2017年10月4日

ミニマリズムとオタク

 ミニマリズムにちょっとした憧れがある。
 別にミニマルがミズマルと似ているからというわけではない。ある程度まで切り詰められたデザインや、簡略化を追求したデフォルメ、それでいながら確かな個性を発揮させるあの具合が良いのである。
 近頃は生活様式にもこの言葉がよく使われている。ミニマル(最低限)な調子で整えられた部屋やライフスタイルにも、やはり憧れる。ぼくはご存知のように所持品の多いタイプのオタクなので、そういう一見無欲で渋い感じがかっこよく見えるのだ。そういうのに憧れて、一度物をたくさん手放したこともあった。
 
 とは言え、物をできるだけ持たないこと、物を所有することを絶対悪みたいに捉えることがミニマリズムというわけではないと思う。一見無欲と前述したが、それはそう見えるというだけで別に禁欲的なジェダイのような生活(ぼくはプリクエルで提示された、あの融通のきかない禁欲的なジェダイ像があんまり好きじゃないんだよなあ)ではないはずだ。ぼくが憧れるのは、ゆったりしたスペースを保ちながらもお気に入りの品物がちょこちょことセンスよく飾られているような部屋なのだ。

 小物はおろか家具すらもなにもない、不動産屋さんと一緒に内見に来たときのままみたいな、がらんとした部屋の真ん中にぽつねんと座って白米だけを食べているというようなヴィジュアルには、なにも惹かれない。というかそれはたぶんミニマリストではなくただの苦学生である。なにかが違うと思う。

 そもそもこの思想は美術や建築等の分野のものだ。なにか作品を作ろうというひとが、品物の所有や購入をそこまで否定するだろうか(中にはそういうひとも多少はいるかも)。そういった美術的文脈とは関係なく、流行りのライフハック的な記事だけを鵜呑みにしたひとびとが、ああいうなんのセンスも感じられない、逆に貧乏臭いだけの部屋をミニマルだと思い込んでしまうのではないだろうか。ミニマリズムはケチになることではないはずだ。

 と、ひとの生活はともかくとして。
 ミニマリズムとオタク趣味の両立は可能だろうかといつも考えている。たぶんできるのだろうけれど、そこには相当のインテリア・センスが求められると思う。もちろん問題は外観だけではない。コレクションに対する考え方、デザインへの意識が改めて試される。持ち物や部屋について考えを巡らせるということは、生活様式をデザインすることに繋がるはずだろうと思う。
 そう、なにが楽しいって、この、持ち物と部屋について考えることが楽しいのだ。かっこいいコレクション、かっこいい飾り方、かっこいい部屋とはどんなだろうと考えると、ミニマルっぽいのが良いなあと思い至るわけだ。
 かっこいいだけでなく、すっきりさせたいのだ。僕はそれはもう集中力がない。なにか描いたり書いたりしていてもふとなにかに気を取られてしまう。それが周囲に置かれている物のせいだとは決め付けられないが、ほら、机の上を片付けてまっさらにすると気分が変わることがあるでしょう。ああいう感覚で気分転換をしたいのだ。それから、そう、頭の中もすっきりさせたい。

 恐らく、これからもぼくは好きな物を買ったり集めたり揃えたり作ったり飾ったりしまったりすることをやめない。大切なのは物を減らすことではなく、快適に暮らすことだ。その快適さを乱すノイズがあればそれを取り除き、好きなものや大切なものがクリアになるように努める。それがミニマリズムを取り入れた生活というものなのではないだろうか。

  引っ越しの際に持ち物の整理はいやでもしなければならない。というか、その良い機会とさえ言える。ぼくは2度目の引っ越し——実家から出てから最初の引っ越しということ——の際にたくさん持ち物を手放した。なにもない田舎から出てきたせいか、初めての都会生活でそれはもういろいろ買って楽しんだものだ。玩具とか本とか洋服とか。しかし、2年間の学生生活の間にいろいろと見聞きしていった中で、ひたすらに物を買うことにだんだん疑問を抱き始めていた(今思えばただ単に反動が来ただけなんだが)。まあ、それもひとからの受け売りなんだけどね。親元を離れてからの学生生活、それはもういろいろなひとのいろいろな意見に感化され、惑わされたものだ。そうして、そこに例の大地震が起こる。当時のぼくは森見登美彦作品に登場するような骨董アパート(の二階)で暮らしていたが、それはもう部屋がとんでもなく揺れた。もう随分時間が経つのでそのときの感覚を如実には思い出せなくなっているのだが、一瞬にして部屋の中にあった数々の品物のことがどうでもよくなり、なにも持たずに外へ出たことは確かである。自分なりに物への執着が強いと思っていたので、これが大変意外で自分でも驚いたものだった。
 それで、持っていなくてもいいものなんじゃないかという気持ちが強くなって、引っ越しに向けてその数を減らしてしまった。それでも自分が好きな物たちであることには変わりなかったので、捨てるなんていうことはせず、同じものが好きなひとたちに譲ってしまった。熱に浮かされたような愚かしい断捨離の真似事だったが、その判断だけはマシだったと思う。
 
