2018年1月29日

雪が降って一週間



 千葉県南部の生まれなのでやはり大雪はテンションがあがる。あっちでは雪なんか積もるとして数ミリ地面に膜を貼る程度でしかない。
 東京の大雪もこれが初めてではないので、もうそんなに新鮮味はなく、どこにも行かず(こういう仕事で本当によかった)家にこもって3DSにダウンロード版として復刻された「ポケットモンスター クリスタル」などやって過ごしていた。一気に小学生の頃の冬休み感が出る。

 結局この一週間、積もった雪は溶けきらなかった。先週は本当に、道の両側に残った雪の間を吹く風が冷たくて辛かった。道も雪かきをしてあるところのほうが少なく、積もった雪の上を大勢が踏み固めてしまい完全に凍結していた。犬も雪が降っていた夜や翌日の朝ははしゃいでいたが、そのあとはもう冷たい氷の地面を避けるように歩いていた。車通りの多い道路脇の雪も真っ黒になるだけだった。

 住宅街、それも大きめの立派な家が建ち並ぶ通りほど雪かきは手付かずな印象だった。そんなことで立派な家に住んでいるひとたちのイメーイを決めつける気にはならないが、それでも歩くところ歩くところそういう感じだった。というか家の出入り口の前すらもなにもされていない。
 どうしてだろうと思ったけれど、雪が降ったのが月曜日だったから、週末になるまで雪かきをする余裕などなかったのだ。週末になるとようやくガシガシとスコップで地面を削るひとたちが現れたけれど、もはや雪というより氷なのでそれはもう大変そうだった。雪かきではなく掘削だった。これが木曜日とか金曜日に降って積もっていたら、ここまで放置はされないですんだのになあ。要するに立派な家に住んでるひとたちは平日懸命に仕事をしているのだった。犬の散歩してポケモンで遊んでるぼくとは違うのだ。
 
 道はどんどん元どおりになっていて、乾いた地面がいかに歩きやすいかを実感しているわけだけれど、植え込みとかはまだ積もったままの綺麗な状態で雪が残っていてかわいらしい。並んだ木のてっぺんに少し雪が残っている様子は、みんなで帽子をかぶっているようだった。

2018年1月27日

実は通しでちゃんと観たことない映画

 結構ある。多分正直に全部列挙していくと呆れられると思う。まして今や雑誌に映画レビューの連載を持っていて毎週新作の試写に通っているような人間が、あれもこれも観たことないなんて許されるのか?と思われるかもしれない。
 でもさ、有名すぎて、お馴染みすぎて、シンボル的すぎて、ちゃんと観たことなくてももはや風景みたいになっている映画というのは多いじゃないですか。『スター・ウォーズ』にしたって多くのひとにとってはそうだと思う。あまりに有名すぎて逆に観る機会のない名画は多いのだ。


『ジュラシック・パーク』

 ひと通り最後まで観ているとは思うのだけれど、恐竜の島でパニクるという以上の細かいディティールは全然覚えていない。最近になってサミュエル・L・ジャクソンが出ていたことを知った。『最後のジェダイ』の、カジノ惑星での一連の騒ぎで、脱走して大暴れする競走馬のようなクリーチャーの接近を示す演出として、テーブルの上に置かれたグラスが振動するというシーンがあるのだけれど、あれはこの映画へのオマージュらしい。コップに入った水が揺れることで恐竜の接近を知らせるというシーンで、フルCGの恐竜が目玉である作品で、特殊効果を一切使わずに単純な小道具だけで巨大な恐竜の接近を表現するという工夫により有名なシーンらしい。覚えているわけがない。そして特定の元ネタと言えるほど特殊なシーンに思えないのだが、どうなのだろう。まあ、ローラ・ダーンが出てるからね。


『ターミネーター』4作目以外全部

 2作目すらちゃんと観たことがない。子供の頃の印象だと、明らかに2作目の放映頻度のほうが高かったので、1作目よりは観たことがある。悪いやつが警察官に化けて主人公の少年を追ってくるというのが、子供心になかなか怖かった。子供にとってはお巡りさんといえば一番わかりやすい正義の象徴で、困ったときに頼るべき存在だ。しかし、助けてくれるはずのお巡りさんが悪いやつなのだ。これは絶望しかない。そこから妄想が広がり、早くも小学生の頃から「悪を取り締まるはずの体制が悪だったらどうしよう」という子供には手に余る不安を抱えてしまい、そのまま陰気なパラノイア的人間に成長した。なんの話だっけ。
 4作目だけは何故か観たんだよね。ちゃんと全編。クリスチャン・ベイルが主人公で、ヘレナ・ボナム=カーターなんかが出ていた。ロボット兵士が人類軍の人間の服をかぶっているのが狡猾で怖かった。
 ちなみに『ロボコップ』三部作は全部観ている(このあいだリブート版も観た)。あっちのほうが好みらしい。


