2018年1月18日

雑記(6)

「SWサイト」

 思いつきで土台を作ったものの、なにも作らず放置しているSWサイト。超新星のような『最後のジェダイ』公開でぼくの中のなにかが一気に弾けたのか、最近なんとなく熱が安定していた(決して冷めたわけではない、そんなわけなかろうが)。爆発のあとで、改めて自分のSW観を整理するのもいいかもしれない。『最後のジェダイ』という作品によってSW神話そのものも一度壊され、再構築されたように思える。
 リセット、というほどではないが、原点に立ち戻って最初からもう一度考えたいなどと思っている。SWサイトをいちから作るのはそのいい機会だと思う。
 整合性とか見栄えとか体裁とか、そういうものを一切気にせず、とりあえず基本的な目的であるところの、このブログで書き散らしているものや、描いてきたイラストのアーカイブから着手することにしよう。まずはすでにある素材をまとめていく。それからそれぞれを関連づけたり、体系的に整理していけばいい。
 ビギナーに知識を授ける上からオタクにはなりたくないが、それでも基礎的な案内は欲しい。SWの入門ものは当然ながら世の中にたくさんあるが、ぼくなりの見方みたいなものは示したい。教える、なんて偉そうなものではなく、あくまで紹介というようなニュアンス、ぼくはSWをこういうふうに観ているというエッセイ。
 

「2時間制になっています」

 近所のケーキ屋さんの前を通りかかるたびにガラス戸に大きくカメラに赤い斜線の走ったピクトグラムが貼り付けられているのが見える。ピクトグラムというのはその図形だけで意味がわかるというものだったと思うけれど、その図形の下にはさらに「撮影禁止」という文字が走っている。こういう二重の表示をなんと言うのかは忘れちゃったけれど、とりあえずそれがものすごく大きく貼り付けられているのでケーキ屋さんの店構えを台無しにしている。
 撮影を禁止しているという表示そのものが、うちはそれだけ写真に撮りたくなるかわいいケーキを作っているのですというアピールに感じられて、はっきり言ってとてもダサい。言うまでもなくそもそも野暮ったいお店なのだけれど、さらにひどいことになっている。ここに越してきたばかりの頃、試しに一度ケーキを買った記憶もあるけれど、どういうケーキでどういう味がしたかはもう忘れた。そして別に店内も、ケーキそのものも写真に撮りたくなるようなものではなかったと思う。禁止されるまでもない。
 同じような話で、なんとなく適当に入ったお店で席に着くなり「2時間制になっています」と言われることもあるのだけれど、そういうお店に限って別に2時間いたくなるような店でもなんでもない。食べ終えて一息ついたらもう十分です。1時間もかからない。もちろん食事が出てくるまでにどのくらいかかるかわからないけれど。もしそれが1時間かかるのであれば、まあちょうどいい時間なのか。
 写真に撮りたくなる、2時間以上長居したくなるようなお店をつくってから言って欲しい。


