2017年12月31日

今年できたこと

 ひとつ前の記事で年間記事数が過去最高の100件になった。できるだけ文章を書こうと意識はしていたからだと思う。もっと書きたい。今年はブログが前より楽しくなったと思う。文章を書く楽しさも倍増した気がする。

 あと今年できたことと言えば、漫画を描いたことか。そしてそれが一応賞をもらえたこと。文章を書きたいという気持ちが強くなった上に、漫画形式で作品を描けるようになったというこれは、おそらく創作をせよということなのだろうなあ。来年はなにか形にしたい。できる範囲で。

 本を読む量も少し増えたような気がする。文章を多く書くということは、多く読むというスキルにも繋がってくるのかもしれない。また読書レビューをたくさん書こう。 漫画にせよレビューにせよ、絵と文章は両立させていきたい。このふたつは切り離せない。

 森見登美彦先生の本の装画を描くという、学生時代からのひとつの目標も現実となった。あの頃ぼんやりと思い描いていたヴィジョンの、一歩先へ来てしまったんだなあと思ったりもする。やはり本や文章との関わりが強い年だったのだと思う。

 それから車。まだ筆記試験が残ってるけれど、とりあえず4月から通い出した教習所を卒業した。初めてアクセルを踏んで車体を動かしたときは本当におっかなびっくりで、こんなのは無理だと思ったけれど、ずいぶんやれるようになった。頭や筋肉を今までと違うふうに動かしたのが新鮮だった。いまだに自分で路上を走ったということが信じられない。まあ、自分で稼いだお金で教習所行けたというのも結構びっくりなのだけれど。まだまだ全然新しいことは覚えられる。

 あとなんかあったっけ。いや、かなり大きな出来事はいくつかあったのだけれど、まだ書くことができないことばかりなので、また時期が来たら書くことにする。なんでもかんでも無闇にインターネットに書かないというある種の成長はあったような気がする。もともとそんなになんでもさらけ出す方ではなかったけれど。
 そんなところかな。

雑記(4)

「ストームトルーパーのポップコーンバケツ」

 『最後のジェダイ』には大いに楽しませてもらった。一週間が経ってからは少し落ち着いてきてようやく批判的な意見にもそれなりに目を通せるようになり、なるほどそういう欠点もあるなと多少は共鳴できるようになった。しかし劇場で最初に味わったあの興奮は今でも如実に思い出せるし、ぼくとしては大満足で大好きな作品であることには変わりない。
  ただひとつ残念だったこと、というより悔しいことがあるとすればそれは、上映開始前にポップコーンとドリンクが買えなかったこと。もちろん毎週のように試写会に通っている身からすればもはや2時間かそこいら飲食できなくとも全く苦ではないのだけれど(個人的には飲食物よりも肩と首回り用のクッションのほうが欲しい)、それでもSWである。それも今作はシリーズ最長の本編で、ポップコーンの容器がストームトルーパーのヘルメットだったのだ。あれはなんとしてもペン立てかなにかに使いたかった。
  しかし、例によって売店の前にはとんでもない行列ができていた。上映開始10分前から並んでも全く列が動く気配がない。前方を見てもカウンターの中の店員が急ぐ様子も全然ない。彼らからすればいつも通りの金曜午後3時である。いつも通りの仕事してるだけっすから、みたいな感じである。これは劇場に限らずトイザらスとかロフトとか、SWとタイアップするお店全般に言えることだけれど、興味のない従業員からしたらオタクが殺到してきて本当にうんざりすることだろう。
  上映開始3分前になっても列は進まない。でもみんな全然慌てる様子がない。どうせしばらくはCMと予告が続くのがわかっているからだろうけれど、それがどのくらい続くかはいまひとつわからないし、照明が落ちてしまったあとでは席に行くのも大変だ。とにかくそういう慌てる状況というのにぼくは弱いので、なんとしても避けたい。
  とうとう上映開始時刻になったが、依然として誰も動かない。カウンターでは明らかにこの行列を予期していなさそうな数の店員(おそらく前の晩の先行上映にはたくさんいたのだろうなあ)が気だるそうにやっている。こりゃ無理だ。ぼくは諦めてスクリーンに向かう。
  案の定テレビでやっているようなCMをしばらく大スクリーンで見せられることになったけれど、2時間飲食無しでもなんら問題がなかったどころか、ものすごい集中力が発揮された。


「よくない」

 フェイスブックに愛想を尽かした。
  とは言えインスタグラムを始めたときからその更新をフェイスブックに同期していたので、ほとんどフェイスブックを直接更新することはなくなっていた。更新するものは少ない方がいい。本当ならツイッターにもインスタグラムを同期したいところだけれど、画像は表示されないし、字数制限が違い、明らかに同期のされ方がおかしいので、別々に画像をアップしている。このあたりの使い勝手は悪くなる一方で、たまに全てをやめたくなる。
  それで、兼ねてより苛立つことの多かったフェイスブックはもう放っておくことにした。メッセンジャーだけは時折届くことがあるので気にするけれど(とは言えあんな人によって使っているかどうか微妙なものを使っていて当たり前という感じで送ってこられ、気づかずにいたら無視するなと怒られるのはなんとも釈然としない)、そのほかは覗いていない。
  まず実名利用による生々しさに耐えられない。どのアカウントも実名で、実名で活動しているぼくが言うのもおかしいが。とにかくハンドルネームでない本名と顔写真が羅列している様子に耐えられなくなった。ハンドルネームで適当なアイコンのひとたちがやいのやいの言うツイッターにも疲れるというのに、本名!顔写真!おれ!わたし!みたいな感じで言いたいことを言っている空間が楽しいわけがない。匿名ならギリギリ許せる(許せないことも多いが)言動を本名顔写真でやられると、そういうひとがこの世に実在するという感じがすごくて辛い。生々しい。ぼくはインターネットを実生活の延長と見なしてはいるけれど、それは言わば図書館に行ったりするのと同じことで、図書館でゆっくりしたいときに見聞きしたくないものというのはあるのだ。図書館には図書館ならではの快適さを求めたい。同じようにインターネットにも独自の快適さが欲しい。