『もののけ姫』

 この作品に限らずジブリ作品は観たことのないもののほうが多いと思う。『となりのトトロ』も結局今に至るまで通しで観たことがない。『天空の城ラピュタ』と『紅の豚』は好きかな。
 両親の趣味じゃなかったから、というのがたぶん触れる機会のなかった要因だろうと思うけれど、別に親が興味ないものでも子供はどんどん開拓していくものだから(自分の世代だとポケモンとか)、たぶんぼく自身も興味がなかったのだろう。
 いやこれも話すと長くなるんだけど、友達の家に行くとさ、なんか急にそこのお母さんがジブリのビデオを流し始めるんだよ。それでみんなで見始めて、すごいはしゃいでるわけ。でもぼくはついていけないんだよ、知らないし。で、なんとかしてついていこうと必死に画面を追っていくんだけど、出てくるものといったらでっかいイノシシで、これが『ライオン・キング』のプンバアとは似ても似つかない気持ち悪さで(プンバアも虫をばくばく食べるから気持ち悪いと言えば気持ち悪いんだけど)、案の定ぐちゃぐちゃぐちゃーってなる。でも他のみんなは超おもしろがってるんだよ。おもしろがってるならなにも言えないし、むしろ乗れない自分がおかしいのかなと思ったものだ。
 いずれにせよファーストコンタクトが不幸だったのだろう。そこのお母さんがまずぼくのこと何故か目の敵にしてたというのが一番大きい。そうして「ジブリを観るのが健全」というような態度も気に食わなかった。そりゃぼくも大好きな『ピーウィーのプレイハウス』が健全とは思わないが。
 大人になってから、作り手の思想や絵の丁寧さを、絵を描く人間として観察できるようになるとだんだん和解(こっちが一方的に避けてきただけなんだけど)できるようになったけれど、それでも未だにあの、ぞわぞわぞわーっと動く感じが苦手だったりする。あの丁寧な作画が魅力でもあり、高く評価されるところなのだろうけれど。
 

『アラジン』

 個人的にジブリとディズニーを並列することにすごい抵抗があるんだけど、まあアニメというくくりで比較するのであればやはり自分はディズニー派の子供だったのだろう。と言うのも、幼稚園の先生にすごいディズニー好きのひとがいて、かなりの頻度でディズニー映画を観る時間があった。あそこで触れたのがかなり大きい気がする。親しみやすくデフォルメされたフォルム、滑らかな動きに楽しい音楽、派手なユーモアがよかった。のちのぼくの映像や絵の好みに多大な影響を与えていることは間違いない。あの上映会がなかったら知らなかったものも多かったんじゃないだろうか。『王様の剣』とか。王道ばかりではなく結構渋いところもチョイスされていた気がする。ネズミがカモメに乗って冒険するやつとか、なんて言ったっけ。
 で、世代的にはネオ・ルネサンス期ど真ん中なので、当然そのあたりの作品も見せられて、『アラジン』とかも観たんだけど、『美女と野獣』はすごい引き込まれて夢中になったものの、どうも『アラジン』は細かい筋書きを覚えていない。ランプの魔人がとにかくふざけていて、そのテンションに子供としてはハイになったものだけれど、どういうふうにお話が展開していったかは記憶にない。でも最終的にアラジンがジーニー自身を自由の身にしてやって終わる、みたいなところは覚えている。なので、ぼくの中ではアラジンがランプの魔人と出会って、自由にしてやる話となっている。間違っちゃあいないと思う。あ、でも悪役に飼われてるオウムとか好きだな。
 この前母に、なんで90年代のディズニーの定番を、ちょうどぴったりの時期だったのに見せてくれなかったんだと聞いたら、「『アラジン』とか『リトル・マーメイド』とか、定番すぎて逆に思いつかなかった」らしい。『101匹わんちゃん』とか『ムーラン』は見せてくれた。十分だ。


『未知との遭遇』

 これについては全く予備知識がない。R2-D2がどっかにいるんだっけ。本当にその程度。勝手に「すごく大人っぽい綺麗な『マーズ・アタック!』」みたいなイメージを持っているがどうだろうか。
 

『E.T.』

 わかった、スピルバーグの名作SFをちゃんと観ていないのだ。しかし、『E.T.』は中学の英語の授業で観た。主人公がオールド・ケナーのSWフィギュアで遊ぶシーンに大興奮してクラスメイトたちを困惑させたのを覚えている。ハロウィーンのシーンでもヨーダが出て来て大騒ぎをした。こいつはなんで肝心の宇宙人との邂逅そっちのけで違う映画の話をしているんだと思われたことだろう。
 授業で映画を見せてくれる教師というのは非常に好感が持てて、そういう機会こそ貴重だなとは思うのだけれど、いかんせん授業の時間と映画の尺はうまく合わない。ふたコマ使っても半端なところで中断してしまう。そして3コマ使う勇気までは、先生にもなかったりする。その『E.T.』上映会も結局、クライマックスを残してお開きとなった。大人たちの包囲網から自転車で逃げるところで終わりという、ほとんど生殺し状態だった気がする。そんなわけで宇宙人が故郷に帰ったかどうかを見届けずに13年が経った。ここまで来るとなんとなくそのままにしておきたくなる。
 

