2017年11月13日

日記:10月30日〜11月9日

10月30日(月)

 教習所、連続3コマ。1月が教習期限なので正直焦っているのだが、もう大詰めである。オートマチック・トランスミッションによる路上教習と危険予測ディスカッション。もともとはマニュアルを取っているので、慣れない自動変速機ですいすい走ってしまいつい速度が上がりがちであったものの、最近はもう一週間以上間が空いても運転の感覚を忘れるということはなくなった。身体になんとなくしみついている感じである。
 ディスカッションでは同乗の教習生たちとともに先の互いの運転の仕方がどうであったかを指摘し合ったわけだが、例によって他人に厳しく、他人の粗だけはよく観察するぼくなので、あれこれとほかのふたりの運転作法を指摘したら、「川原さんはどこどこの横断歩道で向こうからやってきていた自転車のひとを無視して通過していました」などと反撃されてしまうなど。
 だって、すごい離れていたしわざわざ待つまでもないと思ったんだもん。実生活であんなのを待っている車なんか見たことないんだもん。などと言い訳をしたくなったものの、紳士なので負けを認めておいた(負け?)。

10月31日(火)

 ハロウィーン。なにもそれらしいことをできずに終わる。全くそれらしいアートワーク等を作る気になれなかった。もう何年もそれらしいテンションにならないのはなぜだろうか。巷で汚らしい大人たちがハロウィーンを消費しているのを目の当たりにして嫌気が差したのだろうか。鬱憤の溜まった社会人たちの、日頃抑圧されているであろう衝動を発散するため、要は馬鹿騒ぎを正当化する理由にハロウィーンが使われていることに嫌気が差しているせいだろうか。そんなところだろうと思う。
 ここ数年でハロウィーンが急に流行りだしたなどと言うひとは結局ぼくとは違う文化圏で育ってきただけだろうと思う。ぼくには言うまでもなくずっと身近なものである。小さな頃から猫を飼ってきたひとも、猫が急に流行りだしたと言われて同じ気分になるであろう。ずっと身近だったもの、大切にしてきたものを、無関心なひとから流行りもの扱いされるのは不快である。
 とは言え、ぼくは「もう何年もそれらしいテンションにならない」と前述したわけで、その「何年」は「ここ数年でハロウィーンが急に流行りだした」の「数年」と、恐らくは重なる。ハロウィーンの文化風習はもちろん昔からあり、この国でも関心があるひとにとってはずっと前から身近なものだった。それでもやっぱり、この数年間でそれは少し変わってしまったということになるのだろう。「やや行儀の悪い大人たちの世界」と結びついたという意味でなら、「流行りだした」と言えるのかもしれない。
 別に欧米だって行儀のいいハロウィーンばかりしていないだろうと思う(そもそもハロウィーンもクリスマスも欧米の文化ではないのだが、わかりやすいサンプルとして)。というかよりゲテモノ・パーティとして発展していることだろう。こちらと同様に、向こうでも大人たちのハロウィーン・パーティは、少し歩けば性欲とぶつかりそうな(偏見である)、そんな感じのコスプレ・パーティには変わりないだろうなと思う。『ビッグバン・セオリー』でやっていたから知っている。
 そこで気づいたこと。ぼくの好きなハロウィーンとは、子供がやるそれなのだ。決して大きな金額が注ぎ込まれていないであろう手作りの仮装(コスプレではなくあくまで「仮装」という表現にこだわるべきである)、お菓子、稚拙ながら見た者にできるだけインパクトを与えようという技巧や工夫、無邪気さ、純粋に楽しいというテンション。それがきっとぼくの思うハロウィーンなのだろうと思う。そしてぼくは大人になった。別に楽しいあれこれを卒業してしまった、飽きてしまった、楽しめなくなってしまったとか、そういうわけではない。大人になったので、子供のハロウィーンが身近でなくなってしまったということである。子供向けのイベントが身近でなくなり、視界に入らなくなり、大人向けのものが日常になったのだ。ハロウィーンの方でもそらあ少しは変わったかもしれない。しかし、いちばん大きいのはぼくの目線の位置が変わったことだろうと思う。
 だから、ぼくは子供の頃のハロウィーンを思い出し、巷とは関係なく自分の思うハロウィーンだけを形にすることに努めよう。決して本格的なものではない、「ちょうどいいレベル」の手作り仮装を追求しよう。
 
11月3日(金)