「クリスマス休暇」

 クリスマスは妻の実家に泊まりに行った。諸事情あって犬を預けているので彼にも会いたかったし。なんと言っても妻の部屋のベッドの寝心地が素晴らしい。よくもまあひとの家でぐうすか寝られるものだと妻から言われるわけだが、ぼくは全く気にならないから大丈夫。ぼくが気にならないからいいというわけでは絶対ないと思うが、しかし妻もまたぼくの実家で遠慮なく寝られるのだからお互い様だろう。
 妻と初めてぼくの実家を訪ねた際には、夏の昼下がり、妻が居間のソファで居眠りし、ぼくがテーブルのところでうたたねし、父が床で昼寝、そこへ帰宅した母がみんな寝てしまっているのを発見するという有様だった。世の夫婦の、互い実家との付き合いの面倒臭そうな話を思えば屈託がなく楽である。しきたり、気遣い、配慮……大変だなあと思う。
 久しぶりに犬の散歩に行ったが、思えばこの冬はこれが初めてだった。だから早朝、犬のうんちから立ち昇る湯気を見て「あったかそうだなあ」と思ったりするのもこの冬初めてのことだった。今やぼくの冬の風物詩である。
 よく眠り、チキンとケーキをご馳走になった。昨年に引き続きレゴのアドベント・カレンダーを開けるのは楽しかったし、クリスマスの絵はあまり描けなかったものの、エッセイ以上小説未満、なんと呼んでいいかはわからないがクリスマスを題材に文章も書けた。


「無駄な労力」

 『最後のジェダイ』はその実験的な作風から、あまりよく思わないひとも多いらしい。決してわからなくはないが、彼らの気に入らない部分というのは、ぼくなどからすればそこが魅力だろうという点ばかりなので、結局は前提となる実験そのものを受け入れられるかどうかだろう。
 いずれにせよSWに限らず、映画を否定や肯定といった言葉で断じたくはない。一体どんな立場から否定し、肯定するというのだろう。この言葉はあまりに強すぎるし、極端だ。ここがおもしろかった、でもあそこはいまひとつだったかも、くらいのバランスを、どうして持てないのだろう。
 気づけば素直な感想ではなく、お互いへの反論を考えてしまっているような気がする。独白であるはずのツイートも誰かへの反論と化し、それを読んだ誰かも、直接自分に宛てられたものではないが、自分の考えを否定されたような気分になり、また反論を書く(これはなにも映画の感想だけに限った現象ではない)。なにか言いたくなったときに言えてしまう世の中だから仕方がない。
 だから別に、知らないひとがなにをどう受け取ろうが知ったことではないが、身近なひとたちと意見が食い違うときには、ぼくも少しなにかを説こうとしてしまう。あの映画のいいところはこうこうこういうところで……。しかし、途中で気づく。気に入らないと言っているひとにわざわざ一生懸命良さを伝えようとしなくても別にいいと。だんだん馬鹿らしくなる。そんなことに頭を使わなくていい。そんなことをするのなら、そのエネルギーを感想を共有できる相手との会話に使ったほうが全然いい。別にそれは閉鎖空間で循環参照を繰り返すだけというわけでは決してない。作品を気に入った者同士と言ってもその気に入り方もまた人それぞれであり、共感できるところもあれば、ひとに言われて初めて気付ける魅力がある。そうして考察を深めていくのだ。
 それに気に入らないと言うひとは、はなから良いところを見ようともしないので、舌足らずなぼくがなにを言おうと響くわけがない。彼らは不満を漏らしたいだけだ。会話をしたいわけではない。そうでなければ、ひとが好きだと言っている作品についてそのひとの前で延々と悪口は言わないだろう。真面目に取り合わなくていいのだとわかった瞬間に肩が楽になった。


「教習所卒業」

 卒業してしまった。すんなりと。仮免検定の際に緊張のあまりヘマをやらかしてしまったので(坂道で発進不能4回以上)今回もあまりうまくいかないだろうと、落ちて当たり前だろうと思って挑んだら、案外うまくいってしまった。満点というわけではなかったし、だいぶ優しくされた印象があるけれど、なかなかうまくできたと思う。
 なんといっても教官がリラックスできる相手でよかった。教習でも一度当たったのことのある、物腰の柔らかい垢抜けた感じの男性である。いつぞやのジョージ・タケイみたいなおじさんではない。ひとつひとつの言葉が丁寧で、このひとのおかげでぼくはようやくアクセルの踏み加減がうまく調節できるようになったのだった。物腰が柔らかいだけでなく、どこか冷めた印象があるのもバランスがいい。そして極め付けは「あたし」という一人称である。それもすごく自然な感じの。本物の都会人の匂いがする。
 年内に卒業できて本当によかった。気持ちよく年が越せる。まだ筆記試験が残っているので免許を取ったわけではないが、少なくとも教習期限を気にして生活しなくていいのだ。4月からずっとスケジュールに影を落としていたものが綺麗に無くなったのだ。


「LINEに行く」

 LINEに行った。と言うとおかしいが、LINEのオフィスにお邪魔した。例の「LINEマンガ STAR WARS インディーズアワード」のノミネート賞の賞品を受け取るため招かれた。この場を借りて報告すると、ノミネート賞という結果だった。もちろんそれだけでも十分な成果だと思う。なんといっても初めて描いた漫画形式の作品でそういう評価をもらえたのはうれしい。普段の作品にも変化が現れるかもしれない。というか、コマ割りされた形式のものをどんどん描きたくなった。絵が描けて、物語を創作したいという意欲があるのならどんどんやるべきだろう。グラフィック・ノベルとかをやりたい。
 

 エントランスにどんと鎮座する巨大なLINE熊にニコニコな26歳。社内のいたるところにキャラクターがいて楽しかった。

営業報告



 少し遅くなりましたが、SPUR最新号ではなんといってもこの映画、『スター・ウォーズ:最後のジェダイ』を紹介しております。観る前に描いたので(レビューの連載でそんなことが許されるとは……)内容ではなくキャラクターへのフォーカスです。とは言え、結果的に公開された映画の内容に合うものになったと思います。キャラクターを描き、掘り下げることに重点を置いた作品でもあったので。
 個人的に注目する三人の女性キャラクターを取り上げていますが、三人目は誌上にて(写真だと頭がちょっと見えてるね)。三人とも活躍して本当に良かった。





 「美術手帖」2018年1月号のバイオ・アート特集では、「バイオ・アートの基礎講座」に多数カットを描きました。歴史やその先駆者たち、用語解説などがまとめられたページなので、非常に勉強になります。