『風と共に去りぬ』

 これも高校の世界史の授業で、教師が映画好きということもあって視聴覚室の大きな画面で観たんだけれど、やっぱり時間が合わなくて本当に途中までしか観れなかった。そしてやっぱりちょっと普通の高校生くらいには退屈のようで皆もあまり集中していなかった。


『ローマの休日』

 このあたりになってくるともう映画というより教養みたいになっているところはあって、そういう映画は山ほどあるけど、いちばん思い浮かぶのはこれ。いつだか入ったカフェの白い壁に延々映写しているのをぼんやり観たことはあって、なんとなく内容はわかった。しかし、ぼくはどうもお店で映画が流れてると、たとえ音声がなくてもじっと見入ってしまうので向かいに座っているひとたちとの会話が疎かになってしまう。


『ティファニーで朝食を』

 本当に恥ずかしいのだが、カポーティの原作は大好きなくせに映画版をこれっぽっちも観たことがない。映画史におけるアイコニックなイメージはもちろんある。聞くところによれば全然本とは別物なところもあるらしいので、そういうこともあって観たいという欲求が弱かった。「ムーン・リバー」は良い曲だと思う。
 ちなみにヘプバーンものは『麗しのサブリナ』なら観たことがある。


『マトリックス』三部作

 申し訳ないけど群を抜いて興味がない。下手をするとトトロ以下かもしれない。子供の頃新作公開で盛り上がっていて、一作目のテレビ放映もあったけれど全然入れなかった。今観れば結構行けるのだろうか。
 『クラウド・アトラス』がすごく面白かったので、『マトリックス』もちゃんと観ればわかるのかもしれない。


『ロード・オブ・ザ・リング』及び『ホビット』シリーズ

 当方『ハリー・ポッター』派ということもあって(両方好きなひとももちろんいるだろうけれど)こちらには全然入り込めなかった。子供の頃話題のシリーズだったのでやはりテレビ放映を観る機会はあったものの、地上デジタル化以前の実家のテレビの映りが非常に悪かったり、さらに暗い画が多いこともあってわかりづらかった。同世代のティーンエイジャーたちが魔法学校で活躍する物語に夢中だった身としては、完全に現実と隔てられた世界でのやや重厚な物語はとっつきづらかった。
 とは言えそのベースはSWと同じ王道だし、当然ハリポタもまたトールキンの影響下にあると言えるので、全く興味がないわけではない。むしろトールキンの創作に対する熱意のようなものには非常に憧れる。神話を作るとはああいうことだ。
 このシリーズに限らず古典的なファンタジーに今ひとつ興味を持てずに来てしまったけれど、カートゥーン ネットワークの『アドベンチャー・タイム』を通して剣と魔法の世界の魅力をなんとなく感じつつあるので、少し触れてみたいなとは思う。その手のRPGもやったことがないからねぼくは。


『タイタニック』

 テレビでやるときはだいたい二夜連続で、序盤で潜水艦が残骸を探ったり、デカプリオが賭けかなにかに勝って(腕相撲だったような気もする)滑り込みで豪華客船に乗り込むくだりまでは観るのだけれど、子供としてはもう船が沈みはじめるまで退屈なわけ。それで他のチャンネルを観たりして、たまにチャンネルを戻しては「まだ沈んでないのか」と再びザッピングする。沈みはじめたら沈みはじめたでパニックの様子がすごく怖くて、夏休みに東京湾フェリー乗るときに氷山との衝突の可能性に怯えたりする。
 ちなみに『親指タイタニック』はちゃんと観ている。おもしろい。蜘蛛のシーンは怖かった。あ、そうだよ、それで主人公が指相撲に勝って船に乗るから、多分オリジナルも腕相撲だよきっと。


『ジョーズ』

 やっぱりユニバーサル・スタジオの目玉作品をまともに観てないんだよな。ビーチでみんながパニクるシーンとか、もげた脚が水中を漂うシーンとかはやはり覚えている。そんなおっかない映画を夏休みに入る時期にやったりするから、それから浜辺とかに遊びに行くのがとても怖かった。あとは樽のようなものを海に落としていって、それが爆発するシーンとか。樽が爆発してるのか、樽を目印になにかを撃ち込んでいるのかはわからない。
 USJのアトラクションも怖かったなあ。でもああいうアクシデントにより本来のものとは違ってしまう体のツアー型アトラクションはおもしろい。


