2017年5月25日

歩行者優先

 教習所に通い出してから新たに知ったことは当然多いけれど、中でも驚いたのは「歩行者の保護・優先」というやつで、ぼくが思っていた以上に歩行者は大事にされていて、そうすることはドライバーの義務らしい。

 当たり前じゃん?なんでそんなことで驚いてるの?とお思いだろう。まあ待ってくれ。わけがあるのだ。一度ぼくが生まれ育った地域に場所を移し、ぼくが小学生だった頃に時間を巻き戻そう。

 ぼくの地元は小さい農村である。山に囲まれた谷のようなところを一本の県道が通っていて、その周りにぽつぽつと家や商店、小学校が点在して集落を形成している。真ん中に通る道路から外れて、それぞれの山の方へ入り組んだ細い道を入って行けば、もっといくつも民家の集まりがあったりするけれど、それ以上先にはなにもない。てっきりぼくが知らないだけでもっと奥の方にも人が住んでいるのかもしれないと思っていたが、今改めてグーグルの航空写真地図を見るとそんなことはなかった。本当に、ぼくが子供の頃見た以上の地域はないらしい。真ん中を突っ切る県道、それに沿って並ぶ家、三軒のみの商店、いくつかの方向に分岐する細い道と細かく区分けされた田畑、そこに点在する家。あとは丘だか山だか緑があるだけ。以上。その他諸々の事業の看板を自宅に掲げている家もあるだろうけれど(かく言うぼくの家もそうだが)、まあとにかくこれがぼくの故郷である。

 なにが言いたいかというと、そういう「通り道にある集落」なものだから、真ん中を突っ切る県道をしょっちゅう車がひっきりなしに行き来しているのだ。街から街へ抜けていくところにちょうど位置していると思ってくれていい。そんなわけで登下校する小学生は車に気をつけるようきつく言いつけられる。とは言えこの地域には信号機がひとつもない。道路が一本しか通っていないのだから当然だ。だから子供たちは信号機無しの横断歩道(辛うじて二つある)を渡るために車が途切れるまで、あるいは親切なドライバーがやってくるまでひとかたまりになって待っていなくてはならない。

 そう。ぼくの記憶が確かなら、ぼくらは登下校の際に車が「停まってくれる」まで横断歩道の前でボケっと鼻垂らして突っ立っているしかなかった。来る日も来る日も車がびゅんびゅん走り去るのを「はやく途切れないかなあ」とか「誰か優しいひとが停まってくれないかなあ」と思って待っていたものだ。小学生にありがちな無茶を覚えるようになると、しびれを切らして適当なところで横断歩道に飛び出していって、無事に渡り終えるというスリルを味わったりもした(ただ横断歩道を渡っただけなのだが)。渡り終えると背後でまた車がびゅんびゅん走り去る。もう少しで轢かれて死んでいたんじゃないかと思うとヒヤッとする。もしかすると今の自分は霊体で、振り返ると横断歩道の真ん中で血を流して倒れている自分がいるんじゃないかなどと妄想にかられたこともある。それくらい車は停まってくれないもので、ましてや横断歩道のないところで渡るなんていうのは危ないことで、万が一のことがあっても渡るやつが悪いのだ、そんなふうに刷り込まれていた気がする。

 連休前などになるとよく帰りがけに教師から、よそから遊びに来る車が増えるので特に気をつけて過ごしましょう、などという注意を受けた。普段通勤にここを通っていく人たちですら横断歩道で立ちすくむ子供達を気にせず通り過ぎていくのだから、よそから来たひとなどきっと隙あらばぼくらを轢き殺そうとするかもしれない(?)などと子供心に恐れたものだ。それくらいよそから来た車とそのドライバーは恐ろしく無慈悲な連中だと叩き込まれていた。教師たちもよそから車で学校に来ているということには子供たちはまだ思い至らない。
 