2017年12月27日

「あなたを選んでくれるもの」感想


 なにかに取り組まなければと思いながらも、気付けばインターネットを巡回して時間が経ってしまっているというのは誰にでもあるんだなあと、安心してはいられない。勇気ある著者のように、自分なりの打開策を、対処法を考えなければならない。
 黄昏を迎えつつある広告冊子を通して、彼女が出会う人々のキャラクターの濃さは、現実の濃密さそのもの。寂しげなひと、ちょっとヤバいひと、孤独なひと、やっぱりヤバいひと。みんなどこかかわいらしい。その濃厚さが行き詰まった創作に刺激を与え、突破口のようなものを開いていく様子がすごく熱い。
 ウシガエルのオタマジャクシを育てる高校生(当時)はぼくと年が変わらないので、特に共感を覚えた。彼だけでなく、ここに登場した人々は今はどうしているのだろうと、想像が膨らむ。
 家で仕事をしていると、今日はなにも成果が出なかった、という悲観的な感想とともに深夜を迎えることは多く、時間に追い詰められている気さえしてくる。時間がない、時間がない、時間がない。もちろんそんな、ただ単に有意義を求めるだけのぼくの強迫観念と、ジュライの時間に対する切実さは比べ物にならないかもしれないけれど、それについて考え、なんとかしようとする彼女の姿には励まされる。
 時間さえあればもっとできたかもしれないのにとか、本当はもっとできるはずなのにとか思わなくていいのだとわかったとき、少し楽になれた。いや、本当に洗われる気分だった。   
写真もとても綺麗。出会った人々やその自宅、アイテムの数々が、飾らないそのままの生活感とともに切り取られている。それでいて色合いがとても良い。インターネットを使わない人々の、決してひとに見せるようには整えていないであろうその暮らしぶりが、そのままで画になる。もちろん撮ったひとのセンスと技量あってこそだと思うけれど、現実そのもののかっこよさみたいなものが感じられる。

2017年12月25日

イヴの夜の物音




 クリスマスのローストチキンに憧れていた。
  シャーロック・ホームズの短編でもお馴染みのようにヨーロッパではガチョウだし、合衆国では七面鳥なのだろうけれど、この際本場ではどうこうは関係ない。そもそもクリスマスの本場がどこかという話をはじめると僕の手には負えなくなる。ともかく自分の暮らす地域に馴染んだクリスマスとして、ローストチキンだ。
  クリスマスの魅力のひとつは、なんといっても冬の外の寒さと、家の中の暖かさとのコントラストにある。外が寒ければ寒いほど、家の中が暖かければ暖かいほど、幸せな感じが増すと思う。冬至の寒さの中、年末という、一年を一日としたときの「夜」を暖かく過ごしながら、その一年に想いを馳せるのが僕の思うクリスマスだ。
  家の中、食卓で暖かさと幸福感、そして豊かさを象徴するのが、鳥の丸焼きだ。鶏でも七面鳥でもガチョウでも、鳥の丸焼きのあの色合いやフォルムが食卓に幸福感をもたらす。いろいろあって大変な一年だったとしても、それさえ食卓に並べば一応は豊かな生活だと思える。
  妻と暮らし始めた最初の年のクリスマスを控えたある日、近所のスーパーで鶏がローストチキン用に丸々一羽売られているのを見てうれしくなり、買って帰った。インターネットで適当にレシピを調べ、リンゴとタマネギを炒めて中に詰めるベラルーシ風というのをやってみた。ベラルーシってどこだっけ。響きがベラ・ルゴシっぽいから東欧かどこかだろう。いや、ルゴシはハンガリーのひとだっけ。
  特別美味しくできたような印象はないけれど、鶏の丸焼きを食べられたということで満足だった。ともかくイヴにローストチキンを丸ごと食べるという夢はかなった。クリスマスのディナーはイヴの晩に食べるものなのか、25日当日の晩に食べるものなのかはよくわからないけれど。
  次の年、またローストチキンを食べようと思うも、ことに当たるのが遅かったせいか近所ではどこも売り切れていた。被害妄想が激しいのでなにかの嫌がらせかと思ったくらい途方に暮れてしまった。
  その次の年、今度は妻が最初のものよりも大きなチキンを買ってきてくれた。丸々としていて、頭のない、羽をむしられたボツボツの鳥肌を見て心が踊った。
  バターで炒めたお米が鶏のお腹の中に詰めこまれ、首の根元とお尻の穴がタコ糸と爪楊枝でもって閉じられた。鶏の周りにはタマネギとジャガイモとニンジンが添えられた。妻がやったほうが凝ったものになる。思えば僕のベラルーシ風はかなり簡単だった。
  最初の年もそうだったけれど、当然痩せ型のふたりでは食べきれず、少し食べてもういっぱいだった。残りはまた明日にしよう。しばらくこれだけ食べていられるくらいだろうと、愚かにもそのときは思った。
  1メートル足らずのツリーの電飾を点けっ放しにしたまま、ぼくら夫婦は寝床に入った。暗闇の中で暖色の電飾が一定のリズムで点滅し、あたりがうっすらオレンジ色に照らされる。そのそばに食卓があり、その上にはラップをかけられた食べかけのチキンの大皿が載っていた。この頃暮らしていた部屋はずいぶん小さく間取りが奇妙だったので、ベッドに寝ながらその様子が見えた。
  もちろん北極の良い子リストに載るような良い子ではないので、そんなすぐに眠りに落ちたりはしないけれど、それでもだんだん意識が暗闇の中にゆっくり沈んでいきそうになった頃、ふとゴンゴンという鈍い物音が聞こえた。
  どこか外ではない。その部屋はすぐ外側でのひとの出入りが激しく、同じ建物の住人であれ、前の通りを行き交うひとであれ、その気配は察知できるが、この音はそうではない。もっと近く、部屋の中から聞こえる。
  それはだんだん、コツンコツンという軽い感じのする音に変わっていた。
  白いファーの縁がついた真っ赤な毛皮の服を、黒い極太のベルトで締めた白ひげのファーザー・クリスマスのことを連想するほどには、素直さを忘れてしまったぼくだったけれど、その奇妙な音はイヴの真夜中に不思議に響いた。横では妻がすでに寝息を立てている。彼女は本当にすぐ眠ってしまう。そのくせなにかの拍子に突然眼をぎんと開き、大きく見開いたり瞬きしたりしてまた眠ったりするからびっくりする。眠りながら眼を開いて反応を示す現象にはなにか名前があるのだろうか。とにかくこの物音には全く気づいていないようだ。やすらかな寝顔はとても石炭などもらいそうにない。
  ツリーの電飾に照らされている中で、影らしきものが動いた。我が家で動くものといえばなんだろう。もちろん最初に物音がしたときから、ぼくはこのことを考えている。この小さな家でふたりの人間以外に動くもの、生きているもの。
  がばっと上体を起こして、掛け布団が弾かれる。このような冬場では一度布団に入れば翌日の午後まで起きる気が起きないけれど、このときは身体のどこか、頭のどこかが無理矢理それを促した。大急ぎでベッドから飛び出し、ツリーの灯りの方へ向かう。寝床から食卓が見える部屋だ、大股で数歩行けばたどり着く。
   暖色の灯りの中で、決して小さいとは言えない黒々とした影が、ソファの上から食卓の上へと覆いかぶさっていた。僕は大声を上げる。そいつの名前を呼ぶ。呼ぶというか、ほとんど怒鳴った。
  大した真相ではない。誰でも読めることだ。我が家の愛犬が食卓のローストチキンの皿を懸命につついていたのだ。ソファの上から、短い脚を精一杯伸ばして無我夢中。かけてあったラップがめくり上がり(どうやった?)、鶏の手前に添えてあった野菜がきれいに消えている。ジャガイモもニンジンも、犬が食べてはいけないと言われているタマネギまでもが、跡形もなく無くなっていた。手前の野菜を片付けて、さあチキンに取り掛かろうとしたところで、僕が駆けつけたというわけらしい。
  ゴンゴン、コツンコツンという音はサンタ・クロースのブーツやベルトの金具、赤と白のストライプのキャンディ・ステッキの立てた音ではない。犬が夢中になるあまり、その突き出た鼻面で皿をぐんぐん押していたのだ。彼はだから、どんどんソファから身を乗り出してとんでもない姿勢になっていた。
  僕の声で動きを止めたり、いたずらがバレて決まり悪そうになるわけでもなく、むしろ見つかってしまったから捕まるまでに少しでも多くチキンを食らおうと躍起になった。皿を遠ざけて犬の腹に手を入れてひょいと持ち上げる。実際はひょいというほど軽くない。
  思えばこいつは鶏肉が大好きだった。それは別に散歩中に鳩や雀を脅かして追っ払うのが大好きなのとは関係ないところで好きだった。先ほどまで僕たちが食事をしているのがさぞ気に入らなかったことだろう。せっかくチャンスがあったのに野菜しか食べられずふてくされた顔だった。チェッ、見つかっちまったか。
  チキンのラップをかけ直し、犬の届かないであろう場所に置いて、今度はちゃんと犬を連れてベッドに入る。妻は騒ぎで目を覚ましており、すごい剣幕で犬に起こったけれど、やがてコーギーは夫婦の間にすっぽりおさまり、ふたりと一匹は眠りについた。 
  その後三日ほどかけてチキンをたいらげようとしたけれど、途中で中のお米が傷んでしまった。