 もっとあるんだけど、だから全部挙げていったら膨大でこいつ結局なんにも観てないじゃんということになるのでこれくらいに。いやあ、映画って本当にいっぱいありますね。

iPhoneケース


 FRAPBOISコラボのシリコンiPhoneケース(8/7/6s/6対応)がギズモビーズより発売となりました。全6種。コレクト・ゼム・オール!
 大きなキャラもののシリコンカバーが好きなので非常にうれしいです。


 特にコーギーのフォルムをそのままiPhoneケースにしたものがあればいいのになとずっと思っていたので、自分の絵で実現してよかった。フォルムありきなのでこれだけダイカット。


 6種の中でペンギンが2種類あるのもいいですね。翼の部分など飛び出した部分は結構厚みがあるので、使っているうちにちぎれる心配はないと思う。


 いちばんFRAPBOISらしいのはこれでしょう。なにげに珍しく人間キャラがいるのもポイント。本当に細かい線の具合までそのまま再現されていてすごい。あんな真っ平らな絵がこんなにちゃんと立体になるとは。

ギズモビーズ、SAC'S BARの店舗で購入できます。

2018年1月26日

営業報告



「SPUR」(集英社)2018年3月号の「銀幕リポート」第24回では、ポール・キング監督の『パディントン2』を紹介しています。 前作よりさらにかわいくなってクマのパディントンが帰ってきた!悪役のヒュー・グラントが最高です(前作はニコール・キッドマンだったので尚更)。サリー・ホーキンスもお美しい。公開中。



「婦人公論」(中央公論社)2018/2/13号ではジェーン・スーさん連載「スーダラ外伝」第23回の挿絵を描いています。



「小説NON」(祥伝社)では、2018年2月号から新スタートした原宏一さんの連作に挿絵を描くことになりました。 挿絵、大きいです。

2018年1月18日

雑記(6)

「SWサイト」

 思いつきで土台を作ったものの、なにも作らず放置しているSWサイト。超新星のような『最後のジェダイ』公開でぼくの中のなにかが一気に弾けたのか、最近なんとなく熱が安定していた(決して冷めたわけではない、そんなわけなかろうが)。爆発のあとで、改めて自分のSW観を整理するのもいいかもしれない。『最後のジェダイ』という作品によってSW神話そのものも一度壊され、再構築されたように思える。
 リセット、というほどではないが、原点に立ち戻って最初からもう一度考えたいなどと思っている。SWサイトをいちから作るのはそのいい機会だと思う。
 整合性とか見栄えとか体裁とか、そういうものを一切気にせず、とりあえず基本的な目的であるところの、このブログで書き散らしているものや、描いてきたイラストのアーカイブから着手することにしよう。まずはすでにある素材をまとめていく。それからそれぞれを関連づけたり、体系的に整理していけばいい。
 ビギナーに知識を授ける上からオタクにはなりたくないが、それでも基礎的な案内は欲しい。SWの入門ものは当然ながら世の中にたくさんあるが、ぼくなりの見方みたいなものは示したい。教える、なんて偉そうなものではなく、あくまで紹介というようなニュアンス、ぼくはSWをこういうふうに観ているというエッセイ。
 

「2時間制になっています」

 近所のケーキ屋さんの前を通りかかるたびにガラス戸に大きくカメラに赤い斜線の走ったピクトグラムが貼り付けられているのが見える。ピクトグラムというのはその図形だけで意味がわかるというものだったと思うけれど、その図形の下にはさらに「撮影禁止」という文字が走っている。こういう二重の表示をなんと言うのかは忘れちゃったけれど、とりあえずそれがものすごく大きく貼り付けられているのでケーキ屋さんの店構えを台無しにしている。
 撮影を禁止しているという表示そのものが、うちはそれだけ写真に撮りたくなるかわいいケーキを作っているのですというアピールに感じられて、はっきり言ってとてもダサい。言うまでもなくそもそも野暮ったいお店なのだけれど、さらにひどいことになっている。ここに越してきたばかりの頃、試しに一度ケーキを買った記憶もあるけれど、どういうケーキでどういう味がしたかはもう忘れた。そして別に店内も、ケーキそのものも写真に撮りたくなるようなものではなかったと思う。禁止されるまでもない。
 同じような話で、なんとなく適当に入ったお店で席に着くなり「2時間制になっています」と言われることもあるのだけれど、そういうお店に限って別に2時間いたくなるような店でもなんでもない。食べ終えて一息ついたらもう十分です。1時間もかからない。もちろん食事が出てくるまでにどのくらいかかるかわからないけれど。もしそれが1時間かかるのであれば、まあちょうどいい時間なのか。
 写真に撮りたくなる、2時間以上長居したくなるようなお店をつくってから言って欲しい。


