2017年10月30日

日記:10月23日〜29日

10月23日(月)

 台風の影響で朝の電車がめちゃくちゃ。本来なら在宅勤務のぼくには関係ない話なのだけれど、こういうときに限って『ブレードランナー2049』の記者会見があったので、一生懸命電車に揺られて会場に向かった。会見については該当記事を参照。
会見が終わる頃にはすっかり晴れ渡っていた。会場となったホテルの広い窓から見る空が綺麗だった。台風のあとなので雲ひとつない。いや、もしかすると端っこのほうにはあったかも。
街に出ると風が強かった。ウェンディーズでハンバーガーを食べていると父から電話。台風などがあるとだいたいいつもかけてくる。海が近い実家のほうが台風の心配はあるのだが。今なにをしているんだと聞かれたのでハリソン・フォードの会見に行ってきたところだと返した。我ながらすごい返答である。もちろん父は大して驚きもしなかった。

10月24日(火)

 妻の体調が優れないので病院に付き添う。待合室で本など読んでいたら、時計の長針が真上を向き、時報が流れる。このメロディがなぜかロシア国歌(ソ連国歌とも)。メロディはいい曲だよね。

10月27日(金)

 なんと、「LINEマンガ STAR WARS インディーズアワード 2017」に作品がノミネートされた。通知メールを読んで声を上げる。驚いたBB-8のような声が出た(びょええええええ!)。前日に明日発表するよという知らせは来ていたので、このメールもてっきり応募者全員にノミネート作品を知らせるメールかと思いきや、見ればノミネート作家宛ての内容ではないか。フォースは実在した。
 夏にずっと取り組んだかいがあった。まだノミネートされただけとは言え、もともとは普段描かない漫画を描くいい機会だ、経験値になるだろうという構えで描いて応募したものだったので、結果が出て大変うれしい。そもそも漫画らしい漫画を描いたのは初めてである。SWの漫画コンテストともなればそれなりに愛の深い、技術のあるひとがこぞって応募するに違いない、素人のぼくなどは全然ものの数ではないだろうと思っていたくらいだ。それでもひいひい言いながら、しっかりと描き込んだものだったので、出してみてよかった。
ノミネートされた段階でノミネート賞受賞ということなので、小学校の頃の絵の賞などを除いて今のキャリアに限って言えば初めての賞である。イラストレーションの賞も取っていないのに、漫画の賞をもらってしまった……。
 詳しくは該当記事で。ぼくとしてはもうノミネートだけで十分すぎるのだけれど、せっかくなので読者投票も集まるといいなあ。

10月28日(土)

 義母がやって来る。なんでも妻が楽天で注文したものの届け先を実家に指定しまったらしく、それを持って来てくれた。なんなのかはよくわからない。

10月29日(日)

 また雨である。頭が重い。池袋のディスクユニオンに展示の様子を見に行こうと思っていたのだがちょっとしんどいのでやめておいた。まだ日にちはあるので、どこかで伺うので許してください。
雨だとなにがダルいって、そりゃ犬の散歩だよ。雨が降ってるというだけで、なんでぼくは犬なんて飼ってるんだ、もううんざりだよ、なにが動物の癒しだよ、もう無理だよ、とてもじゃないが余裕がないよ!と異様なほど犬を飼っているという状況を呪い始めるのだが、いざ雨具とともに外に出てしまえばしばらく歩いてしまう。そんなに行かなくていいと妻も言っているのに。なぜか文句を言いながら外に出て、一旦外に出るとめちゃくちゃ歩いてしまうのだ。歩いているうちに頭の中でいろいろな考えが整理されて、歩調も一定のリズムを持ち始めてだんだんハイになってしまうのだ。犬が「ちょっとここいらでうんちしたいんだけど」というような仕草を始めてもお構いなしに歩き続けてしまう。これが歩行瞑想というやつだろうか。てくてくどんどんと歩いていく。あんまりぼくがトランス状態になっていると犬のほうが力いっぱい引っ張ってぼくを引き止め、「させろや」と言わんばかりにうんちをする。そうそう、雨の日はこのうんち拾いがとにかく大変なのだ。だいたい道の端でうんちをするわけだけれど、道の端というのは水がたまったり流れたりしているので、必然的にうんちは水たまりの中に落とされる。そうなるといくらポイ太くん(うんち拾い専用の、紙とビニール袋が二重になった袋で、手を入れて紙でうんちをつかんで、くるりとひっくり返すことでそれがビニール袋の中にしまわれるという優れもの)でも拾うのは一苦労である。当然紙がぐしゃぐしゃになってほとんど直接ビニール袋にうんちがおさまることになる。
 ところがこの日、犬のお尻のすぐ下で待ち構えて入れば水たまりの中に落ちたものを拾わなくてすむということに気づいた(遅い)。ただ、この犬はふんばった状態で少しずつ歩いてうんちをするので、ぼくはポイ太くんをはめた手でもって犬のお尻を追いかけることになる。
 散歩中、小学校の裏手の道に小学生の小さな上履きが片方だけ落っこちているのを見つけた。名前が書いてあるようだがびしょびしょに濡れているのでにじんでよくわからない。わかったところでどうしようもないけど。いじめられたのか、あるいはなにかの仕返しか。途端、ぼくもなにかの仕返しにほかの子の上履きを土砂降りの中に放り出したことがある。シメシメ、いい気味だととても爽快な気分だったのはほんの一瞬、すぐに大人たちからひどく怒られた。トホホと思いながら上履きを洗って返した記憶がある。しかしぼくのようないい子がわけもなくそんなことをするはずがない(?)。きっとそいつが先に嫌なことをしていたのだろう。ぼくは仕返しをしないでいられないたちだったので、その件もやはり復讐の一環だったはず。しかし、学校の先生というのはいつだってぼくが仕返ししたその場面だけトリミングしてジャッジしてしまう。間が悪い。いや、間どころか普通に悪いやつだった。悔しいが先生は正しい。
 なぜかそのあとも眼鏡が落ちているのを見つけたりした。さすがに下を見ながら歩きすぎではないか。眼鏡はわかりやすいところに置いておいたが、見つかるだろうか。



2017年10月27日

"Back To School" in Girlside


 本日10月27日から 11月5日(日)まで、ディスクユニオン池袋店内のGirlsideにて開催中です。渋谷のSiSで展示した作品の巡回展となりますが、新たなグッズの追加などがあります。


 今回はこの、ゴスっ娘とチアガールの絵柄が切り替わるアニメーションバッジが新登場します。イチオシです。


 また、Girlsideの一周年記念ロゴも制作させていただき、こちらを使ったグッズなども展開されています。


" Mizmaru Kawahara - "Back To School" in Girlside " 
開催期間 : 10/27(金) - 11/5(日)at Girlside (ディスクユニオン池袋店内)

" Girlside 1st Anniversary Week " 
開催期間 : 10/28(土) - 11/5(日)at Girlside (ディスクユニオン池袋店内)
29日には多屋澄礼さんによるDJイベントもあるそうです。


「フォースのライトサイド」は映画に出てこない

 ダークサイドに対立する概念ならライトサイドだろう、みたいな後付け感が半端ではないが、この言葉がわざわざ映画本編に登場しないのは、ジェダイが自分たちのフォース観こそ唯一無二の正しいものであるとしていたからだろうとも考えられる。ライトサイド、と自分たちの側をいち側面として呼ぶことは、対するダークサイドの存在を認めることにもなる。もっともこの用語が普及したのはガイドブックや設定資料によってではないかと個人的には思う。キャラクター相関図や世界観を説明する際に善悪や光と闇というような対立概念を提示するとわかりやすい。そこでダークサイドと対をなす概念としてライトサイドという語が普及したと。まさかガイドブックのために作られた概念ではないだろうと思うが、フォースの二面性も含めて、設定によって補強されていることは間違いないだろう。とにかく、本来映画にはフォースとダークサイドしか出てこない。

 ジェダイたちはもちろん善良に感じられるし、シスはやはり邪悪に感じられる。しかし、ジェダイはそれでも滅んでしまった。シスの策略によって滅んだのではあるが、そこには彼らの教義の限界や、時代や状況との合わなさもあったように思える。ぼくは以前融通の効かないジェダイの教義が好きじゃない、と書いたことがあるけれど、融通が効かなかったからこそ、ジェダイが滅ぶべくして滅んだという描写が成り立つ。理想を追い求めるあまり世界から見放されてしまったというのが、ジェダイなのであり、そこがまた魅力でもあろう。

 プリクエル三部作ではジェダイの滅亡や、帝国とダース・ヴェイダーの誕生をもって、オリジナル三部作で見られたような勧善懲悪的単純構造は一旦崩された。現実世界における価値観もどんどん変化、複雑化していき、単純な勧善懲悪が好まれる時代ではなくなった。『ローグ・ワン』ではそれまで正義一辺倒で描かれてきた反乱同盟軍の暗部や、その反乱軍と袂を分かったテロ集団の暴走などが描かれ、基本的には悪の帝国に立ち向かう物語でありながらも、「ウォーズ」の現実的な側面が盛り込まれたりもした。

 そうくれば、である。最新作『最後のジェダイ』でもやはり単純な善と悪の戦いでは済まないだろうと思う。年老いたルーク・スカイウォーカーは、もはやジェダイ=ライトサイド、ライトサイド=正義というような考えを持っていないのではないか。なんといっても、かつてのジェダイ騎士団はその教義とともに滅び去ったのだ。スクリーンの外にいるぼくたちがそうであるように、ルークも正義を自認するということに懐疑的になっているのかもしれない。フォースの二面性などという解釈はとうに捨てているかもしれない。あるいはその間に立つバランサーに徹している可能性もある。
 というのも老ルークの服装がグレーっぽいのだ。EP7のラストでは少し白っぽい気もしたが、EP8の予告編を観る限りだいぶ薄汚れた衣装ばかりである。EP7の白い衣装もよく見るとどこか灰色じみている気もする。
 SWはもはや光と闇という構造の中におさまってほしくない。鍵はやはりルークのスタンスだろうと思う。そして彼を挟んでカイロ・レンとレイという、不安定な若者ふたりが対峙する。EP8の主要人物たちは白黒はっきりしない。

2017年10月23日

『ブレードランナー 2049』記者会見



 まず今朝は電車の中よりも電車に乗るまでが大変だった。階段を登るところからまず列をなして一歩ずつ進まねばならなかった。一段一段登ってるあいだ、あれ、これはもしかしたら間に合わないのでは、と思ったりもしたのだが、時間の感じ方というのはおもしろいもので2時間くらいに感じられた移動時間は、実際には40分くらいで、普通に間に合った。着いたぞチューイ、って感じ。