2017年12月21日

『スター・ウォーズ:最後のジェダイ』(2017)


 いやはや、この年末は妙に忙しく12月15日もその日締め切りの仕事に前の晩から取り組んでおり、早朝にそれらを送り出してから一旦眠り、午後になって飛び起きて映画館に向かったわけで、非常に頭がぼんやりとくたびれていたのだけれど、そんなところにこんなとんでもないレーザー・ビームのような映画を見せつけられては、もはやぼくの脳みそは処理が追いつかない。
 だから、鑑賞間もない今はまだ自然と感想もとりとめのないものになってしまうかもしれない。実際、観た直後にノートにめちゃくちゃに書き散らしたものを今参考にしようとしても、ほとんどなにを言いたいのかわからない感じである。ただ、すごい興奮していることが伝わってくる。

 とにかく胸がいっぱいだった。これまでで最もフラットな気持ちで観ることができたSWでもある。事前の考察を全くしなかったわけではないけれど、それでも積極的に予告編でわかる以上のことを調べようとはしなかった。と言うのも、前作の『フォースの覚醒』の際にあまりにも調べ、考えすぎたからである。
 そのおかげか、全く予想のつかないストーリーを大いに堪能できた。金曜日に観て、帰宅してから前述のようにノートをとり、あまりインターネットを見ることもせず、自分の中だけで感動を増幅させていった。土曜、日曜もまだ余韻が残っており、思い返してはうれしくなってため息をつき、始終ニヤついていたので妻から大変気味悪がられた。
 未知のSWを観ることがこれほどまでに楽しいのかと、驚き、感動した。これもことあるごとに言っていることだけれど、オリジナル三部作の前日譚であるプリクエル三部作世代のぼくにとって、先のわからないSWを観られることはこの上なくうれしい。だって、先がわからないのだから。

 なにより情報量が多い。キャラクターが多い。展開がめまぐるしい。スピードがある。それでいて全く収拾がつかなくなるということはない。
 新しい『帝国の逆襲』として観ることはできるし(もっと言えば『ジェダイの帰還』要素も強い)、同じシリーズとして他エピソードと通じる部分も少なくないけれど、そこまでテンプレートに沿うこともなく、全く新しいストーリーを見せてくれたと思う。SWにおいては新しい演出、美しい画作り、シリアスの中にほどよく挟まれるユーモア、ダークさとポップさ……物語として非常にバランスが取られている。

 バランス。それは本作のテーマでもある。光と闇、善と悪の境界が曖昧になり、絶対的な正義として信じられてきたジェダイさえ過去の遺物であることが示される。光があたるぶん闇も深くなるというルークの言葉はとても印象的だ。まるでその言葉が言い表すように、レイとカイロ・レンは拮抗する。そうしてレイは闇に、カイロ・レンは光への誘いに心を揺さぶられ、いつしかふたりの間に奇妙な絆が出来上がる。

 ふたりが交信をするときの演出もおもしろい。その場に互いの姿が見え、互いの感触が伝わり、互いがいる環境さえ伝わってくる(雨が降る中にいたレイと交信した際に、宇宙船の中にいたカイロ・レンの顔が濡れるのだ)。表裏一体のふたり。ふたりの関係は非常に興味深い。
 山場である共闘もとても熱いけれど、最終的にカイロ・レンはファースト・オーダーの新たなリーダーになることを選ぶ。かつてダース・ヴェイダーが皇帝を倒して自分が支配者になろうとしていたことを考えると、ようやく祖父に代わってそれを成し遂げたかのように見える。その点では彼はかの暗黒卿を超えたわけだ。もちろん、レイはそんな彼にもう手を差し伸べることはなく、拒絶する。カイロ・レンからの交信を遮断するレイの心境が、ミレニアム・ファルコンのタラップが閉じられることで表現されているのもとてもよかった。それは父親の船からの拒絶でもあるのだ。
 
