2017年11月25日

Note.2



 寒くて仕方がない。末端冷え性なので手先や足先が死体のようで落ち着いて座っていられない。作業に集中できない。仕事にならない。エアコンの暖房は気持ち悪くなるので、電気ストーブ(加湿器付き)を点けるわけだけれど、これは1箇所にしか熱を送らないので部屋自体は全然温まらず、身体にしてもストーブが当たる部位が妙に熱くなるだけで温まるわけではない。ストーブの加湿器だけを点けてエアコンを使うのもありなのだけれど、加湿しようとしまいと熱風が気持ち悪い。というのも、このあいだの模様替えで机がエアコンの真下になってしまったのがいけない。



 なんだか食器棚がやけにすっきりしたなあ、整理はしたけれど処分をしたわけではないのになあと不思議に思っていたら、ただ単に流しに洗ってない食器が溜まっていただけだった。しかしすっきりした棚はなんだか見ていて気持ちがよかった。気持ちのいい景観をたまに見て気分を和らげるためにもある程度洗い物を溜めてから洗うのはどうだろうか。流しの景観は最悪だけれど。



 大人数でわいわいできないことに一種のコンプレックスというか(一応設定上コンプレックスはない、ということにしているのだが)、苦手意識と羨ましさを同時に抱いたりしていたわけだけれど、このほど原因がわかった。ひととあまり仲良くできないのだ。ただこの一点に尽きる。
 あまり心を開けないとか、距離感が測れないとか、他人に期待しすぎる(無意識に幻想を押しつけている)などいろいろあるのだろうけれど、本当に幸運な感じに条件が揃った相手でないとなかなかうまくいかない(それは誰でもそうだろうけれど)。そんな具合なので複数人での集まりでうまくいくわけがない。性格が面倒。世の中みんながみんな面倒な性格を許容してくれるわけではない。
 ぼくだって仲間でわいわいと、『最後のジェダイ』のチケットを予約して公開日当日にみんなで観にいくみたいなことはしたかったわけで。きっと劇場を決めてチケットを予約する過程からして楽しかろう。前回やったから知っている。楽しかったけれど、同じことができる精神状態ではない。相手方との関係も維持できていない。基本的に誰とも関係が維持できない。それでいながら疎遠になること自体がストレスに思えたりもする。そのあたりを思うとなかなか新しい友達をつくろうというテンションにもなれない。いや、本当にここ数年、恐らく初めて学生でなくなってからというもの、率先してひとを誘うことにも及び腰になっている。
 ただ、みんなでわいわいが楽しそうには見えても、実際そこに自分が身を投じても楽しいのかといえば、それはわからない。これはよく妻に言われる。妻も同じタイプらしいのだけれど、多分実際にわいわいの中に身を置いたら疲れる。変なストレスを覚える。曰く私たちみたいなのはそういうのに向いてないのよ、らしい。
 そもそも、ぼくはどうも「わいわい」を無限定に使いすぎているというか、無条件で楽しそうな呪文のように唱えているところがある。常日頃から仲間と盛り上がっている当人たちはまずわいわいなどとは言わないだろう。他人に幻想を押し付けているのと同様、集団のわいわいにも幻想を持っているのだろう。実際わいわいの中に飛び込んだらくたびれてしまうくせに。
 向いていない、と言うとどうもそれに関してスキルが欠けているように感じられて劣等感がむくむくと沸いてきてしまうのだけれど、まあ、やらなくてもいいことなんだと思うしかないなあ。



 SWチケット争奪戦にやはりどうしても気分が乗らず、参戦せずに終わった。もう疲れた。公開日に観なければならないという決まりはないので、好きな日の好きな時間に好きな場所でのんびり観たい。そう自分で決めたはずなのだけれど、公開日に観るためにあの手この手を使ったり、仕事を休んだり、予約ができて狂喜したりしているファンの様子を見ていると、こういう熱意がないぼくは冷めているのかな、ファンとして失格なのかなみたいなことを思ってしまう。失格もなにもないのは百も承知だけれど、自分とはベクトルの違う熱量を目の当たりにすると、なんとなくぼくがおかしいのかなと思えてくる。
 まさか公開日に観なかったからといってお前はファンではないなどとは言われないだろうし、ぼくがこれでファンじゃなかったらなんなんだという話なのだけれど、そもそも誰からもなにも言われちゃいないのだけれど、不安になる。どうしてぼくにはああいう熱量がないのだろう。騒げる熱量、わいわいできる熱量(またわいわいか)、テンション、元気。もちろんぼくにはぼくなりの「好き」をアピールする手段があるから気にすることではないとはわかっているのだけれど、結局さっきの「わいわい」の話と同じで、羨ましくなるのだ。
 自分が素直じゃないだけではないかとも思う。そうしてまた自分の性格の面倒くささが嫌になる。どうしたら素直になれるのかとか、果たしてどういうのが素直なのかとか、いろいろ考えてしまうわけで。そうして恐らくそんなことは考えることではないということもどこかでわかっているのだけれど。