 前作の舞台だった2019年に現実が追いつこうとしている今、『ブレードランナー』の世界は未来というよりはパラレル・ワールドだと、ヴィルヌーヴ監督は語った。なるほどと思った。具体的な年代を提示して未来を描くSF作品の悩みどころは、その設定年代に現実が追いついてしまうことだ。当然ながら現実は作品で描かれたような世界にならない。すると未来を描いていたはずのその作品は急に色あせて、古びて、悪い場合には陳腐化さえしてしまう。
 「別の2019年」から30年が経った世界である「別の2049年」。それはあくまでも現実の未来ではなく、『ブレードランナー』の世界における未来なのだと監督は強調する。そこにはスティーブ・ジョブズはいないらしい。その代わりに、厳しい天候や環境に耐えるための技術が進歩し、建物や衣類、乗り物に生かされている。そのあたりの世界観の考え方が非常に興味をそそられた。
 
 話を聴きながら、シルヴィア・フークスとアナ・デ・アルマスの演じたキャラクターについて思うところが出て来たので書き留めておきたいのだけれど、よく考えるとかなりストーリーに絡むし、あまり不必要に内容に触れるべきではないので、公開後にまた。ふたりの女優が演じるのはどちらも謎めいた役なので、会見でもあまりそのあたりには触れられないのだよね。それでももう少しふたりの話を聴きたかったな。
 シルヴィア・フークスはブロンドなので劇中とは少し違う印象だったけれど、それでもその眼つきからは劇中で見せた刺すような鋭い視線を思い起こさずにはいられない。役柄と同じような服を着ていたのもうれしいところ。

 そしてハリソン・フォードである。
 申し訳ないけれど、デッカードである以前にやっぱりぼくにとっては密輸業者ハン・ソロである。『スター・ウォーズ』のレジェンド的主演が目の前にいる、目の前でしゃべっている、笑っている、水を飲んでいる、といった具合に感激した。うるっとした。すごい、すぐ目の前にいる、と思うと同時に、昨年亡くなったキャリー・フィッシャーのことを考えて、今日のように幸運な機会がいくらあっても彼女の姿はもう見れないのだと、そう思って余計になにかこみ上げるものがあった。
 だからというわけでもないけれど、これほどひとの顔というか様子を注視していたのも自分では珍しい。というわけでスケッチ集を作ってみた。仕草のひとつひとつが印象的だった。だんだん見ているうちに映画と現実の境目がわからなくなるほどだ(それくらい映画の中のひとという印象が強いのだろう)。そうして映画もまた現実の一部なのだと改めて知るのだった。登場する俳優も皆感情を持ったひとりの人間として生きているのだと。
 写真を撮らなかったかわりに記憶に十分に焼きついたと思う。
 それにしてもこれくらいのおじさんの顔を描くのは楽しい。しわが深いと尚更描きがいがある。


 ラベリングとして恐れ多いのだけれど、黄色くてかわいいので取っておこう。

2017年10月22日

The Vampire Strikes Back


 単なる駄洒落である。思いの外ポーグにコウモリ風が似合う。
 『最後のジェダイ』の新しい予告編にBB-9Eの姿がなく残念である。しかしまあ、それだけ本編での登場が楽しみである。『フォースの覚醒』のときと違って、そこそこ直接的な描かれ方がしていて、物語の内容を想像させる。あと、EP7よりも絵作りがかっこいい気がする。いろいろ描きたいシーンがあったが、時期的にここはハロウィーン的な絵を優先する。

日記:10月16日〜20日

10月16日(月)

 レゴ・ブロックでなにか実用的かつ見た目もかわいいものを作ろうと思い、ペン立てを組み立ててみた。市販のセットで家の形をしたペン立て——屋根の半分が吹き抜けていてそこにペンが立てられるようになっている。内部のディティールは無いが、基礎プレートの余白部分の庭にミニフィグ等を飾れる——があるのだけれど、そう複雑な作りではないし、特殊なパーツも無く基本パーツだけで作れるものだったので、手持ちで再現してみた。ウェブで説明書を見つけたし、パーツはほぼ同じものがあったので、色はともかく形はほとんどそっくりに作ることができた。この調子で部屋を彩れるものがいくつか作れればいいのだけれど。

10月17日(火)

 90年代に起り2000年に裁判となった「アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット事件」を描く映画『否定と肯定』の試写に行った。ティモシー・スポール演じるホロコースト否認論者と、レイチェル・ワイズ演じるユダヤ人学者の対決。ぼくが知らない間にスポールはどうやら大幅な減量をしたらしく、なんだかげっそりと削げていた。ふっくらしているときには気づかなかったがかなりギラついた眼光を持っていることがわかる。役のせいかもしれないが。
 今週は選挙カーが騒々しいけれど、近所のピアノの音のほうがぼく的にはヤバい。このピアノの音、今年の春頃からやたら聞こえるようになり、その距離感からして恐らくはすぐ隣のマンション(窓を開けるとすぐその外壁になっているほどの距離)か真上の階の部屋から聞こえているようなのだが、未だによくわからない。微妙。隣のような気もするが、窓を開けるとこちらに面しているのは部屋ではなく通路であるらしく、音も反響しているので上の階っぽく聞こえる。でも部屋の中にいるとやたら窓の方から聞こえる。跳ね返っているんだろうな。同じ建物なら苦情も出しやすいのだが、朝の9時から夜の9時までという一般的なルール(妻から聞いて知った。世の中細かいルールがあるものだ)は律儀に守っているらしく、夜9時になった途端に止む。しかしそれにしたって朝の9時になった途端もうポロンポロンと聞こえてくるし、夜の8時50分だろうが59分だろうが9時と変わらないと思う。あとどうもオペラ・ナンバーを練習することが多く(このあいだまでは『トゥーランドット』の「誰も寝てはならぬ」を弾きまくっていたが、最近は『カルメン』「闘牛士の歌」をやっているらしい)ピアノだけでなく歌唱も聞こえてくる。これが録音なのか実際にそこで歌っているのかはわからないが、それはもうよく通る歌声でピアノよりも大きい。ヤバい。どちらも好きな曲だが嫌いになりそうだ。そしてピアノがあまり上手くないのが致命的にキツい。そりゃ上手くないから練習するのだろうけれど。
 とはいえ選挙カーもピアノもそれぞれの仕事をしているまでである。いや、ピアノは仕事なのか学業なのか趣味なのかわからないが。ともかく各々やることをやっているのに過ぎない、と考えるとだんだん気にならなくなっている。大人になったな、ぼく。26歳だもんな。
 そもそも選挙があってピアノが弾けるだけ幸せな世の中ではないか。

10月18日(水)

 教習所に行った。今月の始めは風邪をひいて寝込んでしまっていたので、9月末以来の教習である。教官がジョージ・タケイみたいなおじさんで、複数人教習ということで男子大学生との乗り合いである。この男子、なにを言われても相槌がだいたい「マジっすか」「初めて知ったっす!」といった感じでタケイも呆れていた。「マジっすか」という相槌はぼくもかねてより耳にするフレーズだったが、なにか教わったり指摘されるたびに「初めて知ったっす!」と返すのは初めて聞いた。おそらく「そうなんですか、ためになります」みたいな手垢にまみれた媚びフレーズと同じ用途で、先輩とかに気に入られるための相槌なのだろうけれど、さすがに連呼されると相手も馬鹿にされているとしか思えないだろう。タケイもむっとしていた。しかし、彼は悪気があって言っているのではないのだ。彼の置かれているコミュニティでは恐らく普通の台詞なのだ。彼はこの先もその相槌でもって先輩に気に入られ可愛がられ、要領よく生きていくのだろう。ムカつく。
 帰宅後は夜中まで原稿を描いていたが、このところなんだかすぐ眠くなり全く作業にならなくなったので、思い切って途中で寝た。朝早めに起きて仕上げれば大丈夫だ。

10月19日(木)

 目論見通り朝早めに起きられたので作業を再開した。一度寝たので頭がすっきりである。いや本当にあのまま続けてもしょうがなかった。思い切って一旦寝ちゃうっていうのがこんなに効果的とは。今度から思い切って寝よう。いい感じに描けたのでご機嫌である。
 ずっと懸念事項だったレゴ・ブロックの収納方法をいい加減固定したくて大いに悩む。子供の頃はそれほどたくさん持っていなかったので普通の衣装ケースひとつで済んだものが(しかもちょうど部品を探しやすい量だった)、今は当時とは比べ物にならない量を保有しているので、どうもまとめにくい。しまうことはいくらでもできるが、ただしまうだけではいざ遊ぼうとしても目当ての部品をすぐ探し当てられない。全てをひとつの容器におさめるとそうなる。なので、いくつかの容器に、手で探りやすい量を分けるのがいい。そこで部品を大まかな種類に分けて収納するのもより探りやすくなっていいだろう。しかし、それだと遊び終わって片付けるときにも、部品の仕分けをしながら片付けることになり非常に面倒だ。さらに、子供の頃同じレゴで遊んだ仲である弟が言うには、仕分けられていない雑多な部品をかき混ぜる中で起こる、目当てではない部品との偶然の出会いがまたおもしろいとか。なるほどね。あまり綺麗に仕分けられていてもおもしろくないというわけだ。
 ということで細かく仕分けたり容器を増やしたりするのはやめた。容器が増えると、遊ぶたびにそれらを部屋に広げなければならず、あまり気軽でない。ひとまず主要なブロックは一番大きな容器におさまり、細かいテクニカル系のパーツをそれよりも小さい容器に、そうしてミニフィグやそのアクセサリーはもっと小さなケースにおさめた。これでとりあえずはいいでしょう。
 外はずっと雨である。しとしとであったりざあざあであったり。犬の散歩もなんだかおざなりになってしまい、犬も不機嫌である。しかし、傘をさしながら犬を連れて、時折しゃがんでうんちを拾うというのはなかなか大変なのである。しかも犬のやつ、道の端のいちばん水がたまるあたりにうんちをするので最悪である。
 ずっと雨らしいので投票に行くのが億劫である。いや、もっと権利意識を高く持たなければ。雨なのと、いろいろときな臭いのとでなんだか非常にげんなりするが、選挙があるだけマシである。いや本当に。

10月20日(金)