 このように車通りが多い道路沿いの集落ではとにかくいろいろな意味で車が中心だった。
 移動の中心は車。これはどこの地方も同じだろう。歩道を歩いているのは子供か畑帰りの老婆くらいで、そのどちらにも属さないひとが歩いていたらそれだけでかなり目立つくらいだ。背広など着ていたら押し売りが来たと近所中で噂になるだろう。もちろんセールスマンだって車で移動するのは間違いない。
 路上でも車が中心だ。ここまで書き連ねてきたように、あの道路でいちばん偉いのは車だ。横断歩道を渡ろうとしている子供たちなどもっとも地位が低いはずだ。ほとんど無視される点ではよくはねられて死んでいる狸や猫と変わらない。時折親切なドライバーに当たって横断歩道を渡らせてくれたときの、うれしさと救われた感じといったらない。そういうときは本当に感謝の念が湧いて来るので、自然と渡り終えたあとに最敬礼である。停まってくれた車にはお辞儀しましょうと学校でも教えていた。車は「わざわざ」停まって「くれた」のだから。感謝しなくてはならない。

 さて、時は流れてぼくは都会で暮らし結婚した。妻と連れ立って犬の散歩などしていると、何度も道を渡る場面があるのだが、ぼくは子供の頃の刷り込みでどこでも車が途切れてから渡るという癖がついているのでついつい車をやり過ごすために立ち止まってしまう。渡ろうとしたときにちょうど車がやってきてしまったときにも反射的に立ち止まってしまう。もちろん車も一時停止する。やたら背のでかい男が短足の不恰好な犬を連れて道を渡ろうとしているのが見えたからだ。しかし、なぜか男は立ち止まったまま渡ろうとしない。どうしたんだろう?すると男は一緒にいた女性に促されてやっと道を渡る。ヘンなの。
 道を渡り終えて車が去ったところで、妻がぼくに言う。ああいうときは渡らないと車の方も困るでしょ。なんでいちいち立ち止まるのよ。ぼくは言う。車に譲ろうと思ったんだよ。車を先に行かせたほうがいい。すると妻はますます不審がる。そういうのは車にも迷惑だし、あっちは歩行者を優先しなきゃいけないんだよ。ぼくはこれを聞いて始めは非常に不思議だった。歩行者を優先?車が?そう言ったか?ぼくは子供の頃から車は基本的に停まってくれないもので、かりに車と自分の動きがかち合ったらとにかく車に譲れと教わったんだがなあ、などと漏らすと、あんたんとこはやっぱりおかしいのよ、と妻が言い、そうかなあ、とぼくはまだ納得いかないでいるので、妻も呆れる。
 
 果たして妻が正しかった。教習所の講習で確かにドライバーは歩行者をとにかく優先して保護しなければならないと教えられた。信号機があろうとなかろうと横断歩道を渡ろうとしているひとがいたら、停まってゆずりましょう。これは義務です。横断歩道がなくとも、道を渡ろうとしているひとがいたら停まって渡らせましょう。思いやりです。義務です。このような言葉が繰り返され、もはやぼくが7歳から12歳までの間に叩き込まれた車と歩行者の関係はあっさり崩れた。歩行者の方が偉かったのだ!教習ビデオの中で言うこと聞かなそうなクソガキが母親の手を引いて突然目の前で道に飛び出して渡ろうとした。歩道で反対側に向かって手まねきしてるおばさんがいる。次になにが起こるか予測できますか?とナレーション。反対側から女の子が飛び出してきて道を渡る。
 これら全てに車は停まってあげなきゃいけないのだ!なんだってぼくたちは横断歩道の前でバカみたいに突っ立ってたんだろう。渡っちまえばよかったのだ。横断歩道で失った時間を返して欲しい。あれのせいでどれだけ朝の会に遅れそうになったか。そのたびに担任に嫌味言われてさ。まったく。車中心の車信仰が根付いたとんでもねえカルト村だぜ。停まってくれた優しいドライバーにあんなにお辞儀までして。優しいひとだったろうとは思うが、あれは普通だったのだ。義務なんだから。あーあ。
 車は全然偉くないことを知り、小学生のときに叩き込まれたものに今更疑念を抱いたわけだけれど、ぼくも歩行者を優先する側になろうとしているので、気をつけないとなあと思ったのでした。