 何日も嫌な感じの頭痛(嫌な感じじゃない頭痛などないのだが)。朝早めに起きられはするのだけれど午後をまわると急激に頭が痛くなって眠くなり、昼寝のつもりで寝転がったら夜中だった、というのが何度か続いた。しとしとと雨が続いて気温も急激に下がったので、きっと天気のせいだろうと思っていたのだけれど(天気のせいで頭が痛いとひとに言うと大抵バカにされる)、なんとなく原因がわかった。コーヒーの飲み過ぎだと思う。
 我が家ではケメックスの一番大きなサイズでコーヒーを淹れているのだが、最近妻がカフェインを控えるようになったので淹れたぶん全部ぼくが飲むようになったのだが、よく考えれば異常な量である。そのケメックスだと普通は3、4人が飲む量なのだけれど、ぼくはそれを台湾のスターバックスで買ったお気に入りの特大マグ2杯くらいで飲んでしまう。マグ2杯ぶん程度だから、と思っていたがそのマグが特大だということをたびたび忘れる。どのくらいの大きさかというと、今も机に置いてあるが、高さが110mm、直径が95mmといったものである。
 ともかく3、4人が飲む量をひとりでがぶがぶ、それを1日に二回くらいやっているわけである。8人ぶんのコーヒーをがぶがぶやっているころになる。いや、やばいでしょ。ついこのあいだ、ふとカフェオレ・ボウルというのがあるくらいだから、コーヒーを飲む用のボウルもあるのではないか、などとより大容量の容器について考えたりしていたのだけれど、立派な中毒である。やめだやめだ。しばらくやめよう。ああ、危ないところだった。
 カフェインを断った際に頭痛が起こるらしいのだけれど、まあ、とにかく飲み過ぎで気持ち悪いのだと思う。以前はコーヒー好きじゃなかったのに、不思議なものだ。



 朝起きて午前中のラジオをなど聴いていると、世の中と一緒に活動しているというような感じ(錯覚)が半端ではない。いつまで続けられるのだか。



 雨が続いたあとの濡れた夜道で犬とも猫ともつかないものがのっそりのっそり歩いていたのだけれど、狸だった。
 田舎で散々見たことがあるので(生きているのも死んでいるのも)存在そのものは全然珍しくないのだけれど、都会で目にすると新鮮である。一緒にいた妻は街の育ちなので感激していた。なによりその日は装画と挿絵を担当した森見登美彦先生の新刊「太陽と乙女」の発売日で、装画に大きく狸を描いていたのだ。狸に関する一連のエッセイも、本当に愛に溢れた素敵なもので、改めてぼくも狸が気になり始めていた。
 犬を連れていなくてよかったなと思う。大興奮で吠え立てて怖がらせるか、逆に怒らせて襲われていたかもしれない。
 食事を終えて家に戻る途中、また遭遇した。今度は二匹、連れ立って歩いていた。仲間だろうか、夫婦だろうか、兄弟姉妹だろうか、とにかく結構丸々と太った立派な狸がのっそりのっそりと二匹並んで歩いていた。でも、ぼくが思わず「あっ!」と子供のように指をさしたものだから、ぎょっとして立ち止まり、逃げて行ってしまった。
 ちなみに母が電話で聞かせてくれたが、ぼくの地元は最近猪の被害が大変らしい。前に帰省した際にもどこかのおじさんが退治した猪の鍋を食べたような気がする。食べてあげることができるのであればまだいいのではないか、とも思ったのだけれど、どうやら地元にはちゃんと獣を退治できるひと、それ用の装備を持ったひとがいないので(鉄砲撃ちはシーズンによそから来るし、一帯には農家と大工しかいない)、撲殺というなんとも原始的な手段で退治しているらしい。
 『2001年宇宙の旅』かよ。途端ぼくの頭には、あの無害そうでのんびりしたお百姓のおじさんおばさんたちが戸惑いながらも棍棒を握り、おっかなびっくり獣の頭を叩いている光景が浮かんだ。全然致命傷を与えられないのでみんなくたびれ、猪も辛すぎるという地獄……。
 銃とか薬とかを持っているはずもないので、殴って殺すしかないというわけだ。どちらにせよ命を奪うことには変わりはないが、それはお互いしんどいのではないか……。せめてちゃんと調理してあげてほしい。