 教習所に。なんとまたジョージ・タケイ教官であった。なんなんだ、ここは訓練艦エンタープライズなのか。ちなみに以前当たった教官がまた当たるのは初めてだった。しかも連続とは。
 スールー教官はぼくの顔をまじまじと見て、
「ああ、一昨日の。どうりで見たことある顔だと思った」
 こっちの台詞である。もっともぼくは初回ですでに「見たことある顔だと思った」のだが。
「いやね、君はセオリー通りやっていてよかったんだけれど、一緒だった彼。あれはしょうがないねえ」
 などと聞いてもいないのに一昨日の例の「初めて知ったっす」男子のことを愚痴り出した。まあ、愚痴を聞かせてくれるということはそれだけぼくが優秀だということだろう。あははは。
「では発進しましょうか」
 だから発進させるのはあんただってミスタ・スールー。
 ぼくもそれほどなんとかトレックを観ているほうではないのだが、なんだかこの人を助手席に乗せてギアを動かしているとそのままワープしそうな気がしなくもない。
 技能教習のあとに応急救護の講習があった。心臓マッサージの説明で例によって胸のあたりがむずむずした。ぼくはどうもある部位についての医学的な説明なり描写なりを見るとそこがむずむずしてしまう。ただの気のせいなのだが、気分は気分である。というか、「しんぞう」という語感がすでにむずむずする。さらに、心臓マッサージの際に相手の胸の骨を折ることがあるかもしれないが気にせず続けよというレクチャーでなんだか怖くなった。しかし、なんであれ心臓が動かなければその痛みさえも感じられないのだから動かすためにマッサージをしなければならない。頭では理解できるのだが。後で気になって調べると心臓マッサージの際に骨折させてしまうのは稀なことだとかなんとかいろいろ出てきたが、まあ調べても仕方がない。そのときはやるしかねえのだ。
 教習所の二階の休憩所、窓に面したカウンターに座っていると所内のコースが一望できる。同じ車種、同じ色の車がいくつもあちこちうごめいているのを見ているとなんだかおもちゃみたいである。ところで、コースのすぐ隣の敷地がいつのまにかローラースケート場になっていた。そういえば夏のあいだ工事していたなあ。垢抜けた様子の、恐らく小学校でもっとも楽しそうな時期にありそうな子供たちが3人、コースをぐるぐると滑ってまわっている。羨ましい。ぼくもローラースケートは好きだった。小学生のときフリーマーケットで偶然見つけたサイズぴったりのローラーブレード(なんと一足500円)で遊んでいた時期は楽しかった。育ち盛りなのであっという間に履けなくなり、新しいものが買えるわけもなくそのまま遊ぶ機会を失ってしまっていた。またやりたいなあ。
 
 * * * *

 と、懲りずにまた箇条書きの日記をつけようと考えた次第である。前もやったが初期設定で自分に課したルールに負けて挫折してしまっていた。もうやめるといった旨のことまで書いて中断したわけだけれど、またやってみようという気になった。というのも妻があれはおもしろかったなどと言ったからだ。
 前回は1日も欠かさず、毎週書こうとして失敗したので、今回はもっと不定期でオーケー、書けるときは書いて書かないときは別に書かなくていい、そんなスタンスでいいだろう。どんなルールを設けたところで、自分が作った自分にだけ適用される自分のルールなのだから、別に途中でいくらでも曲げたり破ったりしていいじゃないかとも思うのだが、どうしても最初に設定したものに縛られてしまうのがぼくだ。なにを始めるにしても、できるだけ最初になにも設定しないようにしよう。

2017年10月18日

オフライン



 もやもやと考えていることも文章にするとすっきり整理できることがある。さらに絵も合わせて漫画のような形式にしたら、さらにすっきりした気がする。いや、全くすっきりと晴れ渡ったわけではないのだけれど、せいぜい雲が少し千切れて日が射してきたような感じなのだけれど、思いのほか絵と文章をかけ合わせて考えをまとめていくということは、ぼくにとって一種のセラピーになるらしい。

営業報告


 「Pen」2017/11/1号(CCCメディアハウス)のSF特集内にてイラストを2点描いています。


 まずは『スター・ウォーズ』シリーズの今後のスピンオフ映画の動きについて触れた記事にて、SWのイラスト。ちょうど正式なタイトル(『ソロ』!)が発表されたハン・ソロ映画ですが、ハンの後ろには次なるスピンオフの主役として噂の絶えないオビ=ワン、さらにかねてよりファンから熱望されているボバ・フェット、あったらいいなのジャバ・ザ・ハット等が並んで順番待ちの図。ジャバより後ろはもう完全にぼくの妄想。これ幸いとスローン大提督を描きました。


 もう1点はジェームズ・キャメロンの似顔。新作、続編、リブートとたくさんSF作品が出てきている中でキャメロンは今後どうするのかな、という記事への挿絵です。キャメロンの顔をよく知らないひとでもなにを監督したひとなのかわかるように……ということでこんな感じになった。ぼくはこの短髪のイメージが強かったけど、一時期は髪が長いときもあったらしい。ターミネーターの骸骨ロボットって結構難しい。

 今月27日公開の『ブレードランナー 2049』をはじめ、最近とても盛り上がっているSF映画の数々、そのオリジナル・シリーズや原作など、映画だけでなく小説まで網羅した非常に読み応えある特集になっています。個人的にはシド・ミードの特集ページが熱いです。こんな企画に大好きなSWのイラストで参加できて最高です。見かけた際はぜひご覧ください。

2017年10月16日

SWサイト構想

 アイデアばかり書き連ねて全然形にしないのはなんとも格好悪いものだけれど、しかしアイデアを全然提示しないのもまたおもしろくないので、まあ、こいつ言うだけで形にしないなと思われない程度には構想を小出しにしてもいいのかなと、自分の考えの整理のためにもアイデアを書いてみようと思い筆を取る。
 と、前置きはさておき。
 実は2年前の『フォースの覚醒』公開までに一度SWのファンサイトを自分なりに作ってみようと思っていたのだが、なんといってもエピソード7公開に向けて妙なテンションの上がり方をしており、仕事もなかなか勢いづいていた時期なのですっかりタイミングを逃してしまっていた。美術手帖にSWイラスト・エッセイを寄稿させてもらった時点でSWワークの方は少し満足してしまったところがあったし。
 しかし、それ以降もSWイラストを描いたり、いろいろと文章の小ネタも結構投下しているので、それらをアーカイブしたり、もっと掘り下げて思い切り書き散らしたいところもあるので、やっぱり別個のウェブ・サイトを作りたいなあと思っていた。専門的な技術はこれっぽっちもなく、既存のブログ・サービスを使ったり、ちまちまとタグを打つくらいのことしかできないけれど、それでもやはりホームページ作りは楽しい。

 SWの個人ファンサイトといえば、ひと昔前、プリクエル三部作公開の頃は検索したらいくらでもヒットしたように思う。規模の大きいところからページ一枚だけの小さいところまで、本当にいろいろあって、自作のイラストや小説、論文、レゴ・ブロックの作品などを掲載したり、おなじみのメイン・テーマをオルゴールBGMで流していたりと、時代を感じさせる手作りホームページの雰囲気も手伝って非常にオタクなサイトという感じで良かった。だいたい背景は真っ黒でテキストが白とかなんだけど、たまに綺麗な色使いのものもあって、スタイルが様々なだけあって管理人によってはセンスが際立っていた。管理人という言葉がもはや懐かしい。SWサイトだからカウンターとかも大抵は「あなたは……人目のジェダイです!」みたいな言い回しで。ぼくよりもずっと年長の、インターネット勃興期を間近で目撃してきたひとたちからすれば、もっともっと懐かしい用語がいっぱいあるのだろうけれど。所詮ぼくの言っているのは00年代初頭のこと。

 最近は「スター・ウォーズ」と検索欄に打ち込んでも、とにかくニュース・サイトやバイラル・メディアだかの記事が上位に上がって来て、ウェブ上のSW百科事典として名高い「ウーキーペディア」や「スター・ウォーズの鉄人!」すら検索結果のページを結構めくらなければたどり着けない(この辺は個人の履歴にもよるのだろうけれど)。昔ながらの手打ちサイトは当然ながら、個人のブログすら物好きなひとしか続けていない状況だし、いずれにせよ商業ページばかりヒットして非営利なページなんてとてもではないが見つけられない。
 SWに限らず、なにか作品や人物が気になって調べると、有志によるファンサイトに行き当たるというのはちょっと前なら普通のことだったように思うけれど、もはやそういう同好の志がこっそり集まっているような隠れ家感は、ない。まだそれほどメジャーでない分野ならあるかもしれないけれど。

 ブログやSNS(主にツイッター)でファンダムを覗くことはできるけれど、あまり個人サイトを覗いていたときの、ひとの部屋を覗いたりそこに集ったりという感じはせず、どちらかというと世の中全体に対して開かれた、ショーウィンドウ的な感覚しかせず(つねにたくさんの人に見られているから行儀よくしようというような。もちろん中には好戦的なのもいるだろうけれど)、ましてやツイッターにおけるファンダムなど個人的に非常に同調圧力を感じるので、正直あまり居心地がよさそうとは思えない。と言うか実際よくない。殺伐としていたほうがいいのかといえばもちろんそんなことはないのだが、なんというか、議論するところは議論して、尊重し合うところは尊重して、ケチをつけるところはケチをつけてみたいな、そういうバランスに欠ける気がする。要するにベタベタしていて気持ちが悪い。おそらくツイッターで主流な(それを主流と認めてしまうことにも抵抗があるが)SW好きのコミュニティには一生加われないと思うが、まあ、ぼくは多分それでいいのだろう。賑やかなところからは少し離れて自由に独りでやろう。
 
 またひとさまの話になってしまったけれど、さて、SWサイト構想である。 
 ここまで書き連ねて来たように手打ちのサイトを作りたいという気持ちは強いのだが、自分の本業サイトですら作品ページをTumblr、テキストをこのブログという具合に、コンテンツを外部サービスで済ませてしまっている始末なので、現実的に難しいだろうと思う。更新や管理のしやすさを追い求めると結局ブログになってしまい、手打ちのページはそれらのアーカイブというか、表紙程度に留まっている。がんばって手打ちで自由なスタイルを作れれば理想なのだろうけれど、更新や管理が負担になってそのことがストレスになったりして結局放置気味になってしまうのがいちばんよくない。楽できるところは楽をして、とりあえず既存のものをうまく使っていくのがいいのかもしれない。まずは形より内容をちゃんと書きたいしね。