「紙の質感」

 学生の頃はなんとなくその手触りと、水彩絵の具の乗り方からマーメイド紙が好きでずっと使っていた。硬さもいいので切り取ったりして遊ぶのにも向いている。色はナチュラル。真っ白でもなく、そこまで黄ばんでもいない色で、描いたものに温かみが感じられる。
 ところが、美術学校を卒業して2年くらいはあまりお金が無かったので(この頃の話をいい思い出として書けるようになるのはいつ頃かまだわからない)だんだん画材も安いものに切り替えたりするようになり、凹凸のある紙はどうしても線に癖が出たりもするので、もっと平坦な線が描け、安価で普遍的なケント紙を使うようになった。絵を描いたりしないひとでも聞いたことがあるであろうこの紙もやはり汎用性が高い。絵も描けて工作にも使える。安い。大抵どこでも売っている。
 というわけで、これまでウェブにアップし続けた絵のほとんどがケント紙に描いたものだった。
 ぼくは基本的に紙に線画を描いて、それをスキャンしてコンピューターに取り込み、フォトショップで線画だけを抽出し、線画のレイヤーを一番上にして下に敷いたレイヤーに色を塗るという、非常に単純でなんの工夫もない方式で描いている。
 結局デジタル上で線画だけにしてしまうので均一かつ平らな線が描けるケント紙で十分だったのだけれど、ふと真っさらなまましまってあったマーメイドが数枚出て来たので、試しにいくつかちょっとしたものを描いてみると、これがとてもいい感じの線になった。凹凸のある紙の表面でインクが独特の震え方をする。決してペン先がコントロールできないというわけではなく、思い通りに引いた線が、さらにいい強弱がつくのだ。それはデジタルに取り込んで線画だけ抽出したあとでも、紙の質感を伝えていた。その線の走り方は、紙の凹凸に従ったものなので、線画だけになってもそこには紙の表情が残っているのである。考えてみれば当然のことだけれど、自分では驚きの発見だった。実感として知れたのも大きい。
 デジタルに取り込んだあとでもどれだけアナログな絵の雰囲気を残せるか、出せるかというのをずっと考えていたから、このように線が紙の質感を伝えられるというのがわかったのはうれしい。ケント紙で描いた線画には、いまひとつどこか質感が欠けている気がしていたのだ。質感の少ない紙だから当たり前で、それはそれで利点はあるのだけれど、このたびの発見で絵としての存在感がもっと出せそうな気がする。
 問題は凹凸のある紙は繰り返し消しゴムをかけていると汚くなること。書き直すことの多い、映画の感想とかはケント紙のままのほうがいいかも。


「木で出来てると思った」

 ぼくは結構地黒なので、それはもう中学高校でそのことを揶揄されたものだ。今でも友達がたまにふざけてそのことを指摘するし、生まれたばかりのぼくの姿を見た父親は「あまりに茶色いので木で出来てると思った」らしく(失礼極まりない)、本人がそれをまだ覚えているかどうかは知らないが(多分覚えてない)、それを聞かせたら妻は大笑いしてそれを気に入った。木で出来た赤ん坊って、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』か。
 今では自分の容姿に対しては自信と愛着しかないが、思春期ではなんでも気になるものだ。今じゃ自分の身体で気になるところといえば肩こりと腰痛くらいで、パーツの全ては自分を構成するものとしてなにひとつ不満がない。これが自分である。これだから自分である。
 とかくこの世の中は色白をもてはやして色黒や地黒を悪く言う傾向にあると思う。悪く言うというか、残念なものとしているというか。試しにグーグルの検索欄に「地黒」と打ち込むと、地黒のひとが色白になる方法とかがずらっと出てくる。まったく、一体地黒のなにがいけないんだろうと思う。どうしてそこまで白い肌にこだわるのだろう。漂白願望が強い。
 浮世絵とか、昔の日本画でひとの顔が全部白いのと関係があるのだろうか。ぼくが思うにあれは「わざわざ塗るまでもないから」白いのだと思うのだけれど。日本の絵というのは結構そういう、なにもないところは描かない塗らないみたいな傾向が強いよね。そういうのは今日のイラストレーションの世界にも根付いていて、特に流行りのイラストレーションにも肌の色が省略されているものは多いと思う。それはもしかしたらある意味フラットかつニュートラルなのかもしれない。
 ちなみにチャーリー・ブラウンはあれで実は髪が生えていて、作者のシュルツ曰く「わざわざ塗るまでもないほど透けるように綺麗なブロンドだから」あのような造形になっているのだとか。妹もブロンドだもんね。
 「美白」という言葉に結構罪深いところがあるような気がする。あんまり言葉のせいにはしたくないが、白い肌こそ美しいというような前提が出来てしまっているのがどうしても気になってしまう。
 そして、そういうのは他の国のひとへのスタンスにも表れていると思う。ちょっと色の濃いクラスメイトに対する、「自分たちより色が濃い」という感覚を、それがスタンダードである人種のひとに対しても適用しちゃいがちというか。地黒を残念がったり笑いの種にしたりするのは、結局そういう無神経さを生んでしまうのかもなあと少し思った。
 ところで昨年末に件の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のキャラクター、ベビー・グルートの等身大フィギュアが届いた。等身大と言ったって30センチくらいの大きさ。劇中通りの大きさなので、これでもライフサイズである。かつて木で出来た赤ん坊と言われた身からすると、非常に親近感の湧くキャラクターである。