 今となってはそれらを手放したということを後悔していたりする。それらが減ったことで引っ越しの荷物が少なくなり身軽になった、ということは全然なかったのだ、結局のところ。それに全てを手放したわけではなかった。これはさすがに大事だろ、というような物は手元に残しており、今もその粛清(?)を生き残った古参としてコレクションの中におさまっている。そんなわけでかなり中途半端であった。
 
 それ以来、なんでもかんでも無闇に捨てるということに懐疑的になった。手紙は読んだ時点で役割を終えているのだから保管していても無駄、一度読んだ本は本棚に置いておく必要がないから売れ、買ったもののいつまでも読む機会の来ない本も売れ、音楽も映画もデジタル・データで楽しめば十分だなどというスタンスの自己啓発、ライフハックに懐疑的になった。確かにそれを実践していけば物は減る。机の上が広くなる。部屋が広くなる。身軽になった気がする。いざとなればすぐに逃げ出せる。
 
 しかし、それはぼくに合ったスタイルだろうか。一度読めば十分だとひとからの手紙を捨て、一度読んだ本を読み返すことなく手放すというようなことが、ぼくのしたいことだろうか。ぼくはこれでもアナログなスタイルを大事にしている。手紙や年賀状、お誕生日カード等を保管しているスニーカーの箱を時折開けるのは楽しいものだ。熱心に読み返すことはしないけれど、こんなのももらったな、こんなポストカードもあったな、なんてぼんやりと見返しているのが楽しいのだ。それを無味乾燥な調子で捨てられるだろうか。
 ぼくに取って良い本とは読み返しても楽しい本である。二周目三周目と読み返すたびに新たな発見がある。何年も経ってから、前に読んだときよりも多少知識が増えて感性が変化した状態で読み返すと、全く違う印象を受ける文章や、そういうことだったのかと初めて気づくこともある。買ったまま読まないままになっている本は、それでも持っていさえすればそのうちタイミングが訪れるかもしれない。それが自分にとっての絶好のタイミングだろうと思う。手放したら、もう読む機会すら訪れないかも。縁が無かったということもあるが、少しでもそのうち読みたいなと思っているなら残しておいてもいいのではないか。
 地震のときの経験は、ぼくに物をたくさん持つというのはいざというとき不利になるのではないかと考えさせた。いざというときになったらこんなものは全部無駄なものになってしまう。
 そりゃそうだろうけれど、いざというときに無駄になるからといって現時点でも無駄で無意味だと言い切ってしまっていいのだろうか。そんなのは、いつかなにかの拍子に価値が暴落したら紙くずになってしまうからといって、お金を捨てるのと同じようなことだ。
 なにか起きたら、確かに割り切って逃げ出さないといけないかもしれない。必要な物だけ持ってゾンビパンデミックに陥った世界でサバイバルを強いられるかもしれない。しかし、そうなるまでは無駄なものに愛着を持ってもいいのではないだろうか。生きていく上で必要不可欠ではないものを大事にできるところが、人間の人間たる所以ではないだろうか。そんなことを言えば、ぼくが生業としている仕事もまた、最低限の生命活動を続ける上では必要不可欠ではない。
 そうなると、当のミニマリズムを掲げた美術や建築もまた無駄なものということになる。物を持たない生活、無駄や余地、遊びを捨て去った生活、衝動買いを嫌悪して自然な欲求をも否定した生活、そのようなややズレたミニマリズムは、本来のミニマリズムすら否定していくことになるのではないかな。
 
 ちなみにさっきゾンビ・パンデミックを例に出したけれど、「いざとなったら」という不安がなんとなく頭にあるのは、地震のことだけではなく、最近流行りの終末もののフィクション作品の影響もまた強いのだろうと思う。映画、ドラマ、ビデオ・ゲームと様々なところで終末系の作品は展開されている。このような世界になったらどんな装備でもってどんなふうに生きていったらいいのだろうと想像するのはそこそこ楽しい。楽しいと同時に、もっと実用的で役に立つ物を優先して持っていた方がいいのではと不安に思ったりする。しかし、そんなこと考えながら生きていても仕方がない。これは別に危機感がないとかそういうことではない。ある程度の備えは必要だけれど、そのことに取り憑かれて好きなものまで犠牲にし、今ある生活を楽しめないのは、それはそれでおもしろくないんじゃないかと思う。
 いずれ、自分に合ったミニマルなオタク趣味を体現できたらいいな。