 スマート・フォンで閲覧するひとも多いということを考えると、文字の大きさ等が画面の大きさに合わせて調整される、いわゆるレスポンシブ・デザインを意識しないといけなかったりする。本来そんなに気にしなくてもいいことなのだが、自分自身も出先で自分のサイトを確認する機会があり、そういうときは「見づれーな!」となったりするので、ある程度は対応していたほうがいいのだろう。そうして、そのへんのことを突き詰めようとすると技術的な壁にぶち当たり、これ、ぼくのやることだろうか?などと自問して苦しむことになる。だったら最初から既存のサービスを使って書いていったほうが楽、ということに。

 せっかくのSWサイト、イラストをふんだんに使ったサイトにしたいなあとも思うので、そういうのはやっぱりテキスト・サイトのほうが勝手がよさそうなので悩ましいけれど。たとえばそうだなあ、モス・アイズリー宇宙港のカンティーナの店内の絵があって、その中にあるハン・ソロとグリードが向かい合ってるボックス席の部分をクリックするとそのシーンの詳細に飛べて、飛んだ先にはハン対グリードのシーンがより大きく描かれていて、いろいろとテキストも書いてあって……みたいなやつ。そんな感じで全ロケーション、全シーン作れたら最高だ。しかし、そんなマップ的なものが作りたいのかと言えばそういうわけでもなかったりも。イラストありきなサイトになるので、それはそれでもいいのだが、わりと延々とコラムを書き散らしたいという気持ちのほうが強いので。ウェブ上にSW紙芝居を展開できたら楽しそうだけれど、それをやるなら自分の創作をちゃんとやりたい気も。

 やはり、普段描いているようなファンアート&コラムをアーカイブするなり、より掘り下げるなりしてちまちま記事を増やしていく方が今のテンションには合うのかもしれない。一度始めてしまえば方向性が見出せるかもしれないし、そもそも方向性なんて要らないのかもしれない。いずれにせよこのブログであまりにもSWについて掘り下げることが少なくないので、別個のページも用意しておきたいと思っている。

2017年10月14日

『ワンダー・ウーマン』(2017)


 たぶんマルという名前に親近感を覚えているところもあるのだろう。そもそもこのドクター・ポイズンというキャラクター、コミックにおける初登場時その正体は日本のプリンセスだったというのだから、マルは丸なのだ。
 影のある物憂げな表情(綺麗な顔にカバーマスクというアンバランス感が素晴らしい)としゃがれ声が醸し出す幸の薄そうな雰囲気が良いよね。カバーマスクの下もクライマックスであらわになるのだが、あのダメージはどうして負ったのか。おそらく枯れた声から察するに自ら実験中に毒ガスを浴びたりとかそういうことではないだろうか。いずれにせよ神経ガスやカバーマスクは第一次世界大戦時代のダークなアイコンである。
 結末の話をしてしまうが、「闇」が晴れたあとにドイツ兵が皆一斉に不気味なガスマスクを脱ぎ捨てて、純朴そうな青年たちの顔が覗くシーンが好きだな。わかりやすい勧善懲悪な世界観でそれまで展開していただけに、そう来たか!と。『キャプテン・アメリカ:ファースト・アベンジャー』もそうだったけれど、世界大戦当時の原作コミックにおける敵国や善悪の価値観との折り合いをうまくつけているなと思う。キャップの場合は、ドイツが悪役というより、あくまでナチスのいち部門である結社「ヒドラ」をメイン・ヴィランに置いていた。敵と悪が分けられている。
 キャプテン・アメリカの話が出たからついでに言うと、キャップとワンダー・ウーマンが付き合えば万事うまくいくのではないかと思ったり(会社の壁なんぞ持ち前のパワーでぶち抜けよう)。ていうか、キャプテンはスティーブ・ロジャースで役者はクリス・エヴァンス、ワンダー・ウーマンの相手役はスティーブ・トレバーで役者はクリス・パインって、すごいかぶり方。
 思えば『キャプテン・アメリカ:ファースト・アベンジャー』における、トビー・ジョーンズ扮する悪の科学者ゾラ博士もお気に入りのキャラクターだった。世界大戦ものには必ず悪の科学者がいるらしい。
 マル博士も終戦後連合側に協力し、スーパーコンピューターに意識を移して後にジャスティス・リーグの前に立ちはだかったり……ないか。

『スパイダーマン:ホームカミング』(2017)



そうそう、思えばスパイダーマン対バットマンなんだよね。で、マイケル・キートン自身もバットマン、バードマンに続きまたしても翼のある役。まあいずれもバットマンを演じたことに起因しているような気もするが。キートンの悪役は、本作と同じくこの夏に公開された『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』や2014年のリブート版『ロボコップ』でもそうだったけれど、そのひとなりの信念につき動かされているというか、単に悪いやつとして片付けられないなにかがあるよね。

 ピーターの部屋に飾ってあったSWグッズは棚の上の3.75インチ・フィギュアだけではない。このスケールのフィギュアが乗れるXウィングが吊るされていたりするのも、ナード男子の部屋に素敵さを出している。このXウィングは見た感じオールド・ケナーのものだと思う。

 ケナーというのはSW第一作目公開時からSW商品をつくっていた会社。映画の関連商品、ましてや玩具を出すなんてそこまで定番じゃなかった時代に、今日まで続くSWトイの礎を築いた元祖中の元祖。今では数多ある、ディズニーへのライセンス移行以降は毎秒増え続けているかのように感じられるSWグッズ、その全ての元祖がケナーなのだ。

 最初に出されたフィギュアのつくりは非常に素朴で、可動箇所は首と両肩、両脚の5箇所だけ、ポーズは気をつけの姿勢というシンプルなもの。大きさはそのときから3.75インチでそれは今も変わっていない。1977年のEP4公開に合わせて販売する予定が生産が遅れたので、その年のクリスマスには引き換え券を売るという手法を使ったのは有名な話。なのでEP4に合わせて登場したフィギュアには公開から一年後の「1978」という製造年が刻印されている。ちなみにこのときの日本の代理店はタカラ、続編のEP5からはポピー(現バンダイ)となる。今ではそのバンダイが自社でものすごいクオリティのSWフィギュアやプラモを出していることを思うと感慨深い。
 これら旧三部作時代に出されたものは、のちにケナーのブランドがハズブロに吸収されることもあり、後年のものと区別してオールド・ケナー(あるいはヴィンテージ・ケナー)と呼ばれる。今の水準からすれば粗悪なところもあるかもしれないが、そのレトロさに魅了されているファンは多い。ぼくも何体か集めたし、ピーター・パーカーもまたそのひとりだろう。日本よりアメリカ本国のほうが入手は容易らしい印象がある。インスタグラムとか見てると結構みんな持ってる。状態にこだわれば(未開封とか)もちろん値段も高くなるが、ぼくは開封済みで色剥げはもちろん付属品もないようなものを1000円くらいで買う程度。ちなみに発売当時の定価は380円くらいだったとか。

 その後ケナーは会社が傾いてハズブロ傘下に(正確には87年にケナーがトンカ傘下になり、そのあとトンカ自体がハズブロに買収された)。SW旧三部作が一旦終了した頃だということを考えると、いかにSWトイが稼ぎ頭だったかと想像がつく。
 95年にはハズブロがケナーのブランドで再び名物ラインの3.75インチフィギュアを展開。97年の特別篇公開に向けて登場したそのシリーズは、その頃のアメトイの流行りなのか、とにかく逆三角形のマッチョ体型なので、遠目にもそのシルエットがわかりやすい。顔の再現度もとても低いので、特にレイア姫なんかマッチョで顔がごつくて、さすがにキャリー・フィッシャー怒るだろという感じである。ピーターの部屋に飾ってあったものだと、左から三番目のストームトルーパーや、一番右端のパイロットがそれっぽい形に見えるがどうだろうか。
 ぼくが幼少の頃初めて買ってもらったのもこの頃のシリーズだった。同世代のひとはやはり、緑色や赤色のライトセイバーとダース・ヴェイダーの顔がプリントされたブリスター・パッケージの台紙は懐かしいはず。
 この頃はまだ一応ハズブロがケナーというブランドを保持していたので、パッケージにもケナーのロゴが入っていたりする。そのためこのシリーズのこともオールド・ケナーと呼ばれることがあるが、それは間違い。あくまでオールドやヴィンテージと呼ばれるのは旧三部作公開時代、ケナーが独立して出していた頃のものだ。

 特別篇やEP1の公開を経て、ケナーのオフィスは閉鎖され、完全にハズブロに吸収される。以後、ハズブロは最新作『最後のジェダイ』に至るまで3.75インチ・フィギュアはもちろん、それが乗り込めるサイズの乗り物などたくさんのSWトイを生み続けてきた。時折ケナーのロゴをつけた復刻パッケージとかも出していたが、そういったヴィンテージ・シリーズが来年また再始動するという話もあるから楽しみである。

 ちなみに3.75インチという半端な数字はどこから来たのか。当初ルーカス・フィルムは当時定番だった8インチくらいのフィギュアをケナーに希望していたが、ケナー側はSWに登場する宇宙船やスピーダーなどの乗り物に可能性を見出し、フィギュアもそれらの玩具に乗せられる大きさにしようと考える。そこでどれくらいの大きさだったら乗り物もそこまで大きくせず遊びやすいサイズにできるか検討している最中、ある社員が「これくらいでどうだ」と親指と人差し指の距離でもって示したところ、もうひとりがそこを測ったら「3.75インチ」だったという逸話がある。こうしてこの非常に半端な数字は今日に至るまでSWのみならずあらゆるフィギュアにおいて定番スケールのひとつとなった。もちろんスパイダーマンをはじめマーベルのフィギュア・シリーズにもこのスケールはある。

 最後になんとかスパイダーマンに戻ってこれた。でもここで思い出したから書き加えておくと、『E.T』にもオールド・ケナーのSWフィギュアがいくつか登場し、主人公エリオットが「カルリジアン、ボバ・フェット、ハンマーヘッド」などとキャラクター名まで言いながら遊ぶシーンがある。『ホームカミング』よりもちゃんとフォーカスされるので、気になる方は見返してみよう。 
 

2017年10月11日

展示のお知らせ「Back To School」


 渋谷のSiS / Violet And Claireにて10月11日から「Back To
 School」と題して展示をさせていただきます。イラストレーションの展示・販売とグッズの展開を予定。普段デジタル彩色ばかりですが、展示なので肉筆原画を展示したいと思います。ちゃんと絵の具で色を塗りました。

以下、SiSのブログより抜粋。

MIZMARU KAWAHRA presents - "Back To School" exhibition
10/11 - 10/17 at Violet And Claire / SiS 
渋谷区宇田川町36-2 ノア渋谷308 
(東急ハンズ向かい、HMVが1Fに入ったマンションの3F)