 ここのところの懸念事項、ウェブサイトの整理。
 もっと見やすく、もっとシンプルに、もっと管理しやすく、もっと洒落たように、ならないものだろうかというのをずっと考えている。結局のところ現状は仮のものでしかない。それよりも中身となる作品を作らなければということで、今のようなとりあえずの形で落ち着いていたというだけだ。
 コアとなる作品集にはTumblrのページを使っているわけだけれど、これはスマートフォン等の小型端末で閲覧するとPCのようなレイアウトでは表示されない。レスポンシブ・デザインとかいう、どんな端末で見てもその端末に合わせた形でページのデザインが切り替わるという仕組みが今日のウェブ世界では当たり前になっているらしいのだが、小型端末に最適化されたデザインというのはどうも味気ない。そもそも昔の携帯電話と違って、PCのブラウザと同じ形でウェブを閲覧できることが小型端末の長所のひとつではなかったか。それをまた小型の画面に最適化したデザインを用意するというのは、結局前のガラケー・サイトと同じことではないのか……。などと思ったりもするのだが、まあそれでも、PCの画面というのは手のひらにおさまる端末のそれよりもずっと大きいので、PCサイトをそのままの形で携帯端末で見れば、それはやはり見づらい、というより小さくて見えないということになるので、ある程度気を配ったほうがいいのだろう。
 しかし、そのレスポンシブ・デザインというのも、ウェブ世界ではあくまで今のところの、とりあえずの応急手段のようなものらしく、決して最終的な解決策ではないらしい。最終的と言ったって、小型端末だってこれからどうなるかわからないのだし、閲覧デバイスが変わっていくたびにウェブサイトもどんどん変わっていくことになるのだろう。
 話をぼくの作品集に戻す。どうにかして携帯端末でも見やすいようにならないだろうか。やはり外部サービスに頼らず、一枚一枚ページを手打ちで作っていくしかないのだろうか。更新するのがめちゃくちゃ億劫になりそうだが、ホームページとは更新よりもアーカイブに向いたものだ。そんなに頻繁に更新する必要はなく、ある程度ブログやTumblrで作品を更新したら、時折メインのサイトに載せていくという形にすればいいのではないか。あくまでアーカイブとして。
 しかし、作品をある程度厳選していくとしても、その数は決して少なくない。一枚の絵につきひとつのページを作っていくようなことを果たしてやっていられるだろうか。サムネイルを作って、それをカテゴリー別に並べて……。昔も一度そういうのを作ったことがあったっけ。いや、昔の個人サイトならそれは当たり前だったはずなのだが。
 どうしようかなあ。

11月5日(日)

 最終日にしてようやくディスクユニオン池袋店に足を運ぶ。
 妻の体調は依然悪いので犬は妻の実家に預けた。
 夜、オリジナルの『ブレードランナー』をプライム・ビデオでレンタルした。この作品に関してはオリジナルなどと言うとややこしいのだが、要するに前作である。いやあ、やっぱり途中で眠くなる。1時間50分くらいなのに、なぜ2時間40分の新作と同じ体感時間なのか。
 新作に比べるとまだだいぶ生活感のあるディティールというか、埃っぽさがある。新作がそれだけ無機質になっているということなのだが。より古き良き時代の痕跡が消え去っているということか。
 ちなみに原作小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」も読んでいるところ。原作のデッカード、動物欲しすぎ。
 映画にせよ原作にせよ、前作にせよ新作にせよこのお話のいちばん興味深いところは、外宇宙にまで人類の入植が進んでいる世界であるにも関わらず、物語の舞台は地球のアメリカ、そしてその一角である西海岸のロサンゼルスに限定されているところだ。ものすごく壮大にして広大な世界の、ごくごく限られた片隅で、ややアナログな刑事物語が繰り広げられるところが魅力なのだろう。そして、新作でもそれを維持しているのがすごい。今どきの映画で、設定上宇宙にまで話を広げることが可能ならついつい宇宙における描写も入れてしまいそうなところを、たとえ技術的にそれが容易であっても、あくまで物語はアメリカの西海岸から外へは出ない。クライマックスで老デッカードがオフワールドと呼ばれる外宇宙世界に連れて行かれそうになったところを、主人公Kが阻止して救出するくだりは、なにがなんでも視点を宇宙には持っていかねえぞというスタンスの表れのようにも感じられる。

11月9日(木)