「紙の質感」

 学生の頃はなんとなくその手触りと、水彩絵の具の乗り方からマーメイド紙が好きでずっと使っていた。硬さもいいので切り取ったりして遊ぶのにも向いている。色はナチュラル。真っ白でもなく、そこまで黄ばんでもいない色で、描いたものに温かみが感じられる。
 ところが、美術学校を卒業して2年くらいはあまりお金が無かったので(この頃の話をいい思い出として書けるようになるのはいつ頃かまだわからない)だんだん画材も安いものに切り替えたりするようになり、凹凸のある紙はどうしても線に癖が出たりもするので、もっと平坦な線が描け、安価で普遍的なケント紙を使うようになった。絵を描いたりしないひとでも聞いたことがあるであろうこの紙もやはり汎用性が高い。絵も描けて工作にも使える。安い。大抵どこでも売っている。
 というわけで、これまでウェブにアップし続けた絵のほとんどがケント紙に描いたものだった。
 ぼくは基本的に紙に線画を描いて、それをスキャンしてコンピューターに取り込み、フォトショップで線画だけを抽出し、線画のレイヤーを一番上にして下に敷いたレイヤーに色を塗るという、非常に単純でなんの工夫もない方式で描いている。
 結局デジタル上で線画だけにしてしまうので均一かつ平らな線が描けるケント紙で十分だったのだけれど、ふと真っさらなまましまってあったマーメイドが数枚出て来たので、試しにいくつかちょっとしたものを描いてみると、これがとてもいい感じの線になった。凹凸のある紙の表面でインクが独特の震え方をする。決してペン先がコントロールできないというわけではなく、思い通りに引いた線が、さらにいい強弱がつくのだ。それはデジタルに取り込んで線画だけ抽出したあとでも、紙の質感を伝えていた。その線の走り方は、紙の凹凸に従ったものなので、線画だけになってもそこには紙の表情が残っているのである。考えてみれば当然のことだけれど、自分では驚きの発見だった。実感として知れたのも大きい。
 デジタルに取り込んだあとでもどれだけアナログな絵の雰囲気を残せるか、出せるかというのをずっと考えていたから、このように線が紙の質感を伝えられるというのがわかったのはうれしい。ケント紙で描いた線画には、いまひとつどこか質感が欠けている気がしていたのだ。質感の少ない紙だから当たり前で、それはそれで利点はあるのだけれど、このたびの発見で絵としての存在感がもっと出せそうな気がする。
 問題は凹凸のある紙は繰り返し消しゴムをかけていると汚くなること。書き直すことの多い、映画の感想とかはケント紙のままのほうがいいかも。


「木で出来てると思った」

 ぼくは結構地黒なので、それはもう中学高校でそのことを揶揄されたものだ。今でも友達がたまにふざけてそのことを指摘するし、生まれたばかりのぼくの姿を見た父親は「あまりに茶色いので木で出来てると思った」らしく(失礼極まりない)、本人がそれをまだ覚えているかどうかは知らないが(多分覚えてない)、それを聞かせたら妻は大笑いしてそれを気に入った。木で出来た赤ん坊って、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』か。
 今では自分の容姿に対しては自信と愛着しかないが、思春期ではなんでも気になるものだ。今じゃ自分の身体で気になるところといえば肩こりと腰痛くらいで、パーツの全ては自分を構成するものとしてなにひとつ不満がない。これが自分である。これだから自分である。
 とかくこの世の中は色白をもてはやして色黒や地黒を悪く言う傾向にあると思う。悪く言うというか、残念なものとしているというか。試しにグーグルの検索欄に「地黒」と打ち込むと、地黒のひとが色白になる方法とかがずらっと出てくる。まったく、一体地黒のなにがいけないんだろうと思う。どうしてそこまで白い肌にこだわるのだろう。漂白願望が強い。
 浮世絵とか、昔の日本画でひとの顔が全部白いのと関係があるのだろうか。ぼくが思うにあれは「わざわざ塗るまでもないから」白いのだと思うのだけれど。日本の絵というのは結構そういう、なにもないところは描かない塗らないみたいな傾向が強いよね。そういうのは今日のイラストレーションの世界にも根付いていて、特に流行りのイラストレーションにも肌の色が省略されているものは多いと思う。それはもしかしたらある意味フラットかつニュートラルなのかもしれない。
 ちなみにチャーリー・ブラウンはあれで実は髪が生えていて、作者のシュルツ曰く「わざわざ塗るまでもないほど透けるように綺麗なブロンドだから」あのような造形になっているのだとか。妹もブロンドだもんね。
 「美白」という言葉に結構罪深いところがあるような気がする。あんまり言葉のせいにはしたくないが、白い肌こそ美しいというような前提が出来てしまっているのがどうしても気になってしまう。
 そして、そういうのは他の国のひとへのスタンスにも表れていると思う。ちょっと色の濃いクラスメイトに対する、「自分たちより色が濃い」という感覚を、それがスタンダードである人種のひとに対しても適用しちゃいがちというか。地黒を残念がったり笑いの種にしたりするのは、結局そういう無神経さを生んでしまうのかもなあと少し思った。
 ところで昨年末に件の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のキャラクター、ベビー・グルートの等身大フィギュアが届いた。等身大と言ったって30センチくらいの大きさ。劇中通りの大きさなので、これでもライフサイズである。かつて木で出来た赤ん坊と言われた身からすると、非常に親近感の湧くキャラクターである。