 レイの出自が明らかになることで、このふたりの間にはもうひとつの構図が生まれる。特別でない者と特別な者だ。一方は名もない貧しい人々から生まれた孤児であり、もう一方は空を歩む選ばれし血筋を引く。前者は愛されず、後者はきっと多くの期待を背負って育ったはず。しかし、今では逆だ。どこの馬の骨とも知れないレイが愛と期待を受け、伝説のスカイウォーカーの血を引くベン・ソロ——カイロ・レンは深い闇に落ちた。
 『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス』で、主人公の父親が実はとんでもない化け物で、育ての親の方が本物よりも親らしかった、という展開が非常に魅力的だった。SWに代表される血統主義的な物語に対するカウンターのようでとても今っぽく感じられた。これを先にやられては、もうレイの出自が結局ルークの子供だとか、そんなんじゃ絶対ダメだと思った。他の物語がどんどん新しさを得ていく中で、まだSWは血統の物語にこだわってしまうのかと。確かにSWのサーガは同時にスカイウォーカーのサーガでもある。しかし、それだけではない。それだけではいけない。もっともっと物語に広がって欲しい。
 そもそもぼく個人はあまりSWを血筋の物語というふうには捉えていない。そこにあまり還元したくない。まずルーク・スカイウォーカーという主人公がいて、それからその父親の物語を明らかにしていった、というだけであって、別に家系図を追っているわけではなかろう。正直、たった親子二代で血筋もくそもあるかと思う。
 果たして、新しいSWは血統の呪縛から離れた。もちろんスカイウォーカーの物語もまだ続いている。今回のスカイウォーカーは闇に落ちたベン・ソロだ。そして彼に対抗するのが、特別でない人々、名もなき人々代表、レイ。もしかすると今後、レイがベン・ソロを救うという展開があるのではないだろうか。だって、そうすれば特別でない人々がスカイウォーカーを救ったことになる。これまでのお返しのように。そうだったらとても優しく、美しいと思う。

 フォースはジェダイのものではない、というルークの言葉は同時に、フォースはスカイウォーカーのものではないと言っているようにも思える。それに呼応するかのように、本作のラストではリゾート都市で働かされていた少年が、なんとフォース感知者であることが示される。ルークの「最後のジェダイは私ではない」という言葉は、まだレイがいるということを指しているのと同時に、まだ銀河のいたるところにフォースに目覚め、可能性を秘めた人々が大勢いるであろうことを示唆しているようにも思えてならない。スカイウォーカーだけがフォースの申し子でないのだ。


 だからこそ、全ての人々がフォースとともにあると言える。そう思うと、本作に登場する大勢のキャラクターたちがより魅力的に思えてくる。フォースやジェダイとはなんら関係のない人々。ときに悪の側につき、ときに正しい道を歩んでいる勇気ある人々。
 前作から登場したキャラクターたちの拾い方が見事だった。特にマズ・カナタ。ここぞというところで登場し、しかもそれなりに戦闘スキルがあることがわかって熱い。あのゴーグルにはあんなスキャン機能があったのか。そしてジェットパック。ジェットパックだよ?前作ではヨーダとジャバ・ザ・ハットの要素を兼ね備えているように思えたが、なんとボバ・フェット要素まで持っていたとは。急に気に入ってしまった。

 もちろんキャプテン・ファズマが大好きなぼくとしては、彼女のリベンジが実現したのもとてもうれしい。憎きFN-2187への執念が伝わってくる。それはもう一筋縄ではいかない複雑な感情のはずだ。かつて自分が訓練した部下の脱走は彼女にとって大変な屈辱であろう。フィンを倒すことは自分の失敗の後始末をすることでもある。だからこそより一層執念深くなる。

 フィンの攻撃で片目のレンズが砕け、演じるグウェンドリン・クリスティーの左目が覗くシーン。食いしばった歯の隙間から押し出したかのような声で「やはりお前はクズだ」と言い放つ。悔しさと憎しみが溢れる。彼女は確かに悪党だけれど、冷酷で残虐な悪党だけれど、信じていた部下に裏切られ、対決するも破れてしまった悔しさや苛立ちに全く共鳴できないわけではない。常にそのクローム・ドームに顔を隠し、およそ人間のように見えなかった彼女が、最後に一瞬だけ片目を覗かせて人間らしい苛立ちを見せ、奈落へと落下し炎に包まれる。最高である。キャプテン・ファズマよ、永遠なれ。

 それにしてもレーザーを弾いてしまうあの装甲、かっこよすぎる。あの立ち姿が素晴らしい。前から好きだったキャラクターを、より好きになれるのはとても幸せなことだ。というか、レーザーでも傷ひとつつけられない装甲服、炎の中でも耐久性があるのではないだろうか。もちろんそれなりに火傷を負うことにはなりそうだけれど(むき出しになった左目はもうダメだろう)、それでも一命は取りとめられるのではないか。大火傷からの生還だなんて、ほとんどダース・ヴェイダーじゃないか。まさか、あのクローム・ボディに機械の呼吸音を加えて復活するのでは、などという妄想が捗る。
 あの最後はとてもかっこいいので、あれでもういいと思うけれど、もちろん復活したらそれはそれで大歓迎である。ぼくはわりとなんでも大歓迎なのだ。

 ファズマとは違うタイプで、やはり同じくらい魅力的なのがハックス将軍である。本作ではよりキャラクターに磨きがかかっていたのではないだろうか(ファズマもピカピカに磨かれてはいたが)。
 若くて実戦経験が浅く、それでいて冷酷さや大言壮語は人一倍というキャラクターだからこそのあの憎めなさ。まさに頂点でない悪役、ミドル・ヴィランの魅力である。冒頭から本当におもしろかったなあ。一体ポー・ダメロンの言っていた彼の母親の話とはなんなのだろうか。それをレイアが知っているというのはどういうことだろうか。
 本作でかなりの比率でユーモアを受け持っていたのように思えるけれど、しかし、彼はスター・キラーのレーザー砲で共和国の惑星をいくつも滅ぼした張本人である。いかに未熟で小物然としていても、その冷酷さや狡猾さは油断できない。というか、だからこそ恐ろしいところもある。
 今回、それまで対等なライバル関係だったカイロ・レンと、ようやく明確な上下が出来たわけだけれど、ハックスが隙あらば新しいリーダーを出しぬこうとしているのはその表情から見て取れる。実際にスノークの謁見室で倒れていたカイロ・レンに対し若き将軍は銃を抜こうとしていたのだ。彼はこのままカイロ・レンの言いなりになるのか、どこかで彼を陥れようとするのか。レイとカイロ・レンの関係だけでなく、カイロ・レンとハックスの関係もまた興味深いものがある。