 恐くて不安で仕方がなかった高速教習。
 高速道路に向かう途中で結構大きな事故現場に遭遇する。トラックを含んだ数台が一様に顔やお尻を潰した状態で、警察官が交通整理をしていた。もうひとりの教習生が先行で運転していたので、ぼくは後部座席からぼうっとその事故の様子を眺めていた。通り過ぎる際に数台の事故車の陰に、それらとは比べ物にならないくらいぐしゃぐしゃになった車両がちらりと見え、ゾッとした。ずっと不安だったせいもあってとても嫌な予感がした。あの事故車の残骸、亡骸はぼくの未来を暗示しているのだろうか……。
 先行の教習生の運転は非常にスムーズで、アウトバーンをすいすい滑っていった。永久にすいすい行ってくれというぼくの願いに反してあっという間に高速を降りてしまい目的地に着く。ちょっと休憩くらいするのかなと思いきやすぐに交替を命じられてしまった。あれ、妻の話だと普通は途中休憩があるって聞いていたのだが。というか不安と緊張で下腹部が結構落ち着かないのだけれど。今思えばあのときに思い切ってトイレに行きたいと言えばよかったのだ。まさかあんなことになるとは……。
 高速道路自体は問題なく走れた。信号や交差点、歩行者がいないぶん運転そのものに集中できる。真っ直ぐ安定した速度でなかなかうまく走れたと思う。合流だけは、前のトラックが遅いこともあってなかなかセオリー通りには行かなかったので少し不安が残るけれど、操作は間違っていなかったようなので多分大丈夫だろう。というわけで運転そのものはなにも悪くなかった。
 悪いのは道路の方であった。
 すいすい走行できたのは半分くらい。いや、体感では半分以下だ。だんだん前の車との距離がやたらと詰まるようになり、速度調節に気をつかわないといけなくなり、あっという間にぼくは大渋滞に巻き込まれてしまった。電光掲示板の表示によれば、その原因はどうやら行きに見かけたあの事故のせいらしい。ぼくが事故を起こすことはなかったが、嫌な予感は一応的中した。いやまあ、あんな出入り口とも言うべきようなところで事故が起きてれば普通渋滞は予想できるのだけれど。
 少し進んでは停まる。それを延々と繰り返してアウトバーンの出口にまでやってきた。もはや定刻通りに教習所に戻れないのは確実である。教官が携帯電話でその旨を報告する。一旦報告し終えてしまうと彼もいくらか緊張が解けたらしいことが横目にわかる。ルームミラーを覗くと後部座席の教習生もだんだんうなだれるようだった。なんだ君たちは。まさかぼくにハンドルを任せて寝るつもりじゃないだろうな。もちろん本当に彼らが寝ることはなかったが、それでも高速を降りて一般道でも続いている渋滞の中をゆっくりと進んでいく中では、もはや誰も一言もしゃべらず、その顔は下を向きがちになった。なんだこれは。もう教習というよりただの帰り道だ。
 少し間隔が空き始めて流れ始めた途端、右側の詰まり気味な列から目の前に横入りされる。この渋滞の中でもう何台もせっかちな車を見かけてきた。少しでも流れが速そうに見える車線に次から次へと移っていく赤いボルボが一番馬鹿っぽかったけれど、高速を降りてからもずいぶんみんなせっかちに車線を移ってきていた。そうやって少し流れ始めたところに入ってくるからまた詰まるんじゃないのか。どうして仮免のぼくにでもわかるようなことをみんな理解できないのだ、とひとり憤った。
 一度など原付のおじさんが両足で地面を蹴りながら目の前に入ってきた。もちろん流れはとてもゆっくりなので、おじさんはずっと両足でちょこんちょこんと地面を蹴っていた。あんた、歩道を押して歩いた方が早いんじゃないかと言いたくなったところで目的についたのか、脇へと去っていった。
 お忘れかもしれないが、ぼくは下腹部に違和感を覚えたまま運転を始めている。そしてこの渋滞である。そこまで予定が遅れているわけではなかったけれど、いつ教習所に戻れるかわからないという状況が余計に下腹部を圧迫した。ペダルを踏んだりハンドルを動かしたりしていればまだ気が紛れたかもしれないけれど、じっと動かずに座ったままの方が多いくらいなので、どんどん辛くなってきた。何度コンビニの駐車場に乗り入れようと思ったことか。その間も助手席の教官はうとうとし、後部座席の教習生はぐったり首を垂らしている。途端、今このふたりの命はぼくに預けられているということに思い至るが、気を引き締めるどころかストレスになるだけだった。
 ようやく見覚えのある景色、見覚えのある建物がちらほら見えてきたところで、「ああ、やっと着いた」と思ったことが口から出た。教官がぱっと顔を上げて、「お、着きましたねえ」。
 お、着きましたねえじゃねええええ!今思えば教習時間過ぎたあたりで替わってくれてもよかったのではないか。
 とは言え余計に長く運転できた、早速大渋滞を経験できたのは、まあプラスに思うことにしよう。教習所に戻るなりすぐに解散になってしまったので、総評を聞いたりできなかったのだが、総評もなにもなかったろうな。もちろんそんなことそのときは気にもせずトイレに向かった。