WEEKDAY (10/11、12、13、16、17):14:00 - 20:00 
WEEKEND (10/14、15) 13:00 - 19:00


2017年10月6日

ぼくの考えたSWプリクエル

 『スター・ウォーズ』シリーズの前日譚三部作、いわゆるプリクエル三部作を個人的に補完しておく必要がある。世代的にぼくはプリクエル三部作が好きな方だが、贔屓目に見てもここがこうだったらなと思うところは少なくない。オリジナルにある程度の敬意(果たしてどのくらいなのか自分でもわからないが)を払いつつ、部分的にこうしたらどうか、というくらいにところどころをアレンジして、項目ごとに書いてみたいと思う。
尚、各エピソードのことはEP+数字で表記する。


・ミレニアム・ファルコンの旅

オリジナル三部作でのミレニアム・ファルコンのような主役格の宇宙船の不在は、プリクエルにおけるSWらしさの欠如に繋がっている気がする。EP1では女王の船、ナブー・ロイヤル・スターシップに一行が乗り込んで旅をするが、もちろんファルコンほど個性を与えられているわけでもなく、登場するのもEP1一度きりだ。ハイパー・ドライブの故障で途中修理に立ち寄らなければならなかったり、女王を連れた悪の手先からの逃避行はファルコン号の冒険にも通じるところがあるが、ヌビアンにファルコンの代わりが務まっているとはとても言い難いだろう。

EP2にも同じようなクロムメッキの曲線美を持ったナブー船でアナキンとパドメが旅をするが、この船も移動手段以上の意味はなにも持っていない。オビ=ワンのジェダイ・スターファイターのほうがよっぽど冒険の友っぽい(惑星ジオノーシスに置き去りにされてしまうが)。
プリクエルに登場するメカは、どれも独創的で色や形など個人的に好きなのだが、どうもひとつひとつが愛着を持って大事にされていないというか、使い捨て感が否めない。ちょうどそこにあったから使われているという感じ。いちばん乗り手が思い入れを持ってそうなものと言えばアナキン少年のポッド・レーサーだろうか。少年の手で組み立てられ、少年を束縛から解放するのに一役買う乗り物だが、もちろんその後の旅に同行することはない。

EP1のナブー・ロイヤル・スターシップがEP3まで引き続き主人公たちの乗り物になればよかったのだろうか。いや、いっそミレニアム・ファルコンをEP1から登場させればいいのだ。後にシークエル三部作でもファルコンが主人公の愛機として飛び回ることを考えると、プリクエルにもファルコンが登場したほうが、シリーズ全体がファルコンの旅の軌跡にもなる。プリクエルでの持ち主から巡り巡ってハン・ソロへ、そしてレイに。様々な持ち主の手に渡っていく感じもファルコンらしい。
ではプリクエルで誰がそのオーナーにふさわしいだろうか。ぼくはとりあえずクワイ=ガン・ジンをファルコンの最初の船長にしてみたい。はみだしジェダイのクワイ=ガンが乗り回していた頃はまだガラクタのような見た目ではない。船体ではどの部品もおさまるところにおさまり、一貫した色使いのパネルできっちり覆われていて、几帳面に手入れされているせいか、それともジェダイ騎士団や共和国というバックアップがあるせいかレーザー跡等の傷やエンジンの不調は少ない。クワイ=ガン・ジンとオビ=ワン・ケノービの師弟はこの船で銀河中を旅してきたのだ。

オビ=ワンがファルコンに乗り込んだことがあるなら、どうして彼はモス・アイズリーの酒場でハン・ソロと出会ったときに知らんぷりしているのか。簡単だ。かつてクワイ=ガンが所有していた頃はミレニアム・ファルコンなんていう名前ではなかったのだ。だから酒場で胡散臭いコレリア人から船名を聞いたときにはその船だと気づいていない。ドッキング・ベイ94に降りていってその姿を見たときに、初めてそれがかつて自分が乗っていた船だと気づく。その瞬間いろいろな記憶が蘇ってきて非常に感慨深くなるわけだが、なにも言わないでいたわけだ。いや、輝かしい時代を友にした船が下品なならず者の密輸船となり、あまりの変わり果てた姿にショックを覚えてなにも言えなかったのかもしれない。とにかく黙っていた。ルークに父親のことを聞かれたときに本当のことを話さなかったのと同じような心理だ。

EP1ではクワイ=ガンとオビ=ワンが後にファルコンとなるこのYT-1300貨物船でナブーを危機から救いに行く。途中原住民のタフな戦士ジャー・ジャー(こいつの新しい設定はあとで説明する)と出会ったりしながら、アミダラ女王を連れて侵略軍から逃れる。しかし、船は追っ手からの攻撃でハイパー・ドライブに異常をきたし、修理のためタトゥーインに立ち寄ることに。あとはご存知の通りの展開だ。クワイ=ガンはナブーの戦いの最中にシスの暗黒卿ダース・モールとの闘いに破れて命を落とすが、船はオビ=ワンとその新たな弟子、アナキン・スカイウォーカーに受け継がれる。

ファルコンにアナキンが乗り込むというのも重要だ。ハン・ソロのファルコンがどうしてあそこまで特別な船になり得たのか。それは天才的メカニックでありスピード狂でもあるアナキンの魔改造が基盤にあったからこそだ。クワイ=ガンの死後、オビ=ワンとアナキンはこの船で冒険を繰り広げるわけだが、アナキンは師に無断で様々な改造を施してしまう。オビ=ワンはそのたびにやれやれと呆れるが、いつもその改造のおかげで危機をかいくぐれたりするわけだ。

EP5でダース・ヴェイダーがファルコンとその乗員を執拗に追い回すのは、もちろんその乗員を餌にルーク・スカイウォーカーをおびき出そうという魂胆もあったが、同時にファルコンがかつて自分と師が乗っていた船だと知っていたからでもあった。今や忌々しい記憶の残滓となったその船を完全に破壊して葬り去ることで、アナキンだった頃の記憶も完全に葬り去ろうとしたのだ。

アナキンによる数々の改造と、クローン大戦の戦火により船はいよいよガラクタ的になっていく。ところどころ煤で汚れ、つぎはぎだらけになり、瑞丸版EP3の頃にはEP4のファルコンにぐっと近づいてくる。
アナキンの闇への転落、ジェダイ粛清によるオビ=ワンの隠遁に伴い、船はジェダイの持ち主たちの手を離れ、銀河のマーケットに流れて行く。あるときは平凡な貨物船として使われ、あるときは海賊船と、様々な人々の手に渡っていき、優男なギャンブラーの持ち物となり、そのギャンブラーを打ち負かした密輸業者ハン・ソロの手に渡ることになるのだ。
ミレニアム・ファルコンを登場させることでプリクエルもオリジナルもシークエルも繋がってくる。まあ、若干世界が狭くなってしまうところもあるが。


・タフな戦士ジャー・ジャー・ビンクス

 プリクエル世代なのでジャー・ジャーは個人的には普通に好感の持てるキャラクターである。むしろ原初的なイメージではこいつこそSWのキャラって感じさえした。まあ、今はそこまで思わないが、それでもジャー・ジャーは「幼少の頃のSW」のイメージと結びついている。というか、クリーチャー・デザインとしては普通に良いと思う。

とは言え、落ち着けよお前と言いたくなるシーンはいっぱいあるし、訛り(と言っていいのだろうか)は本当にひとを馬鹿にしているとしか思えない。そこでジャー・ジャーを出来損ないのバスター・キートンからタフな戦士へとアレンジしてみよう。ああ、本当に良い意味で彼がキートンやチャップリンの雰囲気をまとい、SW世界にうまく溶け込んでいたら大成功だったのになあ。

アニメ・シリーズ『反乱者たち』におけるゼブというキャラクターは、主人公一味におけるチューバッカのような頼れる異星人キャラだ(『反乱者たち』一味の場合はリーダーである船長も異星人だが)。大柄でタフで、少しひねくれていて乱暴だがユーモアと情に熱い戦士である。外見はチューバッカのボツになったデザインが取り入れられているが(そのことをネタにしているのか、自分を毛の無いウーキーにたとえるくだりがある)、チューバッカとは別個のキャラクターが確立されていて見事だ。

チューバッカのポジションだが全く別のキャラクター。これをジャー・ジャーで実現できればどれだけよかったことか。というわけでぼくの考えるプリクエルではジャー・ジャーはゼブのようにタフとユーモアを両立させたキャラクターにしてみたい。とにかく身体能力が高く(沼に飛び込んで泳ぐジャー・ジャーは確かにチューイよりアクロバティックである)、パワーもありひとつひとつの所作が雑で乱暴だが、その分抜けているところがあって失敗してしまう。自分が引き起こしたドミノ倒し的な騒ぎに本人は気づかず至って平然というキートンっぽさ、チューイとは違い機械には強く無いのでわけもわからず無意味な作業を延々と続けるチャップリンっぽさなど。それでいてここぞというところでは頼りになる力持ちだ。本来ならグンガン族は偉大な戦士たちである。ジャー・ジャーは追放された落ちこぼれだが、それでも戦士としてのパワーを備えているのだ。

乱暴者というイメージは食い意地を張るイメージともぴったり合う。このバージョンのジャー・ジャーもまたなんのためらいもなく露天に吊るされたカエルに舌を伸ばして食べてしまうだろうし、スカイウォーカー家の食卓でも行儀悪く舌を伸ばすことだろう。セブルバに絡まれるところでも、やられっぱなしではなく、持ち前の喧嘩っ早さが原因でもはや殺し合いにまで発展しそうなムードを、アナキンが止めに入るとか、いいんじゃないかなあ(アナキンも喧嘩っ早いのにね)。


・オビ=ワンの酒場慣れ

EP4でオビ=ワンは若きルークに対し、モス・アイズリー宇宙港の危険さについて警告し、案の定酒場で悪党にからまれたルークを助ける。酔っ払いの腕を斬り落とすという無慈悲さは、それまで温厚な老人にしか見えなかったオビ=ワンがめちゃくちゃ強いということを垣間見せてくれる(ちなみに小説版では腕どころか脳天から縦に真っ二つにしてしまう)。

アンダーグラウンドな世界に慣れている様子はプリクエルでも見られる。EP2で暗殺者を追ってナイトクラブに入ったとき、オビ=ワンは弟子のアナキンに「一杯やりに行く」と言い残してカウンターに向かう。そこでドラッグの売人にからまれるが、お馴染みのマインド・トリックで退散させ、背後から忍び寄った暗殺者の腕を、例によって斬り落としてしまう。そりゃEP4の酒場も慣れてるよなと思わせるくだりである。
しかし、前日譚であるなら、どうしてそんなに暗黒街に慣れたのかという経緯を描写して欲しかったりもする。EP2のナイトクラブのシーンではすでに完成され過ぎている。というかEP4の酒場と同じことをしただけのような気がする。