 ハックスの部下たちもまたいい味出している。ドレッドノートの艦長キャナディのふてぶでしさなどとてもいい。投下された爆弾によってドレッドノートが破壊されていく中、ブリッジに炎が達するときの「ふん!」というよう表情がたまらない。短い登場シーンだけれど、常にふてくされたような表情は、どこか未熟で若いハックス坊ちゃんの指揮下にいるのが不満げに見える。キャナディの部下たちもなんだかいい表情のひとたちばかりなんだよなあ。特にスコープを覗いている薄めの顔をしたアジア系のひとがかっこいい。

 アジア系といえばペイジとローズのティコ姉妹である。なにを隠そう前述のキャナディ艦長とそのドレッドノートを沈めたのは捨て身で爆弾を投下されたペイジである。演じるのはベトナム人女優のゴー・タイン・バン(英名:ヴェロニカ・グゥ)。そうそう、爆撃機の内部のディティールもよかったな。『博士の異常な愛情』を思い出した。ヴェロニカ・グゥは表情がとても凛々しく、アジア系ならではのエキゾチックさがSWと合っている。そして、その顔つきと薄汚れたフライトスーツなどの装備との組み合わせが、妙に戦争感を増しているように見えるのは、ぼくが同じアジア人だからかもしれない。
 ペイジの妹ローズを演じるケリー・マリー・トランも同じくベトナム系。パンフレットによると両親はベトナム戦争時にアメリカに渡った過去を持つらしい。そのバックグラウンドが戦火に巻き込まれたローズと重なる。ローズのキャラクターも素晴らしい。とにかく顔がチャーミングである。姉役のヴェロニカ・グゥとは全然違う顔つきだけれど、ローズはケリー・マリー・トランだったからこそあそこまで魅力的で立ったキャラになったのではないかと思う。

 キャラクターと言えば、ヨーダのことも忘れられない。
 なんと、『帝国の逆襲』の懐かしのパペットの姿でヨーダの霊体が登場するのだ。ジェダイの書物を燃やそうとするルークの背後に、その特徴的な後頭部が映った際には声を上げそうになったほどだ。ルークを見守る霊体の後ろ姿が映るだけで終わりかと思いきや、ルークとの会話まで始まった。その昔ながらのヨーダの姿に泣いた。
 ヨーダはルークに対しジェダイの書物を焼き払うよう促し、躊躇するルークをよそに雷を落として全てを燃やしてしまう。ヨーダはうれしそうに笑う。
「カビ臭い書物のことなど忘れてしまえ!」
 ああ、このケタケタと笑うヨーダこそヨーダという感じがするなあ。険しい顔で戦うヨーダも悪くはないが、やはりこれがオリジンだ(時系列ではこちらがあとだけれど)。
 ヨーダはジェダイの書物などよりもレイが重要だと諭し、ついにこのジェダイ・マスターまでも古から続いてきた概念を捨てたのには驚いた。ヨーダもフォースとの旅の中で変わったということか。いや、もしかしたらこの霊体のヨーダは、ルークが自分の意識と対話しているにすぎないのかもしれない。いずれにせよふたりの対話は懐かしいものを感じさせ、ヨーダの優しげな眼差しはついつい見ていて顔がほころんでしまう。

 なんか、本当にフォースの力とは関係を持たない普通の人々が続々と登場してきて楽しい。その一方でヨーダがジェダイの呪縛を解いたりするのだからおもしろい。
 確かに今までの神話感とは変わる。しかし、こうして物語のスタンダードが崩され、作り変えられると思うとわくわくするものがある。今までにない雰囲気に戸惑うひともいるだろうけれど、予想の範疇で作られてもおもしろくないだろうと思う。
 これまでのSWの、なんとなくあったルールを壊し、誰も思ってもみなかった形に再構築していくからといって、決して今までの神話が否定されるわけではない。むしろ今までの作品があるからこそ、こうして新しいことができるのだ。そうして、新しいものが古いものを際立たせもする。
 いずれにせよぼくは、オリジナル三部作の呪縛から解き放たれ、真の新しさを持ち始めたSWを応援したい。物語は、神話はそうして更新され、続いていくのだと思う。


 どのキャラクターも愛おしい。それは人物だけではなく、動物——クリーチャーたちも同様である。レイが目撃したルークの自給自足生活の一部始終ではタラ=サイレンの乳しぼりのほかにも、ルークが長い銛でもって大きな魚を仕留めるくだりもある。ルークがチューバッカと同じディナーを作ったことがあるかどうかはわからないけれど、あの島ではそういう自然の恵み的なものがかなり描かれる。SWではあまり描かれなかったことだ。タトゥーインの露天でなにやら生き物の肉がぶらさがってたりしたこともあるけれど、直接的に狩りや採取といった、命を得るという描写はなかったと思う。そこが新鮮だった。それにしてもチューイ、あそこまで調理したならちゃんと食べなよ。

 SWにはとにかくクリーチャーが多く登場するし、中でも騎乗用に使役されているやつはたくさん出てくる。デューバック、バンサ、トーントーン、イオピー、カドゥ、ファンバ、ドラゴン・マウント……本当にたくさん登場する。しかし、それらの動物はほとんど道具か背景くらいにしか使われない。ましてやそれらが虐げられたり、酷使されたりしている描写はない。しかし、描かれていないだけで普通にあり得ることだ。そこで本作ではようやくヒューマノイドの都合で酷使される動物が登場した。

 食べて、使役する。ここまでは獲物や家畜との関係である。しかし、酷使されていたファジアーを主人公たちが助け出したところからその関係は変わる。ファジアーを助け出すと同時に、ファジアーに乗って逃げ延びるのだ。助け、助けられたのだ。
 そうしてクライマックス。ミネラルの惑星クレイトで窮地に陥ったレジスタンスの戦士たちは、クリスタルの体毛を持つヴァルプテックスの導きによって脱出路を見出す。ここでも動物に助けられたと言える。また、クレイトの戦いに駆けつけたミレニアム・ファルコンの船内にはポーグが何羽も住み着いており、巣まで作っていた。操縦するチューバッカはもうポーグに手は出さない(船を荒らされてかなり頭に来てたようだけれど)。特に巣を作っていたのは印象的だ。だって、それはもう生息域が広がっているということであって、チューイによってローストチキンにされていたシーンとは真逆の意味を持っているのだから。
 こうして物語を通して、ひとと動物の関係が変わっていく。一方的に動物から得ていただけだったのが、最後には共生という関係に発展していくのである。共生。非常にフォース的で、SWにおける、いや、世界における理想である。
 全体的に暗く、試練の多い物語だけれど、ときにユーモアやポップさがあり、ときにこういう希望の種のようなものが散りばめられているところが、この作品の愛おしいところである。
 大好きな『スター・ウォーズ』となった。