2018年1月8日

「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」


 生きた動物への憧れや、電気仕掛けの模造動物の描写のほかにも、映画にはなかったマーサー教という要素がおもしろかった。人間とアンドロイドの区別に用いられる共感能力が、この未来の宗教によって強調されて興味深いのだけれど、非常に精神的な描写なので映画では割愛されてよかったと思う。
 動物の描写で虚しくなるのは、なんといってもイジドア君(映画におけるセバスチャン)が衰弱して死にそうな電気猫を修理しようとするシーン。電池ボックスだか機構部だかの蓋を開けようと毛皮の中を探るもなかなか見つからず、ぐずぐずしているうちに猫は絶命してしまう。そう、猫は本物だったのだ。それでもイジドアはそれをよく出来ている高級の模造品だと思い込む。イジドアの少し抜けた感じももどかしいのだけれど、それでも彼に少し同情を覚え、とにかく猫がかわいそう。
 人間とアンドロイドの違い、境界が曖昧になり、自分たちの存在に自信が持てなくなるというのがこのお話の肝なのだけれど、動物と模造動物の境目もここまで来るとあやふやになってくる。本物そっくりで、その必要もないのにリアルさのためにわざわざ病気で苦しんだりして見せる電気動物を、本物同様にかわいがったり、ご近所に本物を飼っているように見せかけたり、あるいはそもそも模造だと知らずに、本物の動物だと思って飼っていたり。その一方でイジドアみたいにどうせ全部模造だろうという前提で動物と接している者もいたりする。
 人間とは何か、なにをもって人間なのかという疑問の前に、生き物とは、生命とは何か、みたいな問いもあるように思える。

2018年1月6日

雑記(5)

「初詣」

 この4年ほど、初詣は神田明神にお参りしている。初めてお参りして商売繁盛のお札を部屋に置いてからというもの、それ以降どんどん仕事が増えているので、サボるわけにはいかない。いや、そんな動機でお参りするのもどうなのかと思うけれど。それに将来どこか遠くへ引っ越してからも、ずっと正月のたびに神田明神に来なければならないのか。
 今年はひとりで行ったのだけれど、ひとりであの参拝の行列に並ぶのって結構きついものがあるとわかった。妻が一緒ならふたりであれやこれやとりとめのない話をして過ごしたりできるが、ひとりだと話す相手もいないので、ひたすら周りの人々の聞きたくもない会話が耳に入ってくるばかりで、いやでも周囲が気になる。これで4度目の初詣になるが、来ている時間帯がいつもばらばらなので混み具合は比較できないが、それでもどこかガラの悪いひとたちが増えた気がする。犬連れも多かった。別にいいけど。
 寒空の中、5時前にはもう真っ暗になる。とにかく脚が、足先が冷える。寒さとストレスでだんだんなんのために並んでいるのかわからなくなる。いや、本当になんのためなんだ。縁起のためか。でも縁起ってなんだ。どうしてこうも毎年毎年盲目的に、思考停止して自動的に通っているのだ。だいたい普段から神社も寺も教会も墓場にも寄り付かない人間が、元旦にだけこうやって調子よくお参りして意味があるのか。むしろずるいのではないか。毎日毎日お参りしているひとに悪いじゃないか。日頃から熱心なファンをさしおいて、『スター・ウォーズ』の公開初日のチケットを買い占めてしまうミーハーのようで悪いではないか。それが超うざいことはぼくにはよくわかる。
 なあんてことを思っていては縁起もなにもないのだけれど、とにかく列が進んでぼくの番がまわってきた。小銭を投げて礼をしたり手をたたいたりして、また礼をしたりしてプロトコル完了。ひとが多すぎてそのあとどこへどいていけばいいのかわからないが、なんとか群れから離れてお札やお守りの授与所へまわる。しかしこちらもひとが多すぎてぐちゃぐちゃである。前の方に来てみると並べられていたお札がいくつも地面に落ちていて、気づいていない参拝者たちに踏みつけられているではないか。おばちゃん、一生懸命お守りを選んでいるようだが知らぬ間にとんでもないことをしている。教えるべきなのだろうか。しかし教えたところで、このひとはすごい罪悪感にとらわれて元旦から気分が台無しになってしまうかもしれない。知らぬが仏である。神社だけれど。おばちゃんが立ち去ってから急いで落ちているものを拾って陳列台に置く。