個人的には、EP1でクワイ=ガンとともにモス・エスパの酒場かなにかに入り、舐めてかかったためにゴロツキにからまれたところを師匠に助けられる等のシーンがあってもよかったのではないかと思う。ルークと全く同じ失敗はあからさますぎるとしても、クワイ=ガンに諭されるとか。酒場のことに限らず、EP1のオビ=ワンには未熟さがほとんどが見られず(優等生ということなんだろうけど)、もうちょっと修行中の弟子っぽさがあったほうが、前日譚らしさが出ると思うんだけどなあ。


・クワイ=ガンの必要性

オビ=ワンがそこまで未熟でないのなら、だんだんクワイ=ガンというキャラクターの必要性も疑問に思えてくる。名優リーアム・ニーソンが演じた偉大なジェダイ・マスターの存在を抹消するなんてことはさすがに勝手の利く二次創作でも躊躇われるが、それだけオビ=ワンが弟子っぽくないのだ。やたら崖っぷちでぶら下がったりするものの、失敗らしい失敗をほとんどしない(せいぜいライトセイバーを落とすくらい)。ギリギリやられそうだったとは言え、最終的に師匠を殺した敵を倒してしまうほどよく出来た弟子だ。

クワイ=ガンがいないバージョンを考えるのなら、オビ=ワンは弟子を持たない一匹狼だったところに、アナキンという特別な少年が現れ彼を訓練することをヨーダに熱望するとか。現行だとオビ=ワンがアナキンを修行させたがるのって、クワイ=ガンの最期の望みだったから以上の動機を感じられないんだよね。タトゥーインから出発する際には新しく旅に加わったアナキンをはっきりお荷物扱いするし、彼を修行させたがるクワイ=ガンには反対する。それまでずっと嫌がっていたのにマスターが死に際にそう願ったからというだけで最後にはアナキンを弟子に取る。少なくとも観ている限りではそう見える。オビ=ワンとアナキンの関係についてはまた後述したい。


・ベイル・オーガナ救出

EP4でレイア姫のホログラムは隠遁する老オビ=ワンに対してこう告げた。
「あなたはかつてクローン大戦で父を救ってくださいました」
プリクエルにはレイアの養父ベイル・オーガナが直接オビ=ワンに助けられる描写はない。むしろオビ=ワンがベイルに助けられている(EP3にて、ジェダイ粛清後)。レイア姫は「ジェダイが共和国や元老院を守るために戦った」という広い意味で、「父を救った」という言葉を口にしたのかもしれないが、それでも少し違和感がある。そこはやはりプリクエルにてオビ=ワンがベイルの命を助けるくだりがあったほうが直接的でわかりやすいのではないか。レイアとパドメ・アミダラという実の母娘の共通点はもちろんたくさん描かれるが、養父ベイルにも、後のレイアを彷彿とさせる経験があってもよかったと思う。


・クローン大戦の再構築

 「クローン大戦」という言葉だけはEP4の時点から登場する。ぼくは 2002年のEP2公開のときに本格的にSWにハマり始めたのだけれど、10歳の少年は25年も前に公開されたEP4にすでにこの言葉が出てきたことにわりと驚いたものだ。そんな昔から考えていたのか!という驚きと同時に、子供ながらに全然趣が違って見えるEP2とEP4を同じシリーズの話なんだなあと感じられた。
 そんなわけなので、リアルタイムでEP4を最初に観たひとたちはルークやレイヤのセリフにだけ登場する「クローン大戦」という言葉を聞いて、どんなものを想像したのだろうか。非常に想像を掻き立てられる用語だと思う。

 プリクエル以前のクローン大戦のイメージに関するヒントは、EP1公開よりも前、1991年から93年に刊行されたスピンオフ小説のシリーズ、スローン三部作に少しだけ見つけることができる。EP6で大敗した帝国を再建し、反乱軍が樹立した新共和国に反撃しようとする天才戦略家スローン大提督が、兵員補充のためにクローン技術を手に入れるくだりがあるのだが、そのことを知った登場人物たちは恐怖に震え上がる。クローン兵士の再来は、クローン大戦の悲劇が繰り返されることを意味していた。そこでは後に描かれるようなクローン大戦像とはだいぶ違う、無表情な兵士たちが絶え間なく投入され続ける、終わりのない戦争のイメージが語られる。悪夢的かつトラウマ的な戦争であったことが際立っているのだ。

 おそらくこのイメージにおいては、両陣営がクローン兵士を投入する戦争だったのではないだろうか。実際のプリクエルでも共和国がクローン軍、敵対する分離派がドロイド軍という、どちらも大量生産の兵士を投入するので、物量対物量の果てし無い戦いというところは再現されている。心を持たないドロイド軍もそれはそれで恐いものだが、両陣営ともにクローン軍だったら、より不気味で恐ろしいものとなっただろう。それに、クローン軍同士の戦争の方が、クローン大戦という名称がしっくりくる。もちろんナポレオン戦争みたいに片方だけの陣営にちなんだ呼び方をされる戦争はあるにはあるが。ドロイド軍の影が薄いんだよね。

 EP2でクローン軍が投入されて開戦するまでの展開も、どうも釈然としない点が少なくない。明らかに先に分離派の領域を侵したのはオビ=ワン、アナキン、パドメであることとか、そんな3人を救出するために大勢のジェダイが駆けつけたり(分離派との緊張状態に蹴りをつけようとしたのかもしれないが)、秘密裏に製造された明らかに陰謀の匂いしかしないクローン軍をなんのためらいもなくヨーダが連れてくるところとか。最後のが個人的にいちばんひっかかる。

 まずヨーダが全然陰謀の存在を察知していないところ。ジェダイはおろか共和国も関知していないところで、「共和国のため」という名目で軍隊が用意されていて、しかもその軍隊を注文したのは発注の時点ではおそらく死んでいたと思われるジェダイ・マスターなのである。いくらなんでも怪しすぎるだろう。怪しい上に、その軍隊とは戦うためだけに生み出されたクローン人間たちによって構成されているのだ。表向きには戦闘ドロイドや奴隷が禁止されている共和国にあって、どうしてこのような軍隊を容認できるだろうか。戦闘という特定の目的ために生み出されたクローン人間、これは戦闘ドロイドと奴隷を掛け合わせたようなものだ。そんなものを一刻を争うからといって賢者ヨーダが引き取って連れてくるのである。結果、クローン大戦は勃発した。

 分離派がドロイドを大量に製造、保有していて今にも共和国に攻撃を始めそうだったから、とりあえず理念や倫理、議論は後回して対処に向かったのだろうけれど、もう少しクローン兵士を使うことに抵抗があるような描写が欲しい。最終的に使うことにはなるのだが、そのあたりの葛藤を見せてくれたほうが物語に厚みが出来たのではないだろうか。もちろん、あんまりそっちにフォーカスするとそのことが際立ってしまうので、ほどほどにする必要があるけれど。
 でもEP2では一応、迫り来る脅威に備えるために共和国は正規軍を持つべきか否かという論争が起こっていて、パドメはその投票のために首都にやってくるんだよね。これまで大規模な正規軍を持ったことのなかった共和国が、一度でもその力を持てば果てし無い戦いが続くことになるだろうという懸念を持って、パドメは軍隊創設に反対するわけだけれど、そういった論争が持ち上がっているのは興味深い(今思えばどこぞの国も同じような問題に悩まされている)。同時にクローン軍の倫理性についての論争などもうまく織り交ぜられて入ればよりおもしろいのになあ。たとえばEP2冒頭からすでにクローン軍の是非が議論されているとかね。

 外側でクローン軍使用への葛藤が起こるのもいいが、クローン兵士自身が葛藤や苦悩に苛まれるという描写が多少はあってもいい。クローンたちがまったく悩んだりしないところがちょっと恐かったりもするのだが、たまに悩んでしまう個体が登場して始末されてしまうとか。なんだか『ブレードランナー』みたいだが、こういう話は『クローン・ウォーズ』にあってもよかったな。あるのかな。さすがのぼくも全話は網羅できていないが、確かジェダイ粛清命令であるオーダー66が誤作動したり、クローン軍やパルパティーン議長の秘密を知ってしまって脱走するクローンのエピソードはあった。彼は彼を脱走兵として追いかけた「兄弟」に撃ち殺されて終わる。

 『ブレードランナー』における人造人間「レプリカント」という名称も、複製を意味する「レプリケーション」から来ているので、クローンに通じている。クローン論争やクローンの苦悩などを盛り込むと、ブレランじみてしまうとルーカスが判断した可能性はある。そっちが主題ではないからね。でもなんとなく触れられる程度でもよかった。というかせっかくクローンを題材にしているのだから、そこを掘り下げないともったいないような気がするのだ。どうしても。

 たとえばレプリカントを製造するタイレル社のような企業が銀河に存在したらどうだろうか。実際にはクローニングは惑星カミーノの産業で、そこで軍隊が製造されるわけだが、カミーノアンがもっと商売熱心で、銀河中に自分たちの商品を売りたいと考えたらどうか。そこに大戦勃発とジェダイ抹殺を企むいち政治家パルパティーンの陰謀が絡んでくるのだ。パルパティーンはいち早くクローンの可能性に目をつけると同時に、裏の顔である暗黒卿シディアスとして分離運動を活発化させ、開戦への緊張を高める。シディアスとしてカミーノアンたちからクローン軍を買い、また共和国の議長パルパティーンとしてもクローン軍を買う。分離派はともかく共和国は民主主義なので反発や論争が発生するが、そこは議長の謀略と外面の良いカリスマ性でもっておさえつけてしまう。ジェダイは眉をひそめるが、彼らも元老院の決定には渋々従ってしまう。分離派がクローン軍を手に入れた以上、こちらも同じものでなければとても対抗できないことは皆わかっているので、クローン軍に頼るしかないのだ。カミーノアンは両陣営に兵士を補充し続けることになるが、彼らの立場は、なんか適当な法律だか協定だかで守られている。実際のクローン大戦でも確か銀行グループが両陣営に出資していたらしいし、なんかそういう感じで。ひとつの企業が両陣営に兵力を補充し続けるとか、なんかディストピアSF感ある。

