2017年11月6日

『ブレードランナー2049』(2017)


 東京っぽいのは日本語の看板と自販機だけじゃないってこと。誰の目にも入るところに性的イメージが溢れかえっている様子はひとごとじゃあないのだ。
 それにしても、ディストピア作品に「今っぽさ」を感じるというのはなかなかどうして怖いものである。今現在にその兆しがあるということだから。

 自分の思い通りにカスタマイズできるホログラムの恋人について思うところはたくさんあるけれど、「思い通りにできる恋人」という、人間性を否定された、というよりそれが必要ないとされた存在でありながら、どこか人間に憧れ、人間的自由を夢見ているようなところは、レプリカントほど人間に近くないだけあって(というかより「作り物」として人間から遠い)切実というか悲痛さすら感じる。

 メインを張る女性キャラクターがふたりともある目的のために造られた女性であることを、演じたふたりはどう思ったのだろうかというのは、この前の会見で気になったことだ(あまりにもハリソン・フォード一辺倒でふたりの女優たちへの質問が少なすぎたので……)。衣装が露出の多いものばかりだったと漏らしたアナ・デ・アルマスのコメント(それさえハリソン絡みのくだりで少し触れただけのことだったが)には、役柄への心境も少しは含まれていたのではないかなあと、今になってなんとなく思うのだった。いやわからないけれど。

 造られた女性といえば、レイチェルである。あまり詳しくは書かないが、『ローグ・ワン』のレイア姫のような感じだと言えば十分だろう。ただ、あのレイア姫よりも再現度が高かったような気がする。ぞれはぼくが『新たなる希望』のキャリー・フィッシャーほどには、『ブレードランナー』のショーン・ヤングを見慣れていなかったせいかもしれないが。それにしてもふたりとも変な髪型だよねえ。
 
 『インディアナ・ジョーンズ』にしろ、『スター・ウォーズ』にしろ、『ブレードランナー』にしろ、結局はハリソン・フォードの演じた伝説的なキャラクターの子供がどうなったという話になってしまうのは、仕方のないことなのだろうか。
 ぼくはそんなに思い入れが強いわけではないし、正直言ってオリジナル作は何度見返しても途中で眠くなって全然頭に入ってこないくらいなのだが(やはりSWのようにPew-Pew!なサイファイが性に合っているのだろう)、『ブレードランナー』まで家族の話になっていくのはどうなのだろうなあとも思う。もちろん続編としてうまいこと繋ぎまとめていたと思うし、おもしろかったからいいのだけれど。じっくりじっくりといった雰囲気も小説のそれに近いような気がする。Kがデッカードの息子でないだけいいか。あのふたりの擬似親子的な関係も好きである。

 まあとにかく、真空管みたいなガラスドームの中でフランク・シナトラのホログラムが歌っているのがまさにレトロフューチャーといった感じで最高である。今現在ですら亡くなって久しいスターが、未来的な技術であるホログラムによって投影されているというギャップが素晴らしい(装置もちょうどいい具合にクラシカルな雰囲気がある)。この作品世界の20世紀後半の歴史は現実のそれとは違うので、もしかすると存命中にホログラム技術が確立されて撮影をした可能性はあるのだけれど、いずれにせよ昔のものが流行るという未来像はわくわくするものがある(劇中の時点でそれが廃れてしまっているというところもまた良い)。エルビス・プレスリーのホログラムが機材の老朽化でほとんど歌が聞き取れないくらい途切れ途切れで、姿が明滅するのも逆にかっこいい。あそこマイケル・ジャクソンも欲しかったな。そっちに持ってかれてしまいそうだけれど。