猫の将校とこわいポスター


 標準歴35285年にキャットラー政権が成立して以降、かの独裁者が安酒の酔いにも等しい民衆の熱を原動力に次々に自らの権限を拡大させる法制定を行ってきたのは言うまでもないが、一連の改革は最終的に指導者への個人崇拝へと繋がった。その頃にはキャッティア帝国領の至るところでこのようなポスターが見られたが、用紙に仕込まれたナノ・カメラとスキャナー、マイクにより、市街地や個人宅における市民のあらゆる動きを、秘密警察「黒猫」が監視していた。多くの市民たちはこの監視の事実に気づいていたが、最初の頃はほとんど関心を示さなかった。
 しかし、ポスターがある程度普及(ポスターの貼り付け自体は半強制の「任意」であり、公共施設以外は当局がどこに何枚貼るのかを決めていたわけではない)していくと、ポスターの上にかぶせる覆いも闇ルートで出回った。大抵はスキャナーやマイクを無効化できるシート状のもので、黒い覆いのような露骨なものもあったが、透明のシートがもっとも人気だった。パトロールの憲兵が見たとしても一見ポスターは通常の状態にしか見えないのだ。無論、憲兵の方でもこうした道具が出回っていることを十分承知であり、市民が重要施設への爆弾テロを計画でもしていない限りはポスターへの加工を放っておいた。と言うのも、彼ら方でも自分たちのプライバシーを守るため、忠誠を誓った首相閣下の肖像の上に同様の遮断フィルターをかぶせていたのだ。

2017年5月23日

営業報告

 今回はいくつか成果があるのでまとめて紹介したいと思います。


・まず連載から。「SPUR」7月号ではマイク・ミルズ監督最新作『20センチュリー・ウーマン』(6月3日公開)を紹介しています。やっとグレタ・ガーウィグが描けました。映画そのものもひと夏の物語で、初夏に合う色使いの記事になったかと思います。


・「婦人公論」6/13号のジェーン・スーさん連載も、スーさんの8年ぶりのバカンスについてのお話で、夏らしい挿絵になっています。



・明光義塾の保護者向け会報「Meit」で巻頭扉(写真2枚目)のほか内容に小さなカットを描いています。こちらも夏休みの過ごし方特集なので夏らしい絵です。

2017年5月18日

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』(2017)感想


 
 キャラクターたちの造形や互いの関係をより深く描き出し、前作の伏線を綺麗に回収していく展開、また新しいキャラクターとの出会いや、かなりスケールアップされた脅威との対峙、より広がりを見せる世界観の構築と、とにかく続編に必要なもの全てが備わっていると思う。前作と同じくらい愛せて、同時にそれを上回る興奮やカタルシスをもたらしてくれる、そんな最高の続編である。

 やはり『スター・ウォーズ』シリーズとは別に夢中になれるスペースオペラが出てきたことがとてもうれしいな。そのヴィジュアル世界がSWのそれとは全く違うタイプのものならなおさら。
 ぼくがSWに対して抱く数少ない不満の中に、「宇宙船に色がない」というものがあったりする。
 だいたいのメカニックは灰色や白で、原色はその船体に一本ラインが入っていたり、マーキングが施されたりする程度である。だからこそ『ファントム・メナス』(EP1,1999)に登場するようなボディが黄色や赤で、フォルムが丸かったり流線型だったりする宇宙船が好きなのだけれど、平和かつ文化的に成熟していた旧共和国最後の時代を描いたEP1以外にはそのような船は登場しない。もちろん最初の三部作を象徴する工業的なデザインの宇宙船も他の追随を許さない魅力があるが、どうしても色の少なさがね。

 カラフルで曲線が使われているのがいいのなら日本のSFアニメもいいのではないかと思われるひともいるだろう。もちろん悪くはないけれど、ぼくは母国製のSFメカがどうしても金属製に見えないのだ。玩具化を前提に考案されているからか(必ずしもそうではないだろうけれど)、どう見てもプラスチックに見えるものが多い。