 かくしてクローン軍同士の戦争が始まる。どちらも同じカミーノアンの製品であり、どちらもひとりの男の命令によって戦っている。ひとつの目的のために仕組まれた戦争。果てしなく続く戦いで星々は荒れ果て、市民は疲れ、ジェダイは理想を体現できなくなっていく。同一人物であるリーダーによってパワーバランスが調整され、分離派が優勢となる。共和国議長は厳しい状況であることを理由により一層戦時体制を強化し、市民の自由を制限した。そうこうするうちに分離派クローン軍は共和国中枢まで到達し、首都コルサントに攻撃をしかけた。首都が破壊され、激戦が繰り広げられた。

 やがてパルパティーン議長は共和国軍の大反撃を演出して英雄となる。首都に侵攻してきた分離派クローン軍も突如として降伏し、共和国軍のコントロール下に移る。この壮大な茶番により、絶望的な状況から首都を救い、希望をもたらした英雄を演出したパルパティーンの地位は、不動のものとなる。

 それでも戦争は続き、まだまだ分離派の脅威が健在であることを強調する議長は、非常時大権により次々と新しい議長令を発令し続けた。議長が直接指名した総督が各惑星に置かれて戦時における統治の効率化が計られ、元老院は形骸化していった。首都攻撃の傷跡は未だ生々しく、首都攻撃のような悲劇を防ぐために命令系統や手続きはより簡略化され、議長の権限は肥大化していった。もはやそれは皇帝といってよく、実際にも非公式にそう呼ばれた。

 ジェダイたちは変わり果てた共和国を憂い、コルサントを立ち去って遠い星でフォースの探求に努めようと決心するが、若きアナキン・スカイウォーカーは反発した。共和国中枢から離れるということは密かに結婚した妻とも会えなくなるからである。身重となった彼女を、スカイウォーカーはなんとしても危険から守りたかった。彼はまたジェダイという家族と議長という父親同然の友人との間で板挟みになり苦悩するが、議長が自らの正体をほのめかし、妻を守るためにはジェダイの技では足りないこと、ジェダイとともに立ち去るのであれば敵と見なし、妻の命もないだろうと告げられると、シス卿に怯え、最終的にジェダイの「逃亡」を議長に密告し、ダークサイドに教えを仰ぐのだった。議長はジェダイが敵に亡命しようとしたとしてその粛清を命じた。クローン軍を引き連れて聖堂を攻撃したのはシディアスから新たにヴェイダーという称号を与えられたスカイウォーカーだった。聖堂にいたジェダイは皆殺しにされ、銀河各地で任務に着いていたジェダイは現地のクローン軍に抹殺された。ジェダイ抹殺の際には各地で戦闘が中止され、両軍のクローン兵が一斉にジェダイを攻撃した。

 議長はジェダイの裏切りという非常事態を理由に、首都を封鎖して戒厳令を敷いた。情報が錯綜して混乱が起きるが、議長には好都合だった。ジェダイと親交を持っていたり、兼ねてより自分の政策に反抗的だった派閥の議員たちをも一夜のうちに粛清したのだった。ヴェイダーはそんな議員たちの抹殺にも手を染めたが、その所業は妻にも知れるところとなった。パドメは絶望したが、ベイル・オーガナによって連れ出され、オルデランへと逃れる。同じくコルサントを脱出したモン・モスマも合流し、パドメはそこで密かに小規模ながら抵抗組織が結成されつつあることを知った。

 やがてこの混乱を鎮め、再び危機を取り除くことに成功した議長は、とうとう"議会からの提案"を受ける形で帝政への移行を宣言し、自らを満場一致で推薦された君主とした。新皇帝から分離派の指導者たちの抹殺を命じられたダース・ヴェイダーはクローン兵を連れて火山惑星ムスタファーに向かい任務を遂行するが、密かに追ってきたオビ=ワンとの死闘に敗れる。

 粛清を逃れていたメイス・ウィンドウとヨーダは皇帝に戦いを挑むが、メイスは命を落とした。ヨーダもまた負傷するが、自我が独立して皇帝の命令に従わなかったクローン兵士たちが乱入し、皇帝を足止めする。ヨーダはクローンたちによって逃がされる。彼らは戦時中から自由意志を持つようになっており、脱走して姿をくらました者もいたが、共和国軍に残って行動を起こすタイミングを待った者も多かった。彼らは一連の粛清には加わらず、ジェダイを助け、オーガナ議員の一派と合流しようとしていた。皇帝を足止めした者は全員命を落としたが、残りはヨーダとともに逃れた。彼らは後に反乱同盟軍兵士たちを訓練することになる。

 クローン兵たちに火山の火口から救出されたヴェイダーは、コルサントに帰還する。皇帝はシスの芸術品として彼を復活させるよう命じ、かつて分離派のある将軍に施されたのと同じサイボーグ手術が行われた。皇帝は意識を失っているヴェイダーに対してシスの幻術をかける。彼の妻は行方不明となっており、報告では粛清の最中死亡した可能性があるとされていたが(オーガナたちの工作である)、そんなことを言えばヴェイダーが自分に牙をむいてしまう。そこで彼は怒りに駆られたヴェイダーが自分で妻を殺したという夢を見させ、それが事実であると思い込ませた。目覚めたヴェイダーは激しい怒りと後悔に苛まれ、シスの道を極めれば死者すら復活させることができるという皇帝の言葉にすがりつくのだった。これにより皇帝はヴェイダーにとって欠かせない師となることで弟子の裏切りを予防したが、ヴェイダーの強いフォースは彼に真実をうっすらと察知させていた。師は嘘をついている。だが彼から得なければならないものがまだある。それまでは従順な弟子でいることにしよう。かくして何度も繰り返されている欺瞞に満ちたシスの師弟関係が築かれた。

 一方パドメはオルデランで双子を出産し、衰弱した。
 この双子はスカイウォーカーの力を受け継いでおり、皇帝を倒すことのできる最後の希望だとオビ=ワンは主張した。ヨーダは子供たちを訓練すれば父親と同じような運命をたどるのではないかという懸念を抱いたが、他に望みはなかった。
 皇帝やヴェイダーから隠すため、男の子がオビ=ワンによってタトゥーインにいるアナキンの唯一の親類のもとに預けられ、女の子の方はオルデランに残された。オーガナは弱ったパドメとその娘を守るため、王としてふたりを家族に迎えた。当然パドメの存在は隠されたが、レイアは姫として表舞台に立ち、のちに最年少の帝国元老院議員にもなる。表向きのレイアの母親はブレハ女王であり、パドメとふたりでレイアを育てた。オルデラン女王とかつてのナブー女王は良き友人であった。
 レイアの成長とともにパドメはいよいよ衰弱した。王女が物心着く頃にパドメ・アミダラは息を引き取った。レイアのわずかな記憶に残っているパドメは、いつも物憂げな表情を浮かべていた……。

 なんだかだーっと書いてしまったが途中からクローン大戦どころかもうEP3を作り変えてしまった。別にこっちのほうがおもしろいとは思っていないが、思いつくままに書いた。とは言え一応個人的に釈然としなかったところはフォローした。ジェダイが共和国を見限って文明での権威よりも探求の道を選ぼうとするところとか、好きである。アナキンがキレてパドメを手にかけるところもなんだか言い知れぬアホらしさを感じずにはおれないので、このように変えてみた。より皇帝がずる賢く見えるし、アナキンへの同情の余地がある。
 オーガナとパドメの関係は、1980年頃にキャリー・フィッシャーがローリングストーン誌によるインタビューで触れたレイア姫の身の上に関する解釈を参考にした。曰く、レイアの母親は夫が闇に転落したのでキング・オーガナと結婚した。自身の母親の離婚歴や父親の薬物乱用などの過去と重ね合わせての彼女なりの解釈である。ぼくはこれが非常に気に入っている。なんか、ハリウッドっぽいなあというところもあるんだけれど、EP6でレイアが語る母親の記憶問題も解決する(ぼくとしては普通にブレハ女王のことを言ってるんだろうと思ったし、EP3のラストで彼女が登場するのもそのことへのフォローに他ならないんだけれど、なぜか公式設定ではブレハはEP4のオルデラン破壊で命を落としているとされている。公式さえレイアの発言をフォローする気がないのか……)。
 でも、パドメが本当にオーガナと再婚してしまうと、ヴェイダーから逃れた手前その存在を表に出せないパドメと、王女として表に出なければならないレイアを両立させるのが難しくなるので、あくまで実際のEP3のように、レイアは表向きにはオーガナ夫妻の養女とし、パドメはオーガナ家で保護される、ということにした。一夫多妻制にしてもいいかと思ったけどそれはあまりオルデランっぽくない。
 なんとかこれでいいんじゃないかな……。

 まだまだ補完したい点はいくつかあるし、時間が経ったらこのクローン大戦(というか改変EP3)についてもさらに改変したくなるかもしれないので、また書く。とりあえず今回はこのへんで。
 

違和感と偏り

 『スター・ウォーズ』とか『ゴーストバスターズ』とか、有名作品の主人公を女性に置き換える流れに反感を抱く男性諸氏が、やっぱり少なくない。ぼくの身近にもいて、大好きな作品たちが奪われてしまった、乗っ取られてしまったというような感覚すらあるらしい。なんとなくそのような話題になるたびに、うーん、どうにかわかってもらえないだろうかとぼくなりの考えを述べようとするのだが、実際の会話ではなかなか思っていることを言えないので、ここにちょっと書き留めておこうと思う。

 これまで男性の主人公ばっかりだったことに違和感を持ってみてはどうだろうか。これに尽きると思う。ぼくたちは男性なのでなかなか難しいかもしれないが、異性(女性)が主人公になることに違和感が持てるのであれば、異性(男性)の主人公が当たり前というこれまでの世界が偏っていたと思えるはずである。
 主人公が男性に設定されている場合、特に注目は集まらない。しかし、女性が主人公に設定された場合にはそのことが注目される。これも前者が当たり前で後者は特殊であるという価値観が根強い証拠だろうと思う。もちろん近頃はだんだん女性が主人公であることをわざわざ特筆する必要も無くなってきている。もとより特筆する必要はないのだ。
 今抱かれているであろう違和感は、これまでの偏りの大きさを表しているのだと思う。だから、その違和感自体は無理もないのかもしれない。ただ、それを反感や嫌悪へと展開させるのは、見当違いではないだろうか。
 別に、今日のこの流れは男性の主人公を駆逐しようというのではない。全ての主人公を女性にするのだったら、それは単に性別を入れ替えて同じことを繰り返すだけなので意味がないと思う。単に反動ではなく、バランスをよくしようという前向きさからこのような動きがあるのだと思う。 