2017年12月12日

吸血鬼のセルフィ

 普遍的かつ洗練された通信端末であるところのiPhoneを手にするまで、インスタグラムというアプリケーションに憧れがあった。小さな正方形の中に都合よく切り取った景色がおさまり、現実ではありえないがこうだったらいいなと思うような色合いに加工されている様が、ミニチュアの家の中を覗いているような感覚で素敵に思えた。今でも本来はそういうものだと思っている。まあ、そういうふうな写真を自分がアップできているかは微妙なところだけれど。

 で、なにが言いたいかと言えば、なんかすっかりユーザーの層が変わっちゃってるなということ。ぼくも初期の方のことを知っているわけでは全然ないのだけれど、それでも前述のようにiPhoneを使っていなかった頃はなんだか素敵そうなアプリだなと思っていたものだ。世の中で変な持ち上げ方、揶揄のされ方はしていなかったと思う。ぼくが知らなかっただけかもしれないけれど。

 利用者が増えればそれだけ人それぞれの使い方が出てくるので、それはもうこれが正しいとかこういうのが本来とかは言ってられないし言うべきでもないのだけれど、ともかく憧れていた頃のインスタグラムは今はもうない。インスタとかいう安い呼び方とともに消えた。

 イラストを描いているけれどインスタグラムにイラストを載せることにあまり積極的になれないのは、たぶん写真を載せるアプリだという印象が染み付いているからだろう。その名の通りインスタントカメラ的なアプリとして使うべきで、写真でもなければ加工もしていない画像や、ましてや長ったらしいブログ文章を載せるのもなんだか違う気がするし、売り物の写真を載せて通販的に利用するのも台無しだと思う。

 台無し。そう、近頃本当にどんどん台無しになっていく気がする。別にそこまでインスタグラムに思い入れがあったわけではないのだが、やはり憧れていたぶんなんとなく落胆する。

 タグ遊びも見ているこちらが恥ずかしくなるばかりである。思えばタグ遊びの起源みたいなものはピクシブとかニコニコ動画とか、投稿者以外のひとがタグを編集できるサービスにあったように思う。感想とも少し違うが、アップされている画像ないし動画への印象や構成要素について閲覧者がタグに追加していき、それが投稿者にとっても反応をもらえたということで楽しく、また後から見に来たひともその作品がどういうものかを理解するのに助けになったりした。いずれにせよ投稿者がひとりで意味のないタグを打ち続けるのは寒すぎるし、投稿者が自分で打っているのでいわゆる「タグ理解」(一見内容と全然関係なさそうなタグだが動画を観ていくと確かにそのタグが相応しい展開になったりしたときのコメント)などというコメントも成り立たない。ていうか、タグがなんのためにあるのかわかっているのだろうか。

 これはインスタグラムに限らずSNSにありがちなのだけれど、なんだかインターネットのエチケット的なものが完全に忘れ去られていて、わけのわからないノリのひとが多すぎて恐ろしい。使うひとが増えればいろいろなひとが現れるとはもちろん当然のことながら、なんというか、それ実生活でも失礼では?と言いたくなるひとがあまりにも多い。いや、そもそもぼくはインターネットはあくまでいち通信手段として実生活の延長にあるものとしてとらえているので、実生活とは別世界などという割り切りをしていないから、普通にわけのわからない絡み方をされるとひいてしまう。ネットのやつら、みたいな区別もあまりしていないので、ひどいひとがいると世の中にはこんなひとたちもいるのかと必要以上に憂鬱になったりしてしまうのだけれど。

 なんというかな、インターネット触り始めたばかりの中学生みたいなノリではしゃいでいる大人が多い気がする。もちろんどれくらいの年齢でそのひとがインターネットに触れるかなど知ったことではないし文句もないけれど、正直言うとみっともない。別に自分の世代を棚にあげようとは思わない。それでは平成生まれ相手に昭和時代のカルチャーを話題にあげて相手がそれについて知らないことにわざとらしく驚いて馬鹿にしてくるおじさんおばさんと同じになってしまう。

 インターネットの利用歴などひとそれぞれだし、そんなものはどんな道具でも同じである。何歳だろうと知らないものは知らないし慣れないものは慣れない。だから別に昨日今日インターネット始めましたということについてケチをつけるつもりはこれっぽっちもない。だからインターネット云々はもう関係ない。電子だろうと実生活だろうとなんとなく他人との距離感があると思うのだ。

 あと、定期的にやってくるツイッターうんざり感がまた今シーズンもやってきた。いやなんかね、作品発表やPRの場として非常に役に立っているのだけれど、いかんせんひとが多い。ひとが多いっていう不満もどうかと思うけれど。こちらからフォローしておいて失礼な話だけれど、なんか別に興味ない話が多い。ごめんなさい。ただ、全てを読むのはどだい無理だ。というかみんな別に全てを読んでいないだろうと思う。ぼくは道歩いてても目に入った文字列を読むくせがあるからなあ。口には出さないにせよ、読めるものは全部読んでしまっている気がする。もしもこれで語学に堪能だったら大変だった。600万語理解できたらとても生身はもたないだろう。生身じゃないからこそ600万語理解できるのだろうけれど(ちなみに『フォースの覚醒』の時点でのC-3POは700万語精通しているらしい。30年で100万語か。多いのか少ないのかわからない)。

 で、流しながらなんとなく全部に目を通してしまうと、ああ、読みたくなかったな知りたくなかったなという気分になることが多い。あなたの悩みなど知らない。あなたの不満など知らない。あなたの考えなど知らない。勝手なことを言っていることはわかっている。でも、わりとそう感じるひとも多いのではないだろうか。ぼくの書いたものも誰かにそう思われているに違いない。そう思うと、余計にうんざりしてくる。
 二つ以上ツイートしてなにかに言及したくなったときは、ツイッターで消費しないで、ブログに書こうと思ってからしばらく経つ。ブログを書く習慣も結構ついてきて、まとまりに欠けるにせよ文量を書けるようにはなった。それでもまだ、やはり勢いでだーっとツイートしてしまう。それはそれで、そのときだけ楽しいのでいいのだけれど。