 そこで、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(GOTG)だ。巨匠クリス・フォスによる有機的な曲線フォルムにカラフルな配色。熱帯魚や南国の鳥のような船が、これまたSW等の真っ暗な宇宙とは違い、様々な色に輝く宇宙空間を飛ぶ姿はとても綺麗。宇宙船だけでなく、登場する種族も色とりどりの肌をしていて楽しい。コミックが原作であるからこその色使いだろうか。
 とにかく、SWでしか宇宙世界を見てこなかったぼくのようなやつにとっては、前作が衝撃的で、もっといろいろな銀河系の姿があってもいいんだなと思った。

 ぼくたちが住むのとは別の世界が舞台となっているSWとは異なり、GOTGは地球が存在する銀河のお話。だからこそ、レトロ・フューチャー感や親近感があって、わかりやすい世界になっているのも楽しいところ。
 スペースオペラの主人公がソニーのカセットウォークマンを愛用しているという渋い設定は前作以降知れ渡っていることであえて説明する必要もないけれど、今作『リミックス』では冒頭から古い電子フットボールゲーム機がなぜか敵の接近を示すレーダー機器に改造されていたり、エリザベス・デビッキ演じるアイーシャが率いるソヴリン艦隊が、ゲームセンター的スタイルで遠隔操作されているというとても楽しいアイデアがあったりして最高だった。超ピコピコ言ってた。
 兵器のインターフェイスがだんだんゲーム機じみてきていて、シューティングゲーム感覚で戦争が行われているというような現実への皮肉もあるのかもしれないが、まあ、難しい考察はほどほどに。とにかく古いのに新しい、まさにレトロ・フューチャーだった。
 ソヴリン人は身内に死傷者を出したくないということは劇中でもデビッキの口から語られるが、まさかだからといってゲーセン艦隊とはね。
 そういえばSWにも身内に死者を出したくないからドロイドの軍隊を使う種族がいたな。がちがちの設定で固められたSWにはSWの魅力があるが、GOTGのユーモアセンスというか、緩さのある世界観もたまらない。

 SWとの比較が続いてしまったので、ついでにSWとの関連に触れよう。今作新たに登場したカート・ラッセル扮するエゴ(イーゴと発音されていたような気がする)はピーターの父を自称する謎の男だ。まあ、はっきり言って本当にお父さんなんだけどね。これは別にかの暗黒卿が息子に告げる衝撃の事実とかに比べると別段なんでもないので。劇中でも早々に明かされてしまうし、重大なのはそこではない。
 実はカート・ラッセルはSWの一作目『新たなる希望』(EP4,1977)であのハン・ソロの候補にあがっていて、スクリーンテストまでしているのだが、そんな過去をふまえると、次世代ハン・ソロと呼ばれるピーター(クリス・プラット自身若きハン・ソロ役の候補になっていたっけ)の父親という役は繋がりが見えてくるようでおもしろい。ただ、実際は父親としてはダース・ヴェイダーに匹敵、もしかするとそれ以上のヤバさがあったりするのだが……。あとは本編で。

 そうそう、人に勧めやすいのもいいよね。SWはもはや勧めること自体お勧めできないとしても、GOTGはまだ2作だけで、しかも『アベンジャーズ』シリーズの一部とは言え実は他の作品ほど劇中にクロスオーバー要素が無かったりするので、完全に独立した作品として楽しむことができる。予備知識ももちろん不要。 GOTGからアベンジャーズへの参戦はあっても、その逆はないので安心。クロスオーバーの時代、続編が作られ続けてシリーズ数がどんどん増えていく時代にあって、たった2本だけで楽しめる作品も珍しいのではないだろうか。というわけであなた、まだ観てないなら、SWに乗れないんならGOTGを観ましょう。

 というわけで超楽しかった『リミックス』でした。

 そういえばエンドクレジットで流れるメイン・テーマのディスコ・バージョン(「Guardians Inferno」)は、やっぱりSWのメイン・テーマのディスコ版を思い起こすよね。ああ、どうしても比較せずにはいられない。
 つらいときは思い出せ、ぼくらはグルート。

