名はベン・ソロ。ベンはオビ=ワンが隠遁中に使っていた名前で、ルークとハンにとってはこちらのほうが馴染み深い名前だ。ハンはEP4で最後までオビ=ワンとわかり合うことができなかった(「化石みてえなじいさんだぜ」)が、後にその偉大さを改めて知り、悔恨や親しみの意味をこめて息子をベンと名付けたのではないか。その息子はその名前をつけられたことに重圧を感じ、名前の由来となったジェダイ・マスターよりも、最強のジェダイにしてシス卿だった祖父の方に憧れるようになったのではいか。彼はダース・ヴェイダーとベン・ケノービ、アナキンとオビ=ワンという究極的な二大人物の間で苦しんでいたのだ。
 そう思うと、EP7『フォースの覚醒』の鍵はオビ=ワンにあるような気がする。同時に、オビ=ワンがシリーズ全体の中心にいるように思えてくる。ダース・ヴェイダーのヘルメットの残骸は、暗黒卿の影響が死してなお後世に遺り続けていることを象徴するようなアイテムだったが、死してなお影響を遺したのは彼だけではないかもしれない。かつてヴェイダーに殺される間際に「死してなお私は強くなる」と言い遺したオビ=ワン。EP7でフォースを覚醒させたレイはライトセイバーを初めて握ったにも関わらず、相当の訓練を積んでいたはずのカイロ・レンを圧倒する。あの強さはどこから来ているのか?ぼくにはオビ=ワンの最後の言葉がヒントのような気がしてならない。
 レイがアナキンのライトセイバーに初めて触れたときに見るフォース・ヴィジョンの中で、フォースと一体となったオビ=ワンがレイの名を呼んで語りかけるという大きな接点も重要だ。フォースがオビ=ワンやヨーダの声を借りてレイに語りかけたのか、オビ=ワンの意志がフォースの中からレイに語りかけたのか。一体化によってオビ=ワンの精神とフォースが同義であること、かつてフォースの意志によって生み出されたアナキンのようなジェダイがいたことを考えれば、レイの出生の秘密に一歩近づけるかもしれない。
 新しい三部作の主人公がケノービ側の人物で、今度はルークがそれを訓練する立場であるなら、バトンは受け継がれ、サイクルが出来上がる。サーガ全体がスカイウォーカーだけの物語ではなく、スカイウォーカーとケノービの物語であるという見方ができるようになるのだ。

2017年1月3日

日記:2016/12/31〜2017/01/06

2016/12/31 土

 大晦日は大学生の弟を家に呼んでテレビを観て過ごした。まだ年末年始休みの間にやりたことはあまりやれていない。というか多すぎてどれから手をつけようか考えているうちに仕事が本格化してしまいそうな気がする。
 いつもはどういう一年だったか、一年間の仕事はどうだったかとかを改まってまとめたりするのだけれど、今回はどうも気乗りしなかった。とりあえず事務的な作業を避けてさっさと休みたかったのと、キャリー・フィッシャーの訃報にだいぶ打ちひしがれていたせいだろう。とりあえず2016年は11月の結婚式と、アパレルブランドとのコラボに関連した原画展が重力の中心になっていたように思う。いずれにせよひたすらアナログな制作をしていた。11月が過ぎてからはなんだか気が抜けてしまいがちで、仕事以外でなにかやりたいと思っていたのだけれど、そうこうしているうちに年が暮れたという感じ。
 別に工作していたからといって手先が器用になったわけでもなく、上達したようにはとても思えなかったけれど、少なくともどういうものが作れてどういうものが作れないか、どういうものは描けてどういうものは描けないか、向き不向きを含めた自分の限界はなんとなく察したように思う。
 また、映画レビューの連載開始に伴って本格的に試写会に通うようになったので、スケジュールのやりくりもなんとなく身についたかな。手帳に書くことが多くなった。
 年越しプラモを組み立てるもテレビを観たり途中でそばを食べたりとあまり集中できなかったのでK-2SOの頭と胴体が出来たところで年が明けてしまった。ちなみにこれまで組み立てたキャラクター・キットで一番部品が少なく作りやすい気がした。身体が細いので部品が幅を取らないだけかな?とはいえ別にそこまで難易度を感じずに組み終えた。いつもながら良い出来。