 字数制限があるので、結局どれも似たりよったりな文章になっちゃうのもおもしろくない。よく見かける、おもしろいことを言おうとしているツイートも、触りからオチまでのリズムが一定というか、もうなんかテンプレートと化しているところがあるので飽きた。うまいこと言おう、という感じのツイート自体うんざりする。うまいこと言おうというだけならまだしも、一段上に立ってものごとを見下ろしてるような感じや、安全なところ(と本人は思っているであろう距離)から好き勝手書いている感じも、頬杖をついてため息が出る。インターネットとはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが。そうして、ぼくはSNSに向いていないと言ってしまえばそれまでだ。

 向いている向いてないと言えば、それはもう人間がいっぱいいる場に向いていないのだろう。しかも距離感がめちゃくちゃで、それぞれの思考がダダ漏れの空間。ぼくのようなのが耐えられるわけがない。
 だから別に耐えてまでやることはないのだけれど、いずれにせよこんなものは道具にすぎない。ぼくのキャリアを俯瞰してみるとツイッターの恩恵にあずかっている部分が少なくないと思うけれど、それを恩恵などと言ってしまうあたりが結構来てしまっていると思う。道具を活用して結果が出た、ただそれだけである。道具に呑まれてはいけない。

 ついでにこの際だから書くけれど、フォローされたからどんなひとかなと覗きに行くと非公開アカウント、というのが多い。特にインスタグラムは写真を載せるサービスゆえなのか非常に非公開アカウントが多いような気がする。非常に非公開って。

 こちらが発表のために使っているのだから別にいいのだけれど、どうも一方的に見られている感じがしてしまう。みんながみんなアカウントを公開したいわけではないので仕方がないけれど、ただ、見せ合って楽しむものでは……とも思う。見せられないものは載せなければいいのにとも。いやいや、それぞれみんな事情や用途があるので、乱暴な言い分だということはわかっている。もちろん。

 さっきはひとのツイート読むのに疲れていたくせに今度はひとの写真が見たいと言い出すあたり、ぼくもあまり一貫性がない。

 非公開アカウントに対するモヤモヤの延長として、有名人とのセルフィ写真に対するモヤモヤもある。有名人とのツーショット、もちろんSNSにアップしたくなるのだろうけれど、その際自分の顔を隠しているひとがまあ多い。

 いやだから、もちろん誰もが顔を出せるわけではないことはわかっているのだ。勤め先の手前出しづらかったり、匿名性の保持のためとか、いろいろあるのだろう。

 ただ、マーク・ハミルの横に立ってるひとの顔がものすごい大きなスタンプで覆い隠されている写真を見ると、なんじゃこりゃと思う。あまりにも目隠しスタンプが大きすぎてもはやマーク・ハミルがひとりで写ってるようにしか見えない写真もあったりして、一体これは誰のなんの写真なのだと言いたくなったりも。記念や自慢として成立しているのかもわからない。

 ふと吸血鬼が有名人とセルフィを撮ったらどうなるだろうかと想像する。恐らくハリウッド・スターがひとりで、妙に隣の空間を空けている写真になる。吸血鬼なら写真を一切加工せずにアップできるので、そのぶんSNSライフが楽そうだけれど、スターとのセルフィを楽しむことはできない。写真に顔どころかひとの気配すら写らないのでツーショットにならないし、セルフィにもならないのだから。

 しかし、吸血鬼でないひとは、ちゃんと手元に未加工の、顔を隠していない元の写真が残るわけだ。それはSNSには見せないそのひとだけのもの。SNSを通してぼくが目にするのは言わば記念のおすそ分けであり、検閲済であり、フィルター越しに見せられたものである。こっそりと。

 全てを見せることもできれば、なにを見せてなにを見せないかを決められるのもSNSである。そう思えば、大きな黄色い絵文字で覆われた誰か、がマーク・ハミルと並んだ写真も、その誰かの幸せの加工物で、ぼくのような見知らぬ者はオリジナルを見ることができない、ミステリアスで貴重な宝物のように感じられてくる。じゃあいいか。
 別に羨ましいわけでは、断じてない。

2017年12月2日

「太陽と乙女」刊行記念手ぬぐい


 先日刊行された森見登美彦さんの新刊「太陽と乙女」(新潮社)の記念手ぬぐいが登場しました。装画をはじめカバー下に使われた絵を集めたデザインでとてもかわいらしいです。思案する四畳半主義者、登美彦氏も柄の中にいます。差し色の黄色が効いていますね。
 新潮社のページからご購入いただけます。






 「×」で名前を結ばれると非常に照れますね。まさかこんな未来があろうとは、古いアパートの六畳間で「四畳半神話大系」をもそもそと読んでいた頃はまったく想像がつきませんでした。ここまで名前をピックアップされるのもうれしいです。

『フォースの覚醒』から『最後のジェダイ』ストームトルーパーの進化


 そもそも旧三部作の帝国軍のストームトルーパーも一作ごとに顔つきが少しずつ違う。『エピソード4:新たなる希望』などは特に数種類の表情があったと思う。この場合の種類とは別に設定における兵種とかそういうのではなく、ただ単にメイキング上の成型の話。これもまた図に描いてもいいのだけれど、たとえば冒頭から反乱軍兵士と撃ち合いをしていたようないちばんスタンダードな連中と、ルーク・スカイウォーカーが潜入のために変装するヘルメットは口やら目やらがだいぶ違う。
 今更ながら最近気づいたけれど、『エピソード6:ジェダイの帰還』のストームトルーパーは口が黒く塗りつぶされていたりする(お歯黒)。気持ち頭頂部が長かったりして前二作に比べてかなり表情が変わっていると思う。また、97年の特別篇で人数を増やすために追加されたトルーパーなどもまた若干違うヘルメットに見えるし、昨年公開の『ローグ・ワン』に登場したトルーパーももちろん新造形で、綺麗な左右対称なのでなんだか優等生みたいな顔になっている。均整が取れていてぼくはわりと好き。
 というように作ごとに造形が新しくなってきたトルーパー。昔と違って成型技術そのものは安定しているので、同じものとして作り直して形が変わったというわけではなく、最新作でのアップグレードは意図して部分的に変化を加えているわけだけれど、ただ改良するだけでなく、これまでのメイキング上の伝統を踏襲してるようにも思える。