2017年1月18日

『エドウィン・マルハウス』感想


 去年の夏に読んだのだけれど、ひと夏の読書にぴったりだった。克明に書かれた他愛もない少年少女の世界に浸っていると、どうしたって自分の中でも子供の頃の感覚が蘇ってくる。エドウィン・マルハウス伝記は子供の頃よく経験するありがちなことに彩られているわけだけれど、興味深かったのはどこの国でも子供って同じなんだなということ。興味は次から次へと移ろっていき、恋の熱に浮かされて、午後の授業中に雷が鳴り出すと妙にわくわくしてしまう。ましてやぼくは落書きをたくさんする子供だったから、エドウィンの漫画熱にも非常に親近感が湧いたし、エドワード・ペンのような子と出会ったらぼくも夢中になり、また嫉妬しただろうと思う。というか、実際自分より絵がうまかったり、自分では思いつかない、新鮮な遊びに熱中している子にはよく関心を持ったのをよく覚えている。時代や環境、国も違うぼくがこれほど共感できるのだから、エドウィンの11年の短い人生は、わりと誰にでも経験があり、誰にでも当てはまる普遍的な少年時代なのではないだろうか。そうして、そんなありふれた短い人生を、ドラマチックな伝記に仕上げているのは(文字通りその人生までも”仕上げる”ことになる)狂気の伝記作家である語り手ジェフリーなのだと思う。
 生まれて間もない赤ん坊のときから隣人エドウィンの観察者となったジェフリー。彼がエドウィンを”失う”まで、彼の人生は常にエドウィンのことばかり考える日々。最初は仲良しなのねと思うも、これがだんだん気持ち悪くなってくる。エドウィンのことが大好きとかそんなレベルではない。執着や呪いの類だ。やがてジェフリーはエドウィンの人生を記録することこそ自分に与えられた使命だと思うようになる。
 とは言えやっぱりジェフリーも子供なので、エドウィン同様の稚拙さはそこかしこに漂っている。エドウィンをまるで偉大な作家であるかのように書き綴る様子は微笑ましいくらいだ。彼がいかに非凡かがややオーバーな言葉で語られているのは可笑しくもあるけれど、書いているジェフリーはいたって真剣だということは伝わってくるから、そこに引き込まれていく。たとえば、生後6ヶ月のエドウィンがあーうーと奇声をあげたことについて、「賢明な読者ならこれが彼の最初の詩だとわかるはずだ」なんて真剣に書いているところには、この伝記の特徴的な雰囲気がよく表れている。エドウィンが生後6ヶ月ならジェフリーもそのはずだ。どうしてそんな時期のことを克明に書けるのだろうか?そこで、ジェフリー自身も物心がついていない幼少期のエドウィンについては、創作である可能性も出てくる。ここだけ創作なのか?ほかにも創作しているところがあるのではないか、と考えていくと、この伝記自体どこまで事実が書かれているのか怪しくなってくる。ジェフリーはエドウィンを、伝記を通して大天才として脚色したのではないか。エドウィンは子供らしい過剰な自意識の持ち主だったから、ジェフリーの伝記計画に乗り気になったけれど、伝記の材料になれば誰でもよかったのかもしれない。彼は誰かちょうどいいひとを題材に伝記を創作したかったのではないか。実際、ジェフリーはエドウィンを天才少年として「完結」(あるいは「保存」かな)させたあと、また新しい題材を見つけて狙いを定めている。おっかない。けれどやっぱりどこか微笑ましくもある。
 特別な子供の話としてとらえることはできる。けれど、ぼくはどちらかというと、作家の方も伝記作家の方も、普遍的な少年たちだと思いたい。奇妙なところ、そら恐ろしいところ、狂気じみたところ、いろいろ変わったところはあれど、やっぱりそれは子供なら誰しも持ち得る熱量ゆえのところだと思う。どこにでもいる普通の少年たちの物語だと思ったほうが、より恐ろしいしね。
 ところで、去年の夏はこの本を読んでいて改めてルート・ビアなる飲み物に興味がわいたのだけれど、ちょうど近所のカフェのメニューにあるのを見つけて、暑さも手伝って思い切って注文してみた。子供の頃脱臼癖のために通っていた接骨院の香りがして、おもしろい味だった。というわけで、ぼくにとってこの本はルート・ビアの味と結びついている。