2017/09/02

落書きとiPad

 お盆の次の週に遅めの帰省をした。感覚的にだんだんよその家と化し始めている実家で、それでもぼくはわりと他人の家(たとえば妻の実家とか)で気にせずぐうすか寝られるタイプなので普通にくつろいでいたら、ふとテーブルの上にメモ用紙があり、そこに鉛筆でひとの顔が描いてあるのを見つけた。そこいらのひとの描いた落書きとはもはや次元が違う絶妙な筆致は、明らかに母のものだ。簡単な絵だったけれど、実際にいそうな、妙に生々しい顔からして誰かの似顔だろう。

 母に聞けば、父とテレビを観ていた際にタレントだか芸人だかを説明するために描いた似顔だという。「あれだよ、あのひと、顔を見ればわかるはず」というような言い方はタレントを話題にした日常会話でよく出るものだけれど、そこで実際に似顔を描いて説明してしまうのが母だ。実際にその絵を見て父がそれを誰だか思い至ったかどうかはちょっとわからないけれど。というかぼくはそもそもそのタレントを知らないので(いやもう本当に最近は誰がなんなのかさっぱり)誰だかわからなかった。

 子供の頃、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』は観ていてもまだティム・バートンのひととなりを知らなかった頃に、母が深夜の映画紹介番組でその姿を観て、こんな感じだったと言いながら似顔絵を描いて教えてくれたことがあったっけ。ヒゲモジャで眼鏡をかけた天パのおじさんで、バートン監督との最初の出会いは母の似顔絵を通してとなった。

 もう少し年月が経った後、今度はぼくが1000円カットの理髪店で散髪してもらう際に、母は理髪師に一枚の紙切れを見せた。チップの類ではなく息子の似顔絵で、彼女がイメージする髪型に描かれていた。帰りの車の中、ぼくは母の思う通りの髪型になっている。母は「あのおねえさん、最初は絵なんか見せられても困るみたいなこと言ってたけど、見たらすぐ理解してんの。全く、誰が描いたと思ってんだか」みたいなことを言っていた。ぼくが絵心と一緒に性格の悪さも受け継いでいるのは言うまでもない。

 アップル社のiPadは、確か元々はテレビを観ながらでも手軽にインターネットを見られるようにというのがコンセプトだったという話を聞いたことがある。今観ているドラマの出演者について調べたり、放映されている映画について調べたり、クイズ番組の問題を先回りして知ったり(それは楽しくないと思うが)。日常会話でなにかを説明する際に、iPhoneで画像検索して相手に見せるというのはもはや普通に見かける光景だが、そういうのはまさに母が日頃から落書きでもってやっていたことそのもの。

 実家のテーブルに似顔が描かれた紙切れがあるのを見つけたとき、まだこの世界にこんなアナログなやり方が残っていたかとちょっと感動すら覚えた。母にとってはなんてことないことであり、ぼくにとっても本来なんてことないことなのだけれど、そのアナログさにかえって新しさを感じて、ぼくも描けるからにはこういう習慣を取り戻したいなと思った。絵が描けるというのはこういうことができるということなんだし。
 そんなわけであまりデジタルに毒されていない実家だが、それでも両親はネットを観るのをわりと楽しんでいる方で(このブログの感想をメールしてくるのは勘弁して欲しいが)、パソコンが不具合を起こすのは困りものらしい。ぼくも別にパソコンに詳しい方じゃないので(むしろなにか不具合が起きたときにはすぐヒスる)、結局そのレノボのThinkPadを直すことはできず、パソコンひとつ直してあげられない不甲斐なさと、どうしてこうもこの家にやって来るパソコンはすぐ壊れるのかという苛立ちと、思えばパソコンに詳しくないことでパソコンができる男ども(ぼくの世代は男子はパソコンできて当たり前みたいな向きがあるんです)からやたら馬鹿にされたなあという怒りの勢いで、持ってきていたiPadを両親にあげてしまった。初代で、裏側が凹んでいて、速度も遅いしもうOSの更新ができないから新しいアプリもおとせないんだけど、ネットサーフィンするだけならこれで十分だ。パソコンのようにしょっちゅう壊れないし、複雑な操作もいらないから両親のようなひとにはぴったり。
 ThinkPadがiPadになったわけだけれど、今後も母は父にタレントを説明するために似顔絵を描いていくことだろう。