2017/01/01 日

 実は木曜に弟への成人祝いとクリスマスとお年玉を兼ねてポール・スミスの財布なんかを買っていたから、年が明けてからあげた。向こう五年間はなにもあげなくていいくらいの大サービスである。弟が欲しがっていたのはオーソドックスなカラフルストライプだが、いかにもなのでもっとシックなものにした。いいなあ。ぼくが使いたいくらいだ。こんな高価な、中に入れるものが無くなってしまいそうな財布は妻にも買ったことがない。
 妻がはりきって用意してくれたおせち料理とお雑煮で朝からお腹いっぱい。大変久しぶりにお正月という感じ。ここ数年は夕方頃まで寝て風物詩的なものはほとんど無視していた(初詣は行っていたが)ので楽しい。午後から神田明神に出かけた。もう3回目である。古いお札を返して新しいお札をお金と引き換えにどうにか施していただく(買うって言っちゃいけないんだっけ?いやしかし買う以外のなにものでもないだろう。だいたい境内を見渡してみても、場所柄秋葉原方面に媚びたコラボ商品ばかり並んで大変な商売っ気を感じるが)。しかし初詣に行くたびになんだかんだこの国の人々も信心深いなあと思う。げんを担いだり縁起の良し悪しを気にしたり、十分信仰と呼べるのではないだろうか。かく言うぼくもここへのお参りとお札を置くようになってから仕事が増えたように感じるので、毎年詣でているわけだ。途中でやめたらどうなるか知れない。というわけで神田明神さま、どうか今年もひとつ。萌えキャラグッズ売ってても全然いいと思いますよ!
 ところで、2017年というのは『スター・ウォーズ』第1作公開から40周年にあたる。キャリー・フィッシャーが40周年目前に逝ってしまったのは非常に残念だが、今年はEP8もあるし、シリーズにとってまたひとつ大きな節目となるんじゃないかな。最近は毎年なにかしらやっている状態なのでそこまで特別感ないけれど、それでもやはり40年という月日がよりあの作品を古典たらしめるだろう。同時に、その月日の重さは今後もまたやってくるであろう誰かのお別れの際に感じることになるだろうなあ。
 あと、「2017」はもういい加減眼鏡にするには無理があると思う。17年前にもうやめておくべきだったね。

2017/01/02 月

 早くも気だるくなっている。本格的に仕事が始まるまでにライフワークに取り組みたいがもう年が明けて2日経ってしまった。今のところ年越しプラモデルしか作っていない。あとレゴと小説の執筆とウェブサイトの整理と結婚式記録ページの更新などが残っている。なんという忙しさだ。これでは普段と変わらないじゃないか。休みなのだから休もうじゃないか。やりたいことのうち、どれかひとつくらい取りかかりたいな。

2017/01/03 火

 三が日が終わりそうなので昨日は休みだから休めばいいとは思ったものの、焦り始めている。もう終わっちゃうのか?なんだか自分ではじっくり内省の時間を持てる休暇のつもりだったのだが、なんだかんだせわしなかったな。。。
 でもね、普段通りの生活で、仕事の合間にこそ好きなことにも取り組めるというものでは?だいたい今のこのテンションだととてもなにか作る気になれない。ペンタブを触るとなんとなく仕事の気分になるの、どうにかしたいね。そう、今年はこの「仕事」という言葉や感覚についても解釈を変えたいと思ってる。お金をもらっているから仕事、はいいのだけれど、仕事だから少し気が重いという感覚を直したい。
 犬を連れて公園に行ったら、木の枝と電線にひとつずつ凧が引っかかっているという、『ピーナッツ』の漫画の中でしかお目にかかれなさそうな光景を目にした。木の下ではおそらく凧の持ち主であろう子供が父親からひどく怒られて泣いていたが、電線の方は持ち主がとっくに立ち去ったあとらしかった。放置とは信じられない。まあ、こんな古典的な、冬休みのしおりの注意事項に書いてあるようなこと本当にあるのかと、そっちのほうがにわかに信じられないのだけれど。
 公園の奥まで行って、また戻ってくるときに見たら、電線の方の凧が無くなっていて、かわりに木の方の凧が放置されていた。先ほどの親子はいない。そっちが放置組だったか。チャーリー・ブラウンだったら諦めないのにな。

2017/01/04 水

 友達の『ローグ・ワン』鑑賞。お互いに三度目。ようやく全体を俯瞰して観ることができたし、字幕もちゃんと追えるようになった。スカリフの軌道シールド・ゲートのバルコニーをストームトルーパーが歩いていることとか、ゴールド中隊からイオン魚雷で攻撃されてエンジンが停止してしまったスター・デストロイヤーのブリッジでは修理作業をしているエンジニアがいたりという、細かいところも観ることができた。
 キャリー・フィッシャーの死後初めての鑑賞だったけれど、ラストのレイア姫がより一層味わい深かった。結局ターキンもレイアも故人となってしまった。
 映画館のそばにあるトイザらスを覗いたら、SW売り場がとてもやる気のないことになっていた。クリアランスで安価なのはいいけれど、欲しいものが全然無い。というか『ローグ・ワン』の商品がほとんどない。『フォースの覚醒』の売れ残りがずらっと並んでいた。