悪い魔女につかまって労働させられてるコーギー


 この絵の着想を得たのは、ある夜の散歩で通りかかった工事現場。うちの近所ではぼくたちが越してきた頃からずっと地下鉄の拡張工事とかいうのをやっていて、その地上部分も資材や入坑口なんかが並んで車道や歩道が変則的になっている。夜の散歩でその地上部分の現場の横を通った際に、ぽっかり開いた大きな穴を見かけた。地下の現場まで通じているらしく、オレンジ色の灯りが漏れていて、ガリガリとかギンギンとかいう作業音や男たちの声なんかが響いてくる。本当に地下を掘っているんだなあという感じでわくわくした。もっと近寄って覗き込んだら、ずっと下のほうにはつるはしやスコップで作業をする人々、行き来するトロッコなんかが見られたのだろうか(いつの鉱山だよ)。
 そこでぼくの空想がはじまる。奴隷商人に売られたかわいそうなコーギーたちが短い脚でせっせと歩き、石ころや土を積んだ台車をひっぱったり、ヨイトマケなんかに従事させられている光景。現場監督の目線よりもずっと低いところでせっせと働いているものだから、奴隷コーギーたちはこっそりお互いの顔を見合わせて「がんばろうねえ」「うん、がんばろうねえ」などと励まし合う。泥だらけの顔で……。
 かわいそうだが、なんて健気だろう。というわけでちょっとかわいい設定にして絵にしたってわけ。

『ムーンライト』(2016)感想


 『アデル、ブルーは熱い色』(2013)の感想のときにも書いたことだけれど、形が同性同士だというだけで(もちろんゆえに抱える問題もあるのだけれど)、そこで描かれることは誰の身にも起こりうる普遍的なものだと思う。『ムーンライト』はそれに加え、特定の人種とその生活圏、そこから連想されるものや生じてくる問題など、これでもかというくらいの要素がてんこもりである。それらのてんこもりはもちろん欠かせない重要な要素だけれど、先入観に惑わされずに見つめれば、そこには自分と同じように生きる人間がいる。

 三つのチャプターのうちの最終章では、それまで小柄だったりひょろかったりした主人公がめちゃくちゃごつい大人の男に成長している。いかついアメ車を転がしてブリンブリンを身につけた寡黙な売人。おまけに歯にも黄金のグリルズを装着しているくらいなのだが、子供の頃から想い続けてきた相手の前では、その小さな目が落ち着かなげになり大きな肩をすぼめてモジモジし出す。子供の頃からのうつむき癖(この仕草が特に別々の時期のシャロンを演じた三人の俳優たちを本当に同一人物かのように見せてくれる)も手伝って非常にかわいらしく感じる。ギャップ?そう、ギャップなのかもしれない。だがギャップってなんだ?こんなごついやつがモジモジなどするわけがないという前提があったなら、ぼくたちはその時点でなにかを決めつけてしまっていたのかもしれない。そんなことではティーンエイジャーのシャロンを、"逞しくなさ"、"男らしくなさ"といった理由で虐めていた連中と、変わらないのではないか。
 
 そんなにコアが普遍的ってんなら、なんの変哲も無い個人的な物語を観せられているってこと?なんて思うこともあるかもしれない。もちろん、そうではないと思う。他人の物語から感じることや学べることは多いし、自分との共通点を見つけられるからといって、その特別さが薄れるわけではない。そうやって親しみが持てて、美しくて、いろいろなことを考え想いたくなるから特別なのだ。
 特別であり、特殊ではない。特異な物語というわけではない。
 一見特異な予断を持ちやすい骨格は、ぼくたちへの試練でもあるのかもしれないな。

 なんだかどんどん思考が流れ出てきて自分の手には負えないような文章になってしまったけれど、ぼくにとっては、美しくてかわいらしい恋の物語で、そっと打ち明けられた人生のハイライトだ。
 誰かに恋をして、なにかに夢中になった人生の一時期をトリミングした『アデル〜』とは通じるところも多いと思う。とまあ、これも結局は同じ恋の形でカテゴライズしてしまうことになるのかもしれないけれど。でもやはり並べてみたくなる作品だ。
 なんといってもブルーというテーマカラーが共通している。
 色や空気感の美しさもこの映画の魅力のひとつだけれど、色の濃い肌が月光を浴びて青く輝くところなんか、身体の美しさってやつを思い知らされるね。