 性別だけでなく、いろいろな人種のひとの登場が際立って見えるのも、これまでの作品にあまりにも登場しなかったためである。もしかしたら無理矢理なキャスティングに見えるかもしれない。それが無理矢理に見えるのも、これまでが無理矢理だったことの裏返しなんだけれど、今ここでちょっとくらい強引でも勢いをつけて変化を投じないと、大きく変われないのではないかと思う。それくらいこれまでの偏りは大きいのだ。変わっていく様子を、見守ってはどうだろうか。

 世の中にはそれはもうたくさんの人種がある。肌の色もたとえ同じ民族に数えられてもひとそれぞれ膨大な数がある。その全てのひとが共感できるよう配慮したキャスティングは不可能と言っていいだろう。しかし、それでもいろいろな人種が登場することで作品は厚みを増すと思う。カラフルになると思う。いろいろな地域でいろいろなひとが楽しめるものになるのではないか。ましてや広大な銀河系を舞台にした作品ならなおさらであろう。
 というか、ぼくとしては自分と同じか、近い人種のひとが大好きな作品に登場したらうれしいものなんだけれど。
 

2017年10月4日

ミニマリズムとオタク

 ミニマリズムにちょっとした憧れがある。
 別にミニマルがミズマルと似ているからというわけではない。ある程度まで切り詰められたデザインや、簡略化を追求したデフォルメ、それでいながら確かな個性を発揮させるあの具合が良いのである。
 近頃は生活様式にもこの言葉がよく使われている。ミニマル(最低限)な調子で整えられた部屋やライフスタイルにも、やはり憧れる。ぼくはご存知のように所持品の多いタイプのオタクなので、そういう一見無欲で渋い感じがかっこよく見えるのだ。そういうのに憧れて、一度物をたくさん手放したこともあった。
 
 とは言え、物をできるだけ持たないこと、物を所有することを絶対悪みたいに捉えることがミニマリズムというわけではないと思う。一見無欲と前述したが、それはそう見えるというだけで別に禁欲的なジェダイのような生活(ぼくはプリクエルで提示された、あの融通のきかない禁欲的なジェダイ像があんまり好きじゃないんだよなあ)ではないはずだ。ぼくが憧れるのは、ゆったりしたスペースを保ちながらもお気に入りの品物がちょこちょことセンスよく飾られているような部屋なのだ。

 小物はおろか家具すらもなにもない、不動産屋さんと一緒に内見に来たときのままみたいな、がらんとした部屋の真ん中にぽつねんと座って白米だけを食べているというようなヴィジュアルには、なにも惹かれない。というかそれはたぶんミニマリストではなくただの苦学生である。なにかが違うと思う。

 そもそもこの思想は美術や建築等の分野のものだ。なにか作品を作ろうというひとが、品物の所有や購入をそこまで否定するだろうか(中にはそういうひとも多少はいるかも)。そういった美術的文脈とは関係なく、流行りのライフハック的な記事だけを鵜呑みにしたひとびとが、ああいうなんのセンスも感じられない、逆に貧乏臭いだけの部屋をミニマルだと思い込んでしまうのではないだろうか。ミニマリズムはケチになることではないはずだ。

 と、ひとの生活はともかくとして。
 ミニマリズムとオタク趣味の両立は可能だろうかといつも考えている。たぶんできるのだろうけれど、そこには相当のインテリア・センスが求められると思う。もちろん問題は外観だけではない。コレクションに対する考え方、デザインへの意識が改めて試される。持ち物や部屋について考えを巡らせるということは、生活様式をデザインすることに繋がるはずだろうと思う。
 そう、なにが楽しいって、この、持ち物と部屋について考えることが楽しいのだ。かっこいいコレクション、かっこいい飾り方、かっこいい部屋とはどんなだろうと考えると、ミニマルっぽいのが良いなあと思い至るわけだ。
 かっこいいだけでなく、すっきりさせたいのだ。僕はそれはもう集中力がない。なにか描いたり書いたりしていてもふとなにかに気を取られてしまう。それが周囲に置かれている物のせいだとは決め付けられないが、ほら、机の上を片付けてまっさらにすると気分が変わることがあるでしょう。ああいう感覚で気分転換をしたいのだ。それから、そう、頭の中もすっきりさせたい。

 恐らく、これからもぼくは好きな物を買ったり集めたり揃えたり作ったり飾ったりしまったりすることをやめない。大切なのは物を減らすことではなく、快適に暮らすことだ。その快適さを乱すノイズがあればそれを取り除き、好きなものや大切なものがクリアになるように努める。それがミニマリズムを取り入れた生活というものなのではないだろうか。

  引っ越しの際に持ち物の整理はいやでもしなければならない。というか、その良い機会とさえ言える。ぼくは2度目の引っ越し——実家から出てから最初の引っ越しということ——の際にたくさん持ち物を手放した。なにもない田舎から出てきたせいか、初めての都会生活でそれはもういろいろ買って楽しんだものだ。玩具とか本とか洋服とか。しかし、2年間の学生生活の間にいろいろと見聞きしていった中で、ひたすらに物を買うことにだんだん疑問を抱き始めていた(今思えばただ単に反動が来ただけなんだが)。まあ、それもひとからの受け売りなんだけどね。親元を離れてからの学生生活、それはもういろいろなひとのいろいろな意見に感化され、惑わされたものだ。そうして、そこに例の大地震が起こる。当時のぼくは森見登美彦作品に登場するような骨董アパート(の二階)で暮らしていたが、それはもう部屋がとんでもなく揺れた。もう随分時間が経つのでそのときの感覚を如実には思い出せなくなっているのだが、一瞬にして部屋の中にあった数々の品物のことがどうでもよくなり、なにも持たずに外へ出たことは確かである。自分なりに物への執着が強いと思っていたので、これが大変意外で自分でも驚いたものだった。
 それで、持っていなくてもいいものなんじゃないかという気持ちが強くなって、引っ越しに向けてその数を減らしてしまった。それでも自分が好きな物たちであることには変わりなかったので、捨てるなんていうことはせず、同じものが好きなひとたちに譲ってしまった。熱に浮かされたような愚かしい断捨離の真似事だったが、その判断だけはマシだったと思う。
 
 今となってはそれらを手放したということを後悔していたりする。それらが減ったことで引っ越しの荷物が少なくなり身軽になった、ということは全然なかったのだ、結局のところ。それに全てを手放したわけではなかった。これはさすがに大事だろ、というような物は手元に残しており、今もその粛清(?)を生き残った古参としてコレクションの中におさまっている。そんなわけでかなり中途半端であった。
 
 それ以来、なんでもかんでも無闇に捨てるということに懐疑的になった。手紙は読んだ時点で役割を終えているのだから保管していても無駄、一度読んだ本は本棚に置いておく必要がないから売れ、買ったもののいつまでも読む機会の来ない本も売れ、音楽も映画もデジタル・データで楽しめば十分だなどというスタンスの自己啓発、ライフハックに懐疑的になった。確かにそれを実践していけば物は減る。机の上が広くなる。部屋が広くなる。身軽になった気がする。いざとなればすぐに逃げ出せる。
 
 しかし、それはぼくに合ったスタイルだろうか。一度読めば十分だとひとからの手紙を捨て、一度読んだ本を読み返すことなく手放すというようなことが、ぼくのしたいことだろうか。ぼくはこれでもアナログなスタイルを大事にしている。手紙や年賀状、お誕生日カード等を保管しているスニーカーの箱を時折開けるのは楽しいものだ。熱心に読み返すことはしないけれど、こんなのももらったな、こんなポストカードもあったな、なんてぼんやりと見返しているのが楽しいのだ。それを無味乾燥な調子で捨てられるだろうか。
 ぼくに取って良い本とは読み返しても楽しい本である。二周目三周目と読み返すたびに新たな発見がある。何年も経ってから、前に読んだときよりも多少知識が増えて感性が変化した状態で読み返すと、全く違う印象を受ける文章や、そういうことだったのかと初めて気づくこともある。買ったまま読まないままになっている本は、それでも持っていさえすればそのうちタイミングが訪れるかもしれない。それが自分にとっての絶好のタイミングだろうと思う。手放したら、もう読む機会すら訪れないかも。縁が無かったということもあるが、少しでもそのうち読みたいなと思っているなら残しておいてもいいのではないか。
 地震のときの経験は、ぼくに物をたくさん持つというのはいざというとき不利になるのではないかと考えさせた。いざというときになったらこんなものは全部無駄なものになってしまう。
 そりゃそうだろうけれど、いざというときに無駄になるからといって現時点でも無駄で無意味だと言い切ってしまっていいのだろうか。そんなのは、いつかなにかの拍子に価値が暴落したら紙くずになってしまうからといって、お金を捨てるのと同じようなことだ。
 なにか起きたら、確かに割り切って逃げ出さないといけないかもしれない。必要な物だけ持ってゾンビパンデミックに陥った世界でサバイバルを強いられるかもしれない。しかし、そうなるまでは無駄なものに愛着を持ってもいいのではないだろうか。生きていく上で必要不可欠ではないものを大事にできるところが、人間の人間たる所以ではないだろうか。そんなことを言えば、ぼくが生業としている仕事もまた、最低限の生命活動を続ける上では必要不可欠ではない。
 そうなると、当のミニマリズムを掲げた美術や建築もまた無駄なものということになる。物を持たない生活、無駄や余地、遊びを捨て去った生活、衝動買いを嫌悪して自然な欲求をも否定した生活、そのようなややズレたミニマリズムは、本来のミニマリズムすら否定していくことになるのではないかな。
 
 ちなみにさっきゾンビ・パンデミックを例に出したけれど、「いざとなったら」という不安がなんとなく頭にあるのは、地震のことだけではなく、最近流行りの終末もののフィクション作品の影響もまた強いのだろうと思う。映画、ドラマ、ビデオ・ゲームと様々なところで終末系の作品は展開されている。このような世界になったらどんな装備でもってどんなふうに生きていったらいいのだろうと想像するのはそこそこ楽しい。楽しいと同時に、もっと実用的で役に立つ物を優先して持っていた方がいいのではと不安に思ったりする。しかし、そんなこと考えながら生きていても仕方がない。これは別に危機感がないとかそういうことではない。ある程度の備えは必要だけれど、そのことに取り憑かれて好きなものまで犠牲にし、今ある生活を楽しめないのは、それはそれでおもしろくないんじゃないかと思う。
 いずれ、自分に合ったミニマルなオタク趣味を体現できたらいいな。