2017/01/05 木
 
 世間はとっくに動き出しているけれど、ぼくの方はまだ最初の締め切りまで余裕があるし、年末で中断した作業についても先方から再開の連絡が来るまで待機なので、まだまだ休める。とは言え当初計画していたような、子供のころのように充実した冬休みはおくれなかったな。読書をしたりレゴをしたりアニメを観たりはできなかった。まあ、いつでもできるのだけれどね。寝てばかりいるけれど、時間を無駄にしたのではなく、ちゃんと休めているのだと思うことにしよう。睡眠を無駄なものと思わないようにしよう。

2017/01/06 金

 特に印象がない日。なんとかお昼頃には起きられた。お節の残りを平らげた。どんどん寒くなっている気がする。暖冬など嘘じゃないか。芯まで冷え切って辛い。
 お正月から延々と垂れ流されていたお笑い番組とかバラエティ番組をぼうっと観ていて思ったのは、女性コメディアンの扱いの不当さ。ちょうど山内マリコ先生の新刊『あのこは貴族』を年末に読んだばかりだったので、作中に出てきた「女を支配するために女同士を分断する男たち」という構図が、まさに今目の前の画面の中で繰り広げられていてくらっとした。マリコ先生の作品は普段ぼくが疑問に感じたりモヤっとしたりしながらもなかなか説明できる言葉を見つけられずにいることを、わかりやすく書いてくれる。きっと、読む人みんながそう思うんだろうなあ。
 なにがひどかったかというと、その番組では女性芸人たちを何人もひっくるめて「醜女」ってラベリングしてたんだよ。一般的に美人とされているらしいタレントたちと並べられててさ。「醜女」と書かれたテロップを見て思わず声を出したね。こんなひどい言葉を公然と女の人に使うってのはどういう神経なんだろう。当人たちもそれで笑いを取るしかないという状況がちょっと危機的に思える。
 そのとき横にいた妻が「シコメねえ」と言ったので、そうか、これはそう読むのかと思ったが口に出さないでおいた。まさかぼくが醜女をシュウオンナと読んでいたことなど妻が知ったら、いつぞや美人局をビジンキョクと読んだときのように散々馬鹿にされるに決まっている。
 

今年どういう生活を送りたいかメモ


 今年もどうぞよろしくお願いします。
 鳥と言われたらやはりペンギンを描きたくなる。左のは一応コーギーのつもり。来年はいよいよ戌年。
 
 今年どういう生活を送りたいかメモは以下の通り。
深夜まで起きない。遊びも仕事も深夜まで持っていかない)。
SNSに振り回されない。実は半年くらい前からもう携帯電話からツイッターやフェイスブックのアプリは消しているし、数年身を置いていたLINEグループからもやっと撤退できた。一時期に比べればだいぶ情報過多ではなくなったが、それでもまだまだ多い。読むもの、目に入るものは最低限にしたい。自分を守るためにね。
良い意味で内向的になる。上の項目に関連して、誰かの書き込みに一喜一憂するなんてことはやめて、ひたすら自分を見つめようじゃないかと。見知らぬひとにイラつく代わりに一枚でも多く描いて、一文でも多く書きたい。
・絵はもちろんだけれど、文章を上達させる。やけに長ったらしいのはやめだ。
自分のスタイルをまずは肯定する。お金をもらっている以上一定の自信はあるけれど、どうしてもここ最近は自己肯定感が薄れている。基本的にぼくは贅沢なんだよね。
趣味を恐れない。なんとなく物を集めることが急に怖くなったり(増えるんだもん)、このままでいいのかと思ったりしながら去年は過ごしていた。でも、やっぱり集めるのは楽しいし、楽しくないと自分の創作もはかどらないんだよね。恐れずに続けよう。これも自己肯定への第一歩だ。
筆圧を減らす。手が非常に疲れるし、力みすぎても良いものが描けるとは限らない。
断ることを覚える。これは本当に。
よく眠る(これは早速実践している)。
 
 思いついたまま書いているので順番に特に意味はないけれど、とにかく気を楽にしたいってことだね。いや、去年はだいぶくたびれてしまった。この猫とコーギーみたいにごまかしながらでも気を楽に生きていきたい。。。