「リボルテック」

 お参りが済むと、毎年恒例の秋葉原散策である。もちろんお参りが一番大事だけれど、そのあとで秋葉原でいろいろ見て回れるからこそあの行列も耐えられる。電気街は元旦から物を売りまくっていた。物、物、物。生きる上でなんら必要ない物で溢れかえっている。でもその意味の無い物の中がなんとなく落ち着いたりもする。目にするだけで不快な物も多いが。
 なんであれ『スター・ウォーズ』の中古フィギュアを漁るのは楽しい。新製品が並んでいる光景より胸がわくわくする。いろいろな時期のものがごちゃごちゃになっているし、欲しいもの、なおかつ安価でおもしろいものを探し出すのが楽しい。ただの買い物よりも宝探しのような感じさえする。
 元旦から早速見つけたのは1995年製のR2-D2の3.75インチ・フィギュア。ハズブロ傘下のケナー製品である。幼少の頃に買ってもらったもののひとつで、紛失していたので取り戻した。これでC-3POもR2-D2も最初のコレクションが再現されたわけだ。最初のものをそのまま持ち続けられたらよかったのだが、どっちみち状態はひどかった。
 数百円でそれを買った以外は特にいいものは見当たらなかったけれど、もう少しまわってみようとあちこち歩き、上下移動を繰り返した末にガラスケースの中で前から気になり手頃な値段で探していた海洋堂リボルテックのC-3POを見つけた。粘ってみるものだ。リボルテックとはこのメーカー独自の関節部品を使ったフィギュアのシリーズで、フィギュアの関節というのは大抵動かしているうちに劣化してゆるゆるのぐらぐらになってしまうのだが、このリボルテックの関節は歯車のギザギザのようなものを噛みながら曲がっていくので、ゆるくなりづらい、というかならないのだ。
 遠慮なくたくさん動かせるSWフィギュア、それだけで最高なのだけれど、どうやら評判が芳しくなかったようで、C-3POとR2-D2、ダース・ヴェイダーにストームトルーパー、ボバ・フェットあたりが出ただけでその後の展開はない。今では同スケールの、よりリアルなフィギュアをバンダイやメディコム・トイが熱心に展開しているので、完全にそっちに持っていかれてしまった。まあでも、日本製のSWフィギュアがこんなにたくさん出るとは思わなかったなあ。ねんどろいどまであるのだから驚きだ(フィグマにもなればいいのに)。
 たくさん歩いて探していたものが見つけられたときはとてもうれしい。しかもそれが、思い通りの値段だったりするとなおさらだった。ちょっとくたびれるけれど、新品をビックカメラやトイザらスで買うのとは違う楽しさがある。
 そういうわけで新年早々に手に入れたのは、新作映画ではほとんど見せ場の無くなってしまったドロイド・コンビとなった。ドロイドまで世代交代させる徹底ぶりは清々しくもあるのだが、このコンビだけはシリーズ全体で一貫して狂言回しになって欲しかったと思う。


「全ては口呼吸のせい」

 朝目覚めると口の中がカラカラに乾ききっていて辛い。妻が言うにはいびきもうるさく口臭もひどいらしい。それで、たぶんその原因は口で息しているから。思えば子供の頃から口で息をしていた。と言うのも、嫌な匂いがするときは口で息をすればいいなんてことを誰かに言われてそれ以来、口のほうが穴が大きくていっぱい吸えるじゃんという勘違いをしてずっと口で息してきたように思う。そうして鼻の穴がひどく狭く、鼻では思うように息ができないというような勘違いまで身体に染み付いてこの年になってしまった。当然口は開きっぱなしで、だから顎が変なのだと思う。
 試しに寝る前に口を手近にあったマスキングテープで閉じてみる。すると、翌朝から口臭が消えていた。いびきも聞こえなかったらしい。歯ぎしりも無し。そしてなにより鼻がすごく通る。こんなに鼻で空気を吸えたのはいつぶりだろうか。鼻ってこんなに奥のほうまで空気が吸えるのか。気持ち頭もすっきりしている。口呼吸では脳に送り込む酸素も足りなかったのだ。だから慢性的に、顔の奥のほうでなにかが詰まっているような嫌な感じの頭痛がずっと続いていたのだ。口を閉じて寝て以来あの頭痛もすっかり消えてしまった。鼻づまりもなくなった。
 驚いたのは、顎の形もよくなったのではないかということ。さすがにこれは何日か続けてから出てきた変化だけれど、少なくとも頰のあたりの骨が音を鳴らさなくなった。『シークレット・ウィンドウ』という映画を観たことあるひとなら、主演のジョニー・デップがしきりに顎を動かして頰のあたりの骨をこきりと鳴らすあの動作だと言えばわかるだろう。あそこまで強迫的な動作には、ぼくの場合ならなかったけれど、それでも動かすと音が鳴っていたので、それがすっかり無くなったということは顎がちゃんとまっすぐになったに違いない。
 鼻で呼吸するとこんなにいいことばかりとは。口で息をしていたこれまでの人生はなんだったのか。誰かが教えてくれればよかったのに。誰かに教えてもらわないとぼくはなんにも気付けない。自分は呼吸するのが下手なのだとどこかの時点で気付けていればと本当に思う。


「今ってなんの時間?」

 今ってなんの時間?アドベンチャー・ターイム!ということでアマゾン・プライムで延々とカートゥーン・ネットワークのアニメ『アドベンチャー・タイム』を観続けている。配信されている91話分を二周した。たぶん三周目もいく。いける。何度でも観られる。色が綺麗。かわいい。楽しい。挿入歌がいい。ただ、流していると他に何も手がつかなくなる。そして自分もこんな楽しい世界を描きたい、描かなければというような謎のストレスを感じたりする。
 お気に入りのキャラクターはルートビア。ルートビアの入ったグラスが顔になっていて、グラスの口から盛り上がった泡の部分が髪。探偵志望(ミステリー作家志望?)だが普段は冴えないサプリメント販売の電話オペレーター。奥さんはチェリークリームソーダでキャラデザは同じ感じ。毎晩タイプライターに向かってミステリーを書いていて夫婦仲はいまいち。そんな彼がある日誘拐事件を目撃してしまうお話。
 この回以外にも探偵もののパロディというと、ゲーム機型ロボットのBMOが探偵を演じる、モノクロなフィルムノワール調の回があってそちらも大変おもしろいのだけれど、今回はフィルムノワールのパロディというより、パルプものの小説といった雰囲気。
 おもしろかった回をあげていてはきりがない。どこかで何話かピックアップしてレビューできたらいいのだが。
 我が家は配信ものはプライム・ビデオしか加入しておらず(それもアマゾンで買い物をするついでに入っているに過ぎない)、そのほかはなにも入っていない。なのでネットフリックスで話題の作品などは一切観てない。しかしとにかく世の中ネットフリックスである。ネットフリックスばかりおもしろそうなものをやりやがる。ひとに会っても当たり前のように『ストレンジャー・シングス』の話題を振られる。観ればいいのに、観たらいいのに、きっと気に入るのにとか言われる。そりゃ観たいのは山々だけれど、プライムですら思うように観れていないので(90話あるアニメを二周しているのは置いといて)ちゃんと観られるかどうかわからない。プライムは通販のついでなので、はじめから視聴だけを目的に加入する勇気もいまいち出ない。
 そしてなんと言ってもやはり、話題になっている全てを観ていてはきりがない。無理。あまりにも新しい作品が多すぎる。恐らくぼくが『ストレンジャー・シングス』を見始めたら今度はほかのものが話題になるのが目に見える。全ては追いかけられない。
 家で好きな時間に観られるとしても、好きな時間に観られるからこそ観る時間がない。いつでも観られるなら今日でなくていい、と思って時が流れる。
 果たして視聴の敷居が低いのか高いのかわからない。いっそレンタルや劇場で上映されたほうが観る機会がありそうな気がする。ぼくのような人間には加入っていうのがハードル高いんだよな。
 娯楽作品が溢れ返っている世界では、どれだけ観たかより、どれだけ観ないで済ますかも重要になってくるような気もする。自分にとって最良を見つけたいものだ。いや、まあ、羨ましいだけなんだけれどね。
 これはまあ、あれが観たいこれが観たいと妻にネットフリックス加入を持ちかけるも、依然として拒否されているからで、諦めたというか、無理して観なくてもいいかなと納得した結果なのだけれど。
 と、妻の合意が必要みたいな話になってくると、男友達などは「だから結婚なんかしなければいいのに」みたいなことを平気で言うので辟易する。別になにもかも妻に支配されているというようなニュアンスで言っているわけではないのに。むしろ放っておいたら、好きにさせたら無闇にお金を使ってしまうぼくには彼女のようにところどころおさえてくれるひとがいないと駄目なわけで。
 プライムで観られる範囲で、楽しめれば今のところはいいかな。だいたい映画の試写だっていっぱいっぱいなのだし。

2018年1月1日

謹賀新年


 今年もどうぞよろしく。
 今年はもっと文章を書いたり、創作をしたりしよう。そろそろ空想がしまっておけなくなっている。絵の方では、もっとちゃんと人間をたくさん